[この国のゆくえ22……「苦悩」とともに2011年の夏を過ごす]
2011年8月3日6:51PM|カテゴリー:多角多面(発行人コラム)|北村 肇
<北村肇の「多角多面」(41)>
あっという間であり、異様に長い5ヵ月でもあった。「3.11」は時間感覚をも狂わせたようだ。
振り返ってみると、そこには無数の「?」が、まだ化石にならない状態で浮遊している。それはそうだ。何一つ解決していないのだから。「収束」しないのは福島原発事故だけではない。私の想念もまた、何の見通しも不時着する場所もなく、いたずらにさまよい続けている。
原発が人類にとって負の存在であるとの結論はとうに下していた。一旦、事故が起きたら、破滅の事態をもたらすことも明確に予言できた。政府や電力会社を中心にした“原子力ムラ”の醜悪さも自明の理だった。なのに、私といえば、無数の被害者が生まれた現実を呆然として見つめるばかりだ。
私にとって「結論」とは何だったのか。それを自分なりに出すことで何が解決したのか。いままた、どんな結論を出そうとしているのか。その煩悶の中で混沌としているというのが、偽らざる心境だ。具体的な言葉にすればこうなる。「3.11」で犠牲になった人々の「死」、残された人々の「生」に対し、一体、どうやって向かいあえばいいのか、まったく見えてこない――。
原発を廃炉に追い込み、二度と同じような被害者を出さない。そのことが、大震災で亡くなられた方々への手向けにつながり、死者を悼むことすら奪われた人々の支援に結びつく。さらには、明日を背負う子どもたちの未来をつくりだす。ここまでは無条件、反射的に紡ぎ出すことができる。しかし、何かが足りない。
現時点での私の「結論」は、矛盾に満ちている。それは「結論を無理して出すことはない」ということである。肝心なのは「思い悩むこと」ではないのか――。
今年もまた「8・6」、「8・9」がやってくる。戦争、核兵器、原発……考えるべきことは山積している。例年と違うのは、「3.11」によって、社会を覆っていたフタが吹き飛んだことだ。否応なく「死」が露出し、すべての人の眼前にさらされたのである。逃げてはいけない。しかし、簡単に結論を出そうと焦るべきではない。まずは悩みたい。「生きている」からこそ、苦悩する。苦悩するからこそ、明日がある。この夏を苦悩とともに送ろう。出来る限り、背筋をピンと伸ばして。(2011/8/5)