「新日本国憲法ゲンロン草案」から見えるもの
2012年9月5日4:06PM|カテゴリー:多角多面(発行人コラム)|北村 肇
<北村肇の「多角多面」(92)>
批評家の東浩紀さんが発表した「新日本国憲法ゲンロン草案」が話題になっている。前文の一部を紹介しよう。
「わたしたち日本国民は、日本国が、単一の国土と単一の文化に閉じこめられるものではなく、その多様な歴史と伝統を共有する主権者たる国民と、その国土を生活の場として共有する住民のあいだの、相互の尊敬と不断の協力により運営され更新される精神的共同体であることを宣言する」
「住民」とは在日外国人を指す。つまり、「日本」という国は「日本人」固有のものではなく、「国民」と「住民」の精神的共同体という考え方だ。この発想を推し進めていけば、「国民国家」という概念そのものが変質を迫られる。画期的な憲法草案と言えよう。
第1章「元首」では、「天皇は、日本国の象徴元首であり、伝統と文化の統合の象徴である」「総理は、日本国の統治元首であり、行政権の最終責任者である」と規定、元首の二元化を打ち出す。第2章「統治」では、「国民及び住民は~自衛隊を設立する」「自衛隊は~国外においても活動しうる」との内容が盛り込まれている。護憲派の立場からは疑問符のつくところだ。
だが、根本的に国家のとらえ方が違っている中で、逐条的な違和感を表明するのはあまり意味がないのかもしれない。そもそも、多くの人がそこにあることに何らの疑問も抱かない現代社会における国家は、実のところさほど長い歴史をもっているわけではない。いつ退場してもおかしくはないのだ。
世界を席巻する「グローバル化」は国家の存立自体を揺るがせている。もはや多国籍企業の経済活動は国境を超えており、「国滅びて企業栄える」という時代に突入した。また、交通機関の発展は地球を限りなく狭くし、インターネットを中心にした情報のグローバル化は国家の枠を取り外しつつある。地球規模で激しく遠心力が働いているのだ。
一方で“先進国”を中心に帝国主義化が進む。求心力を強めるには国家の「力」を見せつけるしかないという発想だろう。しかし、それがどこまで効力を発揮するのかは疑問だ。国境という概念がすでに盤石ではない以上、「国益」や「領土」といった言葉の響きは軽い。ひょっとしたら私たちはいま、千年に一度の大転換期の渦中にいるのかもしれない。「国民」と「住民」の精神的共同体という発想にその一端を見た気がする。(2012/9/7)