愛知県の新“盟主”河村たかし氏は、親鸞にあらず
2011年2月9日4:58PM|カテゴリー:多角多面(発行人コラム)|北村 肇
<北村肇の「多角多面」(17)>
時折、訪れる親鸞ブーム。今回は五木寛之氏の小説効果が大きい。だが、それだけとも思えない。親鸞の師、法然の主著『選択本願念仏集』の一節。
「(阿弥陀仏が)もし仏像を作り、塔を建てることをもって本願とされたならば、貧窮困乏のものは定めて往生ののぞみを断つことになろう。しかも、世には富貴のものは少なく、貧賤のものはきわめて多いではないか。もし、智慧やすぐれた才能をもって本願とされたならば、愚鈍で智慧の劣ったものは、定めて往生の望みを断つことになろう。しかも、世には智慧のあるものは少なく、愚かで道理の分からぬものははなはだ多いではないか。……」<阿満利麿(あま・としまろ)著『親鸞』より>
いつの時代でも、支配する側とされる側、富む者と貧しい者がいる。「宗教」が、虐げられた人々の救いになってきたのは事実。一方で、「宗教」は支配する側に利用され、本来、救うべき人々を踏みつけにしたのも事実。現代社会はどうか。まさに「神も仏もいない」状況に見えなくもない。その席に取って代わったのは何か。言うまでもなく「カネ」である。さらに新自由主義時代になると、富む者にとって「カネ」はバーチャルな存在になり、マネーゲームが世界を席巻した。極論すれば、「カネ」を生むのは「カネ」でしかなくなった。貧しい者が浮上する余地は極めて少なくなったのだ。
既存権力に迫害された親鸞は、人はすべて凡夫であり、悪人であろうと浄土にいくことができると説いた。「末法の世」で、その教えは燎原の火の如く広がった。格差と貧困に覆われた21世紀のいま、法然や親鸞を希求する思いが、庶民の心の中に、自分では気づかないまま生まれているような気がする。
先の名古屋市長選で河村たかし氏が、愛知県知事選では河村氏の盟友、大村秀章氏が当選した。民主党や自民党を蹴散らしての圧勝だ。名古屋市議会解散の是非を問う住民投票も「賛成」が7割近くに達した。河村氏の勝因はどこにあるのか――。ユニクロのダウンジャケットに中日ドラゴンズの帽子姿。「庶民性」を前面に打ち出し、「既得権力者」である政党、議員に対し、たった一人で立ち向かう姿勢を強調した。あたかも、救世主誕生のような雰囲気を作り出すことに成功したのだ。
しかし、河村氏に練り上げた「教義」があるようには見えない。残念ながら、このままでは、早晩、メッキのはげる可能性が大きい。そのとき、有権者はどこに救いを求めるのか。ますます「末法思想」が広がるきっかけにならねばいいが。(2011/2/09)