きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

警告

 小泉内閣が後方支援という名の「自衛隊参戦」を進めているなか、戦争と平和、テロに関する論文や記事を読んでいます。それも、少し古いものをです。

 月刊誌『世界』(岩波書店)の編集長を長く務めた吉野源三郎さんは、60年代安保のときにこう書いています。

「かつて1936年の日独防共協定が結ばれたとき、それがあの太平洋戦争の破局につながることを、国民の大多数は予測しなかった」(『世界』1959年11月号の特集「安保体制からの脱却」の巻頭言)

 なぜ破局につながったのでしょうか。

 この防共協定は、政界上層部の深刻な抗争をへながらも、反対派が軍部の力に屈した結果、1940年の日独伊三国同盟締結につながります。そして、1941年、ヒットラーと会見して帰国した松岡洋右外相は、この三国の軍事同盟を大義名分として対米強硬論を主張し、近衛文麿首相が進めていた対米関係打開の外交交渉を決定的に挫折させてしまったのです。つまり、軍事同盟の優先によって、外交が終息してしまったのです。

 吉野さんは、前出巻頭言のなかで、安保改定問題について次のように続けます。

「まだ記憶に新たな過去の、あの暗澹たる歴史から、軍事同盟を結ぶことがどんなにゆゆしい大事であるかを肝に銘じて汲みとらなかったとすれば、私たちはこの上ない愚者と呼ばれても仕方がないであろう。だが、あの戦争で死んでいった人々の記憶にかけて、私たちは、そのような愚者であるわけにはいかないのである」

 軍事同盟の危険への警告はいま、現実のものとなっています。小泉純一郎首相は、所信表明演説でも、同盟国としての責任を果たす姿勢を鮮明にしているからです。思い起こせば、第1次世界大戦がまたたくまに世界中に拡大したのも、19世紀末以降の列強諸国の同盟・協商体制が原因でした。

 また、1930年代に日本が満州や中国本土に軍事進出したときは、現地軍隊が先走り、それを政府が追随しました。そして、今回の軍事報復の動きでは、防衛庁が米軍支援のための新法成立を待たずに「支援艦隊」を出航させようとする動きがありました。米海軍横須賀基地を出航した空母キティホークへの海上自衛隊の「護衛」は、福田康夫官房長官さえ知らないまま強行されています。

 もちろん、今回の米国支援を、日独伊三国同盟や戦前の軍部独走と同一視するつもりはありません。しかし、深刻な対立構造のなかで、1つの軍事同盟を優先させることは、同じような悲惨な結末を招く危険性をはらんでいます。あらゆる戦争や武力による威嚇・行使を否定する日本国憲法をなし崩し的に踏みにじってはいけないと、あらためて思います。