きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

この国のゆくえ39……「やさしさ」を取り戻したい

<北村肇の「多角多面」(58)>
 もし生まれ変われるのなら、どんな人間になりたい? そう聞かれたら、迷わず答える。もっともっと、やさしい人間になりたいと。

 人はもろい。肉体だけではない。心はガラスの城のように、ほんの少しの衝撃でこなごなに崩れ落ちる。だから、柔らかく包み込まなくてはならない。私はあなたの、あなたは私の。そして私は私の、あなたはあなたの。心を。

「生きづらい」。この言葉を今年は何度、使っただろう。これほどたくさんの人々が生きづらいと感じる時代が、かつてあったのか。原因や理由についてさまざまに考えてきた。新自由主義がもたらした「経済格差」「弱肉強食」に関しては、しつこいくらいに触れてきた。新しい「奴隷制社会」であることも強調してきた。要は、カネがすべてになってしまったのだと。

 そんな社会で失われたものはたくさんある。「やさしさ」もそうだ。非正規の労働者には名前がない。取り替え可能な使い捨てだからだ。ここまでないがしろにされた人の心が壊れないわけがない。生活保護受給者が206万人を超えた。「貧富の差」による被害者なのに、時として怠け者呼ばわりされる。そこには、やさしさのかけらもない。人間の尊厳を足蹴にする官僚の冷酷さは、もはや当たり前でもある。

 東日本大震災は、棄民政策を浮き彫りにした。粉ミルクからセシウムが発見されても「健康に影響はない」と繰り返す政府。原材料に問題があったわけではない。埼玉県春日部市の工場で製造した際、空気中のセシウムが混入したとみられる。3月半ばの段階では、関東地方でも相当な量の放射性物質が飛び交っていた証拠だ。「直ちには影響がない」という政府の言葉を信じ、子どもたちを外で遊ばせたり、雨に濡らした親もいるだろう。国に少しでもやさしさがあれば、そんな悲劇は防げたはずだ。

 都心の駅や繁華街で肩が触れあうと、「すみません」の前にすごんだ目つきが飛んでくる。みんな何かにイライラしている。やさしさの欠けた社会では、やさしさの気持ちを持つことは難しい。そして、それを一人ひとりの責任に帰すことはできない。

 人は必ず死を迎える。しかし、社会は生き続ける。生まれ変わることもできる。それが人類の歴史でもある。未来の世代にやさしさを残したい。そのために何ができるのか、1年を振り返るいま、考えたい。深く、深く。(2011/12/16)