きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

尖閣問題を「情動」と「情動」のぶつかりあいにしてはならない

<北村肇の「多角多面」(95)>
 政治は理性によって生まれるのか、それとも情動によってか。意見の分かれるところだが、もし理性が政治を生むのなら、政治そのものが消滅するのかもしれない。理性がすべてを決定するのなら、理性をもった民衆には法も規則も必要ないからだ。では、理性が政治を統御することは不可能なのか。必ずしもそうは思わない。少なくとも、人間には情動と理性をつなぐ知恵があると信じる。

 尖閣諸島(釣魚島)問題に端を発した中国の「反日運動」は、幾分かの政治的な思惑はあるにせよ、民衆の情動が突き動かしているのは疑いようがない。その中には貧困・格差問題があり政府への不満も含まれているのだろう。報道を見る限り、うっぷん晴らし的な雰囲気を感じる。だから、中国政府も政府批判に発展しないよう、対応に苦慮している。しかし、やはり根底にあるのは「傲慢な日本」に対する情動としての怒りであり、そのことから日本が目を逸らす限り、この問題の収束は難しい。

 アジア・太平洋戦争が侵略戦争である史実はいまさら確認することではない。歴史の断面を切り取ってそれを否定する人たちもいるが、本質をごまかしているにすぎない。尖閣領有は日本の帝国主義的野望の中で生じたのであり、中国で起きている動きはこのことを抜きにして語ることはできない。

 いま、日本、日本人に求められるのは、中国の怒りを頭ではなく心で受け止めることだ。13億人の人々がこぞって「反日」であるはずはない。だが、人数や割合を持ち出すのは意味がない。日本が正式な、かつ心からの謝罪をしないまま過ごしてきた戦後の歴史に対し多くの人が怒っている、その事実が重要なのだ。

 足を踏んだ者は踏まれた者の痛みがわからないと言われる。しかし、加害者が被害者の痛みをそっくり自分のものとすることは不可能だし、かえって不遜な態度にも思える。重要なのは、自分が加害者の一員であると自覚することだ。その上で、自分が被害者の立場だったらどうかと、可能な限り想像することだ。

 領土問題はこれまで何度か触れたように、ゼロサムゲームではない。お互いに冷静に知恵を出し合い話し合って決着点を導くべきだ。だが、その前段として情動という峻厳を超えなければならない。だから、まずは、領土問題が戦争責任をあいまいにしてきたツケであることをしっかりと認識すべきだ。真摯な姿勢を見せることなく「情動には情動で」の対応をするなら、どんな悲劇が待ち受けているかわからない。(2012/9/28)

「日本維新の会」と大手紙の報道

<北村肇の「多角多面」(94)>
「大阪維新の会」が「日本維新の会」へと変貌し国政に打って出る。満面笑みの橋下徹氏の映像を見るたびに、この国の行く末にざらついた不安を感じる。基本政策である「維新八策」はスローガンの羅列で、具体性も一貫性も見られない。ただ一点、「弱肉強食」の社会にしたいとのメッセージだけがあからさまになっている。もし同党が永田町の中心勢力になれば、貧困・格差問題はますます深刻になるだろう。

 多くの人が指摘するように、橋下氏の主張は「小泉純一郎、竹中平蔵路線」をなぞったものだ。そこに一層のタカ派的スパイスをふりかけた。「富国強兵」、「欲しがりません、勝つまでは」、「期待される人間像」……時代錯誤の言葉がしきりと頭に浮かぶ。「自己責任」とか「努力」とか言うが、現代社会において、必ずしも自己の努力により報われるわけではない。そもそも社会に不平等が横溢している中では、努力なしに生活できる者もいれば、逆の場合もあるのだ。「期待されない人間」は排除するという恫喝は許せない。

 自己責任を成り立たせるには、最低限、社会保障の充実や富裕層優遇の税制改定などが欠かせない。条件の違う中で競争しろと命じるのは理不尽である。そんなことがまかり通るなら、結局のところ、出自も健康状態も良く能力の高い者だけに生きる資格があるという、とんでもない社会が生まれる。

 本来、マスメディアはこうした本質的な問題をとらえ、報じるべきだ。ところが、だれが橋下氏と手を結ぶのか、「維新の会」は来たる総選挙で何議席を獲得するのかという話題ばかりで、そのことが結果として橋下ブームを生んだのは否めない。

 ただ、「日本維新の会」船出のときの新聞報道は興味深かった。最も辛辣だったのは『読売新聞』だ。社説で「侮れない政治勢力なりつつあるが、政策も運営体制も急ごしらえの感は否めない」と書き、さらに編集委員の署名記事で「小泉旋風や政権交代ムードで議席が激変した2005年、09年の衆院選後の混乱から学んだことは、気分や空気で政権選択を行う危うさだ」と指摘した。渡邊恒雄氏はかねがね橋下氏に警戒感を抱く発言をしており、その延長線ではある。一方、『朝日新聞』、『毎日新聞』はいかにもそっけない扱いだった。少なくとも、「橋下氏ヨイショ」の印象を避けたとみられる。
 
 それぞれ思惑があるのだろうが、三大紙がこぞって橋下新党から距離をおく記事を書いた意味は小さくない。もしその姿勢が続くなら、選挙が先に延びるほど新党の勢いに陰りの出ることが予想されるからだ。(2012/9/21)

「櫂未知子の金曜俳句」9月末締切の投句募集について

『週刊金曜日』2012年10月26日号掲載の俳句を募集しています。
【兼題】「桐一葉」「障子洗ふ(障子貼る)」(雑詠は募集しません)
【締切】 2012年9月30日(日)必着
【投句数】1人計10句まで何句でも可
※特選に選ばれた句の作者には櫂未知子さんの著書(共著を含む)をお贈りします
【投句方法】官製はがきか電子メール
(氏名、俳号、電話番号を明記)

【投句先】

郵送は〒101-0051 東京都千代田区神田神保町2-23
アセンド神保町3階  『週刊金曜日』金曜俳句係宛。

電子メールはhenshubu@kinyobi.co.jp
(タイトルに「金曜俳句投句」を明記してください)

【その他】新仮名づかいでも旧仮名づかいでも結構ですが、一句のなかで混在させないでください。
なお、添削して掲載する場合があります。

兼題「秋扇」 金曜俳句への投句一覧(9月28日号掲載=8月末締切)

「櫂未知子の金曜俳句」投句一覧です

選句結果と選評は『週刊金曜日』9月28日号に掲載します。

どうぞ、選句をお楽しみ下さり、櫂さんの選と比べてみてください。

『週刊金曜日』の購入方法はこちらです

amazonhttp://www.amazon.co.jp/)でも購入できるようになりました。

予約もできます。「週刊金曜日」で検索してください。配送料は無料です。

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兼題「八月」 金曜俳句への投句一覧(9月28日号掲載=8月末締切)

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野田首相の本音は「民主党解体」かのように見える

<北村肇の「多角多面」(93)>
 目が点になる。安倍晋三、石破茂、石原伸晃……自民党総裁選の有力候補はことごとくタカ派と言われてきた面々だ。今回の総裁は次期首相となる可能性が濃厚。だれがなっても直ちに「集団的自衛権容認」方針を出すだろうし、「憲法改定(9条改定)」が政治日程に上がるのも確実だ。オスプレイは日本上空を我が物顔に飛行し、TPP(環太平洋経済連携協定)に加わるのは間違いない。「原発ゼロの日」も限りなく遠ざかる。まだまだあるが、これ以上、書き連ねては神経がおかしくなる。

 この総裁選に背後から影響力を発揮しているのが橋下徹大阪市長だ。彼もまた「9条が日本を悪くしている」といった趣旨の発言を平然とするタイプ。万が一、安倍氏と組むようなことがあれば、とんでもなく右旋回になりかねない。当初は米国との距離感が見えにくかったが、最近はTPPに対する前のめりの姿勢が目立つ。親米右派の一人には違いない。

 一方の民主党。こちらも目が点だ。支持率20%を割り込んだ野田首相の再選が有力とは、はてなマークが100個あっても足りない。野田氏で選挙を勝てると思っている民主党議員は多分ゼロだろう。3年前の総選挙で民主党を支持した有権者の意思は「自民党政治へのノー」だった。ところが、野田政権はあれよあれよという間に、自民党よりも自民党らしい政策へと舵を切った。このままでは、支持率が10%台になることもありうる。それでも野田代表を選挙の顔にするのは、もはや自殺行為としかいいようがない。

 ひょっとしたら、野田氏やその周辺の目的は民主党をつぶすことだったのではないか。そう考えればすべてのつじつまがあう。正確にいえば「民主党的なるもの=政治主導、富の公平分配、対米従属外交の見直し」を徹底的に破壊すること。その中心が霞ヶ関官僚であることは容易に推測できる。官僚のシナリオを大胆に推測すれば――市民・国民の反発が予想される案件は野田政権主導で片をつける。自民党は水面下でそれを下支えする。解散・総選挙後の民主党の「顔」は人気のない野田氏のままにする。それにより自民党政権の誕生は確実。あとは、かつてのような官僚中心の永田町に戻す。

 孫崎享さんの近著『戦後史の正体』によれば、米国は首相の首のすげ替えだけではなく、官僚の人事にまで手を突っ込むという。民主党政権誕生以降、ここまで米国の思惑通りにことが進むさまを見せつけられると、日本が米国の属国である実態を実感する。

 冷厳に現実をみれば、心ある政治家、社会変革を目指す多くの市民が手をつなぎ、次の次の総選挙への道筋をいまからつくり上げていくしかないだろう。(2012/9/14)

「新日本国憲法ゲンロン草案」から見えるもの

<北村肇の「多角多面」(92)>

 批評家の東浩紀さんが発表した「新日本国憲法ゲンロン草案」が話題になっている。前文の一部を紹介しよう。

「わたしたち日本国民は、日本国が、単一の国土と単一の文化に閉じこめられるものではなく、その多様な歴史と伝統を共有する主権者たる国民と、その国土を生活の場として共有する住民のあいだの、相互の尊敬と不断の協力により運営され更新される精神的共同体であることを宣言する」

「住民」とは在日外国人を指す。つまり、「日本」という国は「日本人」固有のものではなく、「国民」と「住民」の精神的共同体という考え方だ。この発想を推し進めていけば、「国民国家」という概念そのものが変質を迫られる。画期的な憲法草案と言えよう。

 第1章「元首」では、「天皇は、日本国の象徴元首であり、伝統と文化の統合の象徴である」「総理は、日本国の統治元首であり、行政権の最終責任者である」と規定、元首の二元化を打ち出す。第2章「統治」では、「国民及び住民は~自衛隊を設立する」「自衛隊は~国外においても活動しうる」との内容が盛り込まれている。護憲派の立場からは疑問符のつくところだ。

 だが、根本的に国家のとらえ方が違っている中で、逐条的な違和感を表明するのはあまり意味がないのかもしれない。そもそも、多くの人がそこにあることに何らの疑問も抱かない現代社会における国家は、実のところさほど長い歴史をもっているわけではない。いつ退場してもおかしくはないのだ。

 世界を席巻する「グローバル化」は国家の存立自体を揺るがせている。もはや多国籍企業の経済活動は国境を超えており、「国滅びて企業栄える」という時代に突入した。また、交通機関の発展は地球を限りなく狭くし、インターネットを中心にした情報のグローバル化は国家の枠を取り外しつつある。地球規模で激しく遠心力が働いているのだ。
 
 一方で“先進国”を中心に帝国主義化が進む。求心力を強めるには国家の「力」を見せつけるしかないという発想だろう。しかし、それがどこまで効力を発揮するのかは疑問だ。国境という概念がすでに盤石ではない以上、「国益」や「領土」といった言葉の響きは軽い。ひょっとしたら私たちはいま、千年に一度の大転換期の渦中にいるのかもしれない。「国民」と「住民」の精神的共同体という発想にその一端を見た気がする。(2012/9/7)