「東北大震災から1年」に思う(上)
2012年2月29日4:07PM|カテゴリー:多角多面(発行人コラム)|北村 肇
<北村肇の「多角多面」(67)>
3万年前の種が花を咲かせた。シベリアの永久凍土で見つかったナデシコ科「スガワラビランジ」の実から、ロシアの研究チームが種を取り出したという。科学の力もさることながら、生命の不思議さには驚かされるばかりだ。とともに、あらゆる命に対する愛おしさが募ってくる。
間もなく「3月11日」が訪れる。あの日、私は、おそらく多くの人がそうであるように言葉を失った。1年経ついまも、失ったままだ。仕事柄、たびたび文章にはしてきた。講演会などで話しもしてきた。だが、どこか空虚な色合いがまとわりつく。命に迫ることのできないもどかしさをぬぐいきれないのだ。
新聞には日々、警察庁発表の「大震災被災者数」が載る。「死者1万5853人、行方不明3282人」。どんなに被害が大きくても、数字になった途端、それらは乾いてしまう。2万人近くの人々の「歴史=くらし」を垣間見ることはできず、彼/彼女らの命とは何だったのかを、実感として受け止めることができない。
福島原発の悲惨な状況が明らかになっても、政府は「直ちに影響はない」と言い放った。その言葉の裏側にあるのは被害者ひとり一人の命に対する感度の低さであり、自己保身を最上位に置いている証左でもある。ここまでくると論外だが、「3.11」後、マスコミはもちろん、論壇でも言葉が溶解した。言葉を取り戻す、あるいは生み出さなくてはならない。しかし、言葉だけでは命に迫ることができないのもまた事実なのだ。
いま求められるのは、想像力だろう。「死者1万5853人、行方不明3282人」の向こうに、ひとつ一つの命を想像する。その上で、私という存在が他者という存在と触れあい、私の命が他者の命を抱きしめる。そこには数字も言葉もない。言い換えれば、何もかも脱色した素の存在にならない限り、もどかしさはいつまでもつきまとうのだ。
皮肉なことに、私は言葉を失ったとき、命への想像力が高まった。もちろん「想像もまた言葉で行なう」という大きな矛盾を否定しない。しかし、たとえば「スガワラビランジ」の写真を見て感じる命への愛おしさは、言葉とは別の次元にあるのだ。「3.11」は人間のもろさや強さを見せつけた。とともに、確固とした真実が現前したように思う。「すべての命を、解釈の必要がない愛で抱きしめる、それこそが人間である」――。本来の人間らしさを取り戻すことが、残された私たちの責務なのだと思う。理屈や言葉の前に、あらゆる命の鼓動を感じとりたい。(2012/3/2)