[この国のゆくえ27……国家にからめとられない「絆」をつくる]
2011年9月21日4:09PM|カテゴリー:多角多面(発行人コラム)|北村 肇
<北村肇の「多角多面」(46)>
「絆」。東日本大震災以降、あちらこちらで見かけるようになった。いい言葉だ。響きも素敵だ。でも、悪用されたのでは元も子もない。漠とした不安を感じる。
各地で「東北の野菜・果物を食べようキャンペーン」が展開されている。どこか違和感をぬぐえない。もし放射能に汚染されていたら、さらなる被害者を生む危険がある。「風評被害を防ごう」と政府は繰り返し強調する。だが、まずは綿密・正確な検査が必要だ。その上での「安全宣言」なくして、どうやって「風評」かどうかの判断をするのか。
徹底検査を実施する際、現行の暫定基準値見直しも欠かせない。「1キロあたり500ベクレル」がいかに異常な値かは、ドイツ放射線防護協会による食品中の放射能基準値「成人で8ベクレル、幼児で4ベクレル」と比べれば一目瞭然だ。
野田政権発足直後、細野豪志原発・環境相の発言が話題になった。「福島の痛みを日本全体で分かち合う」――日本中の人々に放射能被害を受け入れろということか、という怒りがインターネット上で相次いだ。ちょっとした発言で炎上するのは、政府の無責任ぶりに対する不満が沸点に近づいているからだ。細野氏の発言は瓦礫処理にからんだものだが、これまでの無策ぶりを棚に上げておいて、いけしゃあしゃあと「日本全体で」と言ってしまう鈍感さ。しかも、客観的に考えれば最終処理施設は福島原発周辺に作らざるをえないのに、「福島以外で努力」などと口先でごまかそうとする。
やはり、政府や東電は「絆」を悪用しているようにしか見えない。「東北を助ける市民の善意」を、「日本人の義務」かのようにすりかえる。そのうち「東北の野菜を食べないのは非国民」という雰囲気さえつくられかねない。東北を救うのは一義的には「市民の絆」ではないはずだ。何よりも、政府・東電の責任のもとに救済措置がとられねばならない。
戦後、連綿として続いてきた日本社会の基本構図は崩れつつある。その一つに「地域共同体の崩壊」がある。これを受け、地域における市民の連帯を再生しようという試みもさまざまに行なわれている。そのことが間違っているとは思わない。しかし、かつてのような国家主義や家族主義に取り込まれるわけにはいかない。
「動物をつなぎ止めておく」が「絆」の語源という。戦前の「絆」とは、まさに国家につなぎ止められるという意味であった。国家にからめとられることのない「絆」をつくりだす、それが「3.11」を経験した私たちの責務だ。(2011/9/23)