きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

◆参院選の争点は憲法前文からみえてくる◆

〈北村肇の「多角多面」132〉

 命かカネか。個人か国家か。4日公示された参院選の争点はここに絞られる。単純だ。そして極めて本質的な問題だ。

 リトマス試験紙になるのが原発政策。「再稼働しなければ日本の経済はガタガタになる」「原発技術の海外輸出で外貨を稼ぐ」。これらの背景にあるのは、露骨な「命よりカネ」路線だ。「事故による死者はいない」と発言した政治家がいた。原発推進に血道をあげてきた人々には、地域住民の辛苦はもちろん過去数十年にわたる原発労働者の被災も見えていないのではないか。どれだけの悪鬼が命を踏みつけにしながら原発マネーに群がったのか、想像すらできないのだろう。

 福島原発事故を契機に、防災や減災が叫ばれ公共事業にカネが流れ込みつつある。本当に「命を守る」ことにつながるのか、疑念をもつ。最終的に潤うのはゼネコンになりかねないからだ。いつだって、省庁や大企業は「危機」を踏み台にして自らの利益を増やしてきた。そこには、市民の命を最優先にするという哲学が存在しない。

 与党を中心に、前面に出すのは経済対策で社会保障政策は後景に追いやられる。端的なのが生活保護費の削減だ。くらしを守ることが最も困難な人たちを追い詰めて、「強い日本を取り戻す」ことはできない。「弱者」を守れずして「強い国」などありようがないのだ。

 カネが命より重視される社会では市民の不満が沈殿する。こうした不満や怒りの爆発を恐れる統治権力者は、いきおい国家主義的な政策を打ち出す。何よりも国家が優先され、個人の権利は国家の名のもとにおいて制限される社会。自民党が掲げた「改憲草案」からはそのような「日本」が透けてみえる。

〈日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した〉

〈われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する〉

 憲法の前文を形づくる言葉は、しなやかで強靱でかつ美しい。私たちはこの憲法のもと、「カネより命」「国家より個人」を選択した。投票行動の原点はここにある。(2013/7/5)