社会が根底から変わったのに「ドジョウの視覚」ではたまったものではない
2012年6月6日5:00PM|カテゴリー:多角多面(発行人コラム)|北村 肇
<北村肇の「多角多面」(80)>
東日本大震災と福島原発事故は社会を根底から変えた。これほど明白でしかも本質的なことに野田首相は思いをいたしていないようだ。安全確保の見通しが立たなくても、圧倒的多数の市民が反対しようと、経済優先主義を恥じることなく大飯原発再稼働に踏み切る。一方で、消費税増税には「政治生命を賭ける」と繰り返す。要するに、首相の頭の中には「本当に大事なこと」がすっぽりと抜け落ちているのだ。
大震災が私たちに突きつけた一つは、自然の中で自然に手を加えながら生きていく以上、しっぺ返しは避けられないという冷厳な事実だ。そして、そのことが明らかにしたのは、人間の無力さではなく、ある種の運命である。運命はあきらめには直結しない。運命として受け入れるには長い時間がかかる。たとえば、身近な人の死は残された者に悔悟をもたらす。だから「お別れの儀式」という時間が欠かせない。しかし、今回の災害ではまだ多くの方の行方がわからず、「儀式」すらできない人々がたくさんいる。あえて説明するまでもなく、福島原発事故が救助や捜索の足を引っ張ったのだ。
自然現象である地震と違い、福島原発事故は人間の構築したシステムの問題である。避けようと思えば避けられた。だが、政府も東京電力も意図的にそこを誤魔化している。一貫して、「避けようのなかった」想定外の地震により、「本来なら安全だった」システムが崩壊したという図式にはめこもうとしている。とんでもない。自然現象は基本的に「避けようのない」ことであり、だからこそ「避けられない」は「想定内」なのだ。裏を返せば、「真に安全な」という形容詞は、「避けようのない」ことが起きても崩壊しないシステムにしか用いるべきではない。
そもそも、原発というシステムは人間のコントロールを超えた存在である。放射性廃棄物の処理ができないだけでも明らかだろう。「避けようのない」ことが起きなくても崩壊する、極めて危険性の高いシステムなのだ。しかし、「3.11」が私たちに伝えたものは、原発の危険性といったレベルにとどまらない。重要な点の一つは、自然との関係だ。つまり、「自然に生かされている」ことを前提にした「自然との共生」に目を向けること。一刻も早く、「人間社会の一部に自然がある」との誤解から脱却し、「自然の一部に人間社会がある」という原点に戻ること。そこで初めて、私たちは「運命」をどうとらえ、どう対処すべきか考えることができる。
野田首相だけではなく、多くの国会議員には哲学や思考力が欠けるように見える。人類が岐路に立っているとき、ドジョウの視覚では困るのだ。(2012/6/8)