「3.11」後の新しい社会は市民の手でつくる
2012年7月6日9:00AM|カテゴリー:多角多面(発行人コラム)|北村 肇
<北村肇の「多角多面」(84)>
ふと気がつく。この夏はあまり蚊がいない。そういえば、去年もそうだった。カラスの数が減ったのも気になる。いまさら石原都知事の一掃作戦の効果でもあるまい。すべては杞憂かもしれない。さすがに、何でもかんでも福島原発事故に結びつけるのはどんなものかと思う。でも、一個の生命体として、私の直感が働く。放射性物質がひっそりとこの国を覆い、侵し続けている。それは間違いのないことだと。
東京都の水元公園でホットスポットが見つかった。共産党の調査で明らかになった。おそらく、こうした危険箇所は都内だけでも数限りなくあるだろう。放射性物質は「水に流す」ことはできない。樹木の密集するところでは、雨の降るたびに蓄積し、消失することはないのだ。
ここしばらく、米国の海岸に東日本大震災由来の瓦礫が次々に流れ着いている。ニュースを聞くたびに背筋がぞっとする。わかっていたこととはいえ、福島原発事故が世界を巻き込んだ事実に驚愕する。海洋汚染の深刻さが浮き彫りになるのは、むしろこれからだろう。
安易に「復興」という言葉を使ってしまう。だが、2011年3月11日以前に戻ることはありえない。戻ることがあってもいけない。原発のある世界に回帰したのでは、再び「福島」の起きる可能性を除去できない。新しい社会をつくりあげるしかないのだ。
戦争責任について考えてみる。この国では、アジア・太平洋戦争の責任がうやむやにされたばかりか、責任はないという暴論すらまかり通る。そのことが、日本に対するアジアの視線を厳しくしたのは疑いようもない。ひいては「国益」(真の「国益」とは「民益」である)をも損ねた。いままたその二の舞を演じようとしている。
世界中に放射性物質を振りまいたのだ。明らかに国家の犯罪である。だが、政府は責任をとろうとしない。むしろ「なかった」ことにしようともくろむ。責任をうやむやとしたまま、新しい時代をつくることはできない。彼らは、「政・官・財・学」が癒着した原子力ムラの構図を「復興」したいだけだ。
官邸前の金曜日デモは10万人規模になった。大飯原発再稼働反対のうねりは各地に広がった。東京電力幹部らの刑事告訴は、全国で支援体制ができつつある。市民の動きは確実に「新しい社会」につながる。私の直感は囁く。「勝てる」と。(2012/7/6)