きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

「東北大震災から1年」に思う(上)

<北村肇の「多角多面」(67)>
 3万年前の種が花を咲かせた。シベリアの永久凍土で見つかったナデシコ科「スガワラビランジ」の実から、ロシアの研究チームが種を取り出したという。科学の力もさることながら、生命の不思議さには驚かされるばかりだ。とともに、あらゆる命に対する愛おしさが募ってくる。

 間もなく「3月11日」が訪れる。あの日、私は、おそらく多くの人がそうであるように言葉を失った。1年経ついまも、失ったままだ。仕事柄、たびたび文章にはしてきた。講演会などで話しもしてきた。だが、どこか空虚な色合いがまとわりつく。命に迫ることのできないもどかしさをぬぐいきれないのだ。

 新聞には日々、警察庁発表の「大震災被災者数」が載る。「死者1万5853人、行方不明3282人」。どんなに被害が大きくても、数字になった途端、それらは乾いてしまう。2万人近くの人々の「歴史=くらし」を垣間見ることはできず、彼/彼女らの命とは何だったのかを、実感として受け止めることができない。

 福島原発の悲惨な状況が明らかになっても、政府は「直ちに影響はない」と言い放った。その言葉の裏側にあるのは被害者ひとり一人の命に対する感度の低さであり、自己保身を最上位に置いている証左でもある。ここまでくると論外だが、「3.11」後、マスコミはもちろん、論壇でも言葉が溶解した。言葉を取り戻す、あるいは生み出さなくてはならない。しかし、言葉だけでは命に迫ることができないのもまた事実なのだ。

 いま求められるのは、想像力だろう。「死者1万5853人、行方不明3282人」の向こうに、ひとつ一つの命を想像する。その上で、私という存在が他者という存在と触れあい、私の命が他者の命を抱きしめる。そこには数字も言葉もない。言い換えれば、何もかも脱色した素の存在にならない限り、もどかしさはいつまでもつきまとうのだ。

 皮肉なことに、私は言葉を失ったとき、命への想像力が高まった。もちろん「想像もまた言葉で行なう」という大きな矛盾を否定しない。しかし、たとえば「スガワラビランジ」の写真を見て感じる命への愛おしさは、言葉とは別の次元にあるのだ。「3.11」は人間のもろさや強さを見せつけた。とともに、確固とした真実が現前したように思う。「すべての命を、解釈の必要がない愛で抱きしめる、それこそが人間である」――。本来の人間らしさを取り戻すことが、残された私たちの責務なのだと思う。理屈や言葉の前に、あらゆる命の鼓動を感じとりたい。(2012/3/2)

2012年の鍵となる言葉(7)「復興と新生」

<北村肇の「多角多面」(66)>

 ノーベル文学賞をとった大江健三郎が、受賞を祝うストックホルムの晩餐会で「あいまいな日本の私」と題して基調講演を行なったのは1994年12月。その大江は、17年後の昨年6月に発刊された『大震災の中で 私たちは何をすべきか』(岩波新書)で、こう語っている。

「私の言及した『あいまいな日本』は、なお猶予期間にある、あいまいな国でした。……日本人という主体が、この国の現状と将来において、はっきりとしたひとつの決定・選択をしていない、それを自分で猶予したままの状態です。そして他国からもおなじく猶予されている、と感じている状態です」

 そのうえで、沖縄問題に触れ「このまま現状維持する・あいまいなまま続けることが許容されるはずはありません」と述べる。もちろん、そこには原発に対する姿勢、つまり廃炉しかないという宣言も含まれている。

 名目上は野田総理をトップとする復興庁が立ち上がった。福島県では「復興バブル」の兆しが見え始めていると言われる。それでもなお、すべては「あいまいな」ままだ。福島原発事故の原因も、収束の見通しも、責任の所在も、なにもかもがはっきりしないまま、政府は「自分で猶予したままの状態」を維持しつつ「復興」を掲げている。

 しかし、21世紀のいまは“敗戦”の1945年ではない。「他国からもおなじく猶予される」ことはありえない。さらに、「3.11」を一つのきっかけに立ち上がった多くの市民は、決してあいまいさを許容しない。

 政府、高級官僚、財界――既得権益を握った連中は「復興」を旗印にする。ただし、その意味するところは「利益を生み出すシステムを変更させない」ということだ。自分たちの権限はそのままに温存した上で、未曾有の災害を奇貨としてさらなる利益を得ようとの魂胆である。

 私たちが目指すべきは「復興」ではなく「新生」だ。ことが起きるたびに「責任の分散化」が発動され、「加害者」はだれかがあいまいになり、結果として市民にしわ寄せが来る、そんな構造をぶちこわし新しい日本をつくることだ。では、いったい、私たちは何をなすべきなのか。まずは「新生」への意志を自らの心に醸成させることと思う。その先で、一人一人が具体的な行動に出る機会は必ず訪れるはずだ。(2012/2/24)

2012年の鍵となる言葉(6)「ムリ・ムダ・ムラ」

<北村肇の「多角多面」(65)>

 企業にとって「ムリ・ムダ・ムラ」は、ゴキブリか水虫のごとく排除・殲滅の対象とされてきた。半世紀以上前から使われてきた言葉のようだが、いまでも標語として掲げられている職場はあるだろう。いい加減、その呪縛を解かなければならない。

 とりわけ「ムダ」が問題だ。JR駅ホームで、特に決まった仕事はないが、いざというときのために配置されている職員は「ムダ」なのか。運転手の一人二役で十分だからと、切り捨てられたバスの車掌さんは「ムダ」だったのか。非正規雇用に代え首にした正社員の人件費は「ムダ」なのか。最終商品の価格に跳ね返るからと“中抜き”により廃業に追い込まれた卸問屋は「ムダ」だったのか。

 社会学者の玄田有史は「無駄に対して否定的になりすぎると、希望との思いがけない出会いもなくなっていく」(『希望のつくり方』岩波新書)という。社会の歯車が大きく軋むことなく回るには、「ムダ」という油が欠かせないのだ。のりしろがなければ、どんな構造物も強くつくることはできない。そんなこと、多くの市民は誰にも教わることなく知っていた。だが、血も涙も汗も拒否する新自由主義の嵐は、「効率=善」の旗印のもと、ついには人間そのものさえ「ムダ」として扱う世界を生み出したのだ。

 勝ち組としての「1%」は、「ムダ」と同様に「ムラ」を嫌う。人が「心で動く動物」である以上、「ムラ」を避けることはできない。どうしたって波がある。だからこそ「協働」に意味があるのだ。「ムラ」こそが、互いに相手を思いやる心を醸成するのである。しかし、「1%」はそれを許さない。なぜなら「99%」を機械の一部とみなしているから。感情を押し殺し、ひたすら指示・命令通りに動く人間だけを求めるのだ。

 そのことは必然的に「ムリ」を強要する。そして「1%」は、「ムリ」に耐えた人間にわずかばかりの報酬(金銭やプライド)を与え、さらなる「ムリ」を強いる。過剰労働やサービス残業が常態化した社会は異様としかいいようがない。

 野田政権が推し進める社会保障と税の一体化からは「高齢者や障がい者、病人は社会のムダ」という匂いを感じ取る。「ムリ」のきく人間を、「ムダ」なく「ムラ」なく働かせる――それが「1%」の理想なのだろう。冗談ではない。「99%」の一人として、ここに宣言する。「ムリ」はしない、させない。「ムダ」や「ムラ」を広い心で受け入れ、むしろそれを楽しむ(もちろん自分の「ムダ」「ムラ」を含め)。「人間は不完全な存在である、だからこそ他者に生かされている」という真実を見つめる――。(2012/2/17)

「櫂未知子の金曜俳句」2月末締切の投句募集について

『週刊金曜日』2012年3月23日号掲載の俳句を募集しています。
【兼題】「野焼」「桜貝」(雑詠は募集しません)
【締切】 2012年2月29日(水)必着
【投句数】1人計10句まで何句でも可
※特選に選ばれた句の作者には櫂未知子さんの著書(共著を含む)をお贈りします。
【投句方法】官製はがきか電子メール
(氏名、俳号、電話番号を明記)

【投句先】(事務所が移転しています)

郵送は〒101-0051 東京都千代田区神田神保町2-23
アセンド神保町3階  『週刊金曜日』金曜俳句係宛。

電子メールはhenshubu@kinyobi.co.jp
(タイトルに「金曜俳句投句」を明記してください)

【その他】新仮名づかいでも旧仮名づかいでも結構ですが、一句のなかで混在させないでください。
なお、添削して掲載する場合があります。

金曜俳句への投句一覧(2月24日号掲載=1月末締切、兼題「東風」)

「櫂未知子の金曜俳句」投句一覧です

選句結果と選評は『週刊金曜日』2月24日号に掲載します。
どうぞ、選句をお楽しみ下さり、櫂さんの選と比べてみてください。

『週刊金曜日』の購入方法はこちらです

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予約もできます。「週刊金曜日」で検索してください。配送料は無料です。

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金曜俳句への投句一覧(2月24日号掲載=1月末締切、兼題「田楽」)

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2012年の鍵となる言葉(5)「地域政党」

<北村肇の「多角多面」(64)>
 いたずら坊やにしか見えない。いくら背伸びしたって大人の政治家になれるわけがない――。橋下徹大阪市長に対する私の評価はまったく変わっていない。だが、現実には、あっという間に権力者になりつつある。なぜか。本人ではなく周りが変わったからだ。

 民主党、自民党は、「地域政党」の風に吹き飛ばされる強い危機感をもつ。たとえ有象無象の候補者であろうと、「大阪維新の会」や「減税日本」の看板を背負っただけで大量の票を獲得するのではないかと。大いにそれはありうる。「小泉郵政選挙」のときも「民主党圧勝選挙」のときも、何の実績もない候補者が続々、当選したのだから。そこで、支持率の低迷する両党は、橋下氏にすりよるしかないと方針を転換した。さらには、野田政権に批判的な小沢一郎氏や「石原新党」も、橋下氏との連携に色気をみせている。要するに、周りが勝手に“大物”にまつりあげてしまったのだ。

 ところで、地域政党の定義とは何だろう。公職選挙法による政党要件は「国会議員5人以上」ないし「直近の国政選挙で有効投票の2%以上の得票を獲得」。これにあてはまるのは、鈴木宗男氏が北海道で立ち上げた「新党大地」(現在は「新党大地・真民主」)のみだ。同党以外に国会で議席をもっているのも沖縄社会大衆党しかない。後は、地域の県議会や市町村議会で活動する議員の組織だ。55年体制以降、「自民・社会」「自民・民主」の二大政党制は盤石であり、地域政党が国会に足場を持つ余地はなかった。だから、明確な定義もされてこなかったのであろう。

 では、果たして橋下ブームや河村たかしブームにより、永田町の構造は大転換するのか。私は、それほど単純ではないと思う。既成政党の狙いは所詮、政権維持や政権奪取であり、「地方の自立」をまともに考えているわけではない。仮に「大阪維新の会」や「減税日本」と連立政権を組むことになれば、政権をとった後に、じわじわとその力を削いでいくはずだ。第二の社会党にしてしまおうとの魂胆である。

 もし、橋下氏の「力」が異様に肥大化した場合はどうか。民自は大連立に走る可能性がある。その場合、年内解散はない。1年もたてば「地域政党」ブームは去るだろうとの計算が働くからだ。いずれにしても、民自両党にとって橋下氏は使い捨てカイロでしかない。ただ、忘れてならないのは、既得権者への怒りには、「東京一極集中」への不満があるということだ。その怒りをバネに、全国で「第二の橋下、河村」が誕生する余地はある。これは、民主主義の成熟なのか退廃なのか。いまのところ正答はないが、地域政党の伸張を橋下氏のキャラクターに収斂してしまっては、本質を見失う。(2012/2/10)

2012年の鍵となる言葉(4)「ねじれ」

<北村肇の「多角多面」(63)>

 いまさら悔やんでも仕方ないけどォォ――って、まるで演歌だが、一時(いっとき)でも騙された自分が情けないやら悔しいやら。こんな思いの人がたくさんいるはずだ。民主党政権が誕生したときは、「自民に非ず」の政党が国会の中心に立ったということで、多少なりとも心が躍った。しかし、その期待はしだいにどころか急速にしぼむ。通常国会が始まった1月24日、野田首相の施政方針を聞くにいたり、民主党と自民党との違いは「看板」だけという冷厳な事実はいよいよ隠しようもなく、ただただ悄然。2009年の「政変」は、野党勝利ではなく単なる与党内の派閥抗争だったと認めるしかない。

 永田町はもちろん、新聞・テレビも何かといえば「ねじれ」を持ち出す。だが、両党に違いがないのに、どこが「ねじれ」なのか。

(1) 消費税増税
(2)沖縄辺野古基地建設
(3)TPP推進
(4) 富裕層・大企業優先の税制
(5) 憲法9条改定
(6) 米国べったりの外交

 国の基本にかかわる上記の政策で、果たして民主党主流派と自民党主流派に対立はあるのか。実はまったくない。谷垣自民党総裁は支持者から「態度があやふや」と批判されているが当然だ。本来、野田政権がやろうとしていることには賛成なのに、「政局」を考慮して表面的に反対の旗を掲げていては、あやふやにしかなりようがない。

 そもそも、「ねじれ」が生じている場は民自の間ではなく、民主党の中であり自民党の中だ。消費税にしてもTPPにしても、党内はどちらもバラバラ。ここを解消しなければ、国会はどこまでいっても空転するだけだ。この際、一刻も早く衆議院は解散すべきである。ただしそれは政界再編を伴わなくては意味がない。「対米自立、富の公平な再分配、脱原発」対「対米従属、富裕層・大企業優遇、原発温存」の構図だ。

 言わずもがなだが、後者は霞ヶ関が推し進める政策そのものである。このままでは、騙しのテクニックには無類に長けている霞ヶ関官僚は、「ねじれ」を最大限に利用し続けるだろう。永田町が政局でもめている限り、民主党も自民党も官僚のシナリオに頼るしかないからだ。むろん、石原新党に“反官僚”は期待できない。(2012/2/3)