「子どもへの虐待」の背景には、現実と仮想の逆転があるのではないか
2012年10月11日11:56AM|カテゴリー:多角多面(発行人コラム)|北村 肇
<北村肇の「多角多面」(97)>
一時、「ゲーム脳」が話題になった。科学的な裏付けに乏しく、いまはほとんど死語のようだが、一方で、電車内でスマホのゲームに興じる人は増えるばかり。しかも、若者だけではなく中年でもちらほら見かける。私のように、相も変わらず単行本か雑誌を読んでいるのは間違いなく少数派だ。
個人的には、電子機器によるゲームが人間の脳を激しく毀損するとは思わない。インベーダーゲームが爆発的なブームになったのは1970年代半ばから後半。私の周辺でも中毒者が山のようにいた。それから40年近く。身の回りに「インベーダー症候群」らしき人はいない。もちろん、「それによって勉強がおろそかになった」といった例は除く。
むしろ、精神面への影響で不安なのは、インターネットによる仮想空間そのものだ。現実(リアル)と仮想(バーチャル)の境目がわからなくなる危機感に関しては、多くの言説がある。私的体験で言えば、新聞記者時代、自殺取材の過程で、子どもたちの中に「リセット発想」のあることに愕然とした。「一度死んで、また生まれ変わればいい」――。ただ、正直、さほどの深刻さをもっては受け止めなかった。大人が何とかする、何とかできると考えていたからだ。しかし、それはあまりに楽観的すぎたのかもしれない。
最近、子どもに対する虐待事件が絶えない。報道に接するたびに、リアルな世界を見失っていたのは、実は大人の方ではなかったのかと考えてしまう。子どもは親にとって文字通りの分身であり、現実そのものだ。その子どもを虐待し命すら奪ってしまうのは、人間存在自体をバーチャルな空間でとらえているからではないのか。つまり<実感>は仮想空間においてのみ存在する。だから、現実空間での非人間的な行為に<実感>は欠落している。むろん、虐待問題をとらえるとき、社会保障の不備や新自由主義のもたらす格差・貧困問題を捨象するわけにはいかない。しかし、そこにとどまらない気がするのだ
秋葉原事件の加藤智大被告は、ネット上でのなりすましに対する怒りが犯行動機だったとされる。彼にとって、現実で人を殺害することはある意味でバーチャルであり、ネット空間のなりすましに対する警告こそがリアルだったのだ。
われわれが体感できる現実はそう多くはない。一方、インターネット空間は無限である。この無限の空間では、あらゆる情報を入手できるだけでなく、自分でない自分として情報を発信できる。そこでは、現実と仮想の関係は混在ではなく逆転に進もうとしているのではないか。それから先の世界を私にはまだ想像ができない。(2012/10/12)