◆被害者を生まない「罪」は「罪」なのか◆
2013年4月10日2:34PM|カテゴリー:多角多面(発行人コラム)|北村 肇
〈北村肇の「多角多面」(121〉
パチンコをしている生活保護者を見かけた市民は通報しなくてはならない。おぞましい限りの条例が兵庫県小野市でつくられた。監視社会ここに極まれりといったところだ。同時に「罪とは何か」についても頭をめぐらせた。
ケン・ローチ監督の「天使の分け前」を観た(一般公開は4月13日予定)。今回はコメディータッチの作品だ。ワルだけど憎めない4人組が一世一代の盗みをはたらく。その行為自体は「罪」だが、不幸になる被害者は一人も存在せず、逆に何人もが幸福になる。これ以上のストーリー紹介は無粋になるのでやめよう。
前作の「ルート・アイリッシュ」はイラク戦争の戦争請負企業・戦士に焦点を当てたものだ。権力の罪が個人の罪を誘発する悲劇を描いた作品は重厚に仕上がっていた。ケン・ローチ監督は意識的に二つの作品を続けて撮ったのだろう。
形式的には罪でも実質的には罪ではない。実質的には罪でも形式的には罪とされない。この矛盾が社会の隅々にまで紙魚のようにへばりついている。社会派として広く認知された監督のメッセージ、それは「罪とは何かを考えよう」であったように思う。
生活保護を受けている人が息抜きにパチンコをするのが罪なら、その被害者はどこに存在するのか。仮に、税金の無駄遣いで納税者が被害者というのなら、比較にならないほどの無駄遣いをいくらでも例示することができる。
かつて何人かの生活保護者に取材した。彼/彼女に共通していたのは「罪の意識」だ。そんなことはないと記者の私が強調したところで、それは心に響くものではない。どうしたって高見からのきれいごと発言でしかないからだ。
さまざまな事情で働きたくても働けない。そんなとき、税金から支援を受けるのは当然の権利である。しかし、実際に保護を受ける立場の人にとり、それは屈辱であったり罪であったりする。この柔らかで傷つきやすい心に塩を塗る、そんな行為こそが確実に不幸な被害者を生む罪であろう。
本当に断罪すべき罪は、生活保護者を生んでいる社会そのものにある。さらに言えば、憲法25条を具現化できない統治権力者こそ真の罪人だ。そして絶えず心に留めておこう。弱者に弱者批判をさせるのが、いつの時代も彼らの手口であることを。(2013/4/12)