きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

◆同性婚はもはや世界の常識になりつつある◆

〈北村肇の「多角多面」(123〉
 同性婚を認める流れが欧米で勢いを増している。いつものごとく、人権面ではことごとく立ち後れの日本は、蚊帳の外状態だ。

 去る1月、オバマ米大統領は2期目の就任式で、選挙公約の「同性婚容認」を進める姿勢を色濃く打ち出した。報道によれば、演説の中に以下のような一節があったという。

「わたしたちの旅は、ゲイの兄弟たち、レズビアンの姉妹たちがあらゆる人と平等に扱われて初めて完全なものになる。人間が真に平等につくられているのなら、互いに誓い合う愛も平等でなければならない」

 恒例になっている就任演説前の詩を朗読したのは、同性愛を公言している、キューバ系米国人の詩人、リチャード・ブランコ氏だった。また3月には、次期大統領選出馬が囁かれるクリントン前国務長官も、初めて同性婚支持を明言した。

 欧州ではどうか。フランスでは12日、上院で同性婚解禁法案を挙手による賛成多数で可決した。本誌既報の通り、国民議会(下院)は2月に可決したが、カトリック強硬派、極右らの反発デモが続いていたという。すでに、2001年にオランダが同性婚を認める法律を施行、05年にはスペインも続いた。もはやこの滔々たる流れは止められないだろう。

 一方、夫婦別姓ですら導入できない不思議な国、日本では、同性婚が大きな話題になることはない。反対理由にあげられるのが憲法24条だ。

「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」

「両性」とあるのだから、「男性と女性の合意」でしか婚姻は成立しないとの判断だ。まるで説得力はない。「両性の合意」とは、あくまでも「婚姻の意思のある二人」ということだ。一方の強制でなされることを禁じているのであって、同性婚を妨げる趣旨ではない。

 自民党議員の大半はかねてから、個人の権利より家族の絆が大切という理屈にならない理屈で夫婦別姓に反対している。同党の憲法草案は基本的人権をないがしろにしている。ジェンダーバッシングで悪名高い高橋史朗明星大教授が男女共同参画会議議員に任命された。この国は100年遅れている。(2013/4/26)

◆新入社員に望むのは、ひたすら失敗すること◆

〈北村肇の「多角多面」(122)〉
 久しぶりに新入社員が入った。男性2人、女性1人。やはり雰囲気が変わる。初々しい緊張感は、古狸が狐の面を被ったような私にも伝わり、心地よい。

 若い人には毎度、同じことを話す。

「とにかく失敗してください。たくさん考え、たくさん動き回れば必ず失敗します。でも、そのうち必ず成功することが増えます。失敗を恐れて何もしなければ成功はやってこない。絶対に萎縮しないでください。ただし、同じ失敗を3回繰り返したら見捨てます」

 10回失敗して1回成功するのと、失敗も成功もゼロではどちらの評価が高いのか。言うまでもなく前者だ。しかし、どうもそうではないと考えている人もいるらしい。後者の点数はゼロだが前者はマイナス9という発想だ。こういうタイプを私は、算数はできるが哲学のわからない愚者と呼ぶ。

 40年近い社会人生活を振り返り、一つの真実に行き当たる。挫折を知らない人間は頭打ちになる――。時折、人並み外れて「お利口」な若者がいる。危機回避能力が高いという点での賢さだ。表面的な対処能力には優れているので、巧みにリスクを避けることができる。当然、失敗の経験がほとんどない。

 このタイプは上司にとっても使い勝手がいい。要領よく立ち回る能力があるからだ。しかし、ほとんどの場合、彼ら/彼女らが期待通りに成長することはない。当たり前と言えば当たり前。成功は失敗の積み重ねから生まれる。そこに突っ込まず頭で考えている限り、骨太の「仕事人」になれるはずもない。

 ただ、本当に反省すべきは若者ではない。部下の失敗を極度に恐れる管理職こそ諸悪の根源だ。上ばかり見ている管理職は、自分の評価を高めることに腐心し、ひたすらリスク回避に走る。だから、問題を起こす部下は許さない。

 懐の深さが消失した社会と言われる。失敗を受け入れない社会が健全であるはずはない。ミスを笑ってすますのは「甘やかす」ことではない。むしろ、多大な期待の裏返しだ。「自分で乗り越えなさい、ここで見守っているから」といっているわけだから。

 ちなみに、これまで「見捨てた」部下はいない。(2013/4/19)

「櫂未知子の金曜俳句」4月末締切の投句募集について

『週刊金曜日』2013年5月24日号掲載の俳句を募集しています。
【兼題】「みどりの日」「菖蒲湯」(雑詠は募集しません)
【締切】 2013年4月30日(火)必着
【投句数】1人計10句まで何句でも可
※特選に選ばれた句の作者には櫂未知子さんの著書(共著を含む)をお贈りします
【投句方法】官製はがきか電子メール
(氏名、俳号、電話番号を明記)

【投句先】

郵送は〒101-0051 東京都千代田区神田神保町2-23
アセンド神保町3階  『週刊金曜日』金曜俳句係宛。

電子メールはhenshubu@kinyobi.co.jp
(タイトルに「金曜俳句投句」と明記してください)

【その他】新仮名づかいでも旧仮名づかいでも結構ですが、一句のなかで混在させないでください。
なお、添削して掲載する場合があります。

◆被害者を生まない「罪」は「罪」なのか◆

〈北村肇の「多角多面」(121〉

 パチンコをしている生活保護者を見かけた市民は通報しなくてはならない。おぞましい限りの条例が兵庫県小野市でつくられた。監視社会ここに極まれりといったところだ。同時に「罪とは何か」についても頭をめぐらせた。

 ケン・ローチ監督の「天使の分け前」を観た(一般公開は4月13日予定)。今回はコメディータッチの作品だ。ワルだけど憎めない4人組が一世一代の盗みをはたらく。その行為自体は「罪」だが、不幸になる被害者は一人も存在せず、逆に何人もが幸福になる。これ以上のストーリー紹介は無粋になるのでやめよう。

 前作の「ルート・アイリッシュ」はイラク戦争の戦争請負企業・戦士に焦点を当てたものだ。権力の罪が個人の罪を誘発する悲劇を描いた作品は重厚に仕上がっていた。ケン・ローチ監督は意識的に二つの作品を続けて撮ったのだろう。

 形式的には罪でも実質的には罪ではない。実質的には罪でも形式的には罪とされない。この矛盾が社会の隅々にまで紙魚のようにへばりついている。社会派として広く認知された監督のメッセージ、それは「罪とは何かを考えよう」であったように思う。

 生活保護を受けている人が息抜きにパチンコをするのが罪なら、その被害者はどこに存在するのか。仮に、税金の無駄遣いで納税者が被害者というのなら、比較にならないほどの無駄遣いをいくらでも例示することができる。

 かつて何人かの生活保護者に取材した。彼/彼女に共通していたのは「罪の意識」だ。そんなことはないと記者の私が強調したところで、それは心に響くものではない。どうしたって高見からのきれいごと発言でしかないからだ。

 さまざまな事情で働きたくても働けない。そんなとき、税金から支援を受けるのは当然の権利である。しかし、実際に保護を受ける立場の人にとり、それは屈辱であったり罪であったりする。この柔らかで傷つきやすい心に塩を塗る、そんな行為こそが確実に不幸な被害者を生む罪であろう。

 本当に断罪すべき罪は、生活保護者を生んでいる社会そのものにある。さらに言えば、憲法25条を具現化できない統治権力者こそ真の罪人だ。そして絶えず心に留めておこう。弱者に弱者批判をさせるのが、いつの時代も彼らの手口であることを。(2013/4/12)

兼題「朝桜」「夜桜」「夕桜」金曜俳句への投句一覧(4月26日号掲載=3月末締切)

「櫂未知子の金曜俳句」投句一覧です。

選句結果と選評は『週刊金曜日』4月26日号に掲載します。

どうぞ、選句をお楽しみ下さり、櫂さんの選と比べてみてください。

(当季雑詠は募集しておりませんが、ここにまとめて掲載します。またいつもは兼題ごとに分けて掲載しますが、時刻による桜の読みわけが課題ですので全句を掲載します)

『週刊金曜日』の購入方法はこちらです

amazonなどネット書店でも購入できるようになりました。予約もできます。「週刊金曜日」で検索してください。

(さらに…)

◆ゆとり教育を受け入れるゆとりがなくなっている◆

〈北村肇の「多角多面」(120〉

 学校週6日制への流れが加速している。ゆとり教育が学力低下の原因だと自民党は主張するが、根拠薄弱だ。詰め込み教育のほうが「考える能力」を損なう点でよほど問題だろう。だが、市民の中で6日制への期待が高まっている理由は、別のところにある。一言で言えば、子どもの面倒をみる余裕がなくなってきているのだ。

『朝日新聞』とベネッセ教育研究開発センターは4年に1回、共同で小中学校保護者意識調査を実施している。その3回目の結果が先月、報じられた。それによると、土曜日に授業をする「学校週6日制」への賛成は80.7%に達した。内訳は「完全6日制」が23.4%、月2~3回授業をする「隔週6日制」は57.3%だった。

 完全週6日制を望む保護者を学歴別にみると、「父母とも非大卒」が24.5%で、「父母とも大卒(短大を含む)」の20.5%を4ポイント上回った。また、経済的に「ゆとりがある」層が20.3%だったのに対し、「ゆとりがない」層は25.5%と5.2ポイント高かった。背景には、「学習塾などに行かせる余裕がない」「共働きで子どもの面倒を見られない」という事情があるとみられる。

 さらに衝撃的なのは、教育格差に関する認識だ。「所得の多い家庭の子どものほうが、よりよい教育を受けられる傾向」を「やむをえない」と答えた人が半数を超える52.8%に達した。前回調査では40.0%だったので、実に12.8ポイントも増えている。「当然だ」の6.3%も合わせれば59.1%だ。これに対し「問題だ」と答えた人は39.1%にとどまった(前回は53.3%)。「やむをえない」と答えた人の割合は、「ゆとりのある」層のほうが高く62.0%。これに対し、「ゆとりのない」層は48.1%だった。ただ、増加率をみると、それぞれ12.8ポイント増、12.6ポイント増とほとんど変わらない。もしこれが「ゆとりのない」層の“あきらめ”の表れなら事態は極めて深刻だ。

 立命館大学の陰山英男教授は「勉強時間を増やすだけでは学力が上がるとは限らない。世界一の学力といわれるフィンランドなど、欧米はどこも週5日制。日本も平日5日間で必要なことを教える枠組みを考えていく必要がある」と唱えている(『東京新聞』1月30日付朝刊)。ゆとり教育の理念が間違っているとはとても思えない。しかし、そうではあっても「子どもはなるべく学校で面倒をみてもらうしかない」のだとしたら、それは社会そのものの問題だ。大人も子どもも、ゆとりがなければ日々、生きることに汲々とならざるをえない。安倍政権の狙いが、そうした事態の解消どころか、ますます市民の「考える力」を奪うことにあるのなら、断固として許すわけにはいかない。(2013/4/5)