[この国のゆくえ23……「日常が極楽である」ことに鈍感な政治家]
2011年8月18日1:00PM|カテゴリー:多角多面(発行人コラム)|北村 肇
<北村肇の「多角多面」(42)>
猛暑の影響だけではあるまい。いかにも疲れ切った人の、多いこと多いこと。中高年ばかりではない。電車内を見渡すと、ぐったりとした表情の若者にたびたび出会う。
チャップリンの「モダン・タイムス」を思い出す。オートメーションの歯車になった労働者が、ただただ疲弊していく。21世紀のいま、事態はもっと深刻だ――人生は自転車を漕いでいるようなもの。足を止めた途端、それは「社会からの落伍」を意味する。だれも助けてはくれない。みんなひたすら前を向き、ペダルを漕ぐだけ。「落伍者」に手を差し伸べる余裕すらない。
こんな時代では、負荷の少ない高級自転車を手に入れるか、人並み外れた体力の持ち主だけが勝ち組となる。東日本大震災の復興を名目に、増税、社会福祉の後退が「避けられないこと」として論じられている。民主党代表選の焦点にもなるだろう。自転車が壊れたり、病気やケガでペダルを漕げなくなったときの保険は、自力でまかなわなくてはならない。年金も公的医療もやせほそる一方、ますますそんな社会になる。
勝ち組の発想は明確だ。「自転車にも乗れない者は社会から去れ。そうなりたくなければ努力しろ」。排除の論理そのものである。彼ら、彼女らにとって「生きる価値のある人間」は1割にすぎない。残りの9割は歯車。壊れれば廃棄物でしかない。
でも、社会の勝ち組イコール人生の勝ち組ではない。一心不乱に昼夜を分かたず自転車を漕ぐ人に、空の青さはわからない。道ばたに咲く野草の美しさも感じ取れない。世界がどれほど豊潤であるかは、立ち止まり、深呼吸をし、周囲を見回して初めてわかることだ。
あわれになってくる。私も含めた9割に対してではない。自転車を走らせることにしか生きる意味をもたない勝ち組があわれなのだ。カネで一定の「時間」を買えると思い込んでいるのかもしれない。しかし、それは中身のないスカスカの時間でしかない。まして「人の心」をカネで購うことはできない。「死」を前にしたとき初めて、「立ち止まり、深呼吸をし、周囲を見回す」ことをしてこなかった不遇に気づくだろう。
「3.11」は、「日常が極楽である」という真実を顕在化した。「日常」とは、私が私として、無理をせず、無理を強いられずに生きられる時空間だ。勝ち組もそうでない大多数も、みんなが疲弊している時代には「日常」がない。このことを多くの市民はあの大惨事で気づいたのに、政治家はあまりに鈍感すぎる。(2011/8/19)