老朽化した「近代」をどう乗り越えるのか。今回の総選挙ではその答えを見出せない。
2012年12月13日4:01PM|カテゴリー:多角多面(発行人コラム)|北村 肇
<北村肇の「多角多面」(106)>
小市民だなと思う。ささやかなことで結構、思い悩む。気に入ったワイシャツの袖口がほころんだ。さて、半袖に仕立て直してもらうかどうか。意外に値が張る。これなら新しく買ったほうが得か。でも、同じワイシャツは手に入らない。うーん、どうしよう。
何物にも寿命がある。老朽化したらそのつど修理するのか、思い切って新品にしてしまうのか。ケースバイケースだろう。中央高速道のトンネル落下事故では、道路新設ばかりに予算が付き、補修がなおざりにされてきた実態が明らかになった。一方で、都市の寿命は50~60年で、東京や周辺のインフラはすでに超高齢化しているとの指摘もあった。
では「社会」の寿命はどうなのか。教科書的にみれば、「古代」「中世」「近世」「近代」と移り変わり、産業革命と民主主義の確立によって、人類はこれまでにない繁栄期を迎えるはずだった。しかし、冷戦構造が崩れ情報革命と金融革命が加わった21世紀は、決してバラ色とは言えない。むしろ、資本主義の矛盾が隠しようもなく露呈している。「近代」の老朽化、それこそが2012年の「いま」の現実だ。
どこか社会の深いところが劣化している。この意識や不安感を、実はすでに多くの市民が感覚的にとらえていた。ところが、この国の政権は「補修」や「根本的改造」どころか、逆にひび割れた場所をさらに崩し続けてきた。とりわけ、小泉・竹中路線は構造改革の名の下に格差社会を助長し、社会を脆弱化させた。
欲望とは、他者の欲するものを欲する意識といわれる。この欲望をいかに飼い慣らすのかが、人類にとって乗り越えるべき、しかし越えられない難問だった。近代に入り、「カネ」は「神」となり、欲望の暴走が始まった。そして小泉政権の後は、欲望こそが人間であり制御すること自体おかしいと言い放つ人が増えている。もはや魑魅魍魎の世界である。
本来なら、今回の総選挙は老朽化した社会にどう対応するのかが焦点にならなければいけなかった。それは原発や崩壊した社会保障にとどまらない。もっと本質的な「近代後の社会のありよう、国家観、人間の生き方」に目を向けるという作業だ。しかし、多くの政党は、日本社会が発展途上にあるかのごとき政策を押し立てた。さらに言えば、最も関心のあるのは政権の枠組みであるように映った。つまり、「哲学」がないのである。これではどんな政界再編が起きようと事態は変わりようがない。
では、私たちは何をすべきなのか。次回はそのことを考えたい。(2012/12/14)