きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

小沢一郎氏は、現時点では無罪だ。政界引退を迫る権利は誰にもない。

<北村肇の「多角多面」2>

 どうしても大阪弁が好きになれない。東京の下町生まれ、その後も関西地方で暮らした経験がなく馴染みがないせいか。といっても、これは、納豆が好きか嫌いか、巨人ファンか阪神ファンかという類で、いつ変わるかもわからない。ものごとの好悪など、未来永劫、続くわけはなく、本質的なことではないのだ。もし就職試験の面接官が、「大阪弁だから落としてやろう」「阪神ファンは採らない」となったら、そんな企業はつぶれるだろう。

 一方で、社会にはそうそう簡単に覆してはならない原則がある。たとえば無罪推定の原則がそれだ。最近の永田町の様子を見ていると、多くの国会議員はこのことを忘れているのか、故意に見ないふりをしているようだ。自民党ばかりか、民主党議員の中からも「小沢一郎氏は議員辞職すべき」というコメントが出るのだから、驚き、あきれてしまう。

 小沢一郎という国会議員を好きなわけではない。強引な党運営には鼻白んでしまうし、カネの問題についても首をひねることが多い。しかし、検察審査会が「強制起訴」の決定をしたからといって、「政治家を辞めろ」と迫るのは筋違いだ。裁判で有罪が確定しない限り、小沢氏は無罪なのである。

 特捜部検事による証拠隠滅事件では、起訴時点で法務省が当該の検事を懲戒免職にした。これもおかしい。「本人が犯行を認めた」と報じられているが、それを鵜呑みにするわけにはいかない。仮に村木厚子さんが、起訴と同時に懲戒免職になっていたら――。考えただけで空恐ろしい。裁判も経ずに処分することは厳に慎むべきなのだ。

 権力をもっている人間は他者に大きな影響を与える。だからこそ、ものごとを判断するときに、好悪の感情や印象論を持ち込むのは御法度だ。しかし、現実には、司法や立法に携わる権力者が平然と原則を無視する。さらには、権力の監視・批判という任務をもった、ある種の“権力者”マスコミは、情緒に流された報道を垂れ流し続ける。魔女裁判だとさんざん批判されてきたのに、一向に心を入れ替える様子がないのだから始末に負えない。

 無罪推定の原則は、1人の冤罪被害者を出すくらいなら9人の犯人が刑の執行を免れても仕方ないという発想に基づく。かなりしんどい選択ではあるが、それが人間の最終的に到達した良心の一つなのである。

 国会議員はその良心に則って「小沢問題」に対処し、小沢氏もまた自らの良心に則って行動する。当面は、それしか道はない。(北村肇)