尖閣問題を「情動」と「情動」のぶつかりあいにしてはならない
2012年9月26日4:59PM|カテゴリー:多角多面(発行人コラム)|北村 肇
<北村肇の「多角多面」(95)>
政治は理性によって生まれるのか、それとも情動によってか。意見の分かれるところだが、もし理性が政治を生むのなら、政治そのものが消滅するのかもしれない。理性がすべてを決定するのなら、理性をもった民衆には法も規則も必要ないからだ。では、理性が政治を統御することは不可能なのか。必ずしもそうは思わない。少なくとも、人間には情動と理性をつなぐ知恵があると信じる。
尖閣諸島(釣魚島)問題に端を発した中国の「反日運動」は、幾分かの政治的な思惑はあるにせよ、民衆の情動が突き動かしているのは疑いようがない。その中には貧困・格差問題があり政府への不満も含まれているのだろう。報道を見る限り、うっぷん晴らし的な雰囲気を感じる。だから、中国政府も政府批判に発展しないよう、対応に苦慮している。しかし、やはり根底にあるのは「傲慢な日本」に対する情動としての怒りであり、そのことから日本が目を逸らす限り、この問題の収束は難しい。
アジア・太平洋戦争が侵略戦争である史実はいまさら確認することではない。歴史の断面を切り取ってそれを否定する人たちもいるが、本質をごまかしているにすぎない。尖閣領有は日本の帝国主義的野望の中で生じたのであり、中国で起きている動きはこのことを抜きにして語ることはできない。
いま、日本、日本人に求められるのは、中国の怒りを頭ではなく心で受け止めることだ。13億人の人々がこぞって「反日」であるはずはない。だが、人数や割合を持ち出すのは意味がない。日本が正式な、かつ心からの謝罪をしないまま過ごしてきた戦後の歴史に対し多くの人が怒っている、その事実が重要なのだ。
足を踏んだ者は踏まれた者の痛みがわからないと言われる。しかし、加害者が被害者の痛みをそっくり自分のものとすることは不可能だし、かえって不遜な態度にも思える。重要なのは、自分が加害者の一員であると自覚することだ。その上で、自分が被害者の立場だったらどうかと、可能な限り想像することだ。
領土問題はこれまで何度か触れたように、ゼロサムゲームではない。お互いに冷静に知恵を出し合い話し合って決着点を導くべきだ。だが、その前段として情動という峻厳を超えなければならない。だから、まずは、領土問題が戦争責任をあいまいにしてきたツケであることをしっかりと認識すべきだ。真摯な姿勢を見せることなく「情動には情動で」の対応をするなら、どんな悲劇が待ち受けているかわからない。(2012/9/28)