[この国のゆくえ21……ノルウェー・テロ事件と秋葉原事件を結ぶ線]
2011年7月28日1:13PM|カテゴリー:多角多面(発行人コラム)|北村 肇
<北村肇の「多角多面」(40)>
ノルウェー連続テロ事件のアンネシュ・ブレイビク容疑者。秋葉原事件の加藤智大被告。二人の間にはどのくらいの距離があるのか。手の届くところか、はるかに離れているのか。考え出すと、息苦しくなる。本当は考えたくない。しかし、考えなくてはならない。
報道によれば、ブレイビク容疑者は右翼・反イスラム思想に傾倒していたと言われる。ビデオ声明では「多様性よりも単一性を」と訴えていた。政府の移民受け入れ策に不満をもっていたようだ。事件当時、ウトヤ島では与党・労働党支持の若者が集まっていた。そこに銃弾を撃ち込んだブレイビク容疑者は、「残虐だが必要だと思った」と弁護士に語ったという。まさに確信犯である。
一方、加藤被告の「動機」については、裁判が進むにつれ、「承認欲求」が大きな意味を持つことが明らかになってきた。事件を起こすことによって自己の存在を他者に刻み込みたいという強い思い。政治的な犯行ではない。
では、何が共通項なのか。年齢はブレイビク容疑者が32歳。加藤被告が28歳。同年代とみてもおかしくはない。だが、年代論でくくるには両国の事情が違うし、何よりも情報が少ない。私が引っかかるのは「無差別殺戮」という点だ。
ブレイビク容疑者の場合は「無差別」ではないとの反論もあるだろう。確かに、狙われたのは「与党」であり、「与党支持者」だ。しかし、たとえばストレテンベルグ首相をターゲットにしたテロではない。同容疑者は、爆弾テロと銃乱射によって死亡した被害者の名前をだれひとり知らないだろう。その意味では「誰でもよかった」のだ。加藤被告の標的は「人混みにあふれる秋葉原」だった。そして、彼もまた殺害対象は「誰でもよかった」。
いまの社会は、「名前」を失った、あるいは奪われた人々であふれ返っている。一部の政治家や経済人、いろいろな意味でのタレント以外は、名前をもっているようでもっていない。「勝ち組」以外は、「その他大勢」の枠に押し込められているのだ。
もし、すべての人に「名前」があれば、「無差別大量殺人」は起きにくいのではないか。いかなる政治犯も自暴自棄になった人間も、実存する「名前」を前に命の重みを感じ、たじろぐはずだからだ。ブレイビク容疑者と加藤被告の距離は、意外に近いというのが私の結論だ。「勝ち組」に対する憤りや憤懣が、同じ「その他大勢」に向かう。二人はともに、この悲劇の、加害者であり被害者である気がしてならない。(2011/7/29)