きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

2012年の鍵となる言葉(6)「ムリ・ムダ・ムラ」

<北村肇の「多角多面」(65)>

 企業にとって「ムリ・ムダ・ムラ」は、ゴキブリか水虫のごとく排除・殲滅の対象とされてきた。半世紀以上前から使われてきた言葉のようだが、いまでも標語として掲げられている職場はあるだろう。いい加減、その呪縛を解かなければならない。

 とりわけ「ムダ」が問題だ。JR駅ホームで、特に決まった仕事はないが、いざというときのために配置されている職員は「ムダ」なのか。運転手の一人二役で十分だからと、切り捨てられたバスの車掌さんは「ムダ」だったのか。非正規雇用に代え首にした正社員の人件費は「ムダ」なのか。最終商品の価格に跳ね返るからと“中抜き”により廃業に追い込まれた卸問屋は「ムダ」だったのか。

 社会学者の玄田有史は「無駄に対して否定的になりすぎると、希望との思いがけない出会いもなくなっていく」(『希望のつくり方』岩波新書)という。社会の歯車が大きく軋むことなく回るには、「ムダ」という油が欠かせないのだ。のりしろがなければ、どんな構造物も強くつくることはできない。そんなこと、多くの市民は誰にも教わることなく知っていた。だが、血も涙も汗も拒否する新自由主義の嵐は、「効率=善」の旗印のもと、ついには人間そのものさえ「ムダ」として扱う世界を生み出したのだ。

 勝ち組としての「1%」は、「ムダ」と同様に「ムラ」を嫌う。人が「心で動く動物」である以上、「ムラ」を避けることはできない。どうしたって波がある。だからこそ「協働」に意味があるのだ。「ムラ」こそが、互いに相手を思いやる心を醸成するのである。しかし、「1%」はそれを許さない。なぜなら「99%」を機械の一部とみなしているから。感情を押し殺し、ひたすら指示・命令通りに動く人間だけを求めるのだ。

 そのことは必然的に「ムリ」を強要する。そして「1%」は、「ムリ」に耐えた人間にわずかばかりの報酬(金銭やプライド)を与え、さらなる「ムリ」を強いる。過剰労働やサービス残業が常態化した社会は異様としかいいようがない。

 野田政権が推し進める社会保障と税の一体化からは「高齢者や障がい者、病人は社会のムダ」という匂いを感じ取る。「ムリ」のきく人間を、「ムダ」なく「ムラ」なく働かせる――それが「1%」の理想なのだろう。冗談ではない。「99%」の一人として、ここに宣言する。「ムリ」はしない、させない。「ムダ」や「ムラ」を広い心で受け入れ、むしろそれを楽しむ(もちろん自分の「ムダ」「ムラ」を含め)。「人間は不完全な存在である、だからこそ他者に生かされている」という真実を見つめる――。(2012/2/17)