◆顔は心で見る◆
2013年3月28日2:22PM|カテゴリー:多角多面(発行人コラム)|北村 肇
〈北村肇の「多角多面」(119)〉
自分の顔を見るのはどのくらいだろう。せいぜい1日に10回程度。これが他者の顔となると数え切れないほど見ている。なぜ、自分の顔を見られるような位置に目はついていないのか。顔は見るものではなく見せるもの。だから、人はいろいろと顔に細工をしたりするのかなと、思ったりもする。
でも、人間がきわめて機能的にできていることを考えると、少し変だ。確かに顔は見せるもの。が、絶えず自分の顔を見ることができるようにしておけば、対人関係でもプラスに働くだろう。
実は、自分の顔は目ではなく心で見るものではないのか。だから、別に鏡などなくともいつだって見ることができた。ところが、他者への関心が増えていくうちに、他者の目に自分がどう映っているのかが気になり、相手の目の中の自分を自分として見るようになってしまった。そして、いつしか本当の自分の顔を見る力を失ってしまった――。そんな気がしてならない。
そもそも顔は固定した物体としてそこにあるわけではない。生きている人間の内奥から絶え間なく生み出される「何か」が瞬間、瞬間、つくりあげていくものだ。その動きや流れを目で見るのは至難のわざだろう。でも、心なら見える。
だとすれば、他者の顔も本来、目で見るものではない。かりに目で見たとしても、その信号をもとに心で見なくては、本物の顔は見えないはずだ。
「心眼」という言葉を、生きていく日々の辞書に改めて書きとめる。まずは自分の顔を心で見つめることを日課にしなくてはならない。引きつってはいないか、おもねった笑いではないか、小心な怒りを見せてはいないか、歪んだ涙を流してはいないか……。それから今度は、他者の顔を心で見る。
テレビを捨ててから長い時間がたつ。もっぱら重宝しているのはラジオだ。声こそ心眼で「見る」しかない。慣れてくると、たとえば政治家の虚言や自信のない顔が見えてくる。就任当時の安倍晋三首相から感じ取れたのは「とまどい」だった。ああ、この人は総理になる気がなかったのだなとわかった。最近は高揚感が滲み出ている。ただし、それは揺るぎないといった感じではない。いかにも浮ついている。根っこがないのだ。どんなに支持率が上がろうと、安倍政権は長続きしないだろうと思う所以である。(2013/3/29)