人情のほろびしおでん
2003年3月14日9:00AM|カテゴリー:風に吹かれて|伊田浩之
家までの帰路、ときおり途中下車する。駅の近くにあるショット・バーに顔を出すためだ。そのバーに向かう曲がり角に、晩秋のころからおでんの屋台が出るようになった。見れば30代前半の男性が切り盛りし、屋台横に置かれたパイプいすに若い客が結構座っている。駅前は客引きがたむろしているのだが、客が座る側を防寒用にビニールシートで囲っていることもあり、真空地帯のようなたたずまいをみせている。
「人情のほろびしおでん煮えにけり」か――久保田万太郎の俳句を思い浮かべながら数日前、初めてその屋台に入った。おでんは冬の季語なので、3月に書く話ではないかもしれないが、このごろ東京は寒い日が続いているのでお許しを願いたい。
熱燗を頼み、店主に「いやぁ、若い人の屋台は珍しいですね」と声をかけた。すると意外な答えが返ってきた。店主によると、この屋台はチェーン店で、店主はその親会社のサラリーマンだという。しかも給料は、売り上げに応じて増減する歩合制ではなく、固定給になっている。
「歩合制でないとやる気が出ないんじゃないですか。売り上げに影響しませんか」と聞くと、少し照れながら、「いやぁ、私はいろんな仕事を経験していますから大丈夫ですよ」と笑う。答えになっているんだか、なっていないんだかと、私も苦笑する。
話している間に店主は、一升瓶から「ちろり」に酒を注ぐ。燗が付く間に、大根と糸コンニャク、がんもを頼む。湯気がたつおでんに薄くつゆが張られ、皿の縁には錬り辛子――。んー、暖まる、暖まる。店主がときどき携帯電話で話し込むことは玉に瑕だが、味も雰囲気も満足できた。お代は千円札で釣りがきた。
屋台を出ると、夜空はもうすでに春の装いで星が潤んでいる。ぐっと伸びをすると、終わりが見えない仕事に疲れた頭が癒される気がした。
「帰路なのかいやいや往路春の星 坪内稔典」