きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

◆少数派「私たち」の力不足◆

〈北村肇の「多角多面」124〉

「5.3」前後はいつも無力感にさいなまれる。「8.6」から「8.15」までも同様だ。憲法を守ろう、平和を守ろうと声をあげる「私」は、「私たち」の存在を身近に感じる。でも、安易に「私たち」と表現したとき、その実体はかげろうのように薄らいでしまう。「私たち」とは異なる「彼ら/彼女ら」の吐き出す圧倒的な生命力の前に、かき消されてしまうのだ。

「私」を含めた「私たち」は、「私たち」の主張が「正義」であることを疑わない。平和、人権、自由を守ることは極めて正当であり、それらをないがしろにしようとする「権力者」を指弾するのは当然。しかし、「私たち」はこの国において絶対的な少数派だ。10人に1人どころか、100人に1人、1000人に1人かもしれない。これでは「彼ら/彼女ら」の視界には入らないのではないか。少なくとも関心の外だろう。そして、実は「彼ら/彼女ら」こそが「生活者」そのものなのだ。

 いま自民党の支持率は50%前後。一体、どうやって「彼ら/彼女ら」を取り込んだのか。十分な解明はできない。ただ、このことだけは言える。人も組織も、「正義」をかなぐり捨てたとき、大きな“力”を手にできる。いかなるウソも詭弁も許されるからだ。しかも、カネや権力、権威を自由に使えるのなら怖いものなしである。

 ふと、天を仰ぎ嘆息したくなる。どうして「彼ら/彼女ら」は誘惑に負けてしまうのか――。でも、こうしてため息をついている限り、永遠に「彼ら/彼女ら」は「私たち」にはならない。「正義」を振りかざした人間から、民度が低い、お前たちが悪いと言われ、反発しない人はいないだろう。ウソや詭弁にまみれていても、同じ目線に立っているとの幻想をふりまく自民党にシンパシーを感じているのだ。

 繰り返すが、いかに「正義」を標榜しようとも、「私たち」は断然少数派である。「彼ら/彼女ら」に見捨てられたのだ。この現実を見つめ、すべては「私たち」の力不足によるものと認識しなくてはならない。力不足の中には、「彼ら/彼女」らをウソや詭弁にだまされる低い存在として見ていた姿勢も含まれる。

「生活者」には憲法よりその日のメシのほうが大事だ。「私」はまず、このことをしっかりと自分の中で咀嚼したい。その上で、人権が守られない社会では「好きなものを好きなときに食べる」自由すら奪われるということ、政治が憲法の精神を具現化することにより、最低限、文化的な生活が保障されることなどを「彼ら/彼女ら」に伝えたい。決して上から目線になることなく、しかし堂々と自信を持ち、ぶれることなく。(2013/5/10)