[この国のゆくえ5…勝間和代さんは、想像力、直感力に欠ける]
2011年4月6日3:29PM|カテゴリー:多角多面(発行人コラム)|北村 肇
<北村肇の「多角多面」(24)>
勝間和代さんの発言が話題になっている。3月26日放送の『朝まで生テレビ』で、「放射性物質は怖いという認識がおかしい」と言い切った。私はこの部分をユーチューブで見ただけなので、原発や原子力に対する彼女の基本的な考え方が、番組全体の中でどう展開されたのかはわからない。ただ、「見えないもの」に対する想像力や直感力が、相当に欠如しているなとは感じる。
チェルノブイリ事故が起きたとき、原発に懐疑的な学者を中心に、「大被害」の危険性が指摘された。学生時代、樋口健二さんの写真や著作に接して以来、自分なりに反原発運動に関わっていた私も、危機的な状況は世界中に広がるだろうと考えていた。結果は、そこまでの事態には至らなかった。しかし、それはあくまでも表面的なことである。長期的な体内被曝の影響はだれにもわからない。人類の本当の危機はこれから明らかになるかもしれないのだ。
私の母親は、輸血が原因でC型肝炎になり、肝硬変で亡くなった。1960年代の初め、C型肝炎ウィルスの存在など知るよしもなかった。そのころ、下町にアスベストを扱う工場がいくつかあった。ほとんどの人が防塵マスクなしに働いていたらしい。「肺に侵入したアスベストは消失することなしに、いずれガンなどの引き金になる」など考えてもみなかっただろう。
人間の知恵は多くの「見えないもの」を解き明かしてきた。そこには、想像力と直感力が働いていた気がする。いくつかの事実をもとにしての、「ひょっとしたら」という想像と直感だ。そしてまた、未知なるものに対する、ある種の敬虔な思いがあったのではないか。つまり「まだ、何もわかっていない」「そこには人知を超えた何かがあるのかもしれない」という姿勢こそが、人間を賢くしたのである。
勝間さんの発言は、「人類はすでに放射性物質を知り抜き、制御もできる」という奢りの現れだ。でなければ、「怖くはない」と断言できるはずがない。こうした貧相な発想から建設的なものは生まれないだろう。だが、彼女は決して少数派ではない。目に見えるものや手で触れるもの、あるいは数値で表現できるもの。いつのころからか、この国では、そうしたものだけが「事実」であり「真実」とされてきたように思える。原発のまやかしも、まさに、見えないものやわからないことを無理矢理、数値にあてはめ、あたかも「真実」かのように言い繕ってきたことにあるのだ。(2011/4/1)