きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

[この国のゆくえ4…命の尊厳より政権や企業を優先させる時代の終焉]

<北村肇の「多角多面」(23)>

 福島原発の壊滅的事態を防ごうと、文字通り、生死の境目まで進み作業をしている人々――東京電力並びに関連会社社員、自衛隊員、消防庁職員らに「英雄」の称号が与えられつつある。そのことに異議を差し挟む気はない。ありきたりの表現だが、頭の下がる思いである。ただ、これだけは語っておきたい。「英雄」は彼らだけではない。全国各地で支援に立ち上がった人々。そして何よりも、大地震、大津波をくぐり抜けて生き延びた方々。彼ら、彼女らこそ「英雄」の名にふさわしいのだ。「英雄」とは決して、「国家を救う者」や「会社を救う者」の意味ではなく、唯一無二の「命」を救う者すべての総称。だから、自らの命を自らで守り抜いた人々をそう讃えるのは当然である。

 この確固たる真実を為政者はどこまで理解しているのか、残念ながら心許ない。被災者への対応に「英雄」への心配りが感じられないからだ。大地震は「過去」のことであり、その被災者が「現在」、困難に見舞われている。そして福島原発の危機は「現在」、起きている。つまり、被災者は二重の被災を蒙っているのだ。

 しかし、政府がこの事実を踏まえたうえで十分な対策をとっているようには見えない。避難場所に物資を運んだり、医療体制を整えたり、仮設住宅を建設したりと、「大地震被災者」への対応は一応、整いつつある。だが「原発事故被災者」への対処は不透明なままだ。いまのような危機的状況が続くなら、被災者には相当程度、離れた場所に移っていただかなくてはならない。このことの対策は一体、どうなっているのか。

 歴史的な惨事を前に、出来る限り政府や民主党への批判は避けたい。とはいえ、菅直人首相らが今後、「大地震、大津波をくぐり抜けて生き延びた方々」の尊厳を蔑ろにし、政権を守ることを一義的に考えるようなら、徹底的に糾弾するしかない。

 一方の当事者、東京電力については、すでに怒りを禁じ得ない。現場の「英雄」を隠れ蓑に、「企業」としての東電は逃げ回るばかりだ。これだけの人々の命を危険にさらしながら、相も変わらぬ情報隠しにいそしんでいる。報道を仔細にみても、6基の原発がどんな状況にあるのか、これからどのような事態が予測されるのか判然としない。計画停電のもとになる詳細なデータも明らかになってはいない。「原発がなければ、日本中が停電になる」という脅しにも見えてくる。

 振り返れば、命の尊厳より政権や企業の存続が優先される時代が続いてきた。一刻も早く、その悪弊を終焉させなくてはならない。(2011/3/25)

「櫂未知子の金曜俳句」4月末締切の投句募集について

『週刊金曜日』2011年5月27日号掲載の俳句を募集しています。
【兼題】 「葉桜」もしくは「メーデー」(雑詠は募集しません)
【締切】 2011年4月30日(土)必着
【投句数】1人計10句まで何句でも可
※特選に選ばれた句の作者には、櫂未知子さんの著書をお贈りします。 

【投句方法】官製はがきか電子メール
(氏名、俳号、電話番号を明記)

【投句先】
郵送は〒101-0061 東京都千代田区三崎町3-1-5
神田三崎町ビル6階 『週刊金曜日』金曜俳句係宛。

電子メールはhenshubu@kinyobi.co.jp
(タイトルに「金曜俳句投句」を明記してください)

【その他】新仮名づかいでも旧仮名づかいでも結構ですが、一句のなかで混在させないでください。
なお、添削して掲載する場合があります。

金曜俳句への投句一覧(3月25日号掲載=2月末締切、兼題「猫の恋」)

「櫂未知子の金曜俳句」投句一覧です。
掲載が遅れたことをお詫びいたします。

選句結果と選評は『週刊金曜日』3月25日号に掲載します。
どうぞ、選句をお楽しみ下さり、櫂さんの選と比べてみてください。

『週刊金曜日』の購入方法はこちらです

amazon(http://www.amazon.co.jp/)でも購入できるようになりました。予約もできます。
「週刊金曜日」で検索してください。配送料は無料です。

(さらに…)

金曜俳句への投句一覧(3月25日号掲載=2月末締切、兼題「草餅、鶯餅」)

「櫂未知子の金曜俳句」投句一覧です。
掲載が遅れたことをお詫びいたします。

選句結果と選評は『週刊金曜日』3月25日号に掲載します。
どうぞ、選句をお楽しみ下さり、櫂さんの選と比べてみてください。

『週刊金曜日』の購入方法はこちらです

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「週刊金曜日」で検索してください。配送料は無料です。

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[この国のゆくえ3…未曾有の危機を前に指揮者がだれかわからない]

<北村肇の「多角多面」(22)>

 東日本大震災で被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。

 天災は避けようがない。だが、人災は人間の知恵や努力で防ぐことができる。福島原発事故は、「政災」であり「官災」であり「業災」だ。政府も官僚も財界も、原発に対しあらゆる面で甘すぎた。未曾有の大震災によってそれが露呈した。政府や東京電力のしどろもどろの会見を聞きながら、「まだ何か隠蔽する気か」と、わきおこる怒りを抑えられない。

 ただ、この場で政府や東京電力の批判を展開する気はない。重要なのは、「これからどうするのか」だ。菅直人首相にまず頼みたいのは、「指揮命令系統の確立」「情報の一元化と整理」である。いまのところ、誰が指揮者なのかさっぱりわからない。最高責任者が首相なのは当然だ。しかし、それだけではどうしようもない。たとえば、「原発事故に関しては枝野幸男官房長官、救援体制は○○大臣、電力不足問題は△△大臣が責任者」などと明確にし、その人たちが明瞭な言葉で逐次、会見するだけでもかなり違う。

 責任者の明確化にもつながるが、情報発信がひどすぎる。整理も一元化もされていない。突発的な事案の会見とは別に、最低限、「現在、わかっていること」「わからないこと」「実施している対策」「実施を検討している対策」などの枠組みを決め、その中に必要な情報をあてはめ、1時間ごとに提供するくらいのことができないものか。

 民主党の岡田克也幹事長にも望みたい。与党責任者として、野党との連携に向け市民にわかる形で動いてほしい。阪神大震災など過去の大災害に関わった自民党議員はたくさんいる。その人たちの知恵も借りるべきだ。もちろん、野党も当面は「政争」を棚上げにしなくてはならない。国会を挙げて取り組んでいるという姿勢をはっきりと見せることが、市民の安心感につながるはずだ。

 歴史的な大地震により浮き彫りになったことが、もうひとつある。この国では、さまざまな意味で“のりしろ”が失せていたという現実だ。災害をある程度、吸収できるだけの余裕がない。「自然を破壊したことによるつけ」に限らない。心の面でも同様だ。阪神大震災のときも、被災地の方だけではなく、多くの市民が軽いうつ状態になったような日々がしばらく続いた。当時より“のりしろ”のない「いま」はさらに深刻だ。

 考えようによっては、これだけの危機的状況を超えられるかどうかで、この国のゆくえが見えてくるのだろう。(2011/3/18)

[この国のゆくえ2…「小泉・竹中政権」の亡霊が菅政権にとりつく]

<北村肇の「多角多面」(21)>

 早春は嗅覚の季節。どこからともなく届く沈丁花の香りが鼻腔をくすぐり、白梅を見かけると、つい顔を近付けたくなる。だが、この人にはそんな余裕はない。菅直人首相の視線は、前原誠司外相がさっさと「泥舟」から逃走したことで、一層、さまよいの度を増している。本人には「しがみつく」という意識はないのだろう。「コロコロ首相を変えて日本はどうなるのか。とにかく任期中はやらせてくれ」がホンネのようだ。その意味で、菅氏は私利私欲の人間ではない。だが、そこまでの器であり、理解力が乏しすぎる。

 そもそもわかっていないのは「政権交代を成し遂げたのは民主党ではなく、自民党に『ノー』を突きつけた有権者である」という事実だ。多くの市民は「自民党がしてこなかった」あるいは「できなかった」政策の進展を期待した。これを受け、鳩山由紀夫政権は、曲がりなりにも「コンクリートから人へ(とらえようによっては反新自由主義)」や「日米関係の対等性」など、自民党時代とは大きく異なる方針を出した。しかし、皮肉なことに、「政治とカネ」という、いかにも自民党的なスキャンダルで鳩山氏は失脚、同様に小沢一郎氏も代表を降りた。ここで菅氏は「カネの問題で毅然とすれば政権は安定軌道に乗る」と考え、反小沢路線を貫いた。救いようのない勘違い――。

 とりあえず支持率が回復したのは、「自民党よりはまし」という消極的支持者が瞬間的に戻ったからにすぎない。ところが、それに気づかない首相は、消費税率アップ、武器輸出三原則の見直し、法人税率5%下げ、TPP推進と、矢継ぎ早に「とんでも政策」を打ち出した。これまた皮肉にも、「自民党がしてこなかった」あるいは「できなかった」ことばかり。ただし、自民党が避けてきた理由は、野党や世論の反発に対する危惧だ。「プチ自民党」と揶揄される民主党は、ある部分では自民党以上の自民党に変質したのである。

 これでは、「自民党政権に戻るよりはいい」と考えていた有権者が、「民主党政権のほうが悪いかもしれない」と腰を引き始めるのは当然だ。「とにかくしばらくやらせてみよう」と長い目で見ていた支持者の離反である。このことに対する菅氏の感度が鈍すぎる。

 自民党政権をぶっ壊した有権者が目指したのは茫漠とした閉塞感の破壊であり、その内奥にあるのは、「住む場所も仕事も食べる物もなくなったとき国は頼りにならない」ということだった。言い換えれば、米国や財界の思惑を重視し市民を踏みつけにした「自己責任論」への不満である。だから、民主党政権になりかえって強化された「小泉路線」への強い怒りがたまってきたのだ。「小泉・竹中政権」が亡霊となって菅政権にとりつく、しかもそれを国会もマスコミも取り上げない――この国の現実である。(2011/3/10)

[この国のゆくえ1…駅員のいないプラットフォーム]

<北村肇の「多角多面」(20)>

 JR目白駅のホームが変わった。といっても、点字ブロックが少し盛り上がっただけだ。

 今年1月16日、全盲のマッサージ師、武井視良さん(42)が同駅ホームから転落、電車にはねられ死亡した。「点字ブロックの突起が多く、すり減ってもいたため、気づきにくかったのでは」との指摘が出た。JR東日本はこれを受け、直ちにブロックを取り替えた。ホームドアについても「取り組んでいる」と説明する。山手線29駅すべてに設置されるのは2018年春の予定。経費は約500億円――。かくして「人命」は、「機械の設置」「経費」といった、血流の伴わない単語の中に埋没していく。

 違うだろう。いまJRが実行すべき、あるいは実現に向けて検討すべきことは、ホームへの駅員配置だ。あの新宿駅でさえ、通常時、ホームの駅員は1人という。一体、いつからこんなことになり、無人ホームが日常の風景として私たちの中に定着してしまったのか。民営化=合理化の嵐で人件費が削られ、ホームから駅員が消えたことは容易に想像できる。

 しかし、これはJRに限らない。他の私鉄各線も状況は似たようなものだ。そもそも「合理化」という言葉には、「労働者いじめ」だけではなく「人間軽視」が潜む。そして、さらなる問題は、多くの市民がどこかで、このことを受け入れてしまった現実だ。

 約10年前、地下鉄でホームから線路に落ちた。到着した電車から降りてきた乗客に押されたのだ。何人もの手が差し伸べられた。そこに駅員の手はなかった。幸い、自力で上がることができたが、「なぜ駅員が助けてくれなかったのか」とは考えなかった。私自身、駅員の姿がないホームに違和感をもたなくなっていたのだ。

「合理化」という名の列車が「人間」を置き去りにしたまま走り続け、いつしか「効率」がすべての物差しになる。それが当たり前になれば、いつ起きるかわからない転落事故のために駅員を配置することは「ムダ」そのものとされてしまう。しかし、冷静に考えればすぐわかる。機械は決して自らの意思で人命を救うことはない。人間を助けるのは人間の手であり、意思であり、心だ。人命を守るための「非効率」を「ムダ」とは言わない。

 何よりも大切であり重視すべきは「人間」であるという、当然すぎることが軽視され、しかも日常になじんでしまった。無人ホームは、そんな荒涼たる社会の象徴であり、ぬくもりを忘れた「日本号」は凍えきったレールを走り続ける――。しばらく、「この国のゆくえ」について考えてみたい。(2011/3/3)