◆「3.11」を前に考える平凡で日常的な死◆
2013年3月6日2:34PM|カテゴリー:多角多面(発行人コラム)|北村 肇
<北村肇の「多角多面」(116)>
叔母が昨年末、逝った。母親が8年前、養父は9年前にみまかった。生者より死者との対話が多くなる地点に立ったと実感する。若いころには想像できなかった、というより見て見ぬふりをしていた「死」が、存外、日常性をまとった平凡とも言えるものであることに、ようよう気づいたわけだ。
冷静に考えれば、死は生の何層倍か豊穣な世界であることに思いいたる。何しろ親族に限らず無数の死者が私の中に息づいている。その意味で死者は無に帰さないのだから、単純にその数は生者をはるかに凌駕する。「いま」は、計数不能な死者の存在のもとに成り立っているのだ。
人間は大きなしかも本質的な間違いを犯してきたのではないか。生と死が不連続であるとの思い込みである。此岸と彼岸は決して断絶していないのに、死を別の世界に追いやった。その結果、いまの世においてのみ責任を果たせばいいのだという風潮が社会を厚く覆った。死後など知ったことではない、社会は生者のものなのだ――。
東日本大震災で亡くなった人々、核実験の死の灰で亡くなった人々、先の大戦で亡くなった人々。福祉政策が崩壊する中で餓死に追い込まれた人々。不自然死により「過去の人」となった方々のさんざめきが聞こえたとき、「過去の人」は私にとって生者になる。彼ら、彼女らの語りかけ、それは私には「一人の例外なく自然死を迎えられる社会の希求」に聞こえてならない。
福島原発事故からまもなく2年。安倍政権はしゃにむに「原発維持」に向かって暴走する。日米首脳会談で、オバマ大統領に「原発ゼロ政策は見直す」と胸を張ったといわれる。福島県の調査で甲状腺がんの患者と疑いの濃厚な人が10人見つかった。氷山の一角だろう。被害が顕在化するのはこれからだ。なのに、被災者の救済は一向に進まない。これらを眼前にしたとき、棄民政策という言葉しか浮かばない。
さらには、集団的自衛権を認め、憲法改正により国防軍創設をもくろむ。生活保護費を削減する。一部の政治家や官僚、経済人、さらにはマスコミ人には、生者たる死者の声が聞こえないのだろう。いな、聞くことを恐れて耳を塞いでいるのかもしれない。
死者、とりわけ不自然死による死者を「無」として扱う社会に希望をたたえた未来はない。生者たる生者だけではなく、生者たる死者の声に耳を傾けたい。(2013/3/8)