被災者の方々に「涙」や「笑顔」を強要してはいないか
2012年7月25日4:13PM|カテゴリー:多角多面(発行人コラム)|北村 肇
<北村肇の「多角多面」(87)>
震災で心が凍って、いまそれが溶け始めているから、涙がどんどん流れてくる。
ドキュメンタリー映画「石巻市立湊小学校避難所」(藤川佳三監督)の中で、村上愛子さんが語った言葉だ。69歳。立つこともできない状態で避難所にかつぎこまれ、奇跡的に一命をとりとめる。
村上さんから藤川監督にあてた手紙の一節(原文ママ)。
時々 心臓が錆びて チクチクするぐらい 朝の目覚めは生きていたいと思い 仮設の住人の方々をまるごと家族と勝手に思い 小学三年生の双子の兄弟 二才の女の子に愛チャンと呼ばれ 今度オセロをお知えて貰います。
根っからの明るい性格からか、村上さんの周囲には笑いが絶えず、だれからも「愛ちゃん、愛ちゃん」と慕われる。彼女の登場するシーンだけではなく、そもそも2時間のドキュメントにほとんど「涙」はない。画面を覆うのは「笑顔」ばかりだ。冒頭の言葉も「どんなつらいことがあっても、人間はやさしいし強い。だからいつかは幸せになれる」というメッセージに聞こえる。
だが、そこでとどまっては二級のドキュメンタリーだ。あらかじめレールを敷いておいて、それにふさわしい題材を探し当てはめたような作品は評価に値しない。この映画が描くのは、被災者の方々の「笑顔」は着ぐるみであるという事実だ。たとえて言えば、子どもたちを喜ばせるキャラクターの「笑顔」。一旦、着ぐるみを脱いだら、そこには別の顔がある。
九死に一生を得て、しかも仮設住宅の抽選にあたった村上さんは、石巻市立湊小学校避難所から“新居”に移る。真新しい部屋に入るなりうずくまって泣いた。凍り付いた心がようやく、ほんの少し、本当にほんの少しだけ溶けたのだ。真の笑顔は涙の向こうにしか存在しない。自然に涙が流れる心の状態でなければ、笑いは浮かんでこない。村上さんが笑顔を取り戻すには、まだまだ涙が足りないはずだ。
福島県の学校でプールが解禁、海では漁が再開――笑顔にあふれた“明るい”ニュースが流される。被災にあうことのなかった私たちは、被災者に対し、最初は「涙」をいまは「笑顔」を強要しているのではないか。そう考え震撼する。(2012/7/27)