きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

野田政権には「愛」がない

<北村肇の「多角多面」(79)>
 禅僧、南直哉(みなみ・じきさい)さんの近著『恐山』(新潮新書)にこんな一節がある。修行僧時代、ある老僧とのやりとりだ。

「人が死ぬとな、」
「はい」
「その人が愛したもののところへ行く」
老師はそういいました。
「人が人を愛したんだったら、その愛した者のところへ行く。仕事を愛したんだったら、その仕事の中に入っていくんだ。だから、人は思い出そうと意識しなくても、死んだ人のことを思い出すだろう。入っていくからだ」
さらに、
「愛することを知らない人間は気の毒だな。死んでも行き場所がない」
と続けました。

 愛のない時代と言ってしまったら身も蓋もない。だが、愛の存在感が薄れているのは確かに思える。その原因は「愛の契約化」にあるのではないか。むろん書類があるわけではない。ただ、愛のためにはこれこれが必要という契約が暗黙のうちに交わされる。親の愛を得るためには、勉強して有名学校に進まなくてはならない。恋人の愛を得るためには、生活力を高めなくてはならない――。これらの契約が不調に終われば、その時点で多くの愛は霧消する。

 人は本来、愛されるために愛するわけではない。無償の愛こそが愛だ。下らない契約がそこに入り込む余地はない。もちろん相思相愛ならそれが理想だが、仮に思いが通じないなら、無理に押しつけることなく遠くから見守る愛もある。

 不必要な契約の背後に、行き過ぎた資本主義が横たわるのは言うまでもない。だが、野田政権は、カネ、カネ、カネの価値観を解消するどころか、命より経済とばかりに原発再稼働に突っ走り、増税路線に前のめりになる。「何と言っても経済優先」「努力すれば見返りはあげる」「ただしすべては自己責任」と押しつけ、その契約ができなければ生きていく価値はないというが如く。

 自分しか愛せない人間は死んでも帰るところがない。そんな人間を大量に生み出そうというのか。この国の政治には愛がない。(2012/6/1)