きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

[この国のゆくえ1…駅員のいないプラットフォーム]

<北村肇の「多角多面」(20)>

 JR目白駅のホームが変わった。といっても、点字ブロックが少し盛り上がっただけだ。

 今年1月16日、全盲のマッサージ師、武井視良さん(42)が同駅ホームから転落、電車にはねられ死亡した。「点字ブロックの突起が多く、すり減ってもいたため、気づきにくかったのでは」との指摘が出た。JR東日本はこれを受け、直ちにブロックを取り替えた。ホームドアについても「取り組んでいる」と説明する。山手線29駅すべてに設置されるのは2018年春の予定。経費は約500億円――。かくして「人命」は、「機械の設置」「経費」といった、血流の伴わない単語の中に埋没していく。

 違うだろう。いまJRが実行すべき、あるいは実現に向けて検討すべきことは、ホームへの駅員配置だ。あの新宿駅でさえ、通常時、ホームの駅員は1人という。一体、いつからこんなことになり、無人ホームが日常の風景として私たちの中に定着してしまったのか。民営化=合理化の嵐で人件費が削られ、ホームから駅員が消えたことは容易に想像できる。

 しかし、これはJRに限らない。他の私鉄各線も状況は似たようなものだ。そもそも「合理化」という言葉には、「労働者いじめ」だけではなく「人間軽視」が潜む。そして、さらなる問題は、多くの市民がどこかで、このことを受け入れてしまった現実だ。

 約10年前、地下鉄でホームから線路に落ちた。到着した電車から降りてきた乗客に押されたのだ。何人もの手が差し伸べられた。そこに駅員の手はなかった。幸い、自力で上がることができたが、「なぜ駅員が助けてくれなかったのか」とは考えなかった。私自身、駅員の姿がないホームに違和感をもたなくなっていたのだ。

「合理化」という名の列車が「人間」を置き去りにしたまま走り続け、いつしか「効率」がすべての物差しになる。それが当たり前になれば、いつ起きるかわからない転落事故のために駅員を配置することは「ムダ」そのものとされてしまう。しかし、冷静に考えればすぐわかる。機械は決して自らの意思で人命を救うことはない。人間を助けるのは人間の手であり、意思であり、心だ。人命を守るための「非効率」を「ムダ」とは言わない。

 何よりも大切であり重視すべきは「人間」であるという、当然すぎることが軽視され、しかも日常になじんでしまった。無人ホームは、そんな荒涼たる社会の象徴であり、ぬくもりを忘れた「日本号」は凍えきったレールを走り続ける――。しばらく、「この国のゆくえ」について考えてみたい。(2011/3/3)