記者クラブ改革その2
2002年3月8日9:00AM|カテゴリー:風に吹かれて|伊田浩之
「住民基本台帳ネットワークシステム」(以下、住基ネット)の勉強会が3月4日、東京・有楽町の日本外国特派員協会で開かれました。総務省からは担当者である井上源三・市町村課長ら3人が出席し、新聞記者や編集者、フリーライターなど約15人が説明を聞きました。勉強会の内容については3月8日号の金曜アンテナ欄で報告しましたので、ここでは別の話を書きます。それは、こういった勉強会自体がとても珍しいということです。勉強会はジャーナリストの櫻井よしこさんが呼びかけ、総務省の説明を聞くという形式ですが、実質的には「記者会見」といってよい内容でした。
「記者会見」は通常、官公庁などにある記者クラブが主催します。たとえば、小泉純一郎首相の記者会見は内閣記者会が開きます。首相や大臣クラスではなく、局長や部長クラスの会見はもっと頻繁に必要に応じて開かれています。ただし、これらの記者会見に参加するのには、該当する記者クラブに入っておく必要があります。日本新聞協会は1月23日、「クラブ構成員以外も参加できるよう、より開かれた記者会見を記者クラブの実情に合わせて追求していくべき」との見解を発表しましたが、逆に言えば、こんな新見解を出さなければいけないほど、いままでの記者クラブは閉鎖的であるともいえるのです。
また、新聞記者といえども会社員ですから、人事は会社の都合で行なわれます。つまり、その記者クラブに所属している記者が専門家というわけではないのです。たとえば、環境省の記者クラブに所属している記者は、必ずしも自然保護や環境問題の専門家ではないし、全員が自然破壊の現場に足繁く通っているわけでもないのです。
しかし、最初に述べた住基ネットの勉強会に集まった人たちは、全員が住基ネットに強い関心と危惧を抱いている人たちでした。しかも、『朝日』『毎日』『読売』の記者や、テレビ局の記者、雑誌編集者、ジャーナリストなど、さまざまな人が参加しています。政府が進めようとしている政策に疑問を持つジャーナリストたちが、政府側に説明を求める――これが、そもそもの記者会見のあり方ではないでしょうか。
ちなみに、本格的な記者クラブが初めてできたのは1890(明治23)年秋とされています。378号〔2001年9月7日〕でも書きましたが、同年11月に第1回帝国議会が召集されるため、『時事新報』が主唱して議会出入記者団を結成、議会取材を政府に要求したのです。この運動は東京有力紙の団体から起こりましたが、まもなく全国の新聞が合流し、10月に「共同新聞記者倶楽部」が誕生しました。これが現在の「国会記者会」の前身です。以後、明治末期までに、ほとんどの主な官庁に記者クラブがつくられた、といいます。
大正から昭和10年代までの記者クラブは戦闘的で、政府や新聞社幹部に対して団結して闘いました。しかし戦時統制のため1941年、(社)新聞聯盟の下部機関として改組され、「骨抜きにされ、官庁の御用聞きに成り下がった」(『新聞研究』1965年4月号)ようです。戦後、記者クラブは本来の姿を取り戻していきますが、その性格は、GHQの指導で親睦団体とされました。言論統制を担った“官製クラブ”を否定し、各社に「報道の自由」を保障するためです。しかし、現実には記者クラブは取材機関としても機能しており、新聞協会編集委員会は1997年、やっと「取材のための組織」と位置づけたのです。
住基ネットの勉強会では最後、櫻井さんが総務省側に3月中に2回目の勉強会を開くよう申し込みました。こういった動きが広がれば、記者クラブ改革議論にも、影響を与えることになりそうです。