◆生きることは非効率。だから素敵なのだ◆
2013年1月17日3:50PM|カテゴリー:多角多面(発行人コラム)|北村 肇
<北村肇の「多角多面」(109)>
雲の流れを音楽にしたいと強く思った。
坂本龍一さんの言葉だ。聞いたとき、心がふわっとした。
アフリカのサバンナは、どこまでもどこまでも、静かで静か。何日かそこにいると、1キロ先のカバの水浴びの音が聞こえるようになる。ふと空を見上げる。流れる雲。その音を“感じ”、音楽にしたくなった――。
何か大切なものを失ってしまった。何かはわからないが、何か大切なものを。たくさんの人々が、そんな思いにとらわれている。具体的な言葉にできないのは、「何か」が人知を超えているからだ。考えてわかるものではない。あくまでも“感じる”ものだ。
そういえば小さいころは、坂本さんのように雲の音まではいかなかったが、風の音を聞いていた。風の揺らす木々の葉音ではない。「ヒュー」という言葉に置き換えられるようなものでもない。風の音そのものだ。
それだけではない。風が見えたこともある。正確に表現すれば、「見えたと実感できた」ということだ。
人はだれしも齢を重ねるとともに、感性が衰えてくる。だから風の音や姿を感じ取れなくなる。でも、それだけではない。「大切なもの」を失った背景には「効率化」があるような気がする。高校のバスケットボール部「体罰自殺事件」を知ったとき、唐突にこの「効率化」という言葉が浮かんだ。
てっとり早く大会で優勝するには、せいぜい1、2年の間に力を発揮できる選手がいればいい。それには「力」による強制が効率的だ。こんな思いが指導者の胸の内にあったのではないか。学校は学校で、好成績さえ残してくれる指導者がいればそれでいいと考えたのかもしれない。名声を得るためには極めて効率がいいからだ。
教育現場に「効率化」という発想は似合わない。害悪でもある。一般の授業でも部活動でも同じだ。「生きる」ということは非効率そのもの。だからこそ「生きる」ことは素敵なのである。それを学べるのが学校であるはずだ。サバンナの学校で教師も生徒もじっと耳をすます姿を思い浮かべてみた。(2013/1/18)