橋下徹大阪市長の怖さは「真空」にある
2012年7月4日5:09PM|カテゴリー:多角多面(発行人コラム)|北村 肇
<北村肇の「多角多面」(83)>
橋下徹大阪市長の怖さは「真空」にある
橋下徹大阪市長に対する評価に「いい加減」がある。確かに言動をみていると、一貫性に欠け、筋の通った柱もない。実は、橋下氏の怖さはそこにある。
橋下氏は時に、小泉純一郎氏と同列に論じられる。一見、怖い者知らずの「歯切れの良さ」が重なるからだろう。ただし、それは「開き直り方」のうまさでしかない。小泉氏の有名な言葉「人生いろいろ、会社もいろいろ」はその典型だった。窮地に追い込まれると、わけのわからないことを堂々と宣言することで煙に巻く。この点では、まさに天才的だった。一方の橋下氏も「脱原発」の大見得を切ったかと思うと、急転、「市民のために大飯原発再稼働はやむなし」と掌を返す。見事なまでの変身ぶりだ。
彼らはなぜ、かくもいい加減になれるのか。しかも、そのことが政治生命の死につながらないのか。理由は、二人とも「真空」だからだ。何もない、だからどんな色にも染まる、大衆の空気を読みいくらでも路線を変えられる。この可塑性の強い「いい加減さ」こそ、強さの源なのだ。
言うまでもなく、真に強い人間は「筋」を曲げない。だが、社会が歪んでくると、それが徒になることがある。強い人間の足を引っ張ることで自分を強く見せる。そうした思惑のある人間が大挙して「筋」を崩しにかかる。いい加減な人間なら、たまらず「筋」をぐにゃりとさせて凌ぐかもしれない。しかし、自分の考えをしっかりと持った人は、何としても耐えようとする。その結果、残念ながら、ポキリと折れてしまうことがある。
一貫性も柱もなく、どんなことでも吸い込んでしまう「真空」人間は、何があろうと折れることはない。だから、ある意味で強いのだ。こうしたいびつな強靱さの危険は、毒を飲み込んだときに、恥も外聞も良心もなくまき散らすことにある。
仮に新自由主義の亡者たちが橋下氏の中に入り込んだらどうなるか。彼らの声を「歯切れ良く」代弁する。力強く、堂々と、自信満々に。一片の良心でもあれば、どこか後ろめたさが出るものだが、「真空」人間にはそれがない。だから、閉塞状況にあえぐ社会では聴く者の多くが知らぬ間に洗脳されてしまうのだ。
橋下氏は社会の鏡である。意図的に「敵」をつくっては叩く。そんな手法を用いる彼がカリスマになる背後には社会の歪みがある。このことを踏まえたうえで、さまざまな角度から、橋下氏を徹底批判していかなければならない。(2012/6/29)