ハトとネット
2006年7月21日9:00AM|カテゴリー:風に吹かれて|伊田浩之
東京・有楽町を歩いていると、有楽町マリオンを見ていた友人がこう言った。
「こんなところに『朝日新聞』の文字があるんだね」
そうか。築地に移るまで『朝日』の本社がここにあったことなんて、もう”常識”ではないんだろうな。旧社屋の壁には、2・26事件のときについた銃弾跡が残っていた、と取材先で聞いたことを思い出す。
たしか『朝日』OBの小社前社長、黒川宣之さんから教えてもらった話だと思うが、
「ここにあった『朝日』の屋上には、鳩小屋があって、伝書鳩がいたんだって」
と話す。と、友人は疑わしそうな眼差しをこちらに向けた。まぁ、インターネット全盛時の常識では、信じがたい通信手段だろう。
帰宅してインターネットで調べた。
『朝日新聞』の公式ホームページ(http://www.asahi.com/shimbun/honsya/j/history.html)によると、1895年6月20日に井上馨の帰国報道で『東京朝日』が新聞界で初めて伝書鳩を使用したという。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、朝日新聞社東京本社が伝書鳩を廃止したのは1961年(昭和36年)5月1日(7月1日に大阪本社・1959年に名古屋本社でも廃止)。
「有楽町マリオン」14階、朝日新聞記念会館には伝書鳩の記念碑(朝倉響子作)があるらしい。『週刊BEACON』(http://www.icom.co.jp/beacon/web_topix/002.html)には、記念碑の写真が掲載されている。
上記の記事には、伝書鳩をめぐるエピソードが多い。たとえば、鳩たちが初めて甲子園を飛んだのは、1928年(昭和3年)夏の第14回全国中等学校野球大会。当時の甲子園からの通信手段は電話だけ。写真などは阪神電車で大阪・梅田へ、さらに市電か徒歩で新聞社までと、人手に頼る以外に方法はなかった。甲子園から『大阪朝日』まで15キロメートル足らず。8日間の大会中に、鳩は写真だけでなくマンガまで、実に160回も運んだ。平均して人手は1時間20分、鳩は12分。「頼りになる通信員」を証明した伝書鳩は以後、羽を休める暇がなくなった、という。
もちろん、伝書鳩を使ったのは『朝日』だけではない。知人の全国紙記者が大先輩に聞いたところでは、かつて出張時には鳩数羽を持って出かけることが当たり前だった。鳩は空腹でないと飛ばない。そこで、夜のうちにライバル社の鳩にエサをたんまりやっておいた。取材後、そのライバル社の記者が鳩を空に放とうとしたが、飛ばない。しめしめと思って、自社の鳩を飛ばそうとしたら、こちらも飛ばなかった。ライバル社の記者にエサを与えられていたんだと気づき、苦笑したそうだ。
先日の雷雨で、自宅のパソコンが壊れた。落雷で一時的に電圧が急上昇したのが原因ではないかと思う。修理するか、新機種を買うか迷い、学生時代の友人たちに相談した。大学で研究職についている友人はこう答えた。「パソコンとは縁を切り、網の外でのんびり暮らす。私は、できればこれを実行したい」
そうだよなぁ。パソコンが壊れてから、自宅でずいぶんとのんびり過ごしている。なにかに追いまくられている焦燥感がないのだ。隣家の屋根に止まっているハトを見ながら、自宅でのネット復帰をいつにしようか、ぼうっとした頭で考えている。