[この国のゆくえ14……原発をめぐる状況は、35年前と変わらない]
2011年6月9日5:49PM|カテゴリー:多角多面(発行人コラム)|北村 肇
<北村肇の「多角多面」(33)>
神社仏閣は、いつの時代も人気の観光スポットになっている。宗教心をもった人が、そうたくさんいるとは思えない。足を運びたくなる理由の一つは、「変わらないもの」への希求だ。人は老い、死ぬ。人生の下り坂を歩いていることに気づいた人は、老いに恐怖し、「変わらない時間」を求める。だから、時代を超えた神社仏閣に触れたとき、ほっとするのだ。
確かに、生まれ育った土地に行き、小さいころ遊んだ神社の大木がそのままに立っている姿を見たときなど、言いようのない安堵感がある。しかし、宇宙は1秒たりとも停止することなく、時間の固定はその摂理に反する。皺が増えようが、足腰が弱ろうが、心や精神はとどまることなく1ミリずつでも成長している、それが人間だ。
先日、35年前のテレビドキュメント「いま原子力発電は……」を観る機会があった。監督は記録映画作家、羽田澄子さん。福島第一原発をルポした25分の作品だ。画面に登場する推進派の発言を聞いて、あまりのデジャブ(既視感)に、不謹慎ながら笑いを漏らしてしまった。
「原発でつくられるクリーンな電気」「(発生している不具合は)事故ではなく故障」「事故の起きる確率は50億分の1で、これは隕石に当たる確率と同じ」「原発はけしからんという人もいるが、石油が枯渇してもいいのか」「放射性廃棄物は固体化して100年、保存する。その間に(処理のための抜本的)対策を探す」
一方、原発を疑問視する学者はインタビューにこう答えている。
「50億分の1というのは紙の上の計算にすぎない」「原子炉が空だきになったら、1分以内に水を注入しなくてはならない。だが、水蒸気に押されてなかなかできない。まさに離れ業だ」「放射性廃棄物の処理には1000年、あるいはもっとかかる。1000年もの間、平和理に管理できる能力が人間にあるのか」
当時、日本で稼働していた原発は12基。35年たち、54基に増えてしまったが、とりまく状況は、これだけの事故が起きても本質的には変わっていない。推進派のもくろみは「何ごともなかったかのように“原発神話”を生かし続ける」ことにあるのだろう。彼ら、彼女らに「心や精神の成長」を求めてもムダだ。そうではなく、私たちの「成長」を彼ら、彼女らに見せつけなければならない。(2011/6/10)
※同作品は、岩波ホール(東京・神保町)で13日~30日公開。