ささくれ立った風景
2007年1月12日5:00PM|カテゴリー:シジフォスの希望|Kataoka
シジフォスの希望(3)
スコールのような激しい雨が2006年末の東京の夜を洗い流した。深夜には闇空を裂いて突き刺すような雷鳴が轟き、ビルやマンションの屹立する大地を揺らした。06年中に起きたすべての悲事・虚事・悪事がそんなふうに洗い流され、啓示のような雷に打たれればよいのだが、ささくれ立った風景は07年に引き継がれた。
喧伝された「安心と安全」の、あるいは「官から民へ」の、そこはかとない虚偽と虚構。狂騒的なパフォーマンスと分かりやすい妄言・虚言を売り物にし、アジア諸国との関係悪化とともに深刻な格差社会へのレールを着実に敷いた小泉純一郎氏に代わり、毒と砂糖をまぶしたような「愛国心」と「美しい国」を掲げる安倍晋三氏が第90代首相に就任した(06年9月)。内面と仮面の圧倒的な矛盾を抱える安倍氏の本性は「創り上げたい“美国”」(「美国」は中国語の表記で米国のこと)にあるのか、「戦争する国への『再チャレンジ』」にあるのか、その両方なのか。
この戦後生まれの右翼政権の誕生は、しかし、半世紀近く「経済」を中心に据えて、国粋的「改憲」を封印してきた自民党保守本流との深刻な亀裂を生じさせているという。ところが、慶応義塾大学の金子勝さんが指摘する。「小泉、安倍と続く新保守主義のメッセージが『改革』になって、革新側のスローガンが(9条などを)『守れ』と、逆になってしまっている」。若者にとって今は希望を持てない時代で、こんな時代が続いては困る。それを「守れ」と言われても心に響かない。むしろ「破壊」「改革」の方を望む……。なるほど、と思う。そうであるなら、選挙の年である07年こそ「革新」の戦術が問われる。
一方、言葉を正確に使用することをその生業の最低限の条件としていながら、教育基本法「改悪」(06年12月15日)を、「改正」と大きく伝える新聞・テレビの欺瞞。「愛国」という心の有り様を法律にし、教育への国家の介入に道を開くことの、どこが「正しく改める」ことなのか、きちんと読者・視聴者に説明すべきだろう。でなければ、安易に「改正」などという字句を使うべきではない。万歩譲って「改定」だ。大本営発表を垂れ流した戦争推進・加担の歴史をどう教訓化しているのか、甚だ疑問だ。それは一例にすぎず、要するにその言葉が「嘘」としか感じられない。メディアに氾濫する政治的・社会的・文化的な言説の多くが(意図的にやっているところは別にして)、「中立と公正」を装った権力に都合のよい、うわべだけの、実体隠しの道具に成り下がっている気がする。何とかならないか。多くの人がそう感じているはずだ。
一枚のポスターが闇の中の目印のようにユダヤ人の店に貼られたときはまだ、その3年後の「水晶の夜」(1938年11月9日。ナチスによるユダヤ人商店の大規模破壊。街の通りが割れた大量のガラスによって覆われて水晶のように見えたためこう呼ばれた)を予見できる人は、ヒトラー政権下のドイツ国民にはそう多くなかった。しかし今この日本では、少しばかりの想像力さえあれば分かるはずだ。すでに戦争法制はできている。所得・生活・権利の格差でささくれ立った民心を平定させ、反戦平和の声を封じ込める「監視・密告社会」完成のために共謀罪などを早く成立させよう。国民投票法にも王手をかけた。9条つぶしの改憲は目前だ……。統治権力やその補完勢力が想定する、そんな2007年にしてはならない。(片岡 伸行) (2007年1月1日)