きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

この国のゆくえ29……何度でも繰り返そう、新聞よ覚醒せよ!

<北村肇の「多角多面」(48)>

 月に1度の休刊日はいらいらする。何があろうと「新聞」が好きだからだ。インターネット時代と言っても、新聞が報道機関の中心であるのも間違いない。だからこそ、声を大にして言いたい。ジャーナリズムの原点を取り戻せ! いい加減に目覚めよ!

 東日本大震災以降、「出前講演会」と銘打って全国行脚している。「大震災・原発とメディア」をテーマに新聞・テレビ報道の裏側について話すのだが、マスコミに対する市民の憤りをひしひしと感じる。「政府や東電の広報機関に成り下がっている」という批判が、引きも切らず参加者から出てくるのだ。

 確かに、物足りなさを通り越してあきれることが多い。報じるべきことを報じないし、報じ方のポイントもずれている。典型的だったのが5月6日の文部科学省の発表。米国エネルギー省と共同で航空機により福島県内の放射線量を調査、結果が記者クラブに配布された。そこには「地域によっては、セシウム137が300万~1470万ベクレル」と書かれていた。チェルノブイリでは55.5万ベクレル以上の地域は強制移住の対象だったから、汚染の凄まじさがわかる。

 ところが、この大ニュースが翌日の新聞では1行も報じられなかった。実は、この日、菅直人首相が「浜岡原発を止める」と会見した。推測だが、文部科学省は、あえて同じ日に資料配付をぶつけたのではないか。言うまでもなく、大きく報じてほしくない中身だったからだ。数日遅れで『東京新聞』が記事にしたものの、他紙ではみかけなかった。かくして、絶対に「報じなければならない」ニュースは埋もれてしまった。

 こうした例はいくらでもある。記者の「力」が落ちたのなら、まだ救われる。訓練さえすればいいからだ。しかし、根はもっと深く、「立ち位置」の問題に帰着する。簡単に言えば、ジャーナリストは常に「弱い者」の立場に立って「強い者」を監視し批判する。だから、原発に関して言えば、「反原発」の立場に決まっている。「客観」とか「是々非々」とか、意味のない言い訳は成り立たないのだ。

 何度でも断言する。マスコミ、とりわけ新聞が真のジャーナリズムの立ち位置を見失わなければ、社会は確実にいい方向に動く。それだけの「力」を持っているのだと再認識せよ! 一刻も早く!