きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

この国のゆくえ38……オフレコと、記者の良心の関係

<北村肇の「多角多面」(57)>
 いまでも振り返ると赤面の至りだ。新聞記者になったのは22歳。何から何までヒヨッコのくせに「マスコミとは、新聞とは」なんて偉そうにぶっていた。それでも、一点だけ自分をほめている。それは、「何のために、誰のために書くのか」という、その後37年間続く自問自答を始めたことだ。

 人はだれも自分の幸せのために生きる。しかし、そのことと同じくらい人の幸せのために生きる。だから、「仕事」の目的には、自己実現だけではなく「人に役立たせる」ことも含まれる。医師は治療によって人の命を救うし、料理人はおいしい食べ物で人を喜ばせるのだ。では、記者はどうか。平和ですべての人の尊厳が守られる社会実現を目指す、それこそが使命である。そして、その使命を果たすには、「誰のために=読者、市民のために」「何のために=より良い社会をつくるために」が前提になる。「誰のために=自分だけのために」「何のために=会社あるいは上司の評価を得るために」では記者失格だ。懺悔をすれば、幾度も失格記者になったことがある。ただ、そのたびに、若い頃から自らに言い続けてきた「誰のために」「何のために」を呪文のように唱え、かろうじて良心を守ってきた。

 今年は、「オフレコ」が何度か問題になった。田中聡前沖縄防衛局長の「犯す」発言は、『琉球新報』が“掟破り”したことで表面化し、田中氏辞任につながった。一部のメディアは「これでは取材先との信頼関係が崩れる」と同紙に批判的だ。確かにオフレコは記事にしないことが前提であり、だから取材対象者のホンネが聞けるという利点がある。体験上、オフレコを全否定すべきではないと思う。

 しかし、記者として絶対に失ってはいけない「誰のために、何のために書くのか」に照らせば、田中氏の発言は報じざるをえない。結果として、信頼関係が崩れても仕方ない。記者はあくまでも、読者や市民との信頼関係を最優先しなくてはならないのだ。『琉球新報』は正しい。では、9月に問題になった鉢呂吉雄前経産相の例はどうだろう。私には「誰のために=原発ムラ住人のために」「何のために=原発推進のために」としか見えない。本来、オフレコを無視してまで報じるニュースとはとても思えないのだ。

 オフレコを受け入れるのは、「将来的に読者、市民に役立つ記事を書く」ためである。ここさえしっかりしていれば、政治家や官僚の掌で踊らされることはない。個人的には、過去、何度かオフレコ破りをした。付け加えれば、相手が良心的な官僚であれば、その後の関係が切れることはなかった。彼ら、彼女らもまたそれぞれの立場で「何のために、誰のために」を日々、考えているからだ。(201112/9)