「安保法制」はおかしいです。(3)
2015年7月13日12:16PM
「飛んできた爆弾で、隣にいた人は吹っ飛んじまったんだ」
「空襲でこの辺りは全部焼けてしまって、遠くの駅がここから見えたんだよ」
「あんな大きな国と戦争をして、勝てるはずがないと思ったね」
他界した祖父母の顔が目に浮かぶ。しかし、私が受け継いだ戦争体験は、実際にはごく限られた一部にすぎない。昔のつらい経験を、あえて聞くことができなかったし、祖父母もすすんで話してくれたわけではなかった。
だからこそ、私たちの世代にとって、戦争とは歴史上の話でしかなく、現実感のないできごとになってしまっているのではないか。そしてそれが、現在の政治状況をもたらしているのではないか。
このままで本当にいいのだろうか。自分の思いを形にすることが、社会を変える一歩であると考え、私は安保法制に反対するデモや集会に、何度も足を運んだ。
「デモや集会に行って何になるの?」
たしかに何万人が集会に参加し、国会を包囲し、デモで訴えようとも、限られた影響しか与えられないのかもしれない。私も諦念と無力感に苛まれている。冷笑する同世代の友人は少なくないが、そうした「傍観者」的姿勢こそが、今の政権を支え、勢いづかせているのではないか。
そう考えると、「傍観者」たちを巻き込んでいくことは、残されている可能性のひとつであるようにも思われる。まだまだできることはある。
このままでは祖父母に合わす顔がない。安保法制が成立し、いよいよ日本が戦争をする立場になったとき、祖父母は私に何と言うだろうか。
(藤田裕喜、7月3日号)