きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

◆エセ強者に負けるわけにはいかない◆

<北村肇の「多角多面」(108)>
 暗澹、混迷、絶望……新年になると決まって後ろ向きの言葉が頭をよぎる。そして、自分を激励する。あきらめるな、前を向け、進め! いつからこんなことになったのか。それすら、もう忘れた。

 でも、今年はかなり違う。細胞のひとつひとつにやる気の炎が宿っている。何しろ、例を見ないタカ派政権とそれをささえるいくつかの政党が国会を牛耳っているのだ。放っておいたらこの国は「茶色の朝」を迎えることになる。ここで声をあげずにいつあげるのか。

 正念場の戦いで勝利するためには、まず「敵」を知らなくてはならない。とともに、「敵」に一票を入れた有権者の心の中をのぞかなくてはならない。カギになる言葉は「衰弱」だ。

 安倍晋三、石原慎太郎、橋下徹の三氏に共通するのは「強さ」と言われる。小泉純一郎氏もそうだった。猪瀬直樹氏も同類か。もちろん、彼らの「強さ」は見せかけだ。そして実は、ニセモノだからこそ多くの市民にうけたのである。

 年代、性別を問わず現代人の多くは衰弱している。心が疲れたときは、イライラするし誰かにあたりたくなる。精神的疲労に追い込まれるとつい怒鳴ったり叫んだりしてしまう経験はだれもがもっているだろう。しかし、とことん衰弱するとその気力さえも失われる。そんなときにエセ強者の言葉が内面に届いてしまうのだ。

 石原氏らの特徴は「自分で考えろ」と言わないことだ。「気に入らないヤツをオレがやっつけてやる。黙ってついて来い」と叫ぶだけだ。弱り切った人にはそれが心地よく響く。真の強者、つまりやさしさと人権感覚を持ち合わせた人間は、一方的に「引き上げてあげる」とは言わない。自分で考え、自分の足で立ち上がれるように支え、見守り、言葉を掛ける。残念なことに、そうした姿勢は「偉そうなエリート」と見られがちだ。まともな言葉はときとして、うざったい対象になる。これは私自身の反省でもある。正論を述べるばかりで、本当に弱った人への寄り添いがかけていたのではないかと。

 ではどうしたらいいのだろう。一つ提案したい。気力がある人は、身の回りの衰弱した人々の手を握ろう。肩を抱こう。そして、その温かみで凍えきった心がぬくみ始めたら、「一緒に歩きませんか。あの明かりを目指して」と囁こう。血の通わないまがまがしい言葉に勝つには、人間らしいおだやかな鼓動と体温が一番だ。まどろっこしいかもしれない。でも、ささやかな実践こそ大きな力を生む。(2013/1/11)

「日本維新の会」と大手紙の報道

<北村肇の「多角多面」(94)>
「大阪維新の会」が「日本維新の会」へと変貌し国政に打って出る。満面笑みの橋下徹氏の映像を見るたびに、この国の行く末にざらついた不安を感じる。基本政策である「維新八策」はスローガンの羅列で、具体性も一貫性も見られない。ただ一点、「弱肉強食」の社会にしたいとのメッセージだけがあからさまになっている。もし同党が永田町の中心勢力になれば、貧困・格差問題はますます深刻になるだろう。

 多くの人が指摘するように、橋下氏の主張は「小泉純一郎、竹中平蔵路線」をなぞったものだ。そこに一層のタカ派的スパイスをふりかけた。「富国強兵」、「欲しがりません、勝つまでは」、「期待される人間像」……時代錯誤の言葉がしきりと頭に浮かぶ。「自己責任」とか「努力」とか言うが、現代社会において、必ずしも自己の努力により報われるわけではない。そもそも社会に不平等が横溢している中では、努力なしに生活できる者もいれば、逆の場合もあるのだ。「期待されない人間」は排除するという恫喝は許せない。

 自己責任を成り立たせるには、最低限、社会保障の充実や富裕層優遇の税制改定などが欠かせない。条件の違う中で競争しろと命じるのは理不尽である。そんなことがまかり通るなら、結局のところ、出自も健康状態も良く能力の高い者だけに生きる資格があるという、とんでもない社会が生まれる。

 本来、マスメディアはこうした本質的な問題をとらえ、報じるべきだ。ところが、だれが橋下氏と手を結ぶのか、「維新の会」は来たる総選挙で何議席を獲得するのかという話題ばかりで、そのことが結果として橋下ブームを生んだのは否めない。

 ただ、「日本維新の会」船出のときの新聞報道は興味深かった。最も辛辣だったのは『読売新聞』だ。社説で「侮れない政治勢力なりつつあるが、政策も運営体制も急ごしらえの感は否めない」と書き、さらに編集委員の署名記事で「小泉旋風や政権交代ムードで議席が激変した2005年、09年の衆院選後の混乱から学んだことは、気分や空気で政権選択を行う危うさだ」と指摘した。渡邊恒雄氏はかねがね橋下氏に警戒感を抱く発言をしており、その延長線ではある。一方、『朝日新聞』、『毎日新聞』はいかにもそっけない扱いだった。少なくとも、「橋下氏ヨイショ」の印象を避けたとみられる。
 
 それぞれ思惑があるのだろうが、三大紙がこぞって橋下新党から距離をおく記事を書いた意味は小さくない。もしその姿勢が続くなら、選挙が先に延びるほど新党の勢いに陰りの出ることが予想されるからだ。(2012/9/21)

橋下徹大阪市長の怖さは「真空」にある

<北村肇の「多角多面」(83)>
橋下徹大阪市長の怖さは「真空」にある

 橋下徹大阪市長に対する評価に「いい加減」がある。確かに言動をみていると、一貫性に欠け、筋の通った柱もない。実は、橋下氏の怖さはそこにある。

 橋下氏は時に、小泉純一郎氏と同列に論じられる。一見、怖い者知らずの「歯切れの良さ」が重なるからだろう。ただし、それは「開き直り方」のうまさでしかない。小泉氏の有名な言葉「人生いろいろ、会社もいろいろ」はその典型だった。窮地に追い込まれると、わけのわからないことを堂々と宣言することで煙に巻く。この点では、まさに天才的だった。一方の橋下氏も「脱原発」の大見得を切ったかと思うと、急転、「市民のために大飯原発再稼働はやむなし」と掌を返す。見事なまでの変身ぶりだ。

 彼らはなぜ、かくもいい加減になれるのか。しかも、そのことが政治生命の死につながらないのか。理由は、二人とも「真空」だからだ。何もない、だからどんな色にも染まる、大衆の空気を読みいくらでも路線を変えられる。この可塑性の強い「いい加減さ」こそ、強さの源なのだ。

 言うまでもなく、真に強い人間は「筋」を曲げない。だが、社会が歪んでくると、それが徒になることがある。強い人間の足を引っ張ることで自分を強く見せる。そうした思惑のある人間が大挙して「筋」を崩しにかかる。いい加減な人間なら、たまらず「筋」をぐにゃりとさせて凌ぐかもしれない。しかし、自分の考えをしっかりと持った人は、何としても耐えようとする。その結果、残念ながら、ポキリと折れてしまうことがある。

 一貫性も柱もなく、どんなことでも吸い込んでしまう「真空」人間は、何があろうと折れることはない。だから、ある意味で強いのだ。こうしたいびつな強靱さの危険は、毒を飲み込んだときに、恥も外聞も良心もなくまき散らすことにある。

 仮に新自由主義の亡者たちが橋下氏の中に入り込んだらどうなるか。彼らの声を「歯切れ良く」代弁する。力強く、堂々と、自信満々に。一片の良心でもあれば、どこか後ろめたさが出るものだが、「真空」人間にはそれがない。だから、閉塞状況にあえぐ社会では聴く者の多くが知らぬ間に洗脳されてしまうのだ。

 橋下氏は社会の鏡である。意図的に「敵」をつくっては叩く。そんな手法を用いる彼がカリスマになる背後には社会の歪みがある。このことを踏まえたうえで、さまざまな角度から、橋下氏を徹底批判していかなければならない。(2012/6/29)

「良識」ある民主党議員は党を出るべきだ

<北村肇の「多角多面」(82)>

 どんよりとした空気に息苦しい。梅雨入りのせいではない。あまりにも厚顔で、あまりにも愚鈍で、あまりにも人権感覚のない人間が放つ言葉が、大気を汚しているのだ。小泉純一郎氏のときも、安倍晋三氏のときも「最悪の時に最悪の首相」という表現をした。だが、野田佳彦首相はその二人をも超えている。考えたくはないが、もはや日本は引き返すことのできない奈落に入り込んでしまったのかもしれない。

 消費税増税は本来、自公政権時代の「マニフェスト」であり、民主党は「増税の前に行政改革」を訴えて政権の座についた。それがいつの間にか逆転していたこと自体、ありうべからざることだったのに、野田首相は増税に「政治生命を賭けて」しまった。この段階でその厚顔ぶりにあんぐりしていたら、法案の先行きが不透明になると、今度はもともとのマニフェストをかなぐり捨てて自公に寄り添うという、空前絶後の有権者無視に踏み切った。

 以前から気になっていたのだが、野田首相の目は絶えず泳いでいる。国会での答弁も記者会見でもそうだ。「自分」のない証拠である。財務省に何をどう吹き込まれたのかわからないが、「何が何でも増税」というミッションに踊らされているようにしか見えない。自らの政治信条、理念、理想、そしてそれらを市民に訴える「言葉」を持たない首相は愚鈍と呼ぶしかない。

 自公との“談合”が成立した翌日、間髪を入れずに大飯原発再稼働を宣言した。「国民を守るため」という、これを喜劇として何を喜劇と呼ぼうかという言辞を弄す首相の目は、相変わらず泳いでいた。財務省と二人三脚の財界にどう受け止めてもらえるかのみを考えていたのか、言葉とは裏腹に市民への愛情はおよそ感じ取れなかった。

 ここまできたら断言するしかない。民主党に政権をとらせるべきではなかった。生産性のない皮肉で口にするのも忸怩たる思いだが、民主党が野党ならここまで官僚や財界の思い通りにはならなかったはずだ。「官僚支配打破」の旗を掲げる限り、消費税増税には反対し続けるしかなかっただろう。福島原発事故に関しても、連合の顔色をうかがうことはあっても、自民党、官僚、電力会社の三位一体の癒着ぶりを追及したはずだ。そこに世論の力が加われば、自民党もおいそれと再稼働には踏み切れなかっただろう。

 この際、反増税、脱原発の議員は民主党を脱党し新党をつくるべきだ。そうすれば自民党も割れるかもしれない。このままでは、この国は窒息してしまう。(2012/6/22)

[この国のゆくえ37……勝者・橋下徹氏はいずれポイ捨てされる。問題はその後だ]

<北村肇の「多角多面」(56)>

 大阪知事選・市長選の結果に、多くの知人からいつもながらの愚痴を聞かされた。「ノックを知事にする大阪だからなあ。いやいや、東京も石原慎太郎だった。日本は終わりだ!」。その気分、よくわかる。でも、愚痴っていただけでは何も始まらない。まずは、冷静に現状を分析する必要がある。

 橋下徹氏はタレント弁護士、平松邦夫氏は元民放アナウンサー。一部のメディアは選挙前から「タレント同士の争い」と評していた。そうした一面はある。しかし、かつてNHKの宮田輝氏が浮動票をごっそり獲得したころとは意味が違う。橋下氏の最大の勝因は「テレビで有名だった」ことではない。小泉純一郎元首相のときから続いている、「既得権ぶっ壊し」路線をさらに先鋭化したことで圧勝劇は生まれたのだ。

 これまでの常識からすると、民主党、自民党が手を結べば、首長選での敗退はありえない。今回も普通に戦っていればこれほどの差は付かなかったはずだ。ところが、既成政党は、「既得権ぶっ壊し」への恐怖から、橋下氏に「強者」の幻影を見てしまった。そのため、表面的には共産党までが同じ船に乗り、水面下では一部の国会議員が橋下氏に接触するという“ねじれ”が生じた。言うまでもなく、来たる総選挙のほうが首長選より大事と考えた議員は、大阪維新の会との全面対決を避けたかったのだ。

 公明党が自主投票にしたのも、衆議院選挙を視野に入れていたからだろう。つまり、有権者の「既存政党離れ」におたおたした各政党は、「橋下氏に勝ってはほしくない。でも、敵に回したくない」と腰が定まらなかった。それでなくとも閉塞状況が続く中で変化を求めている市民が、ふらつく既存政党に魅力を感じるはずがない。

 選挙前に橋下氏の出自をめぐる醜聞が週刊誌を賑わした。結果的には橋下氏の票を増やしたのではないか。「生まれたときには人生が決まっている」社会への怒りが充満している中では、橋下氏が貶められるたびに共感が生まれていく。「独裁を許すな」キャンペーンも逆の風を吹かせた。独裁的な政治が好ましいはずはない。だが、独裁をほしいままにしてきたのは与党や経済界である。その反省もなしに橋下氏をなじっても上滑りするだけだ。

 勝者・橋下氏は、小泉氏と同様、幻影の「強者」、幻影の「弱者の味方」である。現実を動かす具体的政策や将来展望を持っているわけではない。いずれまた有権者にポイ捨てされるだろう。その先にある「深化したニヒリズム」にどう対処するのか。これこそが、すべての市民・国民に課せられた、とんでもなく重い課題である。(2011/12/2)

この国のゆくえ19……へそ曲がりは「クールビズ」の裏を考える

<北村肇の「多角多面」(38)>

 暑い。とにかく暑い。でも「スーツ・ネクタイ」をやめる気はない。猫も杓子も、クールビズ、クールビズで気持ち悪い。しっかり冷房がきいている国会内で、議員はドレスシャツを着ている。しかも似合わない。何か変だ。

 NGOの集まりで、時々、「スーツにネクタイ姿って、官僚か右翼か保守か」と揶揄される。いまどき、官僚も右翼もノーネクタイが主流だし、「保守派はネクタイ」などと凝り固まって考えるほうが、よほど保守的のように思う。

 新聞社の社会部時代、セーターにジャケット姿で出社すると、上司から「ネクタイをしろ」としつこく言われた。こうなると何が何でもスーツは着ない。しばらくやりあっていたとき、たまたま大きな事故が続いた。さすがに遺族取材にはスーツ・ネクタイが欠かせない。いざそうなると、安上がりだし便利だし、すっかり気に入ってしまった。

 時は経ち、いつしか仲間内から「『革新』を唱えるなら、資本家に首を絞められるようなネクタイはとれ」と言われることに。「関係ない」と相手にしていなかったら、突如、クールビズブームがふってわいてきた。小泉純一郎首相(元)が音頭をとるにいたっては、ますます「クールビズなどくそ食らえ」となったのは言うまでもない。

 特に福島原発事故が起きた今年は、クールビズ路線に乗らないのは「非国民」といった雰囲気だ。計画停電の脅しに乗った面も否めない。冗談ではない。だれがネクタイを外すものか――。と、いきがってみても、学生時代は「ネクタイ廃止法をつくれ」とわめいたこともある。要はへそ曲がりのなせるわざ。それは自分が一番、わかっている。

 ただ、大きなうねりが生じたとき、無自覚に流されることは避けたい。一見、本質とはかけ離れたことのようにみえて、実は深い意味を内包していることもある。「3.11」直後、政治家や官僚は作業服で会見に応じた。冷静に考えれば、何の意味もない。だが、統治権力側には意味がある。戦争時に軍服を着ることと同種だ。「緊急時には挙国一致が重要。国民は国家の指示に従ってほしい」との意思表示である。

 電力不足が政治問題になると、作業服は一斉にクールビズのドレスシャツへと変わった。へそ曲がりの私は、ここにもまた「挙国一致」の思惑があるのではないかと疑心暗鬼に陥るのだ。さらには、皇室のたび重なる被災地訪問との関連もついつい考える。考えていくうちに、ひんやりしてくる。これぞ猛暑の乗り切り策か。(2011/7/15)

「日本を何とかしよう」対談第5弾

縦横無尽に政界の現状を語る渡部恒三さん。(衆議院第2議員会館の事務所)

縦横無尽に政界の現状を語る渡部恒三さん。(衆議院第2議員会館の事務所)

 好評連載中の佐高信編集委員対談「日本を何とかしよう」、12月18日発売号掲載の第5弾では、渡部恒三・民主党前最高顧問に登場していただきます。

 政治活動50年の経験を誇り、「落選と首相以外はすべて経験した」と語る政界ご意見番は、いまの連立政権の現状をどう考えているのか。普天間飛行場移設問題は? 八ッ場ダムの中止の是非は? 早稲田大学在学中に石橋湛山の選挙を手伝った秘話をはじめ、縦横無尽に政界を語る、渡部「黄門様」にご期待ください。

 12月18日の発売を楽しみにしていただければ幸いです。