きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

贋金としてのテレビ言語

シジフォスの希望(4)                                   
                                        
 実体と乖離した言語、本質を隠すための言語が、偽造された贋金のように流通・氾濫するとき、その社会、その国、その世界は芯の部分から腐り始めているのではないか。言語とは言葉や音声による意志・思想・感情の表現・伝達のことを指す。社会を成り立たせているのは、そうした言語を介した共通の決まりや賛否の表現であり、それが人と人との関係性を築く。ある意味で、言語は貨幣に似ている。言語の価値が暴落するとき、その社会もまた崩落を始める。

 「納豆のダイエット効果」を放映したテレビ番組(フジテレビ系「発掘!あるある大事典2」)が事実とは異なる“贋金”を流通させ、データを捏造したことを認めて謝罪した(1月21日)。ひどい話ではあるが、しかし、いまさら驚く気にもなれない。むしろ、この国のテレビ局の本性のごく一部、それも分かりやすい茶番をたまたま露出したに過ぎない。日本のテレビ局で流通させているテレビ言語の、もっと巧妙で根深い病巣のようなもの、それこそを怒り、問題にすべきではないか。

 スポーツをバラエティー並みにショー(見せ物)化したり、各局の夜の番組がどこも似たり寄ったりの占いバラエティーあるいはお笑い専門チャンネル化したり、自殺者や破産者が連日のように出ているのに消費者金融のCMをこれでもかと流して黒い金をがっぽりといただいたり、被疑者や被害者のみならずその家族にいたるまでプライバシーを暴きたてて視聴者の悪意と興味に訴えかける事件ものを連日放映したり……。こうしたこと自体よりもさらに問題なのは、それら贋金的なテレビ言語の番組で時間をつぶすことで(この国の現状や未来にとって重要と思われる)本来伝えるべきことを伝えていないことである。

 一例を挙げれば、首相へのぶら下がりインタビュー。どうということのない、本質を突くことをわざと回避するように投げかけられる記者の質問に対して、これまた予定調和的に白々しく、本心や事実を隠していることを滲ませる表情で答える一国の代表の弁。かつて「神の国」発言をした首相への指南書をつくったNHK記者が在籍していた首相官邸クラブであっても、ごくたまには、あまりにも市民・国民を愚弄したその贋金的な政治言語に、食ってかかるように二の矢を放つ異端的な記者もいるだろうに、そうしたやりとりはほとんど映さない。一方的な首相や官房長官のおしゃべり。単なる介助役としての記者たち。偽造されたような言語で本質が隠され、結果として政府のPRに加担する。財界からたんまりと広告料というお手当をもらっていては、恩義のある人(財界)のお友達ないし愛人(政権与党)を本気で追及できないということだろうか。

 すでにお分かりのように、「納豆がダイエットに効果があるかないか」よりも何万倍も市民・国民生活に影響を与える重大な問題が、ここではすり抜けられている。多くの人たちはすでに感受性の深い部分でこうしたことに気づいていると思う。だから今回の問題については「不二家」ほどには落胆や幻滅をしていないように見える。「やっぱりな……」という冷めた感覚。冒頭で書いたように、これがテレビ言語の価値の暴落だとすれば、すでにテレビ社会の崩落は始まっているのである。NHKへの政治介入と受信料不払い問題もまた、これら一連の「贋金の乱造・流通」と無縁ではないだろう。というより、根深くつながっている。誰も、贋金と本物の貨幣を交換しようとは思わないから。(片岡 伸行)
                                                             (2007年1月26日)

硫黄島に行った2 「ペガッサ星人はいたのか」

硫黄島に着陸すると、おれたちアルバイトはすぐにバスに乗せられて簡単に硫黄島観光をした。

自衛隊員のガイド役は島の歴史などについて数分、語っていたが、一眼レフカメラをクビからぶら下げた男性は、話などそっちのけで、砲弾の残骸や砲台などを撮影したくてウズウズしているようだった。戦没者に敬意を払うようガイドにわれわれは諭されたが、カメラオヤジたちは話が終わると次々に激写していた。事前に相当下調べをしてきたのか、リピーターだったなのだろう。アルバイトで金を稼ぐよりも硫黄島に来ることが目的というタイプに違いない。

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硫黄島に行った1

クリント・イーストウッドが監督した映画『硫黄島からの手紙』が上映中である。
まだ観ていないし観る予定もないのだが、この映画の文字や映像を目にするたびに硫黄島での日々を思い出す……(ちょっとオーバーな表現かな)。

映画のヒットにより、東京都小笠原村の「硫黄島」は「いおうとう」ではなく「いおうじま」と今後呼ばれるようになるのだろう。これまでおれの周囲では「いおうとう」だと主張する人物が少なからずおり、読み方について議論になることもあった。「いおうとう」と発音しても間違いではないらしいが、島に関するグッズでは「いおうじま」と明記されているから、「いおうじま」とやはり呼んだ方がよいのだとは思う。

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ささくれ立った風景

シジフォスの希望(3)

 スコールのような激しい雨が2006年末の東京の夜を洗い流した。深夜には闇空を裂いて突き刺すような雷鳴が轟き、ビルやマンションの屹立する大地を揺らした。06年中に起きたすべての悲事・虚事・悪事がそんなふうに洗い流され、啓示のような雷に打たれればよいのだが、ささくれ立った風景は07年に引き継がれた。

 喧伝された「安心と安全」の、あるいは「官から民へ」の、そこはかとない虚偽と虚構。狂騒的なパフォーマンスと分かりやすい妄言・虚言を売り物にし、アジア諸国との関係悪化とともに深刻な格差社会へのレールを着実に敷いた小泉純一郎氏に代わり、毒と砂糖をまぶしたような「愛国心」と「美しい国」を掲げる安倍晋三氏が第90代首相に就任した(06年9月)。内面と仮面の圧倒的な矛盾を抱える安倍氏の本性は「創り上げたい“美国”」(「美国」は中国語の表記で米国のこと)にあるのか、「戦争する国への『再チャレンジ』」にあるのか、その両方なのか。

 この戦後生まれの右翼政権の誕生は、しかし、半世紀近く「経済」を中心に据えて、国粋的「改憲」を封印してきた自民党保守本流との深刻な亀裂を生じさせているという。ところが、慶応義塾大学の金子勝さんが指摘する。「小泉、安倍と続く新保守主義のメッセージが『改革』になって、革新側のスローガンが(9条などを)『守れ』と、逆になってしまっている」。若者にとって今は希望を持てない時代で、こんな時代が続いては困る。それを「守れ」と言われても心に響かない。むしろ「破壊」「改革」の方を望む……。なるほど、と思う。そうであるなら、選挙の年である07年こそ「革新」の戦術が問われる。

 一方、言葉を正確に使用することをその生業の最低限の条件としていながら、教育基本法「改悪」(06年12月15日)を、「改正」と大きく伝える新聞・テレビの欺瞞。「愛国」という心の有り様を法律にし、教育への国家の介入に道を開くことの、どこが「正しく改める」ことなのか、きちんと読者・視聴者に説明すべきだろう。でなければ、安易に「改正」などという字句を使うべきではない。万歩譲って「改定」だ。大本営発表を垂れ流した戦争推進・加担の歴史をどう教訓化しているのか、甚だ疑問だ。それは一例にすぎず、要するにその言葉が「嘘」としか感じられない。メディアに氾濫する政治的・社会的・文化的な言説の多くが(意図的にやっているところは別にして)、「中立と公正」を装った権力に都合のよい、うわべだけの、実体隠しの道具に成り下がっている気がする。何とかならないか。多くの人がそう感じているはずだ。

 一枚のポスターが闇の中の目印のようにユダヤ人の店に貼られたときはまだ、その3年後の「水晶の夜」(1938年11月9日。ナチスによるユダヤ人商店の大規模破壊。街の通りが割れた大量のガラスによって覆われて水晶のように見えたためこう呼ばれた)を予見できる人は、ヒトラー政権下のドイツ国民にはそう多くなかった。しかし今この日本では、少しばかりの想像力さえあれば分かるはずだ。すでに戦争法制はできている。所得・生活・権利の格差でささくれ立った民心を平定させ、反戦平和の声を封じ込める「監視・密告社会」完成のために共謀罪などを早く成立させよう。国民投票法にも王手をかけた。9条つぶしの改憲は目前だ……。統治権力やその補完勢力が想定する、そんな2007年にしてはならない。(片岡 伸行)                                                                   (2007年1月1日)