平熱の高い時代がやってきた
2012年7月18日12:55PM|カテゴリー:多角多面(発行人コラム)|北村 肇
<北村肇の「多角多面」(86)>
そこは、異次元の世界だった。
7月16日。東京・代々木公園。
東日本大震災、福島原発崩壊から約1年4カ月。「3.11」を<現実>から<過去の歴史>に追いやろうとする勢力への怒りが、地の底から沸き上がった。17万人。代々木公園では定番の旗や幟も翻るが、思い思いのプラカードのほうが圧倒的に多い。バギーを押した家族連れも目立つ。何度となく参加したメーデーとは似ても似つかない。
気温33度の炎暑。それをも超える体温の熱さに包み込まれる。むりやりたきつけた熱さではない。市民の平熱が上がったのだ。どこか懐かしい、この感じ。
60年代から大文字で語られてきた「革命」は70年代半ばには小文字になり、いつしかわずかな痕跡を残すだけになった。だが、「3.11」をきっかけに全国で生まれた新しい動きこそ「革命」にほかならない。既存の組織や団体にはよらず、個人がアメーバのように自由気ままな形でくっつく。かつて竹中労は「弱いから群れるのではない。群れるから弱くなるのだ」と喝破した。しかし、いまの動きは決して弱々しい「群れ」ではない。自立した個人のしなやかで強靱な集合体だ。
街から大学から路上から、デモが退場していったのは70年代半ばだったか。「政治の時代」は終焉し、ヘルメットを投げ捨てた学生はそれぞれの道に無言で進んだ。2年後輩(72年大学入学)の男性に投げつけられた言葉がいまも反響する。「ペンペン草も生えない荒れ地に僕らは投げ出されたんですよ」。
「政治の時代」は「経済の時代」へと転換した。エコノミックアニマル、小市民、生活保守主義といった言葉が生まれた。カネがすべての時代は受験競争を激化させ、「身の回り1メートルのことにしか関心のない」人々を大量生産した。さらには、米国型新自由主義にじわじわと汚染され、あわせて管理型国家が構築されていった。21世紀の日本は文字通り、閉塞感漂う社会になったのだ。
「7.16」はそんな次元をぽんと飛び越えた。その先に何があるのか。カビの生えた戦略論で考えることはやめたい。アメーバには未知の力がある。社会は変わる。きっと。必ず。(2012/7/20)