きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

「日本維新の会」と大手紙の報道

<北村肇の「多角多面」(94)>
「大阪維新の会」が「日本維新の会」へと変貌し国政に打って出る。満面笑みの橋下徹氏の映像を見るたびに、この国の行く末にざらついた不安を感じる。基本政策である「維新八策」はスローガンの羅列で、具体性も一貫性も見られない。ただ一点、「弱肉強食」の社会にしたいとのメッセージだけがあからさまになっている。もし同党が永田町の中心勢力になれば、貧困・格差問題はますます深刻になるだろう。

 多くの人が指摘するように、橋下氏の主張は「小泉純一郎、竹中平蔵路線」をなぞったものだ。そこに一層のタカ派的スパイスをふりかけた。「富国強兵」、「欲しがりません、勝つまでは」、「期待される人間像」……時代錯誤の言葉がしきりと頭に浮かぶ。「自己責任」とか「努力」とか言うが、現代社会において、必ずしも自己の努力により報われるわけではない。そもそも社会に不平等が横溢している中では、努力なしに生活できる者もいれば、逆の場合もあるのだ。「期待されない人間」は排除するという恫喝は許せない。

 自己責任を成り立たせるには、最低限、社会保障の充実や富裕層優遇の税制改定などが欠かせない。条件の違う中で競争しろと命じるのは理不尽である。そんなことがまかり通るなら、結局のところ、出自も健康状態も良く能力の高い者だけに生きる資格があるという、とんでもない社会が生まれる。

 本来、マスメディアはこうした本質的な問題をとらえ、報じるべきだ。ところが、だれが橋下氏と手を結ぶのか、「維新の会」は来たる総選挙で何議席を獲得するのかという話題ばかりで、そのことが結果として橋下ブームを生んだのは否めない。

 ただ、「日本維新の会」船出のときの新聞報道は興味深かった。最も辛辣だったのは『読売新聞』だ。社説で「侮れない政治勢力なりつつあるが、政策も運営体制も急ごしらえの感は否めない」と書き、さらに編集委員の署名記事で「小泉旋風や政権交代ムードで議席が激変した2005年、09年の衆院選後の混乱から学んだことは、気分や空気で政権選択を行う危うさだ」と指摘した。渡邊恒雄氏はかねがね橋下氏に警戒感を抱く発言をしており、その延長線ではある。一方、『朝日新聞』、『毎日新聞』はいかにもそっけない扱いだった。少なくとも、「橋下氏ヨイショ」の印象を避けたとみられる。
 
 それぞれ思惑があるのだろうが、三大紙がこぞって橋下新党から距離をおく記事を書いた意味は小さくない。もしその姿勢が続くなら、選挙が先に延びるほど新党の勢いに陰りの出ることが予想されるからだ。(2012/9/21)

消費増税でほくそえんでいるのは誰だ

<北村肇の「多角多面」番外編>
 6月26日、消費税関連8法案が衆院本会議で可決された。見事な筋書きだ。民主、自民、公明の大連立、小沢・鳩山の放逐――。シナリオライターはだれなのか。いま、それだけの「力」のある議員は見あたらない。そして、一つ言えるのは、この事態に快哉を叫んだのは、霞ヶ関官僚、経済界、そして米国ということだ。
 
 流れを追ってみよう。
▼民主党が政権奪取▼鳩山首相、小沢一郎氏とも「政治主導」「米国からの自立」を掲げる▼霞ヶ関官僚、米国は苦々しく思う▼鳩山首相は金銭疑惑で失脚▼小沢氏も検察の狙い撃ちで蟄居を余儀なくされる▼菅直人氏が首相就任▼新首相は原発輸出、TPPに前向き。米国のうけはまずまず▼さらに、消費税増税に触れるなど、財務省の思惑にも乗る▼だが、東日本大震災発生後、菅氏は「脱原発」を表明▼財界、財務省、経産省は菅氏に反旗▼民主、自民の一部ばかりかマスメディアも「菅降ろし」に走る▼「ポスト菅」は予想に反し野田氏に▼財務省の一押しは野田氏▼自民、公明の中でも野田氏の評価は高かった▼野田首相はマニフェストを捨て去り、消費増税に「政治生命」をかける▼「大阪維新の会」躍進で、民主、自民とも警戒感▼「消費増税実現、大飯原発再稼働には大連立が一番の早道」と手打ち▼「大連立」は増税路線、原発温存、日米同盟強化につながるばかりか、「小沢・鳩山」という小骨を抜くこともできる▼一石四鳥を喜ぶ霞ヶ関官僚、財界、米国――。

 こうしてみると、シナリオライターは官僚としか思えない。財務省が中心となり、外務、経産、法務も加わる。相当な知恵者の集団が、国会議員だけではなく、財界やマスメディアをも利用する。背後には米国の意志が存在する――戦後、一貫して続いてきた風景が既視感とともに見えてくる。結局、この国における統治権力の図式は何も変わっていないのだ。民主党政権誕生時から、「脱官僚」を許すまいとあの手この手で動き回った官僚の「勝利」を認めざるをえない。

 しかし、「3.11」後、明らかに社会は変化した。原子力ムラに象徴される「勝ち組グループ」への怒りが静かにたまりつつある。永田町や霞ヶ関がそのことに気づかない、あるいは過小評価しているのなら、必ずしっぺ返しをくうだろう。「6.26」は霞ヶ関官僚と彼らに踊らされる政治家らの「最後の勝利」になるかもしれない。

 フランスから独立したアルジェリアの戦いは、戦闘部隊が事実上、壊滅した後、無数の市民が澎湃として立ち上がったことによって勝利に導かれた。日本の主権者は市民だ。「紫陽花革命」の足音が聞こえる。(2012/6/27)

2012年の鍵となる言葉(5)「地域政党」

<北村肇の「多角多面」(64)>
 いたずら坊やにしか見えない。いくら背伸びしたって大人の政治家になれるわけがない――。橋下徹大阪市長に対する私の評価はまったく変わっていない。だが、現実には、あっという間に権力者になりつつある。なぜか。本人ではなく周りが変わったからだ。

 民主党、自民党は、「地域政党」の風に吹き飛ばされる強い危機感をもつ。たとえ有象無象の候補者であろうと、「大阪維新の会」や「減税日本」の看板を背負っただけで大量の票を獲得するのではないかと。大いにそれはありうる。「小泉郵政選挙」のときも「民主党圧勝選挙」のときも、何の実績もない候補者が続々、当選したのだから。そこで、支持率の低迷する両党は、橋下氏にすりよるしかないと方針を転換した。さらには、野田政権に批判的な小沢一郎氏や「石原新党」も、橋下氏との連携に色気をみせている。要するに、周りが勝手に“大物”にまつりあげてしまったのだ。

 ところで、地域政党の定義とは何だろう。公職選挙法による政党要件は「国会議員5人以上」ないし「直近の国政選挙で有効投票の2%以上の得票を獲得」。これにあてはまるのは、鈴木宗男氏が北海道で立ち上げた「新党大地」(現在は「新党大地・真民主」)のみだ。同党以外に国会で議席をもっているのも沖縄社会大衆党しかない。後は、地域の県議会や市町村議会で活動する議員の組織だ。55年体制以降、「自民・社会」「自民・民主」の二大政党制は盤石であり、地域政党が国会に足場を持つ余地はなかった。だから、明確な定義もされてこなかったのであろう。

 では、果たして橋下ブームや河村たかしブームにより、永田町の構造は大転換するのか。私は、それほど単純ではないと思う。既成政党の狙いは所詮、政権維持や政権奪取であり、「地方の自立」をまともに考えているわけではない。仮に「大阪維新の会」や「減税日本」と連立政権を組むことになれば、政権をとった後に、じわじわとその力を削いでいくはずだ。第二の社会党にしてしまおうとの魂胆である。

 もし、橋下氏の「力」が異様に肥大化した場合はどうか。民自は大連立に走る可能性がある。その場合、年内解散はない。1年もたてば「地域政党」ブームは去るだろうとの計算が働くからだ。いずれにしても、民自両党にとって橋下氏は使い捨てカイロでしかない。ただ、忘れてならないのは、既得権者への怒りには、「東京一極集中」への不満があるということだ。その怒りをバネに、全国で「第二の橋下、河村」が誕生する余地はある。これは、民主主義の成熟なのか退廃なのか。いまのところ正答はないが、地域政党の伸張を橋下氏のキャラクターに収斂してしまっては、本質を見失う。(2012/2/10)

2012年の鍵となる言葉(3)「引き下げデモクラシー」

<北村肇の「多角多面」(62)>
 本誌合併号(2011年12月23日、12年1月6日号)で、中島岳志編集委員は「大阪W選挙での大阪維新の会の勝利は、二つの社会的心性に依拠している」としたうえで、次のように分析している。

「一つ目は『リア充』批判。『リア充』とは『リアルな生活が充実している』ことを意味するインターネット用語で、ネット上の掲示板には、現実生活に不満を持つ人間による『リア充批判』が溢れかえっている。このリア充批判は、丸山眞男のいう『引き下げデモクラシー』と通じる。自分たちより恵まれた立場の人たちを引きずり下ろすことに溜飲を下げ、その実現に執着心を強めるあり方は、まさに橋下氏の提示する政策と合致する」

 雨宮処凛さんや湯浅誠さんが進めてきたプレカリアート運動は、「貧困・格差」は構造的な問題だと鋭く指摘した。新自由主義は必然的に「1%」が「99%」を支配する構造をつくる。だから、既成の労働組合を既得権者として批判するだけではだめで、政策を変えさせなくては根本的な解決にはならない。ここ数年、こうした主張はかなり広がった。だが一方で「引き下げデモクラシー」の傾向もますます顕著になっているのだ。

 なぜなのか。あえて言えば、“知的エリート”が放つ言葉に力がないということだ。丸山眞男の「『文明論之概略』を読む」(岩波新書 1986年)はいつ読んだのかさえ忘れてしまったが、彼の造語である「引き下げデモクラシー」には、向上心をもたない庶民への慨嘆が含まれていたような記憶がある。そこに「大衆の上に立った」姿勢を見て違和感があった。知的エリートの考える「向上」とは、つまるところ「知的向上」であろう。大衆はその努力をしていない、だから「真の敵」が見えないという解釈では、エリートにとっては虚無的な世界である「衆愚社会」に行き着くしかない。

 反省すべきは、大衆ではなくエリートの側ではないのか。民衆の「頭」ではなく「心」を揺さぶる言葉をもちえなかったことを自省すべきではないのか。かつて竹中労は、『資本論』より美空ひばりの歌が大衆を動かす現実を論理的かつ情緒的に描いた。しかし、彼の作品もまた、ひばりの歌ほどには大衆を動かすことはなかった。この皮肉をいかに乗り越えればいいのか。私も含め、少なくとも活字で意思表明する場をもつすべての人間は、大衆批判をした途端に、それこそが「引き下げデモクラシー」になってしまうことを認識すべきだ。知的エリートの心の奥底には、「何も考えずに生きていられる<ように見える>」大衆に対する嫉妬心がある。その歪んだ心性から脱却しない限り、大衆と手を携え「真の敵」を倒すことはできない。(2012/1/27)