きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

「東北大震災から1年」に思う(中)

<北村肇の「多角多面」(68)>

 壊れたのは原発建屋や格納容器だけではない。へし折れ、ひしゃげたのは、この国の「体制」そのものだ。福島原発事故から1年経ち、ようやく原発から3キロまでは空からの撮影が可能になった。テレビは1号機から4号機までの残骸化した原発を撮影し、流し続けた。いまさらながらに息を飲む映像を網膜に焼き付けたまま、報告書をまとめた民間事故調(福島原発第一原発事故調査委員会)の会見を聞いたとき、日本の骨格をなしていた(はずの)政官学がこぞって崩壊したさまが浮き彫りになった。しかも、それらはとうに根腐れしていたのだ。

「3.11」からの数日間、官邸を始めとするこの国の中枢は玩具箱をひっくり返した状態だった。
「15日に政府と東電の対策統合本部が設置されるまで、マニュアルや関連法制の事務的な説明は一度も行なわれなかった。官邸の政治家らは原子力災害対策の枠組みについて基礎的な認識を欠いたまま泥縄的な対応に追われていた」(「原発事故調の政権聴取報告要旨」『東京新聞』から抜粋)

 空恐ろしくなってくる。電力会社は過酷事故の可能性について最初から「なかったこと」にし、官僚は原発事故対応に対する準備を何一つせず、政治家は「基礎的認識」すらなかった。これが「先進国」を自認する国家の実態なのだ。

 ナチズムが「茶色の朝」をもたらしたように、福島原発事故は「灰色の空」をもたらした。2011年3月11日以降、私の目にしばらく青空が映ることはなかった。天候にかかわらず、いつもどんよりとした雲が低くたちこめていた。それらは全身にまとわりつき、呼吸器に入り込み、息苦しさを呼んだ。瞋恚(しんい)の炎が細胞という細胞をなめつくし、得体のしれない怒りが精神を蝕んだ。

 いまならわかる。あの怒りは東京電力や政府要人に向けてのものだけではなかったと。シロアリに食い尽くされ、いつ倒れてもおかしくない家屋に、なにごともなかったかのように暮らしていた、その脳天気な自分に愛想がつきたのだ。この国の「体制」は、ピンを落とした衝撃で崩壊してもおかしくないほどのありさまだった。そのことに気づかなくてはならなかったのだ。いや、気づいていたのに見て見ぬふりをしていたのかもしれない。

 永田町は今日も玩具箱をひっくり返している。覚醒した私たち市民が、今度は彼らの目を覚まさせなくてはならない。(2012/3/9)