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第27回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」佳作入選作

「南国の霧ーバナナ農園農薬空中散布・闘いの記録」

加藤昌平・新聞記者

かとう しょうへい。立命館大学卒業後、フィリピンのNGO団体で働く。その後、日本の会社を経て、2013年からフィリピンの日本語新聞『日刊まにら新聞』の記者。

(あらすじ)
広大なバナナ農園の上空をセスナ機が飛び過ぎ、農薬の雨が降り注ぐ。
フィリピンにあるミンダナオ島の小さな町で健康被害が続出。被害は農薬の空中散布が日常的に行なわれる、バナナ農園の周辺で発生していた。住民たちの訴えを聞き、町の教会が反対運動に立ちあがる。
話しを聞きつけた筆者は現地に向かうが、取材の過程で困難な壁に直面する。空中散布された農薬と健康被害との間に科学的な因果関係を証明することは難しい。しかも、相手は日本の大手農業会社。どう取材を進めれば良いか、手探りの状態が続いた。
そんな中、根強く反対運動を展開していた住民グループも次第に追い詰められ、希望が失望に変わっていく。
1980年代に、鶴見良行による著作『バナナと日本人―フィリピン農園と食卓のあいだ―』が農園労働者の過酷な労働環境を指摘して以降、フィリピンのバナナ農園は世間の注目を浴びた。
いつしかその関心も薄れ、今や日本から遠い土地の問題は忘れ去られようとしている。しかし、現在も不公平な労働環境が改善されたわけではない。農薬空中散布の反対運動グループに接近し、健康被害を訴える住民たちや、現役の農園労働者、突然歩けなくなり車いす状態になった元農薬散布担当者らの話を聞く中で、筆者は今まさに現場で起きている問題に気付き始める。
空中散布を現場で見るため農園労働者の村に入り込み、多国籍企業による農園経営が、土地の人々から生活の選択肢を奪っている現状をも目の当たりにした。
一方、取材を進めていく中で、筆者は日本で起きている深刻な農薬問題にも気付き始めていった。
やがて、バナナ農園をめぐる多国籍企業と地元住民の対立は地元自治体の首長選挙に舞台を移し、悲劇的な結末に向かっていく。(了)

(以下本文)
2016年6月30日、一人の神父が挫折とともに教会を去った。
目もくらむほどにまぶしい太陽が中天に上り、土埃舞うアスファルトの路上をぎらぎらと焼く。そんなフィリピンの田舎町だった。
教会を去る3週間前、神父は新訳聖書のある節を大きく引き延ばし、布に書き写して聖堂の壁に貼り付けた。そこに、配属されてからこの教会で過ごした3年間の思いをすべて注ぎ込んだ。
『新約聖書』コリント人への第一の手紙4章12・13節。そこにはこう書かれている。

苦労して自分の手で働いている。
はずかしめられては祝福し、
迫害されては耐え忍び、
ののしられては
優しい言葉をかけている。
わたしたちは今に至るまで、この世のちりのように、
人間のくずのようにされている。

この3年間、神父は必死に闘った。何度かの期待と失望を繰り返し、それでも希望を失わずにこれまでやってきた。しかし、それも最後には折れてしまった。
神父が教会を去る理由は、その町で過ごす任期を終えたからだ。カトリック教会所属の神父は、原則3年ごとに任地を替える。一カ所にとどまることはなく、その一生をさまざまな土地に移り住みながら過ごすのだ。
一緒に闘った住民たちは神父の任期延長を教会本部に訴えた。しかし、教会はそれを認めなかった。神父も延長を望まなかった。
「3年という期間は十分だ。もう移動したい」
引き止める住民たちに神父はそう胸の内を吐露したという。
神父の気持ちは、教会に貼り付けた聖書の一節と重なる。「この世のちり、人間のくず」として無力感にさいなまれていたのかもしれない。彼の辛苦はどれほど大きかったのか。
その失望は、神父の活動を約1年間取材してきた私にも向けられた。結局、お前に何ができたのか。この1年で何も変わらなかったではないか。記者の道に進んでわずか数年の私には手厳しい問いかけだった。
教会があるフィリピン南部の島、ミンダナオ島。この島で1960年代から生産されてきた主要農産品は日本人にもなじみが深い。黄色くしなやかな曲線を描く果物、バナナである。神父が闘いを挑んだのは、このバナナの生産会社だった。

フィリピンは日本向けバナナの一大産地だ。
島の各地で運営される大規模バナナ農園では、毎年合計100万トン前後の輸出用バナナが収穫され、その多くが日本に輸出される。日本財務省の貿易統計によると、2014年にフィリピンから日本へ輸出されたバナナの量は約87万トン。日本バナナ輸入組合の統計によると、同年における日本のバナナ輸入数量は計約95万トン。つまり、日本のバナナ輸入数量におけるフィリピン産バナナの割合は約91%に上る。コンビニやスーパーで山積みにされているバナナは、一房200円前後。1970年代から40年以上、その値段はほとんど変わっていない。パッケージの裏側を見れば、大半のバナナには「フィリピン産」と表記されているはずだ。国内隅々まで、バナナは日本の家庭に浸透している。
しかし、現地の生産者の顔は日本の消費者に十分に伝わっていない。
1982年に出版されたアジア研究家の鶴見良行による著作『バナナと日本人―フィリピン農園と食卓のあいだ―』で、多国籍企業によるバナナ生産者への搾取構造が指摘された。これを皮切りに、バナナ農園の実態に対する関心が高まっていった。しかし、その関心も今は薄れ、過去のものになってしまった。「研究や取材対象としては、いまさら手を出しにくい」。そんな率直な意見を聞いたこともある。
神父は、日本人の誰もがそうして忘れ去ろうとしていた問題に、ひっそりと闘いを挑み、そして敗れ去ったのだった。
なぜ彼はここまで追い詰められていったのか。ほんの少しの期間だが、私はこの物語に首を突っ込んでしまった。一度関わってしまった身として、今の自分にできることは記録を残すことしかない。だから、私は書いてみることにした。バナナ生産の現場に少しでも関心が戻ってくることを期待して。


フィリピンに雨期が到来した8月の終わりごろ。日本人コミュニティ向けの地元新聞社で働き始めてからちょうど2年がたった、2015年の夏だった。
知人のフィリピン研究者から紹介して知り合った、立教大学の石井正子教授から一通のメールが届いた。
「今回のミンダナオ訪問で、1980年代に鶴見良行氏が指摘した問題が解決されていないことをあらためて知りました」
ミンダナオ島の先住民を主に研究している石井教授は、ミンダナオ島の南端に位置する南コタバト州でバナナ農園の調査を行なってきたのだという。
フィリピンに来てまだ日が浅い私は耳を疑った。ミンダナオ南部といえば、イスラム系の反政府勢力の拠点がある土地ではないか。
外務省の海外安全ホームページによると、南コタバト州は安全レベル2で、「不要不急の渡航は止めてください」と規定されている土地だ。
ミンダナオ島の一部地域では1970年ごろから、土地に昔から住んでいたイスラム教徒と、新たな土地を求めてフィリピン北部のルソン・ビサヤ島から移住してきたキリスト教徒との間で対立が表面化。イスラム系反政府勢力とフィリピン国軍との間で長く紛争状態が続いていた。
2014年になって、イスラム勢力の主要グループであるモロ・イスラム解放戦線(MILF)とフィリピン政府との間で和平合意が成立。ミンダナオ島での大きな戦闘はなくなっていたが、それでも小規模の武装集団が一部地域で抵抗を続けている。そういった考慮から、日本の外務省はイスラム系武装勢力が活動するミンダナオ南部と西部を安全レベル3に設定し、「渡航中止勧告」を発令している。南コタバト州は、そんな中止勧告が出されている地域に囲まれていた。
なぜこの州だけ安全レベルが一段低いかというと、州の中心都市であるジェネラルサントス市が古くから開けているからだ。この市の近海ではマグロを中心とした海産物が豊富に採れる。市に大きな漁港があり、この港を足がかりにして、フィリピン北部から多くのキリスト教徒が移住してきた。それもあって南コタバト州はミンダナオ南部の中でも、キリスト教徒が住民の大多数を占めていた。
石井教授によれば、この州にあるバナナ農園で、周辺住民による反対運動が巻き起こっているというのだ。聞けば、農園の管理会社は「スミフル」という日系企業だという。
スミフルは住友商事の100%子会社で、バナナを中心にパイナップルやメロンなどの果物を日本に輸入する大企業だ。現地法人のスミフル・フィリピンは商品作物の生産・輸出を手掛ける。2014年の総収益は114億6100万フィリピンペソ(約257億円)で、第1次産業部門ではフィリピン国内1位と飛ぶ鳥を落とす勢いだ。
そのスミフルが経営するバナナ農園で行なわれている農薬の空中散布が、周辺住民の問題となっているらしい。
敷地面積が広い農園では地上からの農薬散布では時間が掛かる。そのため、小型飛行機で空から農薬を散布するのだが、その農薬が風に乗り、周辺住民への体内に入ることによって健康被害を引き起こしているというのだ。
反対運動が起きているのは、南コタバト州にあるスララという小さな町だという。ここでは2013年ごろからスミフルが農薬の空中散布を開始。それ以来、住民の間で被害の訴えが増えている、と石井教授はメールで説明した。
スララ町でいったい何が起こっているのか。メールの内容だけでは分からなかった。しかし、好奇心とも正義感ともつかない気持ちがふつふつと涌きあがってきた。スララ町に行ってみよう。実際に何が起きているのか、自分の目で見てみたい。それが、私が果てしもないバナナ農園の取材に足を踏み入れる、そもそものきっかけだった。

小さな空港施設から外に出ると、はるか遠くまで続く真っ青な空が目に飛び込んできた。地平線に近づくにつれ、空は乳白色にかすんでゆき、やがて彼方の緑の丘陵へと吸い込まれていく。
空港の前にある広い駐車場には、個人のピックアップトラックやワゴン車が一定の距離を置いて停車してあった。首都マニラからはるばる訪れる知人を待っているのか、玄関口には人が群がっていた。それに混ざって、白いワイシャツを着た呼び込みが「タクシー、タクシー」と声を張り上げている。あとは何もない、こぢんまりとした空港だった。
石井教授からのメールを受け取った1カ月後、私は南コタバト行きの飛行機に飛び乗った。
空港には、石井教授から紹介してもらった反対運動の関係者が待っているはずだった。辺りを見回し、それらしい人物を探していると、携帯電話にメールが入ってきた。
「空港の外にいます」
玄関口の外に出ると、声を掛けられた。声のする方を見ると、2人の男女が立っている。
男性は小太りで小柄な五十男。カールがかった短髪に口ひげを蓄えた顔には、どことなくひょうきんな雰囲気があって、人柄の良さを物語っていた。
もう一人はすずしげな目元をした中年女性で、隣の男性よりも少し背が高い。
男性は青いポロシャツにジーンズとラフな格好、片や女性は襟付きの白ブラウスに黒のロングパンツでややフォーマルないでたちだ。
「南コタバトへようこそ。飛行機の旅はどうだった?」
「はい、問題なく来ることができました」
初めての土地に緊張しながら答えると、男性はニカリと白い歯を見せた。フィリピン人特有の陽気な笑顔だった。
男性はフランクと名乗った。
本業はカトリック教会の神父で、反対運動の中心人物だった。
こういった市民運動の活動家は、もっと生真面目で固い人物だろうと勝手なイメージを作っていたのだが、フランク神父はごく普通の気さくなフィリピン人のおじさん、といった印象だった。
女性は教会の事務員で、ローデスさんといった。
フランク神父みずからの運転で、一路スララ町へと向かった。アスファルトの国道を、ひたすら西に走ること2時間。ショッピングモールや大きな建物が並ぶ都市部を抜けると、正確に区画整理された見渡す限りの畑地が国道の両脇に現れた。
米国系の農業会社「ドール・スタンフィルコ」が経営するパイナップル農園だ、とフランク神父が教えてくれた。
南コタバトには2つの巨大な農業会社がある。ひとつは「ドール」で、数千ヘクタールのパイナップル農園を経営している。もうひとつが「スミフル」。この会社は主にバナナを生産する。2つの企業は地元の経済と密接に結びついているという。それは、国道に沿って転々と生えるココヤシの木や、トライシクルと呼ばれるサイドカー付きオートバイが行き交うフィリピン特有の風景に、広大なパイナップル農園が当然のごとく溶けこんでいるのを見てもよく分かった。

しばらく走ると、車は未舗装の脇道へと入っていった。その先に、高さ2メートルほどの小さな木が林立する一画が見えた。それがお目当てのバナナ農園だった。
波打つような繊維が入った大きな葉の下に、一抱えはあるかというバナナの巨大な房が垂れ下がっていた。熟していないバナナは濃い緑色をしている。
房はみなビニールで包まれていた。風や虫害からバナナを守るために付けられる「バナナ・コンドーム」というものだ。すべてのビニールには「スミフル」のロゴがプリントされていた。
近づいてよく見ると、葉に白い小さな染みのような跡がいくつも付いている。
「飛行機で散布された農薬の跡よ」と、ローデスさんが説明した。
農園からあぜ道を挟んだすぐそばには、木造やレンガ造りの小さな民家が軒を連ねていた。空から農薬をまく飛行機は、民家と農園の区別が付くのだろうか。それほど、民家と農園は近い距離にあった。
農園のそばにある小学校には、フランク神父があらかじめ声を掛けていた周辺住民が、数人集まっていた。その中で、一組の母子に目がとまった。まだ若い母親が抱きかかえている赤ん坊の首筋は、化膿して白い膿汁が垂れていた。股関節にも同じうみができている。
思わず凝視すると、視線に気付いた母親が赤ん坊の手を取ってこちらに差し示した。私は、差し出された赤ん坊の指先を見て絶句した。その人指し指と中指には爪がない。
母親によると、赤ん坊は1年ほど前から皮膚のアレルギーに苦しみ出したという。手に爪がないのは、かゆみに耐えかねて化膿した箇所をかきむしるうちに、はがれ落ちてしまったからだった。
別の住民が付け加えた。
「農薬の空中散布が始まってから同じような症状の子どもが増えている」
住民の訴えは切実だ。しかし、それを聞きながら私は、この取材の難しさに早くも気付き始めていた。
彼らが訴える症状が、本当に空中散布された農薬を原因としたものなのか。それを立証しなければ、スミフルの責任を問うことはできない。今では日本の「公害の原点」といわれる水俣病ですら、病気の原因がメチル水銀にあると判明するまでは多くの年月を要し、政府が正式に公害認定したのは、症例が初めて報告されてから実に10年も後だった。
農薬について何も知らない人間が、この先どうやって取材を進めれば良いのか。初日から、私は途方に暮れていた。


取材の難しさを自覚する一方、収穫もあった。現地取材を通して、この土地にバナナ農園が作られた経緯や、農薬の空中散布に対する反対運動の状況を知ることができたからだ。それは次のような流れだ。
バナナ農園があるのは、スララ町と、隣接するティボリ町の2町だ。輸出用バナナの栽培が始まったのは2004年ごろ。当初は地場農園の「アンドレス・M・ソリアノ」(AMS)社が2町の住民から土地を借り上げ、バナナ農園を形成していった。農園の総面積は、スララ町約500ヘクタール、ティボリ町約3000ヘクタール。
2010年ごろ、スミフルに農園の経営権が移り、2013年2月ごろから農薬の空中散布が始まった。
そのころから、農園の周辺住民たちの間で皮膚の発疹やかゆみ、ぜんそくといった症状を訴える者が続出。被害を訴える住民たちは地元自治体に問題への対処を掛け合ったが、取り合ってもらえず、スララ町の教区教会に助けを求めた。そこで住民たちの訴えを聞き入れたのが、2013年に教会へ配属されたばかりのフランク神父だった。
教会は2014年ごろから反対運動を開始。町内にある飛行場の前でデモを続けた。
2015年初め、町議会で空中散布を禁止する決議が可決された。ところが、町長は決議の発効を承認しなかった。教会は発効を再三要請したが無視され、結局、決議は今に至るまで発効されていない。
2015年7月13日、しびれを切らしたフランク神父たち約30人は飛行場内に侵入。バリケードを張って飛行機の使用を妨害する強硬手段に出た。同月16日、スミフルはフランク神父たちをスララ地裁に告訴。1000万ペソの損害が発生したとして賠償金の支払いを求めた。この公判は今も続いている。
フランク神父たちはスミフルの違反行為の可能性も指摘している。町自治体からの承認を得ることなくスララ町での空中散布を行なっていたという疑いだ。スララ町の住民がスミフルの営業停止を求めて2015年8月にスララ地裁に提出した申し立てによると、スララ町におけるスミフルの空中散布は2014年12月から未承認状態だという。

フランク神父たちとは別に、スララ、ティボリの両町で農薬散布の反対運動を展開している団体がある。市民団体「バトアン」だ。2013年1月に結成。ローマカトリックやプロテスタントといったキリスト教系団体の連合で、中心メンバーは30人ほどだという。
初めてスララ町を訪れた日の翌日、代表のプエルト神父と会った。背が高く、あまり笑顔を見せない。フランク神父と対照的な人物だ。
話を聞きながら飛行場を案内してもらった。日曜昼の飛行場は、問題の中心地とは思えないほど静かだった。滑走路の端にバナナと同じ色をしたセスナ機が2台止まっている。2台のセスナ機は、毎朝午前6~7時ごろになると、油と水で薄めた殺虫剤や殺菌剤を積んで各地のバナナ農園へと飛び立っていくという。飛行場の周囲に住む人たちにとって、セスナ機が飛び立つ瞬間のプロペラ音は悩みの種になっている。

バトアンの活動内容は主に次の3つだ。
・ 空中散布への反対
・ 有毒な化学薬品使用への反対
・ 労働者に対する搾取への反対
ただし、とプエルト神父は付け加える。
「スミフルの経営自体に反対するつもりはない。農園のおかげで町の人々は職にありつくことができる」
問題は農薬空中散布ひとつに集約されるということだ。


首都マニラの、しょうしゃな食堂やカフェが並ぶ学生街の一角に、一風変わったレストランがある。10人も客が入れば一杯になってしまいそうな小さな店だ。カウンターに並ぶ料理から好きなものを選ぶ形式の、典型的なフィリピンの食堂だが、出るものはみな無農薬・無添加。健康志向のフィリピン人がよく利用するという。
フィリピンにおける農薬問題の第一人者、ロメオ・キハノ博士の事務所はそのオーガニックレストランの裏手にあった。
フィリピンの最高学府、フィリピン大学で長年教鞭をとっていたキハノ博士だったが、今は各国の農薬問題に取り組む国際環境団体「農薬行動ネットワーク」(PAN)アジア太平洋支部の理事職に専念していた。
1990年代後半、ミンダナオ南東部の南ダバオ州ハゴノイ町カモカアン村で、皮膚炎や目の痛み、脱力感などを訴える村人が相次いだ。村はアメリカ系農業会社デルモンテ系列の地場バナナ農園「ラパンダイ農園」に隣接しており、空中散布や地上からの農薬散布が頻繁に行なわれていた。キハノ博士はこのカモカアン村で調査を行ない、同農園の農薬散布が村人の健康被害に関係していると指摘した。
フィリピンにおける1990年以降のバナナ生産現場の実態を報告した『フィリピンバナナのその後 多国籍企業の創業現場と多国籍企業の規制』(中村洋子著)に、カモカアン村の事例が次のように紹介されている。
「約150世帯700人に農薬の影響が認められる。被害者の症状もさまざまで、咳、目の痛み、めまい、皮膚のかゆみ、胸の圧迫感、脱力感、吐気、腰痛、胃痛、頭痛、下痢などから始まって、深刻なものとしては、ぜんそく、貧血、障害児出産、死産、子どもの肉体的・知的発育の遅れ、甲状腺腫、腹部膨脹、そして癌、中毒死も報告されている」
「ココナッツ、その他の作物は実をつけなくなり、豚、鶏などの家畜は空散の後で死に、たびたび起こる魚の大量死により漁獲量も減少」
調査に対し、ラパンダイ農園は損害賠償を求める民事訴訟に打って出た。カモカアン村の件を含め、キハノ博士は現在、計5件の訴訟を抱えているという。
キハノ博士は、スララ町の問題についても少しだけかかわっている。2010年から2015年の間に3度、スララ町を訪問しているのだ。農薬について右も左もわからない状態だった私は、スララ町からマニラに戻るとすぐさま、すがるような気持ちでキハノ博士に会いに行ったのだった。
キハノ博士の事務所はアパートの一室で、小さな空間に若い女性事務員が一人いるだけだった。事務所に案内された私は、早速インタビューを始めた。
――スララ町を訪問したいきさつは。
「反対運動の活動家に呼ばれ、講義を行なった。具体的な調査方法など教えたが、今に至るまで実際のデータは集まっていない」
――博士自身も調査をしたのですか。
「非公式だが、何人かの住民に話は聞いた。1990年代に私が調査を行なった農園と、同じ症状が出ている。恐らく殺菌剤が原因だろう」
キハノ博士が90年代に行なった調査とはラパンダイ農園の農薬問題のことだ。スララ町で似たような症状が出ているという指摘に、私は息をのんだ。
――どんな症状ですか?
「農薬被害で特に問題なのは、免疫系の破壊だ。病気にかかりやすくなり、下痢やせきなどを訴える。しかし、病院で診察を受けてもウイルス性の病気と診断されるだけで、化学薬品が原因とは思われないのが現状だ」
農薬問題に取り組む難しさをあらためて突きつけられた気がした。住民が訴える症状は、農薬による影響の可能性がある一方で、別の原因と考えることもできる。家庭で使われる家電の電池から漏れる水銀や、ガソリン、日々食べる魚にも微量の有毒物質は含まれている。
「だから調査が必要なのだ。特にフィリピンは農薬研究が進んでいない。時には他国の研究から共通点を探すしかない」と、キハノ博士は語気を強めた。

キハノ博士の話を聞き終えた私は、暗たんたる気持ちになっていた。一方で、こうなったらやるだけやってみよう、とも思っていた。自分にできることは、できるだけ多くの住民に聞き取り調査を行なうことだろう。
早速フランク神父やプエルト神父に連絡を取り、スララ町を再訪して住民への調査を敢行した。その結果、周辺住民の抱える症状にいくつかの共通点があることが分かった。
聞き取りを行なった住民は約20人、うち何人かの証言を次に書き出してみようと思う。

ニタ・サリン(57歳)
ティボリ町ラコノン村在住。25年契約でスミフルに土地を貸している。
2015年9月、農園のすぐ側にある自家菜園で作業中、空中散布中の農薬を直接浴びた。空を見上げていたため、農薬が直接目に入り、痛みを覚えた。それ以来視力が低下し、夜になると何も見えない状態になった。
治療費を捻出するため、貸していた土地の賃料前払いをスミフルに求めたが、「支払い日はまだ先」と断られた。支払いは年1回なので、次回の支払いは来年以降になる。結局お金を用意できず、病院に行くことは諦めた。被害について、会社からの謝罪はない。

ジェシベル・ブルサン(23歳)
ティボリ町ラコノン村在住。バナナ農園から50メートルも離れていないところに自宅がある。
娘のプリンセスちゃん(3歳)が空中散布の農薬を直接浴びる被害を受けた。2015年8月、プリンセスちゃんが外で遊んでいると、空中散布の飛行機が上空を通り過ぎた。
プリンセスちゃんは全身に農薬を浴び、頭部、尻、腹部、足に皮膚炎を発症。黄色く化膿して、かゆみも訴えた。
村の診療所で薬を処方してもらい、自分たちで治療した。1カ月ほどでうみは引いたが、いまだに黒いあざになって残っている。
スミフルに助けを求めることは考えもしない。言っても信じてもらえないからだ。

ビセンテ・バルサン(49歳)
スララ町ラミアン村在住。家のすぐ目の前はバナナ農園。農薬空中散布の際は家にも農薬が降りかかって、屋根や壁が濡れる。
慢性的な皮膚のかゆみや発疹がある。夜になると、乾燥や喉の渇き、息苦しさで起きることも。
農薬の空中散布が始まった2013年ごろから、飼っていた鶏が次々と死ぬようになり、当初は120羽いたが20羽まで減ってしまった。
安眠を妨げ、健康を害する空中散布に怒りを感じている。散布があると、いつも山刀を持って飛行機をにらみ付けている。

農園周辺の住民には、皮膚炎や吐き気、下痢、倦怠感、腎障害などを訴える者が多くいた。農薬の空中散布が始まった2013年以降、皮膚炎の患者が増えたと証言する地元病院の医師もいる。
農園の周辺に住む住民たちは、会社に土地を貸している人が多い。一律25年契約で、1ヘクタールが年1万ペソ(約2万2000円)だ。これは、首都マニラで借りるマンション一室の家賃一カ月分とほぼ同じ額。それでも、土地の住民にとっては大きな収入源になっていた。なにしろ、1食30~50ペソ、一世帯の月経費が3000ペソ以下の暮らしなのだ。
土地の賃貸契約を交わすと、家族の中から1人だけ農園で働くことができる。農園で働くほかには収入を得る道もない。
少しでも不満を訴えれば解雇されてしまうのでは。そんな不安から、体調不良があったり労働環境が悪かったりしても会社への相談を控えてしまうケースが多いという。農園労働者の中には、会社を恐れて聞き取り調査を拒む人も少なくなかった。
しかし、それとは別に、より深刻で人命にかかわる問題も起きている。それに気付いたのは、プエルト神父に紹介された、とある男性へのインタビューを通してだった。

トウモロコシ畑に囲まれた未舗装の道を行くと、小さな民家が散在する集落がある。そのうちの一軒で元農園労働者の男性から話を聞いた。ルデーン・ダグムさん(28歳)。丸刈りの顔はやつれて頬もこけていた。半ズボンからのぞく足は、木の枝のように細い。その足元で、車いすの車輪が銀色に光った。
ダグムさんがティボリ町のバナナ農園で働き始めたのは、短大を卒業した2006年ごろ。初めの5年は種子の世話係で、2011年ごろから農薬散布の仕事に回された。空中散布ではなく、地上散布だ。農薬を積んだトラックに乗って毎日農園を走り回った。
一台のトラックには運転手と農薬の空中散布担当の2人が乗る。ダグムさんは空中散布担当者で、荷台に乗って巨大な散布用スプレーを操作した。午前1時からトラックに薬品を積み込み、農園を回る。会社に支給された作業服やマスクを着込み、一日8時間、多い日は12時間働いた。
働き始めて2カ月でトラックの窓が壊れた。会社へ報告したが、修理代は出なかった。そのため、セロハンテープで補修して使い続けた。同僚とはいつも、給与支払いの遅延や職場環境の悪さについて愚痴をこぼし合った。
2015年5月、突然の高熱や頭痛に襲われ動けなくなった。町の病院で診てもらうと、そのまま入院することに。症状が改善せず、3週間を集中治療室で過ごし、個室に移動してさらに1カ月入院した。退院するころには足が動かなくなっていた。
診断の結果、代謝性脳疾患、低カリウム血症、急性甲状腺炎を患っていることが分かった。原因はウイルス性とされた。
入院する前から異常は出ていた。2013年ごろから慢性的な頭痛、悪寒、腹痛に悩まされた。
入院中、ダグムさんの母親は会社から解雇通知を受け取った。仕事中に燃料タンクを壊すなど、問題行為が度重なっていたと説明を受けたが、納得のいくものではなかった。
ダグムさんと同じ症状を訴える同僚もいた。筋肉の弱体や吐き気を感じ、農薬空中散布の従事者に義務付けられている半年ごとの血液検査では、ピンク色に変色した血液が採血された。体が衰弱していき、何人かはそのまま息を引き取ったという。
血液から農薬が検出されれば、会社の責任を追及することもできる。医師にそう助言されたが、一回の検査にかかる費用は3万ペソと高額だ。もし検出されなければ、費用は自己負担。結局、断念せざるを得なかった。
入院治療費は合計95万ペソに上った。会社が加入していた保険が適用されたが、それでも31万ペソの借金が残った。家族の生計手段は、母親が作る自家製ピーナツバターの訪問販売だけ。毎月利子を支払うだけで精いっぱいだ。
「働きたくても働けない。それが一番辛い」
そう言ってダグムさんは顔を歪める。
インタビューの時、奥さんのジェニーさんのお腹には新しい命が宿っていた。出産予定は1カ月後だという。

私が再訪する直前、スララ町の反対運動は新しい局面に差し掛かっていた。
スミフル・フィリピンの担当者がスララ町の教会を訪れ、フランク神父たちと話し合いを行なったのだ。
前述の石井教授がスミフルの日本法人に手紙を送り、問題の解決を要請。これを受けてスミフルから担当者が派遣されたのだった。
結論から言えば、話し合いは平行線に終わった。フランク神父によると、農薬空中散布の問題について、担当者の説明は次のようなものだった。
・ 農園と住宅地との間は100メートル、水源や道路との間は20メートルの間隔を空けている。
・ 衛星利用測位システム(GPS)を使用して散布区間を管理しており、時速5キロメートルの風が吹いている時および一定の気温になった時は自動的に散布を停止するようになっている。
・ 散布地ではあらかじめ散布日時を知らせるようにしている。
・ 使用している農薬の濃度は非常に低く抑えている。
・ 農薬の空中散布を行なっている地域で農薬情報など正しい知識を広める活動を行なっている。

これに対しフランク神父は、規則がきちんと守られていないと反論した。私が見た限りでも、農園と隣接する民家は100メートルと離れていない。また散布日時の事前通知も行なわれている気配はなかった。
話し合いの過程で新たに分かったこともあったという。スミフルの飛行場をティボリ町の農園内に新設しており、1月初旬にも機能を移転するということだ。
南コタバト州担当のマネジャーはたびたび問題を起こしており、最近配置替えを行なったとも担当者は話していたという。スミフル内部でも問題が起きているようだった。
フランク神父の観察では、話し合いのあと、空中散布の時間は以前よりも短くなり、飛行機の台数もやや少なくなったという。


ここまでの取材を終えた段階で、私にはまだやっていないことがあった。そして、それは必ずやらなければならない取材だった。
農薬空中散布の現場を直接見る、ということだ。
私には、この取材に対してまだ迷いがあった。対象は日本の大企業だし、農薬の空中散布自体はフィリピンの法律で禁止されていない。スララ町の問題を取り上げることに果たして意味はあるのか。取材の価値を計りかねていた。
もしかしたら、空中散布をみずからも体験することによって、自分の中で何らかの決断を下せるかもしれない。そう考えるようになっていた。
考えあぐねた末、実行に移すことにした。クリスマス直前の12月半ば、私は勤めている新聞社から早めの正月休暇をもらい、みたび、南コタバト行きの飛行機に飛び乗った。
出発の前、会社の先輩にこれまでの取材内容を伝えた。年明けに何らかの形にして記事を書きたい、その調整に手を貸してください。そう頼み込むと、先輩は二つ返事でその面倒な仕事を引き受けてくれたのだった。

スララ町から車でさらに西へ30分ほど走ると、ティボリ町に入る。町役場がある中心部はスララ町ほどではないが、市場や学校もあって人でにぎわっている。スララ町と違うのは、周囲を山で囲まれていることだ。バナナ農園はこの山の高地に集中している。スミフルのホームページによると、標高700メートル前後にある高地でバナナを栽培すると、甘みが強いコクのあるバナナに育つという。ティボリ町などで作られる高地バナナは、今やスミフルの目玉商品になっている。
町中心部にあるティボリ教区教会で、教会に勤めているディゴイ神父と会った。農薬空中散布の現場を見てみたいと打ち明けると、フランク神父はすぐさまティボリ町の教区神父であるディゴイ神父に連絡を付けてくれた。
国民の9割以上がキリスト教徒であるフィリピンでは、教会の神父が市民運動の中心となることが多い。スララ町と同じく、ティボリ町ではディゴイ神父が農薬空中散布の反対運動を先導していた。フィリピンで住民の不満を代弁するのは、すべからく聖職者だ。
ディゴイ神父はまだ30代。教会宿舎には日本のアニメキャラクターの人形が飾られている。長髪を後ろに縛り、気さくな笑顔を見せるディゴイ神父は、日本のアニメの大ファンだという。聖職者とはいえ、普通の若者だ。
ディゴイ神父とは別にもう一人、反対運動のキーパーソンといえる人物が教会で私を待っていた。サルスティアーノ・シゴンラさん。すでに還暦に近いこの初老男性は、2013年までの9年間、バナナ農園で労働者の仕事を管理するスーパーバイザーを務めていた。
これから数日間、シゴンラさんが管理していた高山地帯に入り、農薬空中散布の瞬間を待つという計画だった。
教会で準備を進め、早朝オートバイに分乗して農園があるニュードゥマンゲス村へと向かった。
ニュードゥマンゲス村は人口約4000人、ティボリ町にあるバナナ農園の21%が集中する重要な栽培拠点だ。
ほとんどの村民は、バナナ農園の仕事に従事するか、家族の中に従事者を持っている。前回聞き取り調査をした現役労働者によると、スミフルの雇用規則には「会社に不利益な内容を他人に話した場合、その従業員は訴訟の対象となる」と定められているという。素性も分からない外国人、ましてや記者が突然村内を歩けば、みな警戒して口を閉ざしてしまうのは必至だ。
しかし、シゴンラさんやディゴイ神父という強い味方がいる私は、容易に協力者を見つけることができた。
高山に張り付くように存在するニュードゥマンゲス村は、村内でさらにトリル、ロオブ、デスデンの3つの集落に分かれている。そのうち、最も低い位置にあるトリル集落の村長宅に案内された。村長の弟のニコラスさんは地上からの農園への農薬散布者だ。
ニコラスさんに話を聞いた。
「マスクや手袋、ゴム靴といった作業具一式は会社から支給される。農薬の混合はたとえば、5000リットルの水に7・5リットルの薬品を希釈させるなど、厳しく定められている。薬品を一滴でもこぼすと叱られます」
農薬の管理は厳格に行なわれている。毎日午前5時から午前10時まで、6人の農薬散布者と1人の監督役で行動する。散布者に違反があれば即座にスーパーバイザーに報告されるという。休日は毎週日曜だ。
給与は15日ごとの支払いで、平均して3500ペソほど。そこから保険料や労働組合の会員費などが引かれ、手取りはだいたい3000ペソ前後になる。月計算だと基本給は7000ペソ前後。この土地の最低賃金が月6682ペソだから、農園の賃金はややそれを上回るか同額程度だ。
「今のスーパーバイザーはもともと教会で働いていた人で、優しい人です。2010年に会社がスミフルに移ってから、給与の遅延といった問題はなくなりました。診断書を用意すれば病欠も認めてくれます」
農薬の空中散布が始まってから、村の家畜がよく死ぬようになった。皮膚病の子どもが増えたとも。
ニコラスさん自身は、かゆみ、頭痛、関節痛、せき、体力の減少といった症状がある。ただ、その他の深刻な問題は特にないという。
翌朝、ニコラスさんの仕事を見せてもらうことになった。
ニコラスさんは夜も明けないうちから作業を始める。農薬の混合液を作って会社のトラックに積み込むのだ。
先に仕事場へ向かったニコラスさんを追って、日が昇ったころに集落に隣接する農園へ向かった。農園に横付けされたトラックの荷台には幅1メートルほどのポリタンクが2基、容器の中には真っ青な色をした液体が入っている。バナナにだけ発生する病気、「シガトカ病」を防ぐための殺菌剤や駆虫剤が混ざった水である。ポリタンクには小型の発電機のような機械が取り付けられており、そこから黄色いホースが伸びていた。
白くて分厚いフード付きの作業着とゴム長靴を着用した作業員が数人、荷台の上で作業していた。作業着のズボンにはスミフルのロゴが入っている。顔をフードとマスクで覆っているので、誰がニコラスさんなのか判別が付かなかった。突然現れた謎の日本人に何を思っているのか、表情が見えないので分からない。顔が見えるのはトラックの運転手と監督役くらいだ。運転手は笑顔を見せてくれたが、女性の監督役は終始不審そうな目をこちらに向けていた。
朝方の高地は南国フィリピンとは思えないほど肌寒く、長そでが必要なほどだったが、それでも作業着は暑いのではないかと思う。
しばらくして、ホースを持った作業員2人が農園に向かった。ホースの先端に付いている細長いステンレスの射出口が、太陽の光を反射して鈍く輝いた。
2人が一番手前のバナナの木に近づくと、射出口から混合液が勢いよく噴射された。そのままどんどん農園の中に分け入っていく。歩くスピードが思ったより速い。ちゅうちょすることなくどんどん奥へと進んでいくのだ。一見するとむやみやたらと辺りにまき散らしているようだが、よく観察すると、バナナの木一本一本に正確に農薬を浴びせている。立ち止まることなく進みながら、一本も取りこぼすことなくすべての木と葉に噴出しているのだ。その精密さは、もはや職人の域だ、と思わずため息をついた。
大きなバナナの葉にたたきつけられた農薬のシャワーが霧となって拡散し、小さな虹を作っていた。

農薬空中散布の現場をみるという肝心の目的は、苦戦を強いられた。
村の人に聞くと、一つの区域では週2回の空中散布が行なわれるという。私が訪れた時、ニュードゥマンゲス村の3集落ではすでに一度散布が行なわれていた。ここから週末まで滞在すれば、必ず一度は散布の瞬間を真下から目撃できるはずだ。しかし、私が訪れた初日の朝に空中散布が実施されることはなかった。
翌朝、最も標高が高いデスデン集落に行き、小高い丘に上って飛行機を待った。目下には農園のバナナの林がはるか先まで続いている。
午前6時ごろから待つこと数時間。
ブウーン。
ハチの羽音のような低音が遠くの山から聞こえてきた。それが少しずつ近づいてくる。丘にある建設途中の小屋の屋根に上っていた教会助手のロムロが、手をかざして遠くの方を見やる。
「だめだ、隣の山だ」
悔しそうに叫んだ。私も小屋に上ってみる。豆粒のように小さな黄色いセスナ機が、バナナの林の先に消えたり現れたりしているのが見えた。この日は、谷を挟んで隣の山にある集落が空中散布の対象だったようだ。
もしかしたら後でこちらにも寄るかもしれない。わずかな期待を持って待っていたが、セスナ機は午前11時前に山の奥へと飛び去っていった。
丘を降りてデスデンの集落に入った。農園から100メートルも離れていない距離にある民家で話を聞いていると、物珍しさからか村人が集まってきた。そのうちの一人が、その場にいる数人の子どもたちを指し示して言った。
「子どもたちを見てくれ。足に皮膚炎が出ている。こんなこと前にはなかった」
小学児童くらいの男の子や女の子の膝から下には、確かに白いはんてんや、かさぶたが目立つ。皮膚が裂けて赤い肉が見える子どももいた。しかし、これが農薬の影響なのかどうかは判別できなかった。
「ここには牧師様が住んでいる。その人に会って話を聞いてみたらどうか」と別の村人が話した。デスデン集落にはプロテスタントの牧師が長年滞在しており、農薬の空中散布にも抗議しているという。
村人が教会まで呼びに行くというので待っていると、数分もたたずに一人の男性が姿を現した。大柄で丸刈り、見た目はいかついが、優しい目をしていた。名はレイ、と言うそうだ。
「外国人がきたと村人が言うものだから、何事かと思った」と戸惑いながらも、レイ牧師は集落の教会に案内してくれた。礼拝堂はないが、小さな教室のような建物がある。ここでミサを開いたり、村の子どもたちに読み書きを教えたりするのだという。
レイ牧師の家はこの講堂に隣接している。レンガでできた小さな家で、テレビもない。奥さんと小学生の息子の3人で慎ましく暮らしている。
「見せたいものがある」と言うので、オートバイでレイ牧師の後に付いていった。山道をしばらく走ると、山の間にある谷底に至る。そこには緩やかに流れる小川があり、女性たちが衣類を洗っていた。楽しそうに水浴びする子どももいる。水は透き通っていて冷たい。
「川は農園の近くを流れている。村の人はこの川の水を飲み水としても使っているが、農薬の空中散布のせいで水源に毒が混ざっているかもしれない。できれは、何かが起きる前に空中散布をやめてほしい」
レイ牧師の言葉は重い。

レイ牧師の教会に拠点を移してさらに農薬の空中散布を待った。しかし、待てど暮らせど村の農園にセスナ機が来ることはなかった。
「ここに怪しい日本人がいると、すでに会社に伝わっているのかもしれない。だから今だけ散布を止めてしまっているのだろう」とレイ牧師は話した。
農薬空中散布の予定地やスケジュールは細かく決められているはずだ。大企業の管理下で、そんな都合良く予定を変更することなど本当にできるのだろうか。ただ、地上散布の現場にいた監督役は、明らかに私を不審に思っていた。しかも、この村の住民はみな、多かれ少なかれ会社とつながりを持っている。もしかしたらレイ牧師の予想は正しいのかもしれない。
村に滞在して4日目の夕方、丘をさらに上ってみた。丘は一面、ドール社の農場になっている。どこまでも見渡す限りのパイナップル畑だ。多国籍企業が運営する農園は、どれも異常なまでに広い。画一化された人工的な農園がひたすら続く光景は、山に自生する植物が織りなす自然の風景の中で、不自然さを際立たせている。
もともと土地にあったはずの特徴や個性は、多国籍企業の進出と農園の拡大によって、消し去られてしまった。その代わりに現れたのは、無機質で無慈悲な工業的農業と、農薬空中散布という不安の象徴だった。
この土地の伝統的な暮らしは、どこに行ってしまったのか。昔からここに根付いている何かを見つけ出したくて、農園の中をひたすら歩き回った。
パイナップル農園を奥に進み、バナナ農園とのちょうど境目まできた時だ。二つの農園に挟まれるようにして、小さなトウモロコシ畑を見つけた。二つの農園と違い、きちんとは整地されていない。しかし、その光景に不思議と暖かみを感じるのだ。その瞬間、前の日に見た何気ない生活の一場面をふと思い出した。
その日の朝、私は集落のある民家の軒下を借りて農薬の空中散布を待っていた。
手持ちぶさたでふと民家の中を見ると、ニッパヤシの壁で囲った台所のかまどで、おばあさんがイモを煮ているのが見えた。燃料に使っているのは、乾燥させたトウモロコシだった。
トウモロコシはフィリピン全土で栽培される、国の主要作物だ。主食としても食べるし、燃料や家畜の餌、肥料など多くの用途で使われる。ティボリ町でもトウモロコシの収穫量はバナナの2倍以上に上る。
「昔はトウモロコシにカモーテ(サツマイモ)と、たくさん作物が採れた。だが、今は別の作物を作る場所がない」と、ある村人が話していたのを思い出す。農地を企業に貸した農家は、農園で働く以外の生計手段を失った。多国籍企業の商業用農園は、土地の人から生活の選択肢を奪い、生きていく方法を一つに制限している。
とはいえ、農園が村の人に職を生み出しているのも事実だ。2004年にバナナ農園が作られて以来、村人は必死にその環境へ順応しようとしてきた。しかし、それも我慢の限界だったに違いない。農薬空中散布が始まった時、会社への不満が爆発した。
「文句があるのは空中散布に対してだけだ」
反対運動を展開する市民団体「バトアン」のプエルト神父が言っていたこととまったく同じ心情を吐露する村人もいた。
「農薬の空中散布だけは我慢できない」と。
伝統的なコミュニティに分け入って事業を行なうのであれば、企業はそんな村人の声に真摯に向き合わなければならないのではないか。
村人の苦しい叫びを明らかにし、それに対する企業の姿勢を問う。そのためにも、スララ、ティボリで起きている問題を記事にする意義があるはず。次第に私の迷いは晴れていった。
山に入って5日が過ぎた。結局、滞在期間中に農薬の空中散布が実施されることはなかった。翌日はマニラ行きの飛行機に乗らなければならない。当初の目的を達成できないまま、私はその日の昼過ぎに山を下った。

ブウーン
ハチの羽音のような低音が腹に響いた。急斜面の崖下に広大なバナナ農園が見渡せる。四角く広がるその農園の上を、黄色いセスナ機が何度も飛び過ぎていった。農園の真上まで来ると、バナナの木すれすれまで高度を下げる。同時に、飛行機の腹部から噴出された農薬の霧が、白く糸を引きながら農園に舞い落ちていった。
マニラに帰る日の朝、やはり空中散布を見なければ帰るに帰れないと思った私は、スララ町のフランク神父に頼み込んで車を出してもらった。ここなら必ず散布するだろうと見当を付け、スララ町内の農園を見下ろせる丘陵地まで連れていってもらったのだ。
待つこと2時間、空中散布のセスナ機が山向こうから現れ、こちらに向かって飛んでくる。待望の瞬間がついに訪れたのだった。
農園の上を一直線に通り過ぎた飛行機は、旋回して再び農園の上を通過する。何度も同じ動作を繰り返し、農園全体に農薬を散布するのだ。地上では、噴水のように吹き上げられた農薬が、バナナの木を濡らしながら農園内を移動していくのが見えた。トラックからの農薬散布だ。
セスナ機は農園を過ぎると噴射口を閉め、外に農薬が漏れないようにしている。しかし、白い霧は風に乗って農園の外にも降り注いでいる。その下を、一人の農夫が農作業用の水牛と共にゆっくりと歩いていった。

山を下りた私は、すぐにでも記事を出そうと心に決めていた。自分の中で一つの結論を出すことができた、と舞い上がっていたのだ。そんな矢先、突然携帯電話のベルが鳴った。見ると、会社の先輩からのメールだ。
「記事を出せるよう上に掛け合ったが、説得しきれなかった。すまない」
頭が真っ白になった。メールを何度も読み返したが、内容が頭に入ってこない。その時、私の頭は完全に思考停止していた。


正月の東京は身にしみるような寒さだ。久しぶりの日本の冬に、うんざりする一方で懐かしさも覚えた。東京西部では前夜に大雪が降り、翌日の昼まで積雪が道路を覆った。歩道は凍った雪で滑りやすくなっていた。移動するのも一苦労だ。
国際基督教大学の元教授で、アジア農村指導者養成専門学校「アジア学院」の理事を務める日本の農薬研究の権威、田坂興亜(こうあ)氏と会ったのは、そんな冬の一日だった。防寒着を着込んで長靴を履いた田坂理事は、いかにも好々爺といった感じだ。
会社で記事を出すことができないと先輩から聞いた後、直接上司に理由を聞いた。
「日本の企業を直接批判するような内容は、めでたい正月早々の紙面では出しにくい」「農薬と住民たちの健康被害との間にある因果関係が証明できない」「空中散布は合法だから問題視することはできない」といった答えが返ってきた。
再び暗礁に乗り上げた私は、日本で有毒化学物質に関する調査を続け、多くの問題提起を行なった田坂理事に助言をもらおうと考え、メールを送った。すると、すぐに「東京で会おう」と快諾の返信が届いたのだった。

実は、スララ、ティボリ両町で聞き取り調査を終えた後、農薬散布者や労働者から聞き集めた使用農薬について、田坂理事に意見を聞いていた。
聞き取り調査などで分かった、両町のバナナ農園で使用されている農薬の種類は次のようなものだ。

・ ダコニル(空中散布、地上散布)
・ ダイセン(空中散布、地上散布)
・ チラム(地上散布)
・ トレボン(用途不明)
・ ディアジノン(用途不明)
・ バイデック(幹への直接注射)
・ ローズバン(幹への直接塗布)
など。

これに対し、田坂理事の回答は以下だった。
・ディアジノン
イネ、果樹、野菜などの害虫に対して用いられている有機リン系の殺虫剤で、住友化学以外のほとんどの日本の農薬会社が製造、販売している。急性毒性は高く、頭痛、運動機能の低下などの症状を現し、過剰に体内に入ると死に至る。

・トレボン
ピレスロイド系の殺虫剤。ピレスロイド系農薬は、いわゆる「環境ホルモン」として、胎児への影響などが懸念されている。

・ダコニル
TPNとも呼ばれる殺菌剤。急性毒性は極めて低いが、構造からみると、体の健康を様々な形で損なうことが予測される。

・ダイセン
カドミウム、カルシューム、マグネシューム、鉄などの重金属と複合した形で用いられる殺菌剤。どの金属を含むものかを特定する必要がある。日本では認可されていない。

また、農薬の成分や毒性についてまとめた『農薬毒性の事典 第3版』(植村振作・河村宏・辻万千子著)からも次のような情報が得られた。

・ チラム
チウラムとも言われる殺菌剤で、急性毒性は低い。しかし、母胎に蓄積されると奇形児が生まれる可能性があり、発がん性もあるという。ゴムの加硫剤としても使用され、ゴム工場で働いていた女性に生理不順、不妊症、子宮系疾患が現れた事例も報告されているという。人体中毒症状は、咽頭痛、咳、痰、皮膚の発疹、かゆみ、目の結膜炎、腎障害などがある。

・ バイデック
有機リン系の殺虫剤、フェンチオン(MPP)の製品名。一定量の使用で劇物になる。鳥類への急性毒性が高く、人体中毒症状は、倦怠感、頭痛、めまい、吐き気、腹痛、下痢、けいれんなど。1988年、石川県松任市(現白山市)で農薬の空中散布直後にツバメが大量死する事件が発生した。この時に散布されたのがMPPだったという。

・ ローズバン
これも有機リン系の殺虫剤、クロルピリホスの製品名で、劇物に指定されている。奇形児出産の原因ともなり、人体中毒症状はバイデックとほぼ同じ。歩行困難や肺水腫も患うという。シロアリの防除に使用されていたが、毒性が高く人体への影響も指摘されたため、アメリカではシロアリ防除剤としての使用を2005年までに段階的に中止した。日本でもクロロピリホスを添加した建築材料の使用は禁止されている。

バナナ農園で使用されている農薬について、その毒性などについてはある程度把握できた。農薬の影響として指摘されている皮膚病や吐き気といった人間に対する症状や、動物の異常大量死は、確かにスララ、ティボリの両町でも報告されている。
ティボリの山中で農薬空中散布の瞬間を待っていた時、出荷基準に満たず、廃棄されたバナナを村の飼い犬や家畜が食べているところを見た。
また、ローズバンは、ビニールテープに染み込ませたものをバナナの幹に巻きつけて使用するのだが、集落の人たちはこのビニールテープを拝借して民家の庭木にも使っている。
「アリが寄って来ないから便利」と無邪気に話すが、農薬の危険性をきちんと把握できていないのだ。農園を管理している企業がしっかりと説明するべきではないか。
しかし、そういった問題点を指摘しても、記事にすることはできなかった。どこまで取材しても、結局は農薬散布と健康被害を結びつける「科学的因果関係」の証明が難しいからだ。農薬の専門家でもない素人のいち記者には限界があった。

「ほとんどすべての農薬は神経に影響する」
田坂理事は断言する。特に有機リン剤は神経毒性が強い化合物を含んでおり、中毒を起こすとけいれん、呼吸障害、肺水腫を引き起こし、最悪の場合、死に至る。低毒性の有機リン剤もあるが、繰り返し被ばくすると慢性毒性症状が発現する。具体的には免疫の低下やホルモン異常、生理不順、そして頭痛や吐き気、めまい、下痢といった自律神経障害が発生するという。1990年代にカルト教団のオウム真理教が起こした一連の「テロ事件」に使われたサリンも、有機リン系の神経毒だ。
バナナ農園での使用が分かっている有機リン系農薬は、ディアジノン、バイデック、ローズバンの3種だが、農薬の空中散布に使われているかは不明だ。しかし、前述のようにローズバンは農園周辺の民家でも危険性を知らないままに使われている。
空中散布の問題についても、田坂理事は言及する。上空からの農薬散布は、どれだけ気を遣っても風で流れて周辺に影響をもたらす。
実は、農薬空中散布をめぐる近隣住民とのトラブルは、日本でも他人事ではない。
日本では、松が赤く枯れ周辺の木に広がっていく「松枯れ病」の原因となる「松くい虫」を防除するため、一部地域で有機リン系の農薬空中散布を行なっている。地域によっては、これが近隣住民、特に化学物質に過敏な子どもたちへの健康被害につながっているという苦情が出ている。
2008年11月、島根県出雲市で、空中散布実施後に小中高校生473人が目のかゆみなどを訴え、154人が医療機関で受診。うち一人に視野狭窄が見られ、入院に至る問題が発生した。この際に空中散布で使用されていた農薬も松くい虫防除用の有機リン剤だった。
2006年6月、度重なる住民の苦情を受け、群馬県が全国で初めて有機リン系農薬の空中散布を自粛。数少ない農薬空中散布反対運動の成功例となった。群馬県の決定に対し、国内の農薬製造業者で構成される農薬工業会は「今回の自粛要請は、安全性が確認されて登録が認められている有機リン系農薬に対して、科学的・毒性学的事実を考慮しない極めて遺憾な措置と言わざるを得ません」(=有機リン系農薬の群馬県による散布自粛要請に対する当会の見解)とする抗議文を公表した。
近年、松くい虫防除のための空中散布に使用される農薬の主流は、ネオニコチノイド系農薬へと移り始めている。問題を指摘されることが多くなった有機リン系と違い、人畜への高い安全性と効果的な殺虫能力があるとうたっており、日本でもシェアが拡大した。しかし、このネオニコチノイドにも問題はつきまとう。
2005年、岩手県で700群のミツバチが大量死しているのが報告された。死骸からは、水田のカメムシ対策として散布されていたネオニコチノイドが検出された。
ミツバチの大量死は岩手県だけでなく、全国各地で報告されている。特定非営利法人「ダイオキシン・環境ホルモン対策国民会議」によると、ミツバチの大量死は1990年ごろから世界的に発生している問題で、その直接的原因がネオニコチノイドにある可能性が高い。ミツバチの大量死は、養蜂家の生計に大きな打撃を与えているという。
しかし、こういった問題が注目されることは少ない。農薬製造業者や農水族議員、厚労省・農務省といった関係機関による「農薬ムラ」の存在が大きすぎるからだ。

農薬空中散布をきっかけに地元住民が反対運動を起こしている。それについてどう考えているのか、スミフル・フィリピンに問い合わせた。英語で返ってきた回答の一部を次に書き記してみる。
「商業用バナナにはシガトカ病対策のために農薬散布が必要で、フィリピンの農園も例外ではありません。スミフルは空中散布による消毒作業について、定められた基準を常に尊重し守っています。また、農園があるコミュニティの安全を促進し、環境を大切にしてもいます。今回指摘された問題については調査を進めます。問題を深刻に受け止め、環境とコミュニティの保護に務めることを約束します」
回答は、A4用紙一枚分と短いものだった。

田坂理事によると、農薬や化学薬品の使用に対しては、「予防原則」という考え方がある。ある薬品や新技術を使用することによって、環境に重大な影響が出る恐れがある場合、科学的因果関係が十分に証明されなくても、その技術に対して規制措置を講じなければならないという考え方だ。
スララ、ティボリで起きている健康被害に予防原則を適用するならば、その原因である可能性が高い農薬散布に対しても、何らかの規制が必要ということになる。


年末のティボリ町訪問以来、私の足は農薬空中散布の現場から遠のいていた。
年が明けた2016年はフィリピンにとって選挙の年だ。5月には正副大統領や国会議員、地方の首長らが一斉に選出される統一選が控えていた。大統領選の取材で慌ただしく、なかなか時間がつくれない。そうやって自分をだまそうとしていたが、本当のところは、農薬空中散布の取材に行き詰まりを感じていたのだ。
マニラへ戻る直前に私は、記事が出せなくなったとフランク神父に告げた。フランク神父は笑って「仕方がない」と答えたが、その目には失望の色がにじみ出ていた。その目に気付き、気後れしたところもある。ただ、教会事務員のローデスさんとは定期的に連絡を取っていた。
スミフルの担当者がフランク神父に約束した飛行場の移転は、1月を過ぎても実行されることはなかった。
建設中の新飛行場が、多国籍企業の進出に抵抗する共産党系反政府武装勢力に襲撃されたことが理由だという。
石井教授が聞いた話によると、スミフルの担当者は3月に再びフランク神父を訪れ、農薬空中散布の縮小と速やかな飛行場の移転を提案した。
それに対し、「そういうことではない」とフランク神父は返したという。「われわれが求めているのは空中散布の廃止だ」
フランク神父は精力的に反対運動を続けた。ミンダナオ島全域での農薬空中散布に反対する全体集会が開かれた時も、スララ、ティボリ両町の現状を必死で訴えた。
2013年にスララの教会へと配属されてから、3年が経とうとしていた。フランク神父は、これまでの運動を通して何度も嫌がらせを受けている。教会の壁に「この町から出て行け」と書かれた。ミサの時、献金袋に銃弾を入れられたこともあった。

統一選が近づくにつれ、ローデスさんから気になる情報が届くようになった。
スララ町の現職町長、副町長は農園の経済効果を挙げて農薬の空中散布を擁護している。これに対抗するため、フランク神父ら反対運動グループが対立候補を擁立し、正副町長選に臨むというのだ。
地方選の話題としてならば、あるいは記事にできるかもしれない。淡い期待を抱いた私は、統一選投票日の前日、5カ月ぶりにスララ町を訪れた。
久しぶりに顔を合わせたフランク神父は、心なしか少しやつれたようだった。相変わらず明るい笑顔で冗談をとばすのだが、どことなく元気がない。選挙運動による疲れのせいだろうか。
選挙運動の手応えはどうだったのか。私はフランク神父に聞いた。その答えは、予想のほか明るいものだった。
「町の人々はわれわれのことを理解してくれたと思う」
フランク神父たちが擁立した対立候補は、これまで反対運動を豊富な知識で支援してきた人権弁護士だ。選挙で勝ったあかつきには、農薬空中散布の問題に法的な手段で対抗する構えだという。
「明日はパーティーだ」
フランク神父は最後にニカリと笑った。やっと本来の陽気さが戻ってきたようだ。


長かった乾期の終わりを告げるスコールが、アスファルトの道路を激しく叩いた。
何度も通った国道を、バスは西へと走る。5月の統一選で大統領に当選したのは、ミンダナオ島最大の都市、ダバオ市の市長だった。ミンダナオから初めての大統領が誕生した瞬間だ。一方、スララ町の正副町長選では、現職の正副町長が圧倒的な勝利を収めていた。フランク神父たちが擁立した候補はことごとく敗れ去ったのだ。
フランク神父に謝りたいことがあった。選挙の後、あるつてからフランク神父が私に不信感を抱いているという話を聞いた。農薬空中散布の問題がまったく報道されないことに失望しているというのだ。
その話を聞いた私は、すぐにローデスさんに連絡を取った。そして、彼女から返ってきたメールの内容にがくぜんとした。メールにはこう書かれていた。
「フランク神父は6月末で別の場所へ移ります」
メールを受け取ったのは6月の半ばだ。慌ててローデスさんに電話し、その週の土日のフライトを予約した。とにかくフランク神父に会わなければ、と私は考えた。会って何ができるわけでもないが、とにかく自分が無力だったことを謝りたい。そう思っていた。
スララの教会で会ったフランク神父は、あきらめと失望に包まれていた。
「私は、何もすることができませんでした」そう私が言うと、フランク神父はしばらく沈黙した後、言葉を返した。
「結局、政府が動かないと何も変わらないようだ」
それが、フランク神父の出した結論だった。自分たちがどんなに抗議しても、たとえ日本の研究者や記者が動いても、結局は何も変わらなかったのだ。
わずか数分のやりとりだったが、フランク神父が笑うことは最後までなかった。
選挙で何が起きたのか。ローデスさんは「前日に突然住民が心変わりした」と話す。現職町長の所属政党が有権者に食糧や金を配ったといううわさもあるが、それを確かめる術はない。
翌日、町で何人かの町民に話を聞いてみた。町の中心部では、ほとんどの町民が現職町長に投票していた。その多くは農家ではなく、乗り物の運転手や市場の売り子といったサービス業に従事している。みな、現職町長の政策に満足しているようだった。
「町長は道路を舗装し、市場を整備してくれた。農園での農薬空中散布は問題だが、使われている農薬は安全で、被害は少ないと聞いている」と話す人もいた。
翌朝、ティボリ町にも足を運んだ。ディゴイ神父も6月末で任期を終えると聞いたからだ。
教会で出迎えてくれたディゴイ神父は、今後の自分の進路について、意外にも明るい見通しを持っていた。
「次の赴任地に行く前に1年間の休暇をもらったから、運動に専念するつもりだ。もっと農薬の空中散布について勉強しないと」
去る者もいれば残る者もいる。選択肢は違うが、フランク神父もディゴイ神父も苦しんだ末に出した結論だった。
ディゴイ神父によると、最近になって改善したこともあるという。農薬の空中散布の時間が短くなり、しかも散布予定地や日程が事前に掲示されるようになった。
「きっと住民の怒りが伝わり始めているんだ」
そう話すディゴイ神父は、まだ希望を捨てていないようだ。

擁立候補の落選が決まった直後、フランク神父は聖書の一節を布に書き写し、聖堂の壁に貼り付けた。そこに、配属されてからこの教会で過ごした3年間の思いをすべて注ぎ込んだ。
それが、『新約聖書』コリント人への第一の手紙4章12・13節だった。
この節に込めたメッセージは何だったのか。フランク神父に直接聞いたが、照れくさいのか、はぐらかされるだけだった。
日曜の夕方、聖堂ではその日最後のミサが執り行なわれていた。聖堂中央にそびえるキリスト像が、オレンジ色に染まっていた。
私は、壁に貼られた聖書の一節の意味を知りたかった。ふと知り合いに日本人牧師がいることを思い出し、電話を掛けてみた。
「彼は素晴らしい方ですね」
事情を説明すると、牧師は即座に答えた。「人には限りがあるものですが、彼は誇りと信仰を持って闘ったのです」。
コリント人への手紙は、使途パウロが内部対立や問題を抱えるコリントの教会に送った書簡だ。パウロは手紙で教会の人間に対し、信仰の下に再びまとまるよう説いている。
空中散布の反対運動に敗れたフランク神父は、スララ町で起きている問題をコリント教会の問題にたとえたのだろう。どんなに苦しくても再びまとまって立ちあがってほしい、そんな願いをメッセージに託したのかもしれない。


薄暗い土の道をトライシクルは進む。雨でぬかるんだ土の匂いが立ちこめ、タイヤが泥をはねあげた。
市民団体「バトアン」のプエルト神父に、もう一度会おうと思った。連絡を取ると、神父は会わせたい人がいると言って私をトライシクルに乗せた。そうして今、暗い道を走っているのだ。周りの景色には見覚えがあった。
やがて、トライシクルは一軒の民家の前で止まった。家から出てきた中年女性は、私のことを知っているようだ。半年前にインタビューした車いすの元農薬散布者、ルデーン・ダグムさんの母親だった。
家にダグムさんがいないことに気付いた。プエルト神父が母親と言葉を交わす。嫌な予感に体を硬直させていると、同行していたローデスさんが教えてくれた。
「5月前に歩けるようになって、今はバイクにも乗れるのだそうよ」
ローデスさんの顔がほころんだ。思わず私も喜びの声を上げた。
しばらくして、ダグムさんが家に戻ってきた。いまだに足は引きずっているが、以前よりもすこしふくよかになったようだ。
治療に掛かった31万ペソの借金は今でも残っているという。ただ、奥さんのジェニーさんは無事に出産を終え、7カ月目のかわいらしい赤ん坊を抱いていた。
「なんとか生き残った」
ダグムさんは明るい声で言い切った。

帰るころには、陽はすっかり落ちていた。トライシクルのライトに照らされる道路の一部だけが辛うじて見える。夜になって降り出した雨が、サイドカーの屋根を叩いた。農園をめぐる問題を除けば、ここはのどかな田舎町だ。そんな当たり前のことに、ようやく気が付いた。
これからどうするのか。トライシクルの中で尋ねると、プエルト神父は迷わず答えた。
「人々がまだ困っているのだ。良いことが起きるまで戦い続けるよ」
サイドカーの車内灯に照らされたプエルト神父は白い歯を見せて笑った。フィリピン人特有の陽気な笑顔だった。(了)

第26回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」佳作入選作

在特会壊滅への道

 

山口祐二郎

  オープニング

 

現在、人種差別団体『在日特権を許さない市民の会』(略称 在特会)は衰退の一途を辿っている。

在特会の桜井誠は会長職を退任し在特会を引退。桜井誠をいつも護衛し、関西で差別活動をおこなう中心団体であった『純心同盟』は解散した。

今は副会長だった八木康洋が在特会会長に就任しているが、差別デモの参加者は激減していき、目立った活動はないし、全く勢いはない。在特会への政府、警察、検察、裁判所の対応は変わり、まだまだ甘いが徐々に厳しいものになっていったのだ。

在特会がおこなうヘイトスピーチ(差別扇動表現)は、社会問題として広く世間に知られるようになり、国会ではヘイトスピーチを対策する法規制まで議論されている。

ヘイトスピーチとは広義では、人種、宗教、性的思考、性別、などの、生まれついて変えることのできない、また変えることの非常に困難な属性、社会的弱者のマイノリティーを偏見、差別する表現行為である。

ニコニコ動画、生放送を運営する株式会社『KADOKAWAD・DOWANGO(角川ドワンゴ)』は、在特会公式チャンネルを閉鎖。法務省はヘイトスピーチの防止を啓発するポスターを作成し、中央省庁や出先機関、自治体などに配布し啓発活動をするまでになった。

そのような状況になったのは、在特会に対し、今まで多くの方々がカウンターと呼ばれる抗議活動をしてきた成果もある。だが、在特会が求心力を失った背景には、私が会長をしている『憂国我道会』の活動が結果的に大きく関わることになった。この文章ではそれを書きたいと思う。

まず、在特会について知らない人がいるかもしれない。在特会がどんな集団だかを最低限の説明をしよう。

在特会は二○○六年に生まれた。会員は一万五千人以上、日本最大の市民団体といわれている。

しかし、実際にはそんな大勢の会員を見たことがなかった。それは、在特会の会員にはネット会員というカテゴリーがあり、登録用の申し込みフォームに書き込むだけで入会できるからだ。名前は仮名でOK、電話番号も記す必要はない。

在特会の活動理念は実にシンプルだ。団体名の通り、日本で暮らす在日朝鮮人には特権があるとして、在日特権を許さないという一点に尽きるといってもいい。

ちょっと調べれば分かることなのだが、在日特権などはない。しかし、在日特権があるというデマが、日本には都市伝説のように広がってしまっている。ネットを見たりすると在日特権があるように書いてあるので、ひょっとしたらあるのかなとデマ情報を鵜呑みにしてしまう人が多いだろう。実際に調べるまでいかない人が、大半だからだ。

そして在日特権なる嘘のせいで、日本国民による在日朝鮮人への憎悪がモロに出てしまっている。昨今の嫌韓本などはまさにその象徴だ。私はそれを危惧している。

実際に、拉致問題や竹島問題などを理由に、在日朝鮮人を嫌いになってしまう人間が多く見てきた。その嫌悪感を抱いている層の受け皿が、在特会をはじめとする人種差別団体になっていたりする。政府と民は関係ないのにである。政府と民を、一括りにして差別をするのだ。

ネット右翼といわれる2ちゃんねるなどのネット掲示板で、「チョン死ね」などと、過激な排他発言を行なう層が、リアルな世界に出てきて街頭で活動するようになった感じだろう。

在特会は自ら愛国者と称し、日の丸の旗を掲げている。しかし、在特会の運動は、社会的弱者(マイノリティー)の在日朝鮮人を差別する運動というのが真相である。

そんな運動体になぜ多くの人が集まったのか。活動は差別で良くないことだが、在特会は運動体としてはかなり優れたものであった。

在特会には既存の多くの右翼、左翼団体と違い、活動の参加数などノルマがない。うるさい決まりもないし、会員でも会費も取られない。もちろん、破門や除名もない。このシステムはとても良くできている。

また、大抵、右翼、左翼団体というのは団体の所属のかけ持ちは禁止である。しかし、在特会はかけ持ちはOKだ。そして、在特会のような似た団体が数多くある。
気楽に団体に入り、活動に参加して仲間ができる。そして活動に慣れてきたら、自分でも団体を立ち上げてリーダーになれるのだ。

みんながかけ持ちなので、すぐに入会してくれる。リーダーになって活動を主催しても、色々な団体に所属しているので仲間は多く、参加者に困ることはない。人種差別をする仲間たちで、いかなるときでも協力し合えるようになっている。みんなに光が当たり、リーダーだけ目立つようなこともないのだ。

そして、しばしば合同で大々的な活動やるのだ。実際には、ほとんどのメンバーがいくつかの団体をかけ持ちしている。それでも、デモは最盛期で五○○人程の参加者がいて、既存の右翼活動なんて比べ物にならない動員力が在特会にはあった。

今は壊滅状態で、ほとんどのデモで五○人も集まっていないと思う。

(さらに…)

金曜日ちゃんねる 「セブン-イレブンだけじゃない!? 本当は怖いフランチャイズ商法」

フランチャイズ商法とは?

編集長
『週刊金曜日』編集長今週号は「フランチャイズ商法の怖い話」ということでフランチャイズという問題を扱っております。その特集のデスクというかですね、編集をしました編集部の片岡を呼んでおります。片岡さんはセブン-イレブンを、この間ずっと担当していますが、「23兆円業界!! この業界には規制法が必要だ」という特集ですね、頭のところは。この規制法って言うのはフランチャイズ法ということですね。このフランチャイズ法っていうのは日本にはないんですか?

片岡
日本にはないんですね。フランチャイズができて半世紀ですが。

編集長
フランチャイズっていうのはそもそもどのような業態のことを言うんでしょうか?

片岡
一つのパッケージされたビジネス。統一ブランドで同じ商品を全国のどこの場所でも同じ値段で買えると、そのための宣伝は中央でやる。仕入も中央に任せろ、あとは同じモデルで売ってくれるだけで商売が成り立つ、というのがフランチャイズの言わば宣伝文句ですね。あるいはシステムもそうです。

編集長
そのフランチャイズというのが、表紙(11月28日号)でもマクドナルドとかTSUTAYAだとかドラッグストアチェーンとかありますけども、これは要するにそれぞれ本部が100%経営している訳ではなくて、地元の人で自分がやりたいという人が、一部経営権を委ねられてやっていると、いうかたちなんですか?

片岡
二種類ありまして、本部が直営している直営店。今言ったような地元の人が契約して一定の資金を出してもらって、フランチャイズ契約、それぞれ独立した業者、自営業として契約をするフランチャイズ店の二種類あるんです。で、コンビニがフランチャイズの旗手ですけれども、外食店、電器店、ドラッグストア、それぞれ直営とフランチャイズの比率は違うんです、違うんですが、基本的にはその二種類で成り立っているということです。

編集長
コンビニはセブン-イレブンとか(週刊金曜日では)長くやっていますけれども、コンビニオーナーという言葉がありますが、このマクドナルドとかもオーナーがいるということですか?

片岡
そうです。マクドナルドも今フランチャイズの比率を高めようとしています。しかし、この間の業績悪化で今問題になっていますね。それで都内のあるオーナーは5店舗か6店舗持っていたオーナーがいまして、ところがそのオーナーが「もう辞めた、フランチャイズ契約しない」という動きがでていますね。そのほか、これまでずっと半世紀フランチャイズは伸びに伸びてきたわけですが、ここに来て大きな曲がり角にきているという状況です。それは業績的にもそうですし、フランチャイズ商法そのものが働き手にとって果たして幸せなのか? というところで深刻な問題をさまざまに生んでいる、という状況なんです。

フランチャイズ商法の問題点と行政

編集長
表紙(11月28日号)は「フランチャイズ証法の怖い話」という風にうってますけど、もちろんメリットもあるでしょうけども、この「怖い話」の部分ですよね、フランチャイズ商法はどういう問題が?

片岡
基本的に独立した経営者としてフランチャイズのオーナーと本部という関係があるんですけども、まあ、契約上はそうなっています、題目はそうなっているけども、基本的に、ほとんど利益を本部に吸い上げられて、働き手はまさに24時間働きっぱなし、もちろん(オーナーが)従業員を雇うわけですけれども、働いても働いてもなかなか利潤が自分(オーナー)のところには入ってこないという状況が一つ。本来それは24時間残業をさせれば残業代が発生するわけです。従業員であれば。しかし、契約上独立した事業者ということになるので、残業代を払わない,社会保険も必要ない、そうした本来経営上のリスクを負うべき本部が、リスクを負わない仕組み、簡単に言うとこれがフランチャイズの大きな問題点、それによる訴訟が多発している、という状況なんです。

編集長
セブン-イレブンなど(コンビニ)については、訴訟を『週刊金曜日』でもたびたび報じてきているんですけども、それ以外のフランチャイズについても訴訟が起きているということですか?

片岡
そうです。コンビニだけじゃなくて、やはりフランチャイズをめぐるさまざまな訴訟っていうのはこの間増えているんです。ただ、そのデータをどこも、つまり経済産業省でもフランチャイズ協会という業界団体がありますけども、ここに取材をしてもですね、だれもその実態を把握していないという状況でして、労働あるいは損害賠償に関わっている弁護士への取材の中から増えているいう状況が
わかるという状況なんですね。その意味でも業界規制法が必要だという指摘をしています。

編集長
『週刊金曜日』ではそもそもフランチャイズと言えばセブン-イレブンとかコンビニエンスストアを中心にやってきたんですけども、次第に取材を重ねていくうちにフランチャイズ商法がそもそも、今言われたように問題点があると、いう風な話になっていったと思うんですが、これを問題視しているというのは弁護士の方もいましたけれども、ほかに日弁連、日本弁護士連合会もですね、「経済産業省が立ち上げた『コンビニ研究会』の茶番」(11月28日号23ページ)とありますけども、行政などはどのように捉えているんでしょうか?

片岡
行政も問題だということは分かっていて、さまざまな資料、まさにこの『週刊金曜日』で連載しているセブン-イレブンの連載などはじめさまざまな資料を集めてはいて、問題だということは分かっているんです。分かってはいても、経済産業省としてはいまのところ法律は必要ないという立場を明確にしています。一方で日弁連は「消費者問題対策委員会」ですでにこのフランチャイズ規制法の素案を発表しているわけです。ここでやはり業界は、基本的にはそういう法律は必要ないという立場ですし、一方でさまざまな訴訟がおきるなかで、日弁連は必要だと。で、経済産業省はその中間にいて本来その全体像を見渡して半世紀にわたる業界の現状をみて、一定のルールが必要だろう、という方向に傾いてもいいはず、ところが公取委(公正取引委員会)以外はこの問題をきちんと、法的にあるいは社会的に是正していこう、という動きがない、というのが現状で、経産省の業界言いなりの官業癒着の、この省の体質が本当に垣間見える問題なんですね。

編集長
「研究会の茶番」とありますけれども確かに入っているメンバー見ますとですね、各コンビニエンスストアの代表、あと『読売新聞』などのマスコミもちょっといますよね。ただ、これ『読売』と『日経』ですしね、これ学者の方たちいますけれども、「御用学者」と言ってしまうとアレですけれども、実際のところはどうなんですか?

片岡
誌面(11月28日号)にも書いてありますが、法学部とかメディア研究とか商学部とか書いてありますが、たとえば独占禁止法の問題だとか、消費者問題の専門家が誰一人としていないわけです。加えてコンビニの、これ地域貢献というテーマでやってる研究会なんですが、地域に貢献するには全国各地の約5万店のコンビニのオーナーがいるわけですけれども、そのオーナーの声を聞かずしてなぜ地域貢献を語れるのか、この人たちが。この構成はですね、現在安倍政権のいくつかの諮問会議があります。そのメンバーの構成と大差ないんです。 結局は安倍政権の新自由主義的なと言おうか、言論無視だと言おうか、労働側無視だと言おうか、その人たちの人選だと、という風に思えてなりません。

編集長
まあ、新自由主義という言葉もですね、一見自由主義ですけれども、経済上の自由主義、しかも、さらに言えば企業にとっての自由という話であって、労働者にとっての自由というのは二の次、三の次ですからね。

片岡
まさにそうです。フランチャイズ(franchise)って英語ですけれども、もともと語源はフランス語で編集部の成澤さんにきいたところ、フランシーハ(franchir)と発音するそうなんですが、これは「自由民になる」とか、あるいは「解放する」「解放させる」というのが本来の意味なんです。今日本において進行しているフランチャイズというのは、まったくこの語源の反対、「従属させる」「隷属させる」とうのが実態なんですね。ですから、まあブラックジョークのような言葉の語源と現在のフランチャイズの実態というところ、それがさまざまな問題を生んでいると思います。

編集長
本当にその、サラリーマンをやっているとか、いろんな形で自由になりたいからということで、社長になれば一定の自由が得られるだろうと、ということでオーナーになられる方も多いと思うんですけども、その結果単に見せかけだけで、名ばかりオーナーで仕入からなにから本部のいいなりになってしまって逆らえない状況、この実態というかこの認識のギャップというのが日本中認識されていませんよね?

片岡
されてません。今年の3月に岡山県の労働委員会が「コンビニ店主は労働者」という労働委員会の命令がでています。(11月28日号24ページ)これは現在セブン-イレブン、の不服申し立てで中央労働委員会にかかっていますが、地方の労働委員会の命令がでるだけでも相当これは、要するに立法の矛盾なわけです。本来労働者的な働き方をさせて、その利益を吸い取っている本部側の構図、本来本部は店長として雇って24時間営業させて利益は本部にいくならまだわかる。それでも残業代は払わなければならないですけど。今はお互いに独立した事業者という建前になっていて、働いている実態は労働者ということですから、今後フランチャイズ法がないと、これがこのままで労働法を脱法化した産業ということが実態としてさらに半世紀続くのかどうか。これは日本だけではなくて、アメリカでも訴訟が起きていまして、日米フランチャイズ紛争とでも言うべき状況になっている。
これは日本ではなかなか知られていないわけです。なぜならメディアが報じないから。

メディア最大のタブー セブン-イレブン

編集長
本当にメディアが報じないですよね。セブン-イレブンっていうのは私もラジオとか出てましたけども、セブン-イレブンの話だけはNGだっていわれたこともありますしね、本当に広く薄く広告であったりとか、雑誌界もコンビニエンスストアにおいてもらっていますからね。叩けないと、いろんなアングラをやっている雑誌とかでもコンビニの批判はできませんよ、という話は昔から聞いていましたけれども、私も電通とトヨタをやりましたけど、セブン-イレブンが今最大のタブーなのかなと思いますね。

片岡
そうですね。リテラ(LITERA)というネット内のニュースで『週刊金曜日』がやった連載あるいは、『セブン-イレブンの正体』『セブン-イレブンの罠』という本の中からわかりやすいところをきちんと的確にピックアップして、紹介してくれています。これが今ネットで反響をよんでいるようで、この本の売り上げも伸びているということを聞いていますが、そういう状況はネット内であれば、広告費(スポンサー)と関係ないのでどんどん広まって拡散できる。しかし、相当の広告費をつぎ込んでいるテレビあるいは新聞、雑誌などは真っ正面から批判ができない、という状況があってほとんど言論的にも封殺されているという状況です。ですが、多くの人にこのフランチャイズ、本当の言葉の意味での「解放される」「自由民になる」という業界になるように改善されれば、社会的にも地方の経済にとってもいい方にいくんじゃないかなと思います。

編集長
そうですね。リテラはサイゾーさんがプラットホームを提供しているサイトですけれども、そこでいろいろセブン-イレブンの記事を書くということで、ちょっと連絡もありましたけれど、セブン-イレブンについては『週刊金曜日』も『セブン-イレブンの正体』をだして、次に『セブン-イレブンの罠』というものを出しています。これも最近、突然火がついて今在庫がほとんどなくなってしまったということなんですけれども、このモデルというのはコンビニエンスストアだけの話じゃなくて、日本中に溢れている23兆円の産業を築いているフランチャイズのモデルというのをセブン-イレブンを通して見るということができるわけなんですね。なのでこの分野っていうのは私は本当にあくどいビジネスモデルとしてすごく逆に学ぶところがあるなと思っているので、それをやはりいろいろ研究して対抗した方がいいんじゃないかなと思っていますね。それ以外の記事として「セブン-イレブン“鈴木帝国”の落日」っていう記事もあってこれはまさに『セブン-イレブンの罠』を書いた渡辺仁さんが書いています。

片岡
渡辺仁さんがよく取材して書いています。セブン-イレブン、まさにフランチャイズの旗手として、この間伸びてきてトップをひた走っているわけですが、いよいよ鈴木敏文会長2015年10月退陣説というのがでてきています。これは全国のコンビニ、セブン-イレブンだけじゃなくてコンビニ業界のオーナーにとっては本当に注目する状況だと思います。なぜなら、という話はここで読んでほしいんです。一人が退陣してなんでそんなに影響があるのかは、この中を読んでいただければ分かるし、これは上となっていて下もあります。次回に続くということになるのですが、鈴木敏文さんだけの問題ではないということが中を見てみればわかります。そもそもフランチャイズ、全国に小売店が103万店あります。チェーン店の数は、今やその四分の一を超えた25万店以上になっておりまして、全国の小売り業界の中でフランチャイズがしめる位置が極めて高くなってなっていると、百貨店をコンビニは抜いておりますし、ガソリンスタンドの数あるいは郵便局も抜いています。 なのでこうした町並み(11月28日号表紙)が全国津々浦々決して珍しくない状況になっています。いろんな問題点があるんですけど、中野和子弁護士がここ(11月28日号22ページ)で指摘していますが、「地方経済を疲弊させた」というような指摘がありまして、これも非常に重要な指摘なわけです。なぜ地方が疲弊してしまうのか、ということが短いですがコンパクトに書いてあります。

地方経済の疲弊とフランチャイズ商法

編集長
非常に興味深い指摘でしたね。フランチャイズについて正面からその実際にある問題に取り組んだメディアっていうのはいまだかつてなかったのではいないかと思います。決してすばらしいビジネスモデルではなくて、オーナーの基本的には労働力を安く使っているというところに究極のその利益の源泉があるという話です。さらにそれが地方経済を疲弊させるということに拡がっていき、今後おそらくここ数年以内に大きな問題になるだろうと、そのことはもはや逃げることはできないんじゃないかなと思いますね。

片岡
そうですね。長谷川亜希子さんという弘前大学の准教授の方が指摘しているようにアメリカで訴訟が相次いでいると、この訴訟の中で先ほど言ったコンビニ加盟店オーナーが、独立した事業者ではなくて実は労働者であるという判決が仮に今後出てきた場合、日本も先ほど言ったように中央労働委員会にかかっています、これが出てきた場合にはコペルニクス的転回をフランチャイズ業界はしなければいけない、という状況になるわけです。その問題をおそらくメディアでは最初に指摘できた特集だと思いますので、ぜひ多くのフランチャイズのお店のオーナーの方に読んでいただきたいと思います。そしてフランチャイズの語源通りにオーナーの方たちが隷属的な契約と働き方から解放されて、自由民になるような、そういうような経済社会、労働社会になっていけば。フランチャイズもようやくそのときに社会貢献したということになるので、経済産業省のコンビニの地域貢献というような茶番ではなくて、きちんとした本質的な地域貢献をそのとき初めてできるという状況になるんじゃないかなと思います。

編集長
そうですね。フランチャイズをなくせという話ではなくて、適正に運用しなさいよ、という話です。なので105万店それぞれオーナーの方も数十万人いらっしゃると思うので、そういう方たちにぜひとも読んでいただきたい特集になっています。ぜひご覧ください。

片岡
オーナーも儲かる、地域も儲かる、そして本部も儲かればいいという状況にするためには、やはり出来るだけ早い規制が必要という認識に多くの人が気づいてほしい、最たるものは経産省ですが、そういうところから声が上がってほしいという思いを込めて作りました。

第25回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」佳作入選作

「リトル・ダマスカス」

 原田裕介

 エジプトの首都カイロの西およそ30キロ、車で1時間ほどにある10月6日市。1981年、エジプトの第3代大統領サダトが暗殺された日にちが名されたこの街は、砂漠に作られた衛星都市として知られている。ピラミッドで有名なギザ県内の都市の一つだが、これといった観光名所があるわけでもなく、一般的にその名を耳にすることは少ないかもしれない。荘厳なアル・ホサリ・モスクを街の中心に、隣接する10月6日大学の学生を目当てに、周辺には飲食店や商店が立ち並ぶ。衛星都市のその名の通り、国内外の銀行や通信会社、各メディアの支店があり、郊外には広大な工業団地が広がっている。幹線道路沿いに並ぶ大型ショッピングモールは、週末にはたくさんの家族連れで賑わう。出来てからおよそ30年という街としての新しさや、衛星都市としての秩序もあって、この街には一般的なエジプトの喧騒や、砂埃にまみれた雑然とした雰囲気を感じることは少ない。街の中心は小綺麗に清掃されており、主要道路は比較的整備されている。
 しかし、この人口50万人ほどのエジプトの中都市が、2012年ころを境に違った一面を持ち始めた。シリアからエジプトへと逃れてきたシリア人難民たちが、この街に小さなコミュニティを形成し始めた。シリア内戦の長期化に伴い、エジプト国内で増え続けるシリア人難民は、この街のコミュニティを徐々に大きなものに変えていった。かつては大学周辺に4、5店しかなかったシリア料理レストランは、今では200店舗を超えると言われており、シリア人経営の喫茶店や散髪店、雑貨店が街の中心にところ狭しと並んでいる。リトル・ダマスカス、この街に暮らすシリア人難民たちは、親しみを込めて密かにそう呼んでいる。

 2011年3月から始まったシリアの民主化運動は、やがて泥沼の内戦へと突入し、3年が過ぎた今もその終わりは見えてこない。内戦による死者は14年4月の時点で、15万人を超え、その3分の1は民間人と言われている。また、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の14年2月の報告によると、およそ250万人が戦火を逃れ、難民として国外での避難生活を余儀なくされており、その数は今も増え続けている。その多くはレバノンやトルコ、ヨルダン、イラクなどの近隣諸国への避難が大半を占めており、エジプトのシリア人難民の数は、2014年の時点でおよそ13万人と言われている。エジプトに逃れてくるシリア人難民の内訳は、65%が首都ダマスカスやその周辺地域からで、14%が中部のホムス、残りが北部のアレッポやその他の都市となっている。近隣諸国と異なりここエジプトには、国際機関による難民キャンプなどはなく、すべてのシリア人難民が都市難民としてエジプト社会の中で生活をしている。10月6日市のシリア人難民の数は、出入りが激しく正確な数字は把握されていないものの、3万人から5万人と言われており、彼らもまた同様に、その全てが都市難民として生活をしている。
 では、なぜこれほど多くのシリア人難民が広大なエジプトの中で、このカイロ郊外の小さな街を選び、リトル・ダマスカスと呼ばれるほどのシリア人コミュニティを築き上げたのだろうか。取材したシリア人やエジプト人たちに繰り返し尋ねてみても、当の彼らですら明確な答えを持ち合わせていない。彼らの多くは、エジプトに避難して来た当初はカイロなどの異なる街に暮らしていたという。徐々にシリア人難民がこの街に増えていくに伴い、食材や日用品など母国での生活により近いものを求め始めた。多くは同郷の知り合いなどの情報を元に、この街に移り住んできている人がほとんどだった。この街でシリア内戦前から弁護士として働き、今も頻繁にシリアとエジプトを行き来しているという、シリア人のムハンマドは言う。
「もともと私の親戚がこの近くに住んでいたのがきっかけで、この街に事務所を構えました。その頃、この街にはシリア人は数えるくらいしかいなかった。それが、シリア内戦の影響が全土に広がった2012年を過ぎた頃から、徐々にシリア人難民の数が増えだしてきました。その中の一部がシリア料理レストランを経営し始め、またシリアの日用雑貨や食品を販売し始めた頃から、それを求めるように急激に増えていったんだと思います。もう一つは、この街はカイロなどのエジプトの都市と比べて、シリアの街並みに似ているということもあると思います。カイロなどの街の喧騒や雑然とした雰囲気は、我々シリア人にとってはなかなか耐え難いものです。その点、この街は他の地域と違って街は比較的整備されており、治安も悪くありませ
ん。それも大きな要因だと思います。」
 
 シリア人難民にとって、もちろんエジプトはあくまで一時的な避難先と考えている人がほとんどだ。同じアラブの国であったとしても、シリア人にとってはエジプトは外国あり、異国である。その異国での長引く避難生活の中で、食や文化、街の雰囲気など母国に近似したものを求めるのは当然といえば当然なのかもしれない。いわば避難先で、より母国に類似する環境を求めたシリア人難民たちが構築した、小さな代替的なシリア社会が、更なる人や文化を呼び込み、自然に拡大されたものが今のリトル・ダマスカスと呼ばれるものになったのではないだろうか。

 リトル・ダマスカスの中心部で、小さなシリア料理レストランを共同経営しているアブ・ムハンマド(42)と初めて会ったのは、エジプトの短い春の陽気が終わろうとしていた4月の終わりだった。シリア人の知人に仲介してもらい、私とエジプト人通訳のアバダは、彼のレストランへと向かった。アブ・ムハンマドは、店頭で器用にクレープ生地を薄く伸ばし、シリア風のサンドウィッチを淡々と作り続けていた。頭にはターバンを巻き、白い調理服は所々にシミが目立つものの、清潔感が保たれていた。昼時の忙しさのせいかその表情に柔らかさはなく、目元に浮かぶ深い皺が、彼の気難しさを物語っているように見えた。
 ピーク時が過ぎ、客が途切れた頃合いを見計らって、私は彼に近づいた。アラビア語の定型の挨拶の後に、アバダの通訳を介し、このリトル・ダマスカスに暮らすシリア人難民を取材している旨を伝えた。彼は私への警戒心を隠そうともせず、差し出した右手を怪訝な表情を崩すことなく握り返した。彼は鋭い視線を私に据えたまま、アバダの通訳を黙って聞いていた。何かに納得したかのように数回頷くと、アバダの通訳を半ば強引に遮って言った。「俺の何が聞きたいんだ?聞いたら貴方は何かしてくれるのか?」彼は挑発するように口元に微笑を浮かべ、握った右手を乱暴に離した。うんざりするような仕草でタバコに火をつける彼に説明を続けるも、私に対する懐疑の念が払拭される様子は見えてこない。次第に彼の不快感は、エジプト人とエジプト社会への怒りへと矛先を変え、通訳のアバダに対して、強い口調で非難を繰り返した。「俺はエジプト人を信用していない。我々シリア人とエジプト人は同じアラブ人で、助けあうべきなのに、あなた達は何もしてくれない。俺達をよそ者としか見てない。」彼は、一気に怒りをぶちまけ、その後に僅かに浮かんだ哀切の表情を隠すかのように、素早く仕事に戻った。私は、後日また来る、と伝え残してその場を後にせざる得なかった。
 私に対する警戒心や不信感の理由は、充分に理解していた。それは、決してこの街では珍しいことではない。リトル・ダマスカスに暮らすシリア人難民の多くは、取材をされることを極端に恐れていた。特に反体制側の人々は、アサド政権や在エジプトシリア大使館、そしてアサド政権と繋がりが強いと言われているエジプト政府によって、拘束もしくは本国への強制送還を強く恐れていた。加えて、私がアサド政権やエジプト政府の回し者という可能性も危惧しているように思えた。しかし、エジプト社会に対するあそこまでの憤りを見たのは初めてだった。今までにもシリア人難民から、エジプト社会への不平や不満程度のものなら数多くは聞いてきた。それでも、彼らの発言の中には、難民である自分たちを受け入れてくれたエジプトに憂慮するニュアンスが、言葉の端々に散りばめられていた。しかし、彼はエジプトへの憤りを隠すことなくアバダに、そして私にぶつけてきた。彼のその怒りの中に、エジプト社会で避難生活を送るシリア人難民の深い苦悩と憤懣を感じた。

 その日以降、私はリトル・ダマスカスに行く度に、アブ・ムハンマドの元へと向かった。彼はいつもの厳しい表情を崩すことはなかったが、レストランの傍らでお茶を飲んでいる私達と、少しづつ話しをするようにはなっていった。彼の元に通い始めて1ヶ月が過ぎるころには、彼の表情にもアラブ特有の人懐っこさが見え始めた。彼の眼光の鋭さは、相変わらず私に対して心を開いてないことを物語っていたものの、彼が当初感じていた私やアバダに対する不信感は徐々に薄れていっているように感じた。そして、彼は少しずつ自らのことを話し始めた。 
 およそ2年前の2012年の春、彼は妻と6人の子どもたちをシリアに残し、首都ダマスカスからレバノンへと避難してきた。その数日前、彼の父と兄の一人が政治犯の疑いで治安部隊に逮捕され、もう一人の兄は自由シリア軍兵士(FSA)として、アサド政権に拘束された。2011年のシリア民主化運動当初からアブ・ムハンマドも活動家の疑いで、アサド政権から目をつけられていたという。それまで何とか捕まらずに済んでいたが、父と二人の兄が捕まり、彼の逮捕も時間の問題だった。「確かに兄の一人はFSAとして、アサド政権と戦っていた。でも、父も俺もただの土木作業員にすぎない。最初はデモに参加したこともあったけど、決して活動家なんかじゃない。」「シリア政府のウェブサイトには、今も俺は反政府活動家として載っているはずさ。」彼は少しおどけたように付け加えた。彼は無事に避難できたら必ず妻子を呼び寄せることを約束して、一人でシリアを脱出することにした。反政府活動家の疑いが掛けられている彼にとって、シリアからの脱出は容易なことではなかった。見つかれば治安部隊に拘束されるか、最悪は殺される状況の中で、知人や友人の助けを借り、そしてなによりも様々な場所で多額の賄賂を払い、陸路レバノンまで逃れた。レバノンには僅か数日の滞在で、空路エジプトへと向かった。「レバノンは物価も高いし、何よりシリアとは文化が違いすぎる。避難するなら家族のためにも、文化的にも近いエジプトだと初めから決めていた。」

 ようやくエジプトに辿り着いた彼だったが、家族や親類がいるわけでもないエジプトで、仕事や家のあてもなく、さらに所持金はほぼ底をつきかけていた。彼はカイロのいくつかの街の路上で寝泊まりをした。「あの状態では家族を呼び寄せることもできなかった。援助機関やエジプト人は何も助けてくれなかった。」彼のエジプト社会への憤りや失望の原因は、この頃に沸き起こったのだろうか。淡々と話す彼の表情には、怒りよりも悲しさが色濃く滲んでいるように見えた。
 そうして、路上生活者として数ヶ月間エジプトを転々として辿り着いたのが、この街だった。その頃の10月6日市には、まだそれほど多くのシリア人難民が住んでいるわけではなかった。しかし、少しづつ増えていくシリア料理レストランの安さと味の評判によって、街は多くのエジプト人たちで賑わい始めていた。しばらくするとアブ・ムハンマドは、この街で知り合った同郷のシリア人と共同で、小さなレストランを経営し始めた。徐々に増えだしたシリア人難民の数と比例するように、店は軌道に乗り始めた。そして、数カ月後には家族を無事にリトル・ダマスカスへと呼び寄せた。「もちろん、今でもエジプトに対して不満はある。ただ、一人ひとりのエジプト人たちはいい人達だし、ここでの生活だって、大きなトラブルはない。でも、エジプト政府は我々シリア人難民に対して、何もしてくれなかった。UNHCRなどの機関だって、僅かな金や配給券をくれるだけだ。根本的に何もしてはくれない。」
 
 エジプト社会のシリア人難民への対応や、政府による支援策は、2013年7月を境に、大きく変化した。2012年6月、エジプトの「アラブの春」以降、初めて行われた大統領選挙に勝利したのは、シリアの反体制派を支持するムスリム同胞団出身のモルシ氏だった。モルシ大統領政権は、増え続けるシリア人難民を寛容に受け入れてきた。母国から逃れてきたシリア人難民に対し、内戦前と同様にビザを不要とし、エジプト国内での移動も、働くことも特に大きな問題もなかった。社会も彼らシリア人難民たちの状況を理解し、寛容に受け入れている雰囲気があったという。それが2013年7月、実質的な軍のクーデターによってモルシ大統領が失脚すると、彼らシリア人難民を取り巻く環境は大きく変化した。クーデター以降、軍の後ろ盾によって発足された暫定政権は、シリア人難民がエジプト国内でテロ組織に指定されたムスリム同胞団を支持しているとして非難し、テレビや新聞を中心としたメディアも、次第に反シリア人キャンペーンを展開し始めた。ネットや携帯電話の普及率も年々増してはいるものの、エジプト人の主要な情報源は未だテレビや新聞が握っている。そのため、確証のないこのような情報によって、シリア人難民に対するエジプト社会の風当たりは急激に厳しいものになっていった。暫定政権は、治安維持の一環として多くのシリア人難民を拘束し、その一部をシリアに強制送還した。
 日常生活でも、彼らに対する暴力や差別も増えていった。今までは不問だったビザも、エジプトに逃れてくるシリア人難民全てにビザの取得を義務付けた。しかし、モルシ政権崩壊以降、シリア人難民のエジプトビザの取得はほぼ不可能だと言われている。そのため2013年7月を境に、多少金銭的に余裕のあるシリア人難民は、エジプトでの逮捕、拘束、差別や暴力を恐れ、またエジプト経済の停滞や政治混乱から逃れるように、トルコやヨルダン、レバノン、そして欧米諸国へと向かっている。
 しかし、アブ・ムハンマドはシリア人難民に対するクーデター前後のエジプト社会の変化を一笑した。「俺はそうは思わない。モルシ大統領はシリア人難民に対して、聞こえのいいことは確かに言っていたけど、実際は何にもしてくれなかった。中身は何もなかった。もちろん、シシ次期大統領にだって俺は何も期待してない。」
 アブ・ムハンマドもまた、いつシリアに戻れるかも分からない状況の中で、エジプトを離れることを考えているという。「エジプトには、なによりシリア人難民の人権がない。我々はいつまで経っても難民のままだ。エジプトの状況はこの先も改善しそうもないだろう。」「万が一、シリア戦争が終わったとしても、アサド政権が勝った場合は、俺はシリアには戻れない。その時は、家族とともにヨーロッパに行きたいと思ってる。」彼の難民生活も2年が経とうとしており、単なる一時的な避難という考えは薄れ始めている。
 ひと通りの話を終えた頃、彼は少し考えるように俯き、少し間を置いた後に、ゆっくりと語り聞かせるように再び話し始めた。「シリアからエジプトに逃げてきた当初は、最悪だった。路上生活を送っていた日々は本当に最悪だったんだ。それでも内戦のシリアよりはマシだったのかもしれない。今は仕事があって、家族と一緒に居て、子どもたちを学校に通わせてあげられる。それだけで充分な気もするんだ。」「それでも、いつも思う。ここはやっぱり俺の国じゃない。俺の国はシリアだけなんだ。」彼は最後に携帯電話を取り出して、故郷の街の写真を私に見せてくれた。「とても綺麗なところなんだ。いつか遊びに来いよ。」そういうと、自分も懐かしげに写真を眺め、深くため息をつくと、ゆっくりと仕事に戻った。

 次第に空が暗くなり始め、リトル・ダマスカスの店々にも明かりが灯り始めた。一日の仕事を終えたシリア人やエジプト人たちが、オープンテラスの喫茶店に集まり、水タバコの煙をくゆらし、会話に花を咲かせている。その合間を縫って、店員たちがチャイや、水タバコ用の炭を手に忙しく動きまわっている。傍らにあるテレビでは古いエジプト映画が流れ、仰々しいほど大きなスピーカーからは伝統的なアラブ音楽が大音量で響いている。その一角にあるシリア人経営の喫茶店で、私と通訳のアバダはナエル(23)と向かい合っていた。ナエルは言葉を詰まらせたかと思うと、溢れそうになる涙を必死にこらえ、ぐっと奥歯を噛み締めた。意を決したように次の言葉を口にしかけると、やはり堪え切れなくなったのか、目頭を指で強く抑え、天を仰ぐように顔をあげた。そして、ゆっくりと息を吐き出し、静かに嗚咽を漏らした。それから数分後、少し落ち着いたように見えた彼は、赤く充血した目で私とアバダを交互に見ると、視線を僅かに逸し、記憶をたどるようにゆっくりとつぶやいた。「本当に素晴らしい女性だった。彼女は俺の全てだった。」そこまでいうと、彼は再び小さな嗚咽を漏らし、それ以上「彼女」について何も喋ることはなかった。

 ナエルはシリアのアレッポの大学に通う傍ら、父が経営する建築関係の会社を手伝っていた。典型的な家族経営の会社であったものの、生活は何一つ不自由なことはなかった。「父の会社は大きな会社ではなかったけど、全てが上手くいっていた。大学を卒業したらもちろん父親の後を継ぐ気だったんだ。」確かにナエルには、エジプトでの避難生活の中にあっても、比較的裕福な家庭で育ったのであろう雰囲気が漂っていた。4月中旬、初めて待ち合わせの場所に現れた彼は、身長は小柄ながらもガッチリとした体格に光沢のあるジャケットを羽織り、少し出すぎたお腹もだらしないという印象はなく、むしろ年齢を超えた貫禄を感じるほどだった。綺麗に丸めた頭と、整えられた黒々とした髭は、彼の威厳と自信を表しているように見えた。緊張なのか警戒なのか、それとも彼の性格ゆえか、通訳のアバダが私の人となりを説明している間も、しっかりと背筋を伸ばし、笑み一つなく耳を傾けていた。しかし、彼は最初こそインタビューという形式に戸惑い、何を話していいのかわからないという感じだったが、30分もすると饒舌に、そして雄弁に彼自身の物語を話し始めた。
 ナエルは、およそ1年前にシリアのアレッポから空路エジプトへと単身逃げてきた。彼はアサド政権を支持していたので、出国自体に大きな問題はなかったという。「2012年に入ると、徐々に僕の街にも内戦の影響が及ぶようになってきた。近くで大きな戦闘があったり、街の周辺に爆弾が落ち始め、周りの人々も少しずつ隣国に逃げはじめた。」それでも、彼は親類らとともに父親の会社で働き続けていた。しかし、内戦の泥沼化や長期化の影響は戦闘に巻き込まれる以外にも、彼らの生活に深く、深刻に影響を及ぼし始めた。

「反体制派の兵士たちが、僕らのような若い男性を拘束して、拷問にかけたり、自由シリア軍兵士への徴用を始めた。それが徐々に、標的が若い男性だけではなく無差別に誘拐をして、身代金を要求する事件が多発していった。」ナエルのように比較的裕福な家のものは、格好の標的になったという。確かに、ナエル以外のシリア人難民の人々に話を聞いても、この身代金誘拐の話は必ずと言っていいほど話題に上がった。ただ、それは彼の言うようなアサド政権支持者のみが標的になっているわけではなく、反体制側の人々も口々に「アサド政権の支持者が身代金誘拐を行っている。」と語っている。恐らく、その多くは政治的な意味合いの薄い、内戦という混乱に乗じた武装集団による強盗に近いものがほとんどではないのだろうか。また、反体制派による若者の誘拐、そして武装勢力への引き込みも深刻な問題となっている。内戦の長期化が懸念され始めたころから、頻繁に武装勢力による若者の誘拐や、自由シリア軍への半ば強引な勧誘が目立つようになった。そこで、若い子供をもつ親たちは、身代金誘拐や武装勢力への強制徴用を恐れて、まずは子供たちだけでも海外に避難させるようになった。確かに、ここリトル・ダマスカスにも10代から20代前半くらいの若いシリア人青年の姿がよく目につく。彼らは単独で、または兄弟とともにシリアから逃れ、同郷の友人や知人を頼りにこの街まで辿り着いたものも少なくない。そうして、避難先で再び再開した彼らは、レストランや喫茶店のウェイターや、路上での雑貨やジュースの販売などの仕事を紹介してもらい、働きながら母国の家族を思い、戦況を見守っている。

 2013年に入ると、ナエルの故郷周辺の戦闘も益々激しさを増し、ナエルの父の会社の重機や備品などが武装集団によって強奪された。「反体制派は、それこそ僕らの会社の全てを盗み、破壊していった。彼らは革命戦士なんかではない、ただの無法者だ。そうだろ?」彼は強い口調で私に問いかけた。言葉に窮する私に、彼は畳み掛けるように言った。「彼らは革命という言葉を使うが、あれは革命なんかじゃない。反体制派は美しいシリアの全てを壊した。革命は銃を使って人を殺すことか?」「今のシリアはただの戦争だ。アメリカやロシアや他のアラブの国やテロリストたちが、シリアを使って戦争をしているだけだ。」いくぶん熱を帯び始めて来た彼の主張だったが、そこまでいうと、ふと我に返るように周りを見渡した。そして、彼は険しい顔を近づけて囁いた。「政治的な話はやめにしよう。誰に聞かれてるかわからないし、こういう話はここでの生活を困難なものにしてしまう。」アサド政権支持者と反体制勢力支持者、そしてそのどちらでもない、ただ内戦の終わりを望んでいる者。ナエルはこの街には3つのタイプのシリア人難民がいると言った。日常生活では双方に大きな問題やトラブルはないものの、やはり仲の良い友人同士でもシリアの政治の話は極力しないようにしているという。それが、相反する政治観の場合は尚更だ。私は深く同意をして、彼に話の続きを促した。
 すべてを失ったナエルの両親は息子の誘拐の可能性も恐れ、ナエルを国外に避難させることを決めた。一般的にアレッポ周辺の住民の避難先の第一候補は、隣接するトルコであるが、彼はエジプトに避難することに決めた。反体制派勢力がトルコとの国境地帯の大半を支配していたため、アサド政権支持者であるナエルにとって、トルコへの避難はかなりの危険が伴う。それ以上にトルコは言語や文化の相違、そして物価などの経済的な面で、賢明な避難先とは思えなかったという。彼はトルコはもちろん、レバノンやヨルダンに比べてエジプトがすべての面において他の避難先よりも最適であると考えた。もちろん、その当時のエジプトはシリア人難民に対するビザも問題がなかった。彼の両親は、僅かに残された会社の備品などを売り払い、ナエルの避難資金を作った。一緒にエジプトに逃げようというナエルに、彼の父親は、「我々のような年寄りは、今更異国の生活には馴染めない」と故郷のアレッポに残ると告げた。
 そうして2013年5月、ナエルは単身エジプトへと避難してきた。後に分かったことだったが、彼の兄は内戦以前からエジプト北部のアレキサンドリアで暮らしていた。なぜ兄のところに行かなかったのか、と尋ねる私にナエルは「兄には家庭もあるし、決して裕福ではない。迷惑は掛けたくなかった。」と少し寂しそうに言った。エジプトにたどり着いたナエルは、始めはこの街ではなく、同郷の友人を頼りにカイロ市内で共同生活をしていた。残された資金はそれほど多くはなかったが、時おり友人の紹介でレストランや喫茶店のウェイターなどをやって、何とか生活をしていた。しかし、その僅か数カ月後、共同生活をしていた友人が彼の部屋に置いてあった金を盗んだ。「信じられなかったし、信じたくなかった。ただ、もうこの場所には居れないと思った。」彼は、その顔に悔しさをにじませて言った。友人の元を去り、知人の情報を元にたどり着いたのがリトル・ダマスカスだった。彼が来た頃には既にこの街は多くのシリア人難民が暮らしており、シリアの食や文化が溢れていた。「まったく同じではもちろんないけど、ここにはシリアの食べ物があって、言葉があった。なによりも同郷の人に会えたのが嬉しかった。」こうして彼のリトル・ダマスカスでの避難生活が始まった。

 ナエルは、リトル・ダマスカスの中心から少し離れた場所に、小さな部屋を借りて一人で住み始めた。家賃は月におよそ600ポンド(約8千円)。避難生活を送っている彼にとって、決して安くはない。この街のシリア人難民の青年たちの多くは、同郷の友人や10月6日大学に通うエジプト人学生などと部屋をシェアして暮らしている。多いところになると1家族用であろうの3部屋のフラットに、13人もの青年たちが住んでいるところもあった。やはり収入も安定しておらず、いつこの街を離れるかも分からない彼らにとっては、一人で部屋を借りるということは現実的な選択ではないのかもしれない。それでも、以前同居していた友人に金を盗まれた経験のあるナエルにとって、もはや誰かと一緒に住むのは金銭的な問題以上に耐え難い事だった。彼の借りているアパートは、通常は1フロアにつき、2家族が住める間取りになっているようだった。だが、彼の住んでいる階だけは、その部屋を更に細分化して、それぞれに簡易な扉をつけたような空間を十数個と作っていた。彼の部屋はおよそ6畳程度で、トイレとシャワーが一緒になった扉のないバスルームがついているだけの最低限の部屋だった。それでも、彼にとっては、避難先でようやく見つけた彼だけの空間だった。
 リトル・ダマスカスに移り住んだ当初、ナエルは友人の紹介で不定期ながら再びレストランのウェイターとして働いていた。増え続けるシリア料理レストランにとって、ウェイターはいくらいても足りないくらいで、仕事には困らなかったという。給料は決して高くはなかったが、比較的安定して仕事ができ、収入を得ることができていた。しかし、前述した2013年7月のエジプトのクーデター以降、徐々にこの街を離れるシリア人が増え、レストランや喫茶店の新規開店は頭打ちになり、ウェイターの仕事も減り始めた。更に、持病だった腰痛が悪化し、長時間立ち続けなければならないウェイターの仕事を続けることは難しくなった。それでも、暮らしていくためには仕事をするしかなかった。UNHCRの事務所は、シリア人に特化する形で10月6日市に出来てはいたが、難民申請を行ったとしても、毎月200ポンド(約2800円)分の食料や日用品を購入できる配給券の援助のみで、彼は全く当てにしていなかったという。ナエルは言う。「もちろん、僕は難民としてエジプトに避難してきた。でも、シリア人としてのプライドや、人間としての尊厳は忘れたくない。それは、お金や食べ物よりも大切なものだと思っている。だから、そういうものには頼りたくない。」
 しばらくして、ナエルはアラブコーヒーの移動販売を始めた。移動販売と言っても、彼が自宅で作ったコーヒーを、家庭用のポットと小さな紙コップを手に、リトル・ダマスカスの繁華街を自ら売り歩くといった具合だ。アラブコーヒーの作り方は、未だシリアに暮らす母から以前教わったものだった。彼のコーヒーは、一般的なアラブコーヒーに、少しくせのある香料を加えていた。もちろん母のオリジナルだという。価格は1杯1ポンド(約14円)。それを昼過ぎから深夜まで、時おり休みを挟みながら売り歩いて、1日で30杯程度売れるという。1日30ポンド程度(約420円)の稼ぎには満足していないが、持病もあり、ある程度自由の効くこの仕事を続けている。なにより彼の作るコーヒーは、周辺で働くシリア人に大変人気がある。彼の快活な人柄もあって、街を歩いていると多くの人が彼に話しかけ、そしてコーヒーを買っていく。しかし、その性格もアダになっているのか、客の3分の1くらいからは、彼はお金をもらわずにコーヒーを提供していた。「もちろんこれは仕事だし、お金は必要だけど、大切なのはそれだけじゃないはずだ。みんな色々な理由があって、ここに逃げてきた。だから助けあって生きていくべきだし、なにより僕は同じシリア人と話ができるのが嬉しいんだ。」そう話すそばから、彼の知り合いが遠くから声を掛けてきた。ナエルは嬉しそうに手を振ると、小さな紙コップにコーヒーを注ぎ、知り合いの元に歩き出した。

 ナエルと初めて会った時から数週間が過ぎた頃だろうか。既に取材という形ではなく、友人として何度も彼に会っていた。一緒に昼食を食べ、彼の家でお茶を飲み、彼のコーヒー販売の後をついて、リトル・ダマスカスを一緒に歩きまわったりもしていた。ナエルが冒頭の「彼女」の話を口にしたのは、いつもの様に、彼の仕事の合間に一緒にお茶を飲んでいる時だった。何気ない会話の中で、私がナエルの女性関係をすこし冗談めかして尋ねた時だった。いつもはニコニコしているナエルの表情が少し曇ったかと思うと、「俺はこの先も彼女なんていらないよ。」と少し不貞腐れたように言った。通訳のアバダは意味がつかめず、どう訳していいのかわからない様子だったが、促す私にそのまま伝えた。今度は私の方も彼の酷く悲観的な言葉の意味が分からず、アバダとともに彼の次の言葉を待った。ナエルは少し気持ちを落ち着かせるように時間を置いてから「彼女はもう死んでしまったんだ。」と抑揚のない声で言った。そして、ナエルは意を決したように煙草を灰皿に押し付けると、「彼女」の話を始めた。

 ナエルが彼女と出会ったのは2010年の春だった。彼の故郷のシリア北部のアレッポの街角で、偶然彼女を見かけたナエルの一目惚れだったという。「見かけた瞬間に好きになった。すごく綺麗で品のある女性だった。」彼は少し照れながらも、誇らしげに言った。しかし、彼の思いとは裏腹に、彼女はナエルに全く興味がない様子だったという。それでも、彼は時間を掛けて徐々に彼女との距離を縮めていった。そして、知り合って半年もすると彼女もナエルに好意を抱くようになり、次第に二人はお互いにとって大切な存在になっていった。出会ってからおよそ2年半が経った頃、ナエルは彼女と婚約をした。彼女の父親は、当初は彼との婚約に強固に反対していたが、彼の誠実さや彼女を思う気持ちが、次第に彼女の父親の態度を軟化させていったのかもしれない。最終的には彼女の父親もナエルのことを認めてくれた。「シリア内戦は既に始まっていて、将来の不安もあったけど、彼女と一緒にいれれば幸せだった。なんでも乗り越えていけると思った。」彼は思い出を辿るように言った。
 2013年に入るとアレッポのナエル達が暮らす地域にも、内戦の影響が日に日に増していった。シリア軍と反体制派との戦闘はより彼らの近くで、より激しく行われ始めた最中だった。ナエルは言った。「4月29日、彼女は戦争で死んだんだ。」改めてナエルの口から聞かされた彼女の死に、私は何の言葉も持ちあわせておらず、ただ呆然とナエルの次の言葉を待った。しかし、ナエルは黙り込んだ。それが空爆によるものなのか、銃撃に巻き込まれたのか、または別の理由なのか。ナエルが彼女の死について、それ以上語ることはなかった。彼はただ「彼女は戦争で死んだ。」と言った。そして終始彼の話すフィアンセは、名前はなく、あくまでも「彼女」だった。しかし、私はそれ以上彼に何も聞けないでいた。通訳のアバダも淡々と彼の話を訳し終えると、余計なことは何も言わず黙り込んだ。目の前のナエルは、堪え切れずに小さな嗚咽を漏らし始めた。賑やかな夕刻のリトル・ダマスカスの中で、この場所だけ奇妙な静寂に包まれた。そして、ナエルは「本当に素晴らしい女性だった。彼女は俺の全てだった。」と最後に言葉を振り絞った。彼女の名前も死因も思い出も、聞きたいことや確認したいことは山ほどあった。でも、ナエルの今まで言わずにしまいこんでいた哀しみや、必死に言葉を絞り出す姿をみて、私はもう充分なのだと感じた。
 
 リトル・ダマスカスはすっかり日が落ち、煌々と照らされたアル・ホサリモスクから夜の礼拝を知らせるアザーンが聞こえてきた。また、1日が終わろうとしていた。そろそろカイロに戻ろうと、我々はナエルと握手をし、幾度も抱擁を交わして再会を約束した。彼の目はまだ少し赤く腫れており、表情も僅かに影が残っているように見えた。私はその場を後にバス停へと歩き出した。ふっと気になってナエルを振り返ると、彼はいつもの笑顔を浮かべ、コーヒーポットを手にリトル・ダマスカスの街へと消えていった。

 私と通訳のモディを乗せたトゥクトゥク(三輪タクシー)は、リトル・ダマスカスの大通りを外れて、同じようなアパートと通りが広がる住宅街へと入った。運転手さえも幾度もトゥクトゥクを止め、通りの人に声を掛けて道を尋ねている。やがて道は未舗装となり、砂埃を上げながら器用に凹凸の激しい路地を進んだ。私には何度も同じような道を回っているようにしか思えなかった。それでも、全く手がかりのなかった私には、このトゥクトゥクの運転手を信じるほかなかった。
 
 リトル・ダマスカスでの取材を初めて1ヶ月が過ぎた頃だっただろうか。最初は話を聞くことすらも難しかったこの街のシリア人難民の取材だったが、少しづつ人づてに様々な人と知り合い、話を聞くことができていた。そして、彼らのほとんどが仕事や金銭面で苦しい生活を送っていた。もちろん、彼らの話や生活環境によって、エジプトに逃れたシリア人難民の現状を知ることができていた。また、彼らが直面している嘘偽りのない現実であることも理解はしていた。しかし、何処かでまた違う難民生活を送っている人もいるはずだという確かな考えもあった。エジプトには他のシリア人の主要な避難先と異なり、難民キャンプはなく、都市難民として生活を送っている。だからこそ、非常に見えにくいものの、エジプトでしか映せないシリア人難民の姿もあるはずだと感じていた。私は通訳のモディと相談して、このリトル・ダマスカスで事業を起こしているシリア人難民を探すことにした。友人や知人に訪ねてみると、レストランや日用雑貨店、シリア食材店などの店主を紹介してもらったが、どこかピンとくるものがなかった。また、店主や従業員に多少は話を聞くことができるものの、写真撮影はほとんど拒まれた。写真を生業にしている私にとって、話を聞くことも大事だが、何よりも写真を撮らせてもらう事が大事だった。もちろん、今までの取材方法であれば、少しづつ私のことを信頼してもらい、徐々に彼らの日常に入りこむことで、撮影をさせてもらうことの方が多い。だから、最初は難色を示していたとしても、その後の付き合い方次第で撮影を許可してもらえる可能性もあるかも知れなかった。しかし、この街のシリア人難民に対しては、基本的にはその方法では出来ないと感じていた。彼らの多くはシリア政府や大使館、そしてクーデター以降はエジプト治安当局を極度に恐れていた。いくらエジプトやシリアで発表する予定はないと説明したところで、100%なにもないとは言い切れないのが現実だ。まずは取材趣旨や私が写真家であることを充分に説明した上で、それでも協力してくれる人を探すしか方法はなかった。いよいよ策も尽きかけ、八方塞がりになった我々は、半ばやけくそにタクシーやトゥクトゥクを拾い、シリア人難民が経営している会社や工場は知らないかと聞いて回った。その中の一人が、このトゥクトゥクの運転手だった。

 探し始めて30分はたっただろうか。ようやく目的地に着いたようだった。運転手は「ここだと思う」と言うと、何の変哲もないアパートの半地下にある駐車場の様な場所を指さした。私はトゥクトゥクを降りてみたが、看板などどこにもなく、とてもじゃないが会社や工場があるようには思えなかった。それでも確認だけでもと思い、僅かに開いていた扉の隙間から覗いてみると、幾重にも重なった布の山の向こう側に、十台ほどのミシンがところ狭しと並んでいた。その間をまだ小学生くらいの少年や、髭を蓄えた50歳台位の男性が忙しそうに動きまわっていた。私は、ゆっくりとその工場と思われる場所の扉を開いた。扉の陰になっていて見えなかった右手側には、社長と思われる男性の机があり、聡明そうな男性が我々の訪問に気づきながらも、電話の応対に追われていた。従業員たちは突然訪問してきた私に、一斉に好奇の視線を浴びせながらも、その手を止めることなく仕事を続けている。ようやく電話を終えた男性に、私は自己紹介をした。まだ訝しげに私の話を聞いていた彼だったが、ひと通りの自己紹介を聞き終わると、ビジネスマンらしくすっと立ち上がり、そのがっしりとした右腕を私に突き出した。「ようこそ、私の会社へ」この街で縫製工場を営むシリア人難民のアブ・カラム(41)は、アラブ訛りの強い英語で言った。

 アブ・カラムは、若い従業員に椅子を用意させ、我々に勧めた。まだ小学校の高学年くらいのシリア人の男の子が、好奇の目で私を見ながら、それでも礼儀正しくチャイを用意してくれた。その間も、アブ・カラムの前に置かれた2台の携帯電話は、陽気な着信音を鳴らし続け、彼は対応に追われている。工場内を改めて見回してみると、従業員のほとんどは男性だが、女性も2、3人働いているようだった。決して大きな工場ではないが、みな無駄口も叩かず黙々と働いている。比較的年配の男性たちは、カラフルな布を手に器用にミシンを操っている。まだ子供にも思える少年たちは雑用係なのか、散乱している布の切れ端を、工場内を回りながら集め一箇所に集めている。その外れにはヒジャブで髪を覆った女性たちが、古めかしいアイロンを手に、黙々と作業台に向かっている。その姿に、仕事中も何となく怠惰な、よく言えば陽気な雰囲気のあるエジプト人とは違う、シリア人の勤勉さが見て取れた。衣服の知識は乏しいが、工場内に積み上がった色鮮やかな布の数々や、時おり見え隠れする可愛らしいキャラクターがプリントされた洋服の数々から、子供服を中心とした縫製工場なのは間違いなかった。ようやく電話が一段落したアブ・カラムに、私は改めて取材趣旨を説明した。ただ、彼はどこか腑に落ちなかったようで、私に幾つか質問をしてきた。「なぜこの街なのか。」「シリア人難民のどういうことを取材したいのか。」「シリア内戦に対して貴方はどう思っているのか。」彼はビジネスマンらしい物静かな口調で私に問いかけてはいたが、その目は私の人となりを精察しているような鋭さがあった。私は慎重に言葉を選んで、彼の問いに時間を掛けて一つ一つ答えていった。ひと通り彼の質問に答え終えると、アブ・カラムはようやく満足したかのように煙草に火をつけると、その背を深く椅子に沈め、私に質問を促した。
 
 アブ・カラムは1年半前に、シリア北部のアレッポから妻と5人の子供とともにエジプトに逃れてきた。アレッポでは子供服の縫製工場を経営していた。200人の従業員を雇い、アレッポでも有数の工場だったという。「シリア国内だけではなく、トルコや湾岸諸国にも商品を輸出していた。これからもっとビジネスを展開するつもりだったんだ。」2011年に始まったシリア民主化運動は、当初は彼のビジネスにも日常生活にも大きくは影響しなかった。もちろん、連日のニュースで情勢は注意深く確認していたが、彼の地域には大きな影響もなく、些か冷めた目で民主化運動の始まりを見ていたという。なによりも彼は社長として、一家の主として仕事に精を出していた。民主化運動は半年か1年位で終わるのではないか、そんな楽観的な見方をしていたという。しかし、彼のそんな思いとは裏腹に、民主化運動はやがて泥沼の内戦へと突き進み、戦闘は激しさを増していった。
 2012年に入ると、彼の工場周辺も戦闘や爆撃が激しくなり始め、工場の運営にも支障をきたし始めた。彼はギリギリまで営業を続けていたが、2012年の夏になると、もはや仕事どころではなくなった。「どっちの砲撃かはわからないが、工場の一部が破壊され、設備は略奪された。全壊は免れたけど、もはや仕事をしているどころじゃなくなった。直ぐに家族とシリアを離れることを決めた。」アブ・カラムは、その豊富なビジネスの経験からトルコへの避難を取引先や友人から勧められていた。彼の経験と豊かな人脈があれば、再びトルコでビジネスを展開することはそれほど難しいことでもなく、取引先もサポートを約束してくれていた。その他にも、ドイツなどのヨーロッパに向かう選択肢も残されていた。しかし、最終的に彼はエジプトへの避難を選んだ。アブ・カラムは言う。「確かにトルコにはビジネスを再び始められる地盤があった。様々な友人や知り合いがサポートも約束してくれていた。でも、家族のことを思うと言葉や文化が大きく違うトルコへの避難は選べなかった。もちろん、ヨーロッパも同じだ。エジプトが家族にとって最良の選択のような気がしたんだ。」
 2012年の夏にアブ・カラムと彼の家族はエジプトへとたどり着き、友人の情報を頼りにリトル・ダマスカスで暮らし始めた。「我々がこの街に来た時には、すでに大勢のシリア人難民が暮らし始めていた。そして、その後も多くのシリア人がこの街に逃れてきた。私の工場で働く人達もだいたい同じ時期にシリアから逃れてきたんだ。」シリアで大きなビジネスを展開していた彼にとって、避難生活は金銭的にはそれほど問題ではなかった。家族用のフラットを借りることもでき、子どもたちも学校に通わせることができている。ただ、彼の中で大きな誤算があった。シリアからの避難を決めた当初、彼自身は避難生活は長くても1年程度だと考えていた。新たなビジネスのチャンスがあるトルコよりも、エジプトを選んだ理由の一つにはそのこともあった。ある程度、治安が落ち着いたら再びシリアに戻って、工場を再開するつもりだった。しかし、避難から1年が経過しても、シリア内戦の終わりは一向に見えてこない。むしろ悪化しているような状況だった。トルコや湾岸諸国の古くからの取引先も、彼の状況は理解してくれてはいた。しかしこれ以上待たせることは、取引先を手放してしまう可能性が高くなる。それは、シリアに戻った時に再開する工場のためにも、避けなくてはならない。そう考えた彼は、避難生活が1年を過ぎた2013年秋に、小さな子供服の縫製工場を立ち上げ、仕事を再開した。

 工場にはトルコから取り寄せたという、およそ10台のミシンが並び、壁際に並んだスチール製の棚にはカラフルな布が乱雑に押し込まれている。一角には出荷用と思わるれる子供服が半透明のビニール袋に押し込まれ、幾重にも積み重なっている。会社では同時期に逃れてきた元従業員や、同郷の若者や知人の子供など、総勢20人のシリア人難民に加え、アブ・カラムから経営を学ぼうとエジプト人学生3人が共に働いている。従業員の大多数がシリア人難民なのは、同郷だからといった理由だけではない。「エジプト人に比べて、シリア人は仕事に対しての姿勢がしっかりしているし、情熱もある。エジプト人は少し怠けぐせがあるね。それに仕事に対する情熱も足りない。」アブ・カラムは工場を見回しながら言った。しかし、私の隣に座るエジプト人通訳のモディの存在に気が付くと、慌てて彼を気遣うように「もちろん、みんなではないさ。ここにいるエジプト人の学生は本当によくやってくれている。」と少し強引に付け加えた。
 アブ・カラムの会社がリトル・ダマスカスにできてから、半年が経過していた。現在は、商品の70%近くをエジプトで販売し、残りはトルコやサウジアラビアなどの湾岸諸国へ輸出している。ゆくゆくはヨーロッパへの輸出も視野にいれているという。売上は、シリア時代に比べてまだ10%程度しかないという。それでも、アブ・カラムはいう。「今、私の会社に大切なのは売上ではないと考えてる。もちろん、会社として売上が重要なのは間違いない。ただそれよりも、この場所に逃れてきた同じシリア人とともに働けること。そして、若い人たちに技術を伝えること。それが今は一番大切だと思っている。」従業員の給料は月に1200ポンドから1500ポンド(約1万7千円から2万1千円)程度で、工場の稼働時間は朝の9時から夜の11時まで、休みは金曜日のみだという。工場の奥にある薄暗い小さな部屋には、ベットが数台並んでいる。ただの仮眠室なのかもしれないが、従業員の何人かはこの会社内で寝起きをしているのかもしれない。避難先でほぼ休みなく働き続けることは、精神的にも肉体的にも負担が大きいだろう。それでも、周りからも社会からも難民として、援助される側との価値観を押し付けられがちな彼らが、避難先であるエジプトで自立して生活を送れるということが、何よりも重要なことのように思えた。また、いつの日かシリアに戻ることが出来た時に、彼らの技術や経験は、シリア再建への大きな力になるだろう。アブ・カラムの言葉は、戦後のシリアを強く意識しているように思えた。 もちろん、全ての難民が彼のように会社を立ち上げられるわけでもなく、ここの従業員の様に働ける場所が見つかるわけでもない。リトル・ダマスカス内にも、その数は多くはないが、生活に困窮したシリア人家族が物乞いをしている姿も見かけた。一般的にはエジプトに避難してくるシリア人は、周辺国に逃れるシリア人と比べて、生活に余裕のある人々だと言われている。たしかに、その傾向はあるのかもしれない。それでも長引く避難生活は彼らを精神的にも、そして金銭的にもひっ迫し始めている。その中で助け合い、共に母国へ帰れる日を思いながら、彼らは避難生活を送っている。「私にはシリア人としての誇りがある。それは、たとえ難民になっても、母国から避難したとしても持ち続けているものだ。」アブ・カラムは少しだけ語気を強めて、「プライド」という言葉を繰り返した。

 アブ・カラムの会社を初めて訪れてから2ヶ月が過ぎようとしていた5月の終わり。私は1枚の小さなメモを頼りに、再びトゥクトゥクに揺られていた。メモには彼の新しい工場の住所が走り書きされていた。以前訪問した際に、事業拡大のために工場を新しい場所に移すと言っていた彼が、手渡してくれたものだった。1週間ほど前に無事に工場の移転が完了したと聞き、私は通訳のアバダを伴って訪れようとしていた。
 新しい工場は、以前のような住宅街ではなく、まだ未開発な更地が広がる街の外れにあった。赤茶色のレンガがむき出しの、半ば放置されたようなビルの一階部分から微かに機械音が聞こえてきた。恐らくミシンの音だろう。相変わらず看板など、会社の存在が確認できる目印などはないが、彼の新しい工場に間違いなかった。私はなだらかなスロープの先にある扉を開いた。工場は以前と比べ2倍ほどの広さになっており、ミシンの数も従業員の数も心なしか増えているように感じた。相変わらずみな黙々と働いていた。しかし、アブ・カラムの姿が見えない。どうしたものかとその場に立ち尽くしていると、以前の訪問時に少しだけ会話をしたことがあったムハンマドという青年が私に気づき、工場の左奥にある部屋へと案内をしてくれた。そこは以前の工場にはなかった社長室のような部屋になっており、アブ・カラムが2人の男たちと仕事について話し合っているようだった。部屋はクーラーで充分に冷やされており、彼のデスクの向かいの壁に設置された大型液晶テレビには、数週間後に控えたシリア大統領選のニュースが映しだされていた。なによりも壁際に並んだ黒く重厚なソファが、彼の会社の順調さを物語っていた。
 私は忙しそうに商談を続けるアブ・カラムに断って、ミシンが並ぶ工場内へ撮影に向かった。先ほど案内してくれたムハンマドが、カメラを手にした私を見つけ、その顔に笑みを浮かべて手招きをしている。どうやら現場責任者の立場にある彼には、新たに工場内に部屋が用意されたようだった。彼の案内で部屋にはいると、大きな机の上にパソコンや周辺機器が並び、部屋の中央には少し古びた応接セットが置かれていた。しかし、私の目を引いたのは、机の横の書類棚に掛けられた大きなシリア国旗だった。
 現在のシリア国旗は1980年から変わらず、赤、白、黒の水平三色旗で、中央に星が2つデザインされている。一方、反体制派が掲げる旗は、緑、白、黒の水平三色旗で、中央には3つの星がデザインされているものだった。これは、1963年以前に度々シリア国旗として使用されていたデザインで、現在のバシャール・アル・アサドの父、ハーフィズ・アル・アサド時代から続くバアス党の政権獲得以前への回帰を標榜する意味で、使用されていると言われている。ムハンマドの部屋に飾られていたのは、2つ星のシリア国旗で、彼がアサド政権支持者であることを意味していた。彼はシリア国旗の横に立つと、私に写真を促した。誇らしげな表情を浮かべる彼の姿をファインダー越しに眺めながら、私の脳裏には、以前アブ・カラムが言った「プライド」という言葉が思い返された。

 ムハンマドの部屋を後にして再び作業場に戻ると、従業員たちは前回同様、時おり私の存在を意識しながらも、その手を止めることなく作業を続けている。その間を縫うように彼らの作業風景を撮影している時だった。ある男性にカメラを向けた瞬間、レンズを遮るように手を突き出し、「ノー」と叫ぶと、彼は椅子から転がり落ちるようにその身を反転させた。私は直ぐにファインダーから目を離し、カメラを頭上に上げた。そして「あなたの写真は撮らない」と身振り手振りで彼に伝え、謝罪した。自らの咄嗟の反応に彼自身も驚いたのか、少し呆然とした様子だったものの、私に既に撮影の意志がないことを確認すると、「私の顔を絶対に撮らないで欲しい」と念を押す様に伝え、再び作業に戻った。
 彼が強固に撮影を拒んだ理由は、今となっては定かではない。もちろん、エジプトビザや国内での労働許可の問題などで、避難先のエジプト当局に知られたくない場合もある。または単純に撮影されることを好ましく思ってない人も数多くいるだろう。ただ、今までの経験から言って、撮影を強く拒む人の割合は、アサド政権支持者に対して、反体制派の支持者の方が圧倒的に多かった。その中には、自由シリア軍兵士としてアサド政権と戦っていた者や、アブ・ムハンマドの様に当局から政治犯や活動家の疑いが掛けられている者もいるのかもしれない。しかし、話を聞く限りでは、その多くはただ単純にシリアでの民主化運動の支持者として、アサド政権からの自由を強く望んでいる人々だった。彼らはこの地に避難してきた今もなお、アサド政権の影に怯え、強制送還や逮捕・拘束される不安を抱きながら生活を送っている。さらに、彼の強い拒絶を目の当たりにして、私という存在もまた、彼らの避難生活を脅かす大きな要因になりうることを強く思い知らされた。アブ・カラムやムハンマドの私への対応をみて、この工場に働く従業員もみなアサド政権を支持している人々なのだと勘違いしていた。後にそのことを問いかけた私にアブ・カラムは言った。「この工場には色々なシリア人難民がいる。それぞれの思想や信念を持ちながらシリアから逃れてきて、この場所で一緒に働いている。アサド政権支持者も反体制派支持者も。しっかり情熱を持って仕事をしてくれるなら、私はそれは関係ないと思っている。」いずれにせよ、取材を続けることによって、彼らをさらなる危険に晒すようなことだけは、絶対に避けなければいけなかった。

 その後、商談を終え、取引先を回るというアブ・カラムに私は同行させてもらうことにした。彼の車はリトル・ダマスカスの中心部を通り過ぎ、郊外の工業地帯へと入っていく。そこには、新聞社の印刷工場や通信会社の巨大なコールセンター、世界的な飲料会社の製造所など大小様々な工場や会社が立ち並んでいる。その一角にある、古びた3階建ての倉庫のような建物の前に車は止まった。外観では何の会社なのかは判別できないが、一階部分の倉庫には、アブ・カラムの会社にあったような半透明のビニール袋が数百個と積み上げられている。私は彼の後に付いて2階にある事務所へと向かった。重々しい扉を開けるとアブ・カラムの工場の十倍はあろうかと思われる大きさの縫製工場が広がっていた。納入された綿や布が通路を塞ぐように積み重なり、幾つもの部屋に分かれた作業場では、真新しい全自動の縫製機械が忙しく動いている。アブ・カラムは作業場で指示を出している1人の男性に近づくと、親しげに挨拶を交わした。その男性がこの会社の社長のタラル(47)だった。タラルは、私の突然の訪問を快く迎えてくれた。流暢な英語を話し、常に紳士的な笑顔を浮かべている彼には、ほかのシリア人には感じたことのない、大きな余裕のようなものを感じた。しかし、彼もまた、アレッポからエジプトに逃れてきたシリア人難民の一人だった。
 アレッポ近郊で父親の代から続く縫製工場を経営していたタラルが、妻と5人の子供とともにエジプトに逃れてきたのは2012年の夏だった。アブ・カラムと同様に彼もまた、ギリギリまでアレッポに留まり、従業員と共に仕事をしていたという。「2012年の夏になって、周辺の戦闘が激しくなり、私達家族は身の危険を感じて逃げることにしたんだ。ただ今も、アレッポの工場は規模を縮小しながら、故郷に留まっている兄が経営しているよ。」彼もまた、避難当初はエジプトでのビジネスは考えもしていなかったという。それでも、避難して半年も過ぎた頃には避難生活がまだ数年と続いていくと考え、リトル・ダマスカスの工業地帯に縫製工場を立ち上げた。
 彼の会社はニット製品を中心に製造し、エジプト国内や湾岸諸国に加え、ヨーロッパにも輸出をしているという。32人の従業員の内、22人が彼と同様に故郷から逃れてきたシリア人難民だという。「数カ月前からアレッポにいるシリア人の職人を呼び寄せるために、エジプトビザの申請をしているんだ。でも、エジプト政府はシリア人に対して、新たにビザを発給することを止めてしまった。昨年夏のクーデター以降、彼らのシリア人難民に対する対応は全て変わってしまった。」タラルはその柔らかな表情を崩すことなく、エジプトに対する不満を口にした。彼はさらに続けた。「エジプト国内では、内戦から逃れてきた多くのシリア人難民が事業を立ち上げている。我々のエジプト経済への貢献は、計り知れないはずだ。にも関わらず、政府はアサド政権と協力して、シリア人難民を排除しようとしている。」彼の言うように、この2年間でシリア人によって大小400近い事業が立ち上げられており、その経済効果は30億とも40億とも言われている。彼らの今まで培ってきた技術や経験が、2011年の「アラブの春」以降、政治混乱を繰り返し、経済危機の真っ只中にあるエジプト経済にもたらしているものは、決して小さくはないだろう。
 タラルとの話は次第にシリア内戦へと移っていった。彼は言う。「アサドは自国民を殺し、力で押さえ込めようとしている。今までと同じやり方だ。3年前に我々が自由を求め立ち上がったのは、アサドのそういった強権的な政治に対してだ。我々の革命は力では押さえ込められない。」そこには、冷静な口調ながらも、アサド政権に対する強い憤りが込められていた。アサド政権を支持している人々も数多くいるのではないか、と指摘する私に、彼は会話を遮るように言った。「シリア国民の75%は反アサドだ。残りの25%だけがアサドを支持している。それなのに国際社会はシリアの現状を見ようとしない。むしろ、アサドを支援しているようにさえ感じる。」そこまでいうと、彼はすこし熱くなりすぎた自分をなだめるように「とにかく」と一度区切ると、「シリアに対する国際社会の反応は非情過ぎる。」と訴えかけるように言った。

 我々はタラルの会社を後にし、カイロ市内にあるという次の取引先へ向かった。車はカイロの中心部へ向かう広々とした高速道路を走っていた。車中で私はタラルの会社では多くを語らなかったアブ・カラムに、現状のシリアについてどう思っているのかを訪ねてみた。彼は少し考えこむように唸ると、視線を前方から外すことなく、ゆっくりと話し始めた。「私は、今のシリアは愚かな事をしていると思っている。アサド政権も反体制派も、自国民を殺し合っているだけだ。こんなことは何の解決にもならない。実際に、私はどちらの支持者でもない。ただ、自分の国で平穏に暮らしたいと思っているだけだ。」彼はそこで言葉を切り、アバダの通訳が終わるのを待った。それを確認すると、今度は言葉を強調するようにはっきりと言った。「ニュースでは色々言われているが、心の中ではそう願っているシリア人がほとんどだと私は思っている。もう殺し合いにはうんざりだ。」私は、この時まで彼はアサド政権の支持者なのだと思っていた。だからタラルが強くアサド政権を非難している際に、彼はただ黙って聞いていたのだと勝手に思い込んでいた。両陣営で盛んに飛び交う自由や革命、聖戦やテロの根絶などといった仰々しい言葉の前では、平穏な暮らし、という言葉は、あまりにも弱々しく、無気力なものにさえ思われてしまう。だからこそ、あまりにも論を俟たない願いは、公に口にすることが憚られる願望なのかもしれない。ささやかで、平凡にさえ思えることを願うには、シリア内戦はあまりにも長く、失うものが大き過ぎたのではないだろうか。アブ・カラムは、淡々とした口調で続けた。「内戦が終わったら、治安状況をみながらできるだけ早くシリアに戻りたいと思っている。ただ、帰るときには私の意思に関係なくどちらかを選ばないといけないだろう。つまり、それがアサド政権にしても、反体制派にしても。再びシリアに戻るということは、そういうことなんだ。」そう言い終えると彼は、少し話し疲れたかのように首を鳴らし、ゆっくりと煙草に火を付けた。そして、それ以上シリア内戦について話すことはなかった。やがて、アブ・カラムの運転する車は高速道路を降りると、夕刻を迎えたカイロの街の喧騒の中を突き進んでいった。

 リトル・ダマスカスの象徴的存在であるアル・ホサリ・モスクの周辺は、カイロやその他の都市を往来するミニバスやワゴン車の発着地点となっており、運転手の呼び込みの声が飛び交っている。その周辺を取り囲むようにトゥクトゥクやタクシーの運転手が、ミニバスから降りる乗客を我先にと狙っている。モスクの前の広場では路上販売や靴磨きを生業にする男たちや、日がな何もするわけでもなく日陰に座り込む男たちが暇を持て余している姿がある。その広場の外れの、ちょうどモスクの陰になり、人目につきにくい場所には、数人程度が座れる石段になっている場所がある。そこには、常に入れ替わるように何人かのシリア人女性たちが、広場で子どもや孫を遊ばせながら、知人や友人たちと会話を楽しんでいる姿をよく見かけた。そのほとんどが、友人同士など数人で固まっていることがほとんどだった。スザーン(50)を初めて見かけたのも、その場所だった。彼女は、他の親子連れや友人同士から少し離れるように一人で座り、年老いた外見には似合わぬ大きなスマートフォンを器用に扱っていた。いつもは何気なくその前を通り過ぎていた私だったが、ちらりと見かけた彼女の姿がどうにも気になり、通訳のモディを伴って思い切って、彼女に話しかけてみることにした。
 通常であれば不審に思われたり、無下に断られるのがほとんどだった。特に女性の場合は尚更だった。私もモディも駄目元でという気持ちに近かった。しかし、スザーンはあまり警戒している様子もなく、突然話しかけてきた我々のために少し腰を浮かして隣に座るスペースを作り、座るように促した。彼女は、通訳のモディがひと通りの説明を終えると、再びスマートフォンを取り出し、慣れた手つきで操作をすると、エジプトへ避難する前のシリアの写真を見せてくれた。綺羅びやかな家具が配置された自宅や、プール付きの広々とした庭、そしてかなり手の込んだ料理の写真の数々が、彼女のシリアでの生活の豊かさを物語っていた。彼女は言った。「私達はシリアの中でも裕福な家庭だったと思います。既に亡くなってしまいましたが、主人は輸入業を営んでいて、その後を継いだ息子たちのビジネスも上手くいっていました。でもシリア内戦がその全てを奪いました。」彼女は昔を懐かしむように、数百枚とあるであろう写真の一枚一枚を、延々と我々に見せ続けてくれた。もしかしたら彼女は、誰かと話しをしたかったのかもしれない。それも、同じ境遇にあるシリア人難民ではなく、まったく国も境遇も異なる私のような外国人に。少し横暴な考えかもしれないが、そう思えるほど、彼女は携帯電話に残されたシリアでの日々の数々を、飽きることなく我々に説明してくれた。

 シリア北部のアレッポ出身のスザーンは、2年前に23歳の息子とともにエジプトに逃れてきた。13年前に既に夫はなくなっており、7人の子どもたちは、一緒に逃れてきた末っ子を除き、みな結婚や仕事の関係で既にシリア国外で暮らしていた。スザーンは当初、結婚してドイツで暮らす娘の元への避難を考えていたが、ビザの問題で断念せざる得なかった。また、ドバイに暮らす息子も避難を勧めてはくれたが、同様にビザはいつまで経っても発給されず、二人はとりあえずという形でエジプトに逃れてきた。彼女は、メッカ巡礼の際に知り合ったエジプト人女性を頼りにこのリトル・ダマスカスへたどり着いた。現在も、その彼女と共に暮らしているという。「当初は、もちろんヨーロッパやドバイにいる子供のところに逃げようと考えていました。でも、ビザの関係でそれができずに、とりあえずエジプトに逃げるしかなかった。今でもビザの申請を行っているし、可能なら直ぐにでも息子や娘たちのところに行きたいと思っています。」
 この街に来てから数カ月後、彼女は友人のエジプト人女性の紹介で、アル・ホサリ・モスクで女性たちにアラビア語を教える仕事を始めた。賃金は決していいとは言えないが、それでも何もせずに毎日を過ごすよりはよっぽど良かったという。それ以上に避難生活が想像以上に長くなり、2年を過ぎた今だからこそ、仕事があることの重要性がわかるという。「ここまで避難生活が長くなるとは想像もしていませんでした。もちろん、避難時にある程度まとまったお金は持ってきましたので、金銭的なことは今はまだそれほど問題ではありません。一番はこの仕事をしているので、エジプトのビザがちゃんと取得できるということです。もし、この仕事をしていなければ、私はとっくにシリアに強制送還をされていたかもしれません。」
 前述のとおり、クーデター以降のエジプト政府は、シリア人難民に対するビザの発給をほぼ止めている。実際に、クーデターのあった7月以降に、ビザなしのシリア人難民と思われる多数の渡航者が、エジプト治安当局によってシリア本国に送還され、今なお強制送還を待つシリア人が、多数勾留されているという情報もある。また、UNHCRで難民申請を行えば、基本的にはビザの問題は解決する。しかし、難民申請をすればエジプトで正規の仕事をすることは難しくなるという。シリアでは富裕層として、何不自由なく幸せな家庭を築いてきたスザーンの様な女性にとって、ビザがない状態で異国にとどまり続けることの精神的負担は大きいだろう。その意味では、彼女にとって仕事が見つかったということが、エジプトでの避難生活の中で、唯一の救いだったのかもしれない。
 スマートフォンを弄る彼女の手が1枚の写真の前で止まった。その写真には、ヨーロッパと思われる綺麗な町並みをバックに、柔らかな表情を浮かべてポーズを取る青年が写っていた。彼女はその写真を少し拡大して、懐かしむように眺めながら言った。「一緒にエジプトに避難してきた末っ子です。彼は今、スウェーデンにいます。」彼女は少し顔を背けると、そっと涙を拭った。
 
 スザーンと共にシリアから逃げてきた息子、避難先での安全のため彼の名前の記載は拒否された、は5ヶ月前にエジプトからイタリアを経由して、スウェーデンへと渡った。昨年7月のクーデター以降、エジプト政府のシリア人難民への方針転換によって、シリア人に対するエジプト社会の目は一気に厳しいものとなり、多くのシリア人にとってエジプトはもはや安全な避難先ではなくなった。差別や暴力を受けることも増えだした。その状況の中で、多くのシリア人難民がエジプトからの脱出を計り始めた。その一番の目的地がスウェーデンだった。2013年9月、スウェーデン政府は亡命を希望するシリア人難民をすべて受け入れ、亡命申請を行ったシリア人難民に永住権を与えると発表した。また、永住権が付与されたシリア人難民は家族を呼び寄せることも可能だという。元々、この発表以前にもスウェーデン政府はシリア人難民の受け入れに寛容で、2012年以降、1万5千人のシリア人難民を受け入れてきた。クーデター以降のエジプトの社会的な変化に、避難生活の限界を感じ始めたシリア人難民たちの多くは、スウェーデンを目指してエジプトを離れ始めた。スザーンの息子もその一人だった。しかし、エジプトからスウェーデンへの避難は、命の危険さえある困難なものである。一般的にエジプトからスウェーデンへの避難を望むシリア人難民は、地中海沿いにあるエジプト第2の都市のアレキサンドリアへ向かうという。そこには、いくつもの違法船を手配している仲介業者が避難希望者たちを募っている。避難までの費用はおよそ30万円から50万円とも言われており、その全てが成功するとは限らない。定員以上のシリア人難民を詰め込んだ違法船は、度々途中で沈没し、犠牲者を出す事故も起こしている。また、湾岸を警備するエジプトの治安部隊に発見され、勾留されるケースも後を絶たない。勾留された彼らに待っているのは、シリア本国への強制送還だ。様々な危険をくぐり抜け、命がけの航海が成功した場合のみ、イタリアのシチリア島を経由してスウェーデンへとたどり着けるという。
 スザーンの息子は、この全てを理解した上で、スウェーデンへの亡命を試みた。スザーンもできれば息子とともに行きたかったが、年老いた彼女にはあまりにも危険すぎた。「本当は息子にも行ってほしくはなかった。死んでしまう可能性も充分にあるし、彼が行ってしまったら私はエジプトで一人になってしまいます。でも、エジプトでは仕事は見つからないし、益々状況は厳しくなっていました。若い息子には可能性もある。最終的に私は彼のスウェーデン行きを承諾しました。」彼がスウェーデンへの避難を決め、リトル・ダマスカスを離れて数週間後、彼女の元に息子から無事にスウェーデンに辿りつけたと連絡があった。「神に感謝してます。」スザーンはその時を思い出すかのようにつぶやいた。
 
 息子がスウェーデンへと避難して以降、彼女はこのリトル・ダマスカスで一人になった。一緒に暮らしているエジプト人女性や、隣人は良くしてくれているが、基本的には仕事先のモスクと自宅を往復するだけの毎日だという。ただ、モスクでの仕事が終わると少しだけこの場所に座り、人の往来を眺めたり、スマートフォンを使って子供たちとメールをしたりしているという。私は、周辺にいるシリア人女性たちや数多くいるであろう同郷の人々との交流はないのかと尋ねた。また、一人で探すのが困難であったとしても、シリア人コミュニティが存在しているリトル・ダマスカス内であれば、話し友達の一人や二人は紹介してもらえるのではないかと。彼女は目の前の広場で遊ぶ子どもたちを、ぼんやりと眺めながら言った。「私はアサド政権支持者です。あんなことがなければ、私は今もシリアで普通の生活ができていた。反体制派や、彼らの支持者達が私達の平穏な生活を奪ったんです。」穏やかな口調の中にも、彼女の芯の強さを感じる言い方だった。「ここには様々な人が住んでいます。政治的な思想も、内戦の捉え方も人それぞれです。私はコミュニティから距離を置いたり、誰かと親しくなることを避ける事で、そういった煩わしさから開放されたいと思っています。」そんな彼女の心の支えは、スマートフォンを使って各地で暮らす子どもたちと連絡を取ることだという。彼女はフェイスブックやLINEなどのSNSを使って、毎日のように子どもたちと連絡を取り合っている。「少し寂しい時もありますけど、それでもこうやって子どもたちと連絡がとれるものがあるのはありがたいことです。」少しシワが目立つ小さな手にスマートフォンを握り、彼女は優しく微笑んだ。

 再びスザーンと会ったのは、彼女と初めて会って1ヶ月以上経った、3月の終わりだった。彼女はリトル・ダマスカス郊外にある大型ショッピングモールを指定した。。我々はモールに着くと、待ち合わせ場所のモール内にあるフードコートに向かった。しかし、賑やかなフードコート内に彼女の姿は見当たらない。唯一連絡が取れる通訳のモディの携帯電話は、バッテリーが切れてしまっていた。まだ着いていないのかと、ふらふらとフードコート内を歩き回っていると、この前の彼女の印象とは全く異なる、しっかりとお洒落をした彼女が私を見つけ、声をかけてきた。シンプルな黒いヒジャブで髪を覆った上には大きめのサングラスが掛けられており、首には花がらのスカーフを纏い、足元は若い女性を思わせるようなロングブーツを履いている。その姿は、以前の少し疲れた印象のあった彼女とは全く異なり、シリアでの裕福な生活を思わせるものだった。
 彼女は再会して早々に「来週、ドバイに行く事に決まりました。」と嬉しそうに言った。数日前にドバイに住む息子から連絡があり、ようやく彼女のビザが発給されたという。彼女は「ドバイに行ったら私は家政婦さんみたいなものですよ。息子も奥さんも働いているから、私が孫の面倒も家のこともやらないといけないんですから。」と少し不満げに顔を顰めてみるものの、やはりその表情は以前と比べ物にならないほど明るかった。ただ、「もうエジプトには二度と来ることはないと思います。」というと、一瞬だけ寂しそうな表情を浮かべた。スザーンは、現在は仕事があるためエジプトのビザに関しては問題ないが、一度外に出てしまえばビザの発給は二度と受けられないだろうと言う。今後のシリア情勢やエジプト情勢を考えれば、もしかしたら改善していく可能性もあるかもしれない。むしろ、エジプトがこのまま実質的にシリア人の入国の拒否をし続けられるとは思えない。しかし、この2年間のエジプトのめまぐるしいほどの政変の中に身をおき、クーデター後のエジプト社会の変化を目の当たりにしてきた彼女がそう思うのは、当然かもしれない。私は「ビザの問題がなければ、もう一度エジプトに来たいと思うか」と尋ねると、彼女は少し考え、「今はそうは思えない。やっと離れられるというのが本音かもしれない。」と静かに言った。
 
 我々は彼女と少しモール内の中庭を歩いてみることにした。既に日は沈み、中庭にあるライトアップされた噴水が、音楽に合わせて踊っている。周りを取り囲むように、幸せそうな家族連れやカップルがその光景を背景に、写真を撮ったりしている。その姿を遠目で見ながら、スザーンは言った。「シリアからこの街に来てから、私はほぼ毎週金曜日にこのモールに来ていたんです。息子がスウェーデンに行ってからは、毎週必ず来るようになりました。昼過ぎにここにきて、お昼ごはんを食べて、モール内で買い物をしたり、映画を見たりしました。夜になると、この中庭に面したカフェで0時ころまで食事をしたり、お茶を飲んだりしてたんです。」彼女はつい最近までの事を、まるで遠い過去の事を思い出してるかのように話した。優しい微笑を浮かべながらも、時おり見せる寂しそうな表情が印象的だった。彼女にとって、この2年間のエジプトでの避難生活とはどのようなものだったのだろうか。スザーンは言う。「良いも悪いもなかったと思います。私はシリアに居たかったけど、それはできなかった。子供たちのところに行きたかったけれど、それも出来なかった。そんな中でエジプトは、私が居ることができる唯一の場所だったんです。そのような場所に、良いも悪いもないのではないでしょうか。」「でも、この場所もまた私の場所ではなかったんだと思います。」そう言うと、人々で賑わう噴水に向かってゆっくりと歩き出した。噴水を彩るイルミネーションが、どこか悟ったように話した彼女の小さな後ろ姿を、鮮やかに照らしていた。

 彼女は、それから1週間と経たないうちにエジプトを発ち、ドバイへと向かったという。私はエジプトを離れる前にもう一度会えないかと尋ね、スザーンは時間が取れればと言ってくれたが、結局彼女からの連絡はなかった。ドバイに無事に着いたという連絡は、通訳のモディを介して教えてもらった。それから2週間ほど経った頃に、再びスザーンから通訳のモディ宛にメッセージが届いたという。そこにはこう書かれてあった。「ドバイはすごく都会だけど、暑くて大変です。それに、ここは英語が喋れないと何にもできません。とにかく、英語を勉強することから始めようと思います。モディもドバイに来ませんか。すごくいいところですよ。」

 しばらく連絡の取れなかったヌール(23)とようやく再会することができたのは、エジプトの大統領選挙を月末に控えた5月の中旬だった。これから始まるエジプトの長い夏の到来を思わせる、雲一つない青空が広がっていた。リトル・ダマスカスの中心街にある喫茶店に現れたヌールは、私を見つけると、少しはにかむような微笑を浮かべ近づいてきた。ただその顔には、少し疲労の色が浮かんでいるように見えた。私達は久しぶりの再会を、握手と抱擁で交わすと、お互い何から話していいものか探りあうように、煙草に火をつけ、少しの間口ごもった。彼は煙草の煙を吐き出すと、「今まで会う時間が取れなくて申し訳なかった。」と私に謝罪をした。実際、私はリトル・ダマスカスに来る前には、必ずと言っていいほど彼にメールを送り、彼の予定を聞いた上で会う約束を取り付けていた。しかし、数週間ほど前から、その約束は直前で何度もキャンセルされるようになり、連絡自体も途絶えがちになっていた。ようやく再び彼と連絡が取れたのは、2日前だった。いくらメールをしても返信がなかったために、カイロ市内で通訳のアバダと打ち合わせをしていた際に、ヌールに電話を掛けてみた。何回目かのコール音の後に電話に出たヌールは、今はリトル・ダマスカスではなく、スエズに居るといった。スエズはエジプト東部にあるスエズ運河で有名な都市で、カイロからバスでおよそ3時間ほどの街だ。なぜそんなところに居るのか、と訪ねても答えをはぐらかされてしまう。明後日にはリトル・ダマスカスに戻るという彼に、何とか会う約束を取り付けた。
 私は「そんな事は気にしてない。」と彼に伝え、「ただ、何があったのか教えてくれないか。」と彼の顔を覗き込むように問いかけた。改めて近くで見た彼の顔色は以前会った時よりも若干青白く、目の下にはうっすらと隈のようなものが浮かんでいた。それは何かに疲れているというよりも、何かに思い悩んでいるように見えた。彼は、少しの間黙り込んだ。恐らく私に言っていいものかどうか、考えていたのだろう。それでも、たばこを灰皿に押し付けると、私の目を見てはっきりと言った。「ヨルダンに行こうと思っている。その準備をしているんだ。」
 私は、何となく彼の答えを予測していたように思う。彼がこの街を、この国を離れたいと強く思っていることも知っていた。だから、ヨルダンという国は予想外だったが、彼がどこか他の国に避難しようとしているのではないか、という考えは連絡が取りづらくなった頃から思い始めていた。それでも、彼にはそれが出来ないこともまた、私は知っていた。彼はパスポートを持っていない。正確に言えば、およそ6ヶ月前にエジプトで盗まれてしまった。その彼が、どうやってヨルダンに入国できるというのだろうか。ヌールも私の疑問を感じ取っているようだった。彼は少し周りを気にしながら顔を近づけ、私と秘密を共有するかのように打ち明けた。「もしかしたらパスポートが手に入るかもしれない。」
 怪訝な表情を浮かべる私を説得するようにヌールは説明を始めた。彼は、友人を介してエジプト在住のシリア人弁護士と知り合った。弁護士は今でもエジプトとシリアを行き来しているという。それはつまり、ある程度アサド政権と繋がりのある、政治力のある弁護士ということを意味する。彼はその弁護士に思い切って、パスポートがないこと、そしてできるだけ早くエジプトを離れ、違う国へ行きたいということを相談した。その弁護士が彼に一つの案を持ちかけたという。弁護士はシリア国内のパスポート発行機関にもコネがある。弁護士がおよそ1週間後に再びシリアに戻る際に、その部署の責任者に話をつけて、ヌールの正規のパスポートを発行してもらうことが出来るという。偽造ではなく、あくまで正規なものだ。そして、弁護士が再びエジプトに戻った際に、新しいパスポートを手に入れ、彼は無事にエジプトを出国できる。ただし、費用は全て合わせて600ドルで、前払いが条件だという。
 ヌールは話し終わると「どう思うか。」と私と通訳のアバダに尋ねた。ただそれは、我々に相談するというよりも、決定事項を伝えているようだった。私もアバダも考えは一緒だったと思う。ただ、ようやく訪れた小さな希望に望みを託そうとしている彼の姿を見ると、そのことを言っていいものか判断できずにいた。しかし、しばし悩んだ末に私は彼に伝えた。「私はその弁護士に会ったことがないので、はっきりしたことは言えない。でも、その弁護士が信用できるとは思わない。そもそもそんなことが可能とも思えない。」ヌール自身も、その弁護士を信頼していいものなのか、判断に迷いがあるようだった。ただ、彼の心は既に決まっているようにみえた。
 しかし、いくら彼の気持ちがその弁護士に依頼しようと決めたところで、問題は600ドルという金額だった。それも前払いが絶対の条件だという。彼の手持ちが残り僅かなのは知っていた。ヌールが600ドルという大金を、この1週間で準備できる可能性は限りなくゼロに近い。もしかしたら、スエズに向かったのは金策のためだったのかもしれない。そして、考えたくはなかったが、こうして久しぶりに私に会ったことも、全てを打ち明けたこともー。それからおよそ1時間、私と通訳のアバダは断言こそはできなかったが、それでも強い調子で、ヌールに考え直すように促した。しかし、彼の考えは変わらないようだった。「とにかく後は金だけなんだ。」と彼は繰り返した。そして、別れ際も「とにかく出来る限りのことはしてみようと思う。」と言うと、何かに急かされるように我々の元を後にした。
 結局、最後まで彼は私に直接的な金の無心はしてこなかった。ただ、それを匂わせるようなニュアンスが会話の節々に合ったような気がするのは、私の考えすぎだろうか。ただ仮にそうだとしても、私は彼を非難することなどできなかった。彼がどれほどパスポートを欲しているのか、そしてこの国を離れたいと思っているのか、私は痛いほどそれを知っていた。

 ヌールの故郷、シリア中部のホムスは、シリア内戦の中でも主要な激戦地として知られている。2011年の民主化運動以降、ホムスは「革命の首都」と呼ばれ、政府軍と反体制派が激しい戦闘を繰り広げていた。しかし2014年5月初旬、ホムスで反体制派とアサド政権との停戦合意が成立し、反体制派はホムスの拠点である旧市街から撤退した。現在はシリア軍が全域を掌握しており、一部の住民の帰還も始まっている。
 2012年の暮れ、ヌールは単身ホムスからレバノンを経由して、エジプトに逃れてきた。「父は内戦で亡くなり、母と弟と共にシリアから逃げることにした。最初は、みんなでサウジアラビアに逃げる予定だった。でも、僕だけビザが出なかったんだ。でも、理由は分かっていた。だから母と弟はサウジアラビアに、そして僕だけとりあえずレバノンに逃れることにした。」現在も、母と弟はサウジアラビアで避難生活を送っているという。彼はサウジアラビアのビザが出なかった理由について、「以前、僕は投獄されていたんだ。だから、ビザが出なかったんだと思う。」と少し声を潜めて言った。なぜ投獄をされていたのか、その理由を彼はあまり口にしたがらなかった。それは思い出したくないのか、もしくは話すことが憚れるのか、私には判断がつかなかった。時おり、ポツポツとその理由に関連するであろう文脈が出てくるものの、その詳細は最後まで分からなかった。ただ、はっきりしているのは、彼が20歳の時に就いた兵役期間中に投獄されたということだった。「それまで、シリアでの生活にも、アサド政権にも何の疑問をもっていなかった。でも、この兵役期間中の出来事で僕の考えや人生は大きく変わった。」彼はかつて起きたことを、少し思い出したかのように顔をしかめ、苦々しく言った。「今でも、なぜ投獄されたのかは分からない。ただ、その日から僕はシリアの現状に懐疑的になった。アサド政権下では治安やお金や食べ物に困らないかもしれない。でも、そんなものより自由がほしいと強く思った。」ちょうどシリアの民主化運動が、徐々に激しい内戦へと向かい始めた2011年の夏、彼は何の説明もなく、突然釈放されたという。
 母と弟がサウジアラビアに逃れた後、彼は一人ホムスからレバノンへと向かった。投獄された経験のある彼にとって、レバノンまでの避難の道のりは決して生易しいものではない。逮捕・拘束、もしくは殺害される恐れも充分にあった。なによりも、正規の方法でシリアからの出国が認められるとは、彼自身も思っていなかった。彼は幾度も治安部隊や係官に賄賂を払い、その危機をくぐり抜けた。その総額は2500ドルにもなるという。「確かに僕は完全な反体制派支持者だった。でも、少なくともあの頃のシリアでは、金さえ払えばどうにかシリアから脱出することが出来たんだ。」
 シリアからレバノンに無事に逃れたヌールは、1ヶ月と絶たないうちにエジプトへと向かった。「レバノンは物価も高いし、文化も大きく異なっている。なによりもシリアからできるだけ遠くに行きたかった。できればヨーロッパに行きたかったが、それも出来そうになかった。最終的に、ビザの問題もないエジプトに向かうことにした。」2013年の1月、彼は友人を頼りにリトル・ダマスカスへたどり着いた。

 リトル・ダマスカスについた彼は、友人が暮らしていたアパートに転がり込んだ。新たに部屋を借りる金銭的な余裕などなかった。そこでは同じシリア人難民の青年たちと、数人のエジプト人学生が共同で生活していた。多い時には3部屋のアパートに13人が住んでいた。彼は2台のベッドが並ぶ部屋の床にマットを敷いて寝起きをしていた。「僕の部屋はまだマシな方だ。他の大部屋では7、8人のシリア人が床にタオルだけ敷いて寝ている。」アパートは乱雑に散らかっており、キッチンやバスルームの配管は壊れていて、汚水が溢れている。ちらりと見えた薄暗い部屋には、確かに数人の男たちが床に雑魚寝をしているようだった。彼は時おり舞い込むレストランや喫茶店のウェイターの仕事で、何とか暮らし続けていた。決して衛生的にも金銭的にも満足な避難生活ではなかったが、ヌールはシリアから遠く離れたこの場所で、束の間の安心を手に入れていた。「確かに生活は楽ではなかった。でも、あの頃はまだ探せば仕事を見つけられた。贅沢さえしなければ何とか生きていけていたんだ。」しかし、多くのシリア人難民と同じように、昨年の夏に起きたエジプトのクーデターによって、彼の避難生活もまた大きく変わり始めた。
 今まであった仕事は激減し、一気に生活が苦しくなった。そして、およそ半年前に仕事を探そうと向かったカイロ市内で、彼はパスポートを盗まれた。通常であれば直ぐに警察署に行き、盗難証明書を発行してもらい、大使館に行けば再発行の手続きを受けることができるかもしれない。しかし、当初彼はシリア大使館にも、警察署にさえ行かなかった。以前、彼はカイロの街を歩いているところを、警察官に拘束された。理由は特に分からなかったし、説明もされなかったという。唯一考えられる理由は、彼がシリア人だったからだという。拘束中、警察官は彼を汚い言葉で罵った。そして、「お前は自由シリア軍の手先だ」と言い放った。20時間後にようやく彼は釈放された。そのような経験から、警察署に行くことで、再び拘束され、シリア本国に送り返される事を恐れたという。最初に彼にインタビューをした、4月の中頃。彼はかばんの中から大切そうに1枚のボロボロになったパスポートのコピーを取り出し、見せてくれた。「これが唯一、今僕がシリア人だと証明できるものだ。」そういうと再び丁寧に折りたたんで、かばんの底にしまいこんだ。
 その頃から彼は、エジプトでの避難生活に限界を感じ、他の国に逃げることを考え始めた。周りの友人や知人たちも続々とエジプトを離れ始めていた。彼も、何人かの知人が向かったスウェーデンへの避難を考えたという。「トルコやレバノン、ヨルダンの状況も決して良くないことは知っていた。だから、ヨーロッパに行けば何とかなると思った。ヨーロッパには自由があるはずだから。」しかし、スウェーデンへ避難するには最低でも5000ドルが必要だと言われ、彼は断念した。所持金もほとんどなく、さらに仕事にもあぶれた状態で、そんな大金を用意できる目処などどこにもなかった。しかし、彼はエジプトからの脱出を諦めることはなかった。「とにかく、他の国に行きたいと思ってる。ここには仕事もないし、希望もない。そして今は僅かな自由さえもなくなってしまった。」
 いずれにしても、エジプトから避難するためにはパスポートが必要になる。彼はやはりパスポートのことを相談しようと、2014年が明けて間もない頃にシリア大使館に向かった。「もちろん、シリア大使館に行くことは怖かった。僕は反体制派支持者だったし、投獄された経験もあったから。でもエジプトの警察署よりはましだと思った。彼らは僕らを目の敵にしている。同じシリア人同士なら、少しは分かってくれると思っていた。」しかし、結果的に何の解決にもならなかった。彼は大使館の前で3日間待ち続けたが、大使館内に入ることさえ許されなかった。「僕が反体制派支持者だから、相手にしてくれなかったんだと思う。」と彼は言った。しかし、もしそれが理由だとしても、大使館員はどうやって彼が反体制派支持者だと判断するのだろうか。外見ではその見分けが付くわけもなく、ましてや話をすることすらも拒否されている彼の思想や信条などわからないのではないか。万が一、尋ねられたとしてもアサド政権支持者だと、その場だけでも言えば事態は少し好転するのではないか。私は、その疑問を彼に聞いてみた。「確かにそうすれば、今の僕の状況は少しは変わるかもしれない。でも、僕は嘘は付きたくない。これまで、シリアでは多くの人が自由のために命を落としていった。そして、今も自由を求めて戦っている。アサド政権支持者と嘘をつくことは、彼らを裏切ることになる。それは絶対にできない。」そう言い切ると、ヌールは右手首に付けた2つのリストバンドを、確かめるように左手で撫でた。そこには3つ星のシリア国旗と、「シリアに自由を」という文字が書かれていた。

 弁護士にパスポートを依頼する話を聞いて以降、再び連絡が取れなくなったヌールと会うことが出来たのは、あの日から10日あまり経ったエジプト大統領選挙の直前だった。時間があまりないという彼に、その後の状況を聞かせて欲しいと私が無理を言って、1時間ほど時間を作ってもらった。私と通訳のアバダが待つ、リトル・ダマスカスの外れにある古びた喫茶店に彼が現れたのは、約束の時間を30分も過ぎた頃だった。私はいつもの様に彼と握手と抱擁を交わすと、挨拶もそこそこに本題に入った。
 結局、彼はあの後、色々駆けまわってはみたものの、やはり600ドルもの大金を用意することは出来ず、あの話は流れてしまったと言った。しかし、彼の表情にあまり落ち込んでいる様子は見えない。すると彼はカバンから数枚の書類の束を取り出した。全てアラビア語で書かれているため、私には何の書類かは全く判断できない。彼は言った。「今、ヨルダンに向かうための書類を揃えているところなんだ。」その書類が揃えば、正規の方法、つまり国境で入国管理を通過して、ヨルダンに行けるのだろうか。たとえパスポートがなかったとしても。私が怪訝な表情を浮かべていると、彼は強い意志を表すように、しっかりと私の目を見据えて言った。「これは正規の方法じゃない。つまり、違法にヨルダンに入国しようと思っている。ただ、出来るかどうかは僕にも分かってないんだ。でもやってみようと思ってる。」彼の強い決意は嫌というほど伝わってきた。でも、私は賛同するわけにはいかなかった。それはあまりにも危険すぎて、成功するとは思えなかった。しかし、彼は私の言葉を遮るように言った。「危険なのはわかっている。でも、ヨルダンに行けばなんとかなるんだ。友人も親戚もいる。仕事だってあるかもしれない。もうここには何もない。これ以上、ここには居たくない。」彼はその悲痛なほどの思いを、私に訴えた。彼の口調には鬼気迫るほどの焦燥感があった。私には、もう彼に言うべき言葉は見当たらなかった。ただ最後に、ヨルダンに向かうにしても細心の注意だけは払ってほしいと伝えた。この後も用事があるという彼は、膝の上に載せていた書類の束を大切そうに、しっかりと手早くカバンにしまいこんだ。その手首には、大事そうに付けていた2本のリストバンドはなかった。
 

 私は、リトル・ダマスカス、という言葉の響きにシリア人難民の苦悩や葛藤、そして何よりも故郷を想う哀切の情を感じる。この街は、砂漠に浮かぶ蜃気楼の街のようなものかもしれない。母国のシリアや避難先のエジプトの情勢にゆらゆらと揺り動かされ続け、いつか誰も気づかぬうちに消えてしまうようなものにさえ思えてくる。アブ・カラムの取引先の、エジプト人のワジ(29)は冗談めかして言った。「シリア人はこの街に急に増えていった。もしかしたら、居なくなる時も、急に消えるように居なくなるのかもしれない。」 ワジはシリア人難民に対して偏見は全くないといった。むしろ、彼らのお陰でこの街に美味しいシリア料理レストランが増え、アブ・カラムの会社と取引を始めてからは、彼の収入は上がり、いい事のほうが多いといった。ただ、この街の住民のエジプト人がみな彼のように思っているわけでもないという。街にはエジプト人が経営する喫茶店と、シリア人が経営する喫茶店が混在している。ただ、リトル・ダマスカスの中心部に犇めく、どこか垢抜けたシリア人経営の喫茶店を訪れるエジプト人を見かけることは少ない。また、少し町外れに多いどこか寂れた印象のある、エジプト人経営の喫茶店にも同じようにシリア人を見かけることは、殆どなかった。それはただの文化の違いなのだろうか。私はこの小さな街の中に、お互いにそっと距離を置き続ける、見えない境界線のようなものがあるようにも感じていた。 

 UNHCRのデータによると、エジプト内のシリア人難民の数は、2013年9月までは毎月およそ1万人単位で増え続けていたものの、それ以降は徐々に減り続け、14年に入ると毎月およそ千人の増加となっている。ただ、エジプトから避難するシリア人難民が急増しており、その数は少しづつ減り始めているのかもしれない。それは、リトル・ダマスカス内でも同じであろう。私が直接出会えたのはスザーンだけだったが、伝え聞いただけでも本当に多くのシリア人難民が、クーデター以降エジプトを離れている。しかし、それはある一定の金銭的な余裕のあるものだけの選択肢に過ぎない。多くの人々はヌールの様に、もがき喘ぎながらもどこに行くことも出来ず、避難生活を送り続けている。
 ただ、一方的にエジプト政府の対応だけを責められるものではない。エジプトは2011年の民主化運動以降、政治混乱に加え、深刻な経済危機に陥っている。若者の失業率は上昇し続け、経済の中心にあった観光産業は一向に回復の兆しが見えない。2013年夏のクーデター以降、治安の回復や政治の安定、経済の改善など山積した問題を前に、シリア人難民の問題は政府にとっての最重要課題とは程遠い。なにより、クーデターで追放されたモルシ大統領の支持基盤であり、エジプト国内でテロ組織の指定を受けた「ムスリム同胞団」と、シリアの反体制派勢力との親密さは、エジプトにおけるシリア人排除の大きな大義となりうるだろう。2014年6月に誕生したシシ大統領政権は、現在のところシリア人難民問題に対しての方針や対応は発表していない。しかし、シリア人難民が置かれている状況が劇的に改善することはないだろう。
 10月6日市に多くのシリア人難民が暮らしていることは、現在もエジプトではそれほど知られていない。この街は彼らにとってはあくまでも砂漠の中の衛星都市という認識だけだ。カイロでの生活の中で、その愛称を耳にすることもなければ、話題に上がることもほぼない。

 いつの日かリトル・ダマスカスはその役目を終えて、静かに消滅する日が来るのだろうか。そのきっかけはシリア内戦の終わりなのか、それとも、エジプト社会に見切りを付けたシリア人難民の大量避難という形なのか。そのどちらにしても、ほとんどのシリア人難民にとって、彼らが選ぶことができる選択肢など、そう多くないのかもしれない。ヌールはヨルダンに避難するために集めたという書類の一枚を手にして言った。「今の僕には何の権利もない。何処かに行くことも、何かをすることも、全てこんな紙切れ一枚で決められてしまう。」私は、彼が言ったこの言葉が、この街に暮らすシリア人難民だけではなく、全世界にいる250万人もの戦火を逃れたシリア人難民たちの声のように聞こえた。

第25回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」佳作入選作

デカダンス 
―それでも私は行く―
(織田作之助の苦悩)

 吉川さちこ

  

戦後すぐ、『ヒロポン』という夢のような薬が薬局で売られていた。これを飲めば倦怠感がとれ、気分爽快、頭脳明晰。空腹感はなくなり自信増大、多幸感が得られ、闘志増加、さらには体力増強、二日酔いや乗り物酔いにも効果があるという。その名前の由来はギリシャ語のヒロポノス─労働を愛する─からきているという。
こんな「疲労をポンととる」がキャッチフレーズの『ヒロポン』は大日本製薬(現・大日本住友製薬)によるメタンフェタミンの商品名。つまりは今でいう立派な覚醒剤であった。
「覚醒剤取締法」で規制されている薬物は、基本的には
 ・フェニルアミノプロパン(アンフェタミン)
 ・フェニルメチルアミノプロパン(メタンフェタミン)
の二種類に分類されるが、メタンフェタミンのほうが、アンフェタミンより強い興奮作用があり、いわゆる現在、「シャブ」「エス」「スピード」「アイス」「メス」「クリスタルメス」と呼ばれるものに相当する。
さて、この『ヒロポン』は太平洋戦争以前より製造されていたが、覚醒剤としての副作用や中毒に関する認識はまだなく、主に軍部を中心とした軍用薬品として、特攻隊の青年達への抗不安剤、あるいは過酷な工場勤務の眠気覚ましとして用いられていた。終戦後、軍が解散されると同時に大量のストックが市場へと流れ出す。当時は新聞や雑誌で大きく宣伝されたうえ、敗戦後の混乱した退廃的な風潮とも相まって、単なる医薬品というよりは、むしろ嗜好品として大流行する。そのうち錠剤より効き目の強い注射薬が発売され、芸能人、作家たちのあいだで大量使用が始まった。ヒロポンを使用した有名人の中で今日とくによく知られているのが、『夫婦善哉』で知られる大阪の作家・織田作之助(大正二年(一九十三)─昭和二十二年(一九四七)である。

さて一昨年(二〇一三年)はそんな織田の生誕百周年だった。五月には大阪・松竹座で、六月には新橋演舞場でジャニーズ及び、元宝塚のメンバーら豪華キャスティングによる音楽劇『ザ・オダサク』が上演されたのをかわきりに、八月にはNHKで森山未來、尾野真千子主演のドラマ『夫婦善哉』が放映、九月には大阪歴史博物館で『織田作之助と大大阪』展が開催されている。さらに十月には生誕地近くの生玉神社境内に織田作之助の銅像が建立。その他数々のイベントと連動し、年間を通して七十三本もの関連記事が朝日、毎日、讀賣らの新聞各紙に掲載された。今なお織田は根強い人気をもつ作家だといえよう。

『織田作之助と大大阪』展の開催に先立ち、織田の遺族である織田禎子氏から約二千枚の草稿が貸し出された。その資料整理を手伝っていた筆者は、織田の書き損じの草稿の裏から、当時同棲中だった彼の恋人・輪島昭子(大正十一年(一九二二)─平成十六年(二〇〇四)、舞台女優、織田亡きあとは銀座の文士バー『アリババ』のマダムとして活躍)のメモとも日記ともいえるものを目にした。
 記載された日付から判断すると、これらが書かれたのは昭和二十年秋、昭子二十二才。日記の内容はいずれも、愛する事の悲しさ、さらには絶望感を訴える悲壮なものであった。終戦直後のこの時期、流行作家として駆け上がる織田に、それを支える昭子の身に一体何があったのか?
今回見つかった昭子のメモ、日記をふりだしに、筆者は彼女が書いたエッセイ、雑誌でのインタビュー記事、また当時のカストリ雑誌、新聞、さらに生前の織田、昭子を直接識る人々への聞き込み、関連場所への取材を続けた。その結果、見えてきたのはヒロポンに心身を侵され、その中毒症状の苦しみの最中にいる織田の壮絶な姿だった。この観点から、改めて織田作之助の生涯、特にその後半(昭和二十年から二十二年)の部分を紹介したい。

第一章 敗戦直後の身勝手男
1.1 道なき道

さびしい
つらい
くるしい
そんな様にしたら
あの人は
仕事ができぬと
叱ります
誰にも言えない苦しい事だけ
おまえに話します
そして私は
どんな時でも
楽しそうにしてないと
あの人は嫌がるのです

 これは現在、大阪府立中之島図書館・織田文庫に保存されている織田作之助の草稿の裏面に記されたメモである。(分類は作者不明草稿No.142‐2)。少し横流れな字体から昭子の書いたものであることに間違いはない。日付は不明。

昭和二十年八月十五日(水)大阪郊外・野田村(現在の堺市北野田)
前夜から徹夜し、映画監督マキノ正博に依頼されていたシナリオ『五人の雑兵』を仕上げた作之助は、これを京都に持参しようと出かける準備をしていた。ゲートルを巻き、弁当を昭子に作らせていると隣組から、昼のニュースをきくようにとの連絡が入った。
作之助は急遽、京都行きをとりやめ、同居していた昭子、姉・竹中タツ、義兄・国冶郎(竹中夫妻は三月の大阪大空襲で焼け出され、野田村の織田家に同居していた)とラジオを聞く。
それは玉音放送だった。
作之助はキョトンとした目で、ひどく苦い顔をしてタバコばかり吸っていた。が、知らぬ間に二階へ上がって、座卓の原稿用紙の前に座っていたという。
第三高等学校の学生であった頃から肺結核を患い、徴兵検査では丙種とされ、召集を逃れた作之助は戦争には驚くほど無関心ではあった。が、九月九日(日)発行の「週刊朝日」に、『永遠の新人―大阪人は灰の中より─』を寄せており、「すでに大阪には新しい灯が煌々と輝き始めた」と敗戦後の復興について雄弁に語っている。また、八月三十一日(金)に映画監督・川島雄三宛に以下の手紙を送っている。

平和来る。万物逝いて復えらずといへども、新しく生まれる希望もあり。まづ生きのびたことをお互い祝ひ合ひましょう。
文芸復興近し。その暁には、日本軽佻派の名乗りあげるべく、ひそかに期しております。
近頃、昼は猛然と「戦争と平和」を読み、夜は近所の連中を相手にマージャンに打ち興じつつあり、その間タバコは吸ってをりますから、御安心ください。
(中略)
……内緒で申し上げますが、小生さいきん恋をしてをります。「この恋もどかし」とは、西鶴五人女「八百屋お七」の名文句ですが、まさしく小生もその通り……

昭和二十年九月
昭子は滅入っていた。
ふらりと出かけたまま、作之助が二十日間も帰ってこないのだ。二、三日の無断外泊なら、今までにも何度かあった。が、今度ばかりは事情が違っていた。
……どうやら彼に新しい恋人ができたらしい。
お相手はラジオドラマの仕事で通っていた大阪・NHKで知り合ったオペラ歌手の笹田和子。東京音楽学校出身の第一流の歌い手で、ラジオでもさかんに歌っていた。戦後の音楽界に現れた新星、ヒロインともいえる存在だった。

しかし、昭子には作之助のこの新しい恋が意外だった。
何故なら、彼には忘れられない妻・一枝がいる。カフェの女給だった彼女は、高等学校の時に知り合い、七年待って、八年目に結婚した恋女房。しかし、昭和十九年八月、子宮癌のために三十二才の若さで死去。作之助は彼女を喪い、慟哭。家を出ようとする棺にとりすがり、「三年したら、俺もいくよってになあ」と人目を憚らず泣き叫んだという。
そんな一枝の骨壺は、昭子がいるというのに、まだこの野田村の家の仏壇におかれている。深夜に作之助が骨壺の蓋を開け、中の骨を眺めているのを昭子は何度も目撃していた。死してなお彼の心を独占し、妻の座を譲り渡さない女性・一枝。そのため昭子は作之助から妻とは認められないまま、この家で愛人とも、家政婦とも、あるいは女弟子ともつかない宙ぶらりんの状態で過ごしてきたのだ。
無断外泊の後、帰ってきた作之助は、ひどく機嫌がよかった。執筆も捗っているらしい。それに、どこか精力的でエネルギッシュなのだ。彼の気持ちが浮き立たっているのは新しい恋のせいなのか? 遠回しに上機嫌な理由を聞くと、ヒロポンを飲み始めたからだという。
「これがな、よう効くんや。ほら、ご近所の麻雀仲間で刑事やってる植田さん、あの人が薦めてくれたんや。眠気がサアッととれまっせ、っていってな。そりゃあ、もう、ようきくで」
作之助は、「夜明けを見なかった日はない」というほど、昼夜が逆さまの執筆生活を送っていた。目が覚めるのは早くて午後二時。それから紅茶を飲み、新聞を読み、郵便物を開けるなどして、床でグズグズする。午後は野田村から、ふらりと電車に乗って大阪辺りへ繰り出す。当時は南海電車ではなく近畿日本鉄道線、一時間に一本電車があり、野田村から難波までは三十七分、切符は片道六十銭。大阪では仕事の打ち合わせ、或は麻雀や囲碁、お茶を飲んで過ごした。作之助は空の高い日に陽の当たる縁側で日向ぼっこするような男ではなく、喧騒の中に自分を置いてみて初めて心が安らぐといったタイプの人間だった。帰宅は大抵終電。それから夜明けまで執筆する。また肺結核を患いながらも一日にタバコ百本、コーヒー三十杯、医者嫌いの無類の薬好き、そんな作之助にとって眠気覚ましのヒロポンはうってつけの妙薬だったのだろう。

……今、新聞三回分を書いてほっとしたところですが、ヒロポンをのみすぎたのと、タバコを吸ひすぎたので、フラフラの状態で、味噌をなめたいくらゐですから、今日は要件のみの殺風景な手紙にとどめて置きます。末節ながら皆様によろしくお伝えください。
○倦怠といふことは応々にして叡智の表れであるが、叡智といふものは常に倦怠といふ表れを取るとは限らない。
○幸福とは来るものではなく、これを掴むものである。もっと正確に言へば掴もうとする努力のなかに幸福がある。
九月六日(木)午前四時 不一、作
(織田から従妹の浅井民に宛てた手紙より引用)

作之助は以前とは人が変わったように精力的で強気になった。むんむんと逞しい。金遣いも気前がよくなっていた。そして、先生、先生と呼ばれるのを周囲の人々に見せたがった。
「おれは物すごうえろなったんやぜ、おばはん。世の中がひっくり返り、おもしろうて仕様がないんや」
作之助の変わりように目を見張ったのは身内だけではなかった。大阪にある喫茶店『コンドル』のマダムの井上節もその一人。彼がヒロポンの錠剤を多く飲んでいる事を聞き、
「こんなことしてたら、あかんわ。それより……」
彼女は慌てて、嫁さんの世話をしようとした。
「昭子さんとは一体どないなってるの?」
「あれは単に手伝いの女や」
「何を言うてるの、一年も同棲しておいて。あんたはええとことの息子でもないのやさかい、ぜいたくいいな!」
「何を言うてるんや、オバハン」作之助は真顔になった。
「おれはええとこの生まれやねんぜ。織田信長の子孫なんやよって、ちゃんとせないかんのや!」

作之助は大阪の下町の生まれ。貧しい魚屋の倅として育った彼は人一倍、負けん気がつよく、猛勉強の末、当時名門であった京都の第三高等学校に入学している。そんな織田が本当に信長の子孫であったかどうかは不明であるが、おそらくこの時期、精神的な躁状態のためにそのような言葉が飛び出したものだと思われる。

さて昭子には、あからさまに笹田和子のことは言わなかった。が、ある日、
「なあ、アコ(昭子のこと)、お互いもう雨ジミみたいな間柄になってしもたと思わんか?……」
作之助は壁のシミを見つめ、突然、わけのわからないことを言いだした。
「雨じみ?」
言われてみれば確かにシミがある。昭子は、とりたてて気にとめたこともなかったが、作之助はまじめな顔で言うのだった。あのシミが異常に気になって仕方がないのだと。形を変え、大きさを変え、目に映る。人の顔、動物、化け物のようにも映る、と。
このところ、彼の感覚は変なのだ。風が白いと言い出したり、『花紅柳緑ピアノの上に赤と黒』という奇妙な俳句を読んだり。色彩、音に異常なまでに敏感になっている。
それにしても、一体、壁のシミみたいな間柄とは?
首を傾げる昭子に、
「だから、別れよや。お互い嫌いにならん前に」
「……別れる?」
突然の言葉に、昭子は衝撃を受けた。
雨漏りの残る天井を見上げ、「この家のことやがな……」作之助はタバコをふかせた。
「戦争でも焼けもせず、ずうっと六年間も世話になった。この家で前の嫁はんも亡くなった。思い出のある、愛着のある家やけど、アコと俺と二人で住むには、広すぎると思わんか?」
「じゃあ……」
「戦争も終わったんや。アンタも自立してみんか?」
「……」
「俺も出来るだけのことはしてやるさかいに」

僅か一年足らずの同棲。戦時中でもあり、食べ物や必需品に事欠く苦しい生活だったが、それ以上に昭子を悩ませたのは、仏壇に置かれたままの遺骨、そして作之助の女性関係だった。が、昭子は耐えた。それは作家として、真摯に原稿用紙に向かう作之助の姿に尊敬の気持ちをもっていたからだった。

昭和二十年一〇月一日 七時起床。道無き道、週間毎日 帰途佐々木氏宅との由
今日から日記をつけます。
人間も世の中もまるで思って居つた事とは違ひます
一体どうしたら良いのでせう。
愛すると云う事はこの様に無惨なものなのです
一番良い事は 何気なく私が消滅する事、私のできる一番良い事はこんなに愛して居る人の傍から去る事なのです、
此の世で別れ 別れに生活する事は私にはとてもできないのです
だから私は是からでも 死 ばかし希つて居るのです
若しも私でなかつたら 愛する人は もっと変わって居るのでせうか?
そう考えると身も世もなくなります、
あの事があって この人の中にみて居たものが一瞬に去ってから私は益々 死ばかり思つて居ます
あの人にはなんでもない事が(と云って居るのですが)私にはこんなに絶望的、たつた是丈と云はれるそうな事で極まで来てしまつたのです

十月十九日(土)曇 トキニ雨 一〇時三十分
一時五分で京都へ行かれる
姉上かほる荘に女中言づけて炭をとどけて下さる
内田さんより通信あり
ラジオに新聞にみるにつけ 聴くにつれ
騒然たる無秩序の世界
個人主義 自由主義 そして此処に民主主義
何時の場合も旦に日本的と云う島国根性を冠せるといやらしくなる
人を愛する事以外 何もかも嫌
今日は京都泊り 
ペペも淋しがって居る
家のペペ位可愛らしい犬が世界中にもう一匹居る譯はない
(織田作之助の草稿裏、昭子の日記より)

昭和二十年十二月
婦人参政権が認められ、労働組合法が公布、また第一次農地改革が始まり、一気に民主化が進んだこの月、昭子は手切れ金ともいえる二千円を作之助から渡される。向かった先は京都。知り合いを頼り、撮影所での仕事を求めたが、まだ終戦直後で映画業界は本格的に動き出してはいなかった。
別れのその日、昭子は荷物と荷物の間でネッカチーフを被って泣いた。このネッカチーフは東京で女優として活躍していた頃、作之助からプレゼントされたもの。空襲警報が鳴り、二人で上野公園の防空壕に逃げ込んだ時も昭子は、しっかりこれを握っていたものだった。

どうしてあげる事も できない みっともない事
酔い事無しに私が消滅する事だけが
あの人にとつて 良い事なのだから
望みも 夢もすべて無くなつた
残るのは
私の惨めさだけ
“死” 是丈がどうやら私を この苦痛から救ってくれるらしい
愛する事のこの無惨さ 人生も人間も
すべて まるで違ふ 
私には何にも解らない
ただ悲しくて 気が狂い相なだけ
今日四人の人と話したけれど 誰も彼も
女は可哀想 愛情にも生活にも愚かさにもすべてに敗けてしまふ
嗚呼 一層 私を殺して呉れたら
不幸夫人は 私の手をしつかり掴んでしまった。
(昭子の日記より、日付は不明)

一方、作之助は羽織袴姿で、意気揚々と兵庫県宝塚市にある笹田家の豪邸へと向かい、そこで入り婿のような形で暮らしはじめる。

「……寔に文化のみが暗き世の一筋の光明とも愚考されます今日明日、私達はそれぞれ文学、音楽の道に昨日の覚悟を新たにするつもりでございます」

昭和二十一年二月十八日付で挨拶状が出され、新聞でも二人の結婚が報じられた。が、この結婚生活は、あっという間に破綻する。歯科医を営む笹田家は上流家庭のクリスチャン、一方の作之助は下町の長屋育ち。生活習慣も本人同士の性格もまるで違い、どう考えても最初から無謀な結婚だったのだ。
昭和二十一年三月七日(木)、作之助は別府に滞在中の昭子に宛てて以下の手紙を書いている。

忙しいのと、西沢さんのところがわからなかったので、つひ手紙だしそびれていました。今日は大阪は雪で、とても寒く、ヒーターに当っていると、まづ想ひだすのは野田村のことで、仕事もあまり捗らないといへば、もう万事察しがつくと思ふが、結局は僕の感受性といふものはどんなに他人と合ひにくいものであるかが、やっとわかった次第、二十三日以后心から笑ったのは、大阪の町を一人で歩いてゐて、友人に会った時だけ、あとは暗い気持ちだ。悪い人たちではないが、僕の神経は絶えず傷つけられてゐるので、仕事のコンディションは、はっきり言えば今が最悪だ。(中略)あんたにはいろいろ苦労させて、申し訳なかったが、今はじめてわかったことは、あんたが僕の感受性をどれだけ尊重してくれたかといふことだ。野田村もペペもなつかしい。(中略)別府でも辛いだろうが、そのうち笑って会へる日もあるだろう。毎日想い出さない日はないが、今はこんな状態に追ひこまれてしまってどうにもならない。君も不幸だが、僕も幸福ではない。

また、この新婚ともいえる時期に、作之助は前妻・一枝を追慕し、一枝にちなんで、一番の馬券ばかりを買う高校教師を主人公にした小説『競馬』を、また『注射』、『蚊帳』、『世相』を書いている。昭子との出会いを題材にした長編小説『夜の構図』を構想したのもこの時期らしい。筆が進まないといいながらも、書くこと以外、楽しみを見いだせなかった。それを裏付けるように昭子へ宛てた別便で心境を打ち明けている。

 永遠に昔の夢をえがきながら、永久に現状に不満を抱いている。(中略)おれも存外いい才能を持ちながら、つねに不幸な人間なんだろう。もう、やはり文学に生きるだけの人間になってしまった。この世で何のたのしみもないことがわかった。
一生いい仕事をして、一生貧乏して、一生わびしい想いで終わる。これも俺らしいだろう。仕事だけはまア一生けんめいやってゐるから安心してくれ。これは誰にもいってくれては困るが、おれもいつかは(近い将来)に君のところへ何らかの形で帰って行くのではないかと思っている。君はしひて待つ必要はないが、しかし、待つつもりなら、ただ一つ、健康に気をつけて、自重して暮らしてくれ。
石はもう女房の死んだ時から転がりだしてゐるのだ。転がりつづけて、世間に非難されながら、陋巷の一作家として終わればいい。

 結局、作之助は万年筆と原稿用紙、身の回りの物を風呂敷に包み、宝塚の婚家から飛び出す。向かった先は京都だった。

第2章 デカダンス
2・1 それでも私は行く

ケースの中からヒロポンのアンプルを取り出し、アンプル・カッターを当てて廻すと、まるで千切り取るように二つに割った。ポンと小気味のよいその音は、逃げて行った細君へ投げつける虚ろな挑戦の響きの高さに冴えていた。興奮剤のヒロポンは、劇薬であり、心臓や神経に悪影響があるので、注射するたびに寿命を縮めているようなものであった。しかし、不健全なものへ、悪いと知りつつ、かえって惹きつけられて行くのがマニアの自虐性であり、当然アンプルを割る音は退廃の響きに濁る筈だのに、ふと真空の虚ろさ澄んでいるのは、退廃の倫理のようだった。
(『土曜夫人』・身の上相談 4 より)

「おれの青春は終わった、後は余生や……」
四月─。別府から戻り、作之助に再会した昭子は驚いた。彼の人格がすっかり変わってしまっていたのだ。まずヒロポンの使用量が多くなっている。以前は錠剤がほとんどだったのに注射器を用いるようになっていた。さらには服装も変わった。おそらく米軍払下げの品を闇市ででも手に入れ、間に合わせで着ていたのだろうが、以前の彼ならば絶対に手を通さないはずの好みの派手なチェック柄のシャツだった。六十男のような渋い身なりこそダンディズムにふさわしいのだと主張してやまなかった作之助が、西部劇に出てくる田舎紳士そこのけの派手な柄の上着を身につけている。しかもそれが、長身で猫背の彼には、なかなか良く似合うのだから妙だった。そして現在、写真にも残っているとおりの無精な長髪、革ジャン、足は雪駄ばき。近家を風呂敷ひとつで逃げ出し、京都に来た作之助は、三高時代からの友人で『世界文学社』社長の柴野氏宅に滞在、その後は旅館を転々としていた。
作之助の変化は外見だけではなかった。無邪気さ、明るさがなくなり、けたたましくなった。どこか投げやりで意地悪く、ぞっとするほど虚無的になっていた。ジェントルマンであった筈なのに、残酷なことをして喜ぶ男に変わっていた。女性への警戒、そして嘲りが見え隠れし、三条木屋町で芸者と泊まり、すぐ前の部屋にわざと昭子を寝かせ、それを楽しんだりもした。ノスタルジアを喪い、本物のデカダンスに陥ってしまった作之助の変わりようが昭子は哀しかった。せっかく再会できたというのに、何故こんな目に遭わなくてはならないのだろう。昭子は再びメソメソと泣き暮らす。
あの女性のせいだ─。作之助本人を恨むより、笹田和子に対し怒りがこみ上げた。が、しかし昭子は彼には何も言いだせなかった。

「また同棲するのはあんまりええ加減や」と、義兄の竹中国冶郎は昭子を富田林の竹中家に置いた。京都にいる作之助から電話がかかってくる。そのたびに昭子は、下着や原稿用紙やインキを届けに行った。京都で仕事をするのは大抵は旅館で、千切屋、欧涯荘、秋田屋など、新聞社に紹介された宿が多かった。転々とするたびに所持品が散り散りになる。着るものがちぐはぐで、「家無き大人」というかんじだった。
住所不定のため、作之助宛ての郵便物は全て富田林に届く。生活必需品の他にも、彼宛ての手紙、そして姉・タツのつくってくれた弁当も昭子はせっせと届けた。少しでも以前の作之助に戻ってほしい一心だった。

京都日日新聞で『それでも私は行く』の連載が始まり、五月二十四日(金)からは大阪日日新聞にも『夜光虫』を書くことになった。
出版社や編集者から頼まれれば、「よう断らん」作之助の生活は恐ろしいほど忙しくなる。終戦から半年。新円交換が始まり、三月三日(日)には旧円の流通が禁止されている。闇市場が活気づく一方、戦争に疲弊していた人々は知的なものを求めはじめていた。そんなニーズにこたえるべく、全国規模で出版社の創業が相次いでいた。街にはカストリ雑誌が氾濫し、作之助が笹田家にいた時期に書いた『競馬』、『世相』は皮肉なことに文句なしの傑作で若い世代の間で人気が沸騰した。取り巻きさえできており、作之助はもはや有名人になっていた。
特に『世相』は焼け跡を舞台に流転し、めぐり合う人間模様を巧みに描いた秀作。阿部定の話を入れ、新しいスタイルで挑んだこの小説で執筆依頼が増えた。それと同時にヒロポンの使用量が増え、新聞小説一回分(四百字詰め原稿用紙四枚)を書くのに、2ccずつヒロポンを打つようになった。

「俺はOP製薬の回し者や」
ある日、京都から富田林に帰ってきた作之助はヘラヘラと笑いながら細い腕に注射を打ちまくった。
「もう、注射があらへんで!」その声と同時に昭子は慌てて薬局へと走っていく。が、その日、富田林にある三軒の薬局には不思議なことにヒロポンは一本もなかった。がっかりして帰ると、作之助はムカッ腹をたてた。
「なら、ワイが行ってくる!」と、出ていったものの、忽ち悄然として戻ってきた。それは当時売り出し中の漫才師ミス・ワカナの富田林公演のせいだった。ワカナはひどいピロポン中毒だったので、駅に着くなりマネージャーが薬局に走り、アンプルを買い占めたというわけだった。
「オダサクより、ミス・ワカナの方が実力があるわい」作之助はそう言って感心していたものの、注射がきれれば、たちまち仕事ができなくなった。昭子はわざわざ大阪まで薬を買いに出かけた。

 ついでに一本、と打たれた注射のおかげで、昭子も完全な中毒患者になってしまっていた。フラフラになっているのだが、「一本ポンと注射をうつと、いままでピノキオのようにギクシャクしていた肉体に、血が通い、神経が通う」、しゃんとする。毎日「雲の上でも歩いているよう」な状態で掃除をして、注射を集めて、下着類や原稿用紙、タバコ、仕事のための必要品いっさいをボストンバックにつめ……京都にいる作之助からの連絡を待つ、そんな生活だった。

原稿が売れ、儲かるぶん、作之助は金遣いが荒くなり祇園で遊ぶことも多くなった。おそらくはヒロポンの副作用もあっただろう。作之助は女性にも見境がつかなくなっていた。祇園の舞子を口説き、先斗町の芸者、撮影所の女優、木屋町のバーや喫茶店の女性と次々関係をもった。京都では、『電信棒』というあだ名の背の高いダンサーと半同棲していた。もちろん、富田林にいる昭子はそんなことは知らない。

五月十日(金)昭子と電信棒は、蛸薬師富小路西の『千切家別館』で、ばったり出くわす。が、事件はこれにとどまらなかった。
その日の正午頃、NHK大阪放送局の佐々木芸能部長のところへ、宝塚の貴婦人達(笹田の母親・ヒデヨと和子)が訪ねてきた。和子が妊娠しているので処置したい。ついては作之助の承認が要るのだが、居所をおしえてもらないかというのだった。(当時、堕胎には配偶者の承認が必要だった)
笹田母娘を応接室に待たせておいて、佐々木はデスクに戻り、京都の『千切家別館』の作之助に電話をいれた。
「おばはんがいっしょやったら、あかんでえ」
電話口の作之助はまるで状況が見えているかのように、そう言った。
「和子だけなら、会いはるか?」佐々木が聞くと、
「……うん」織田は、ふくみ笑いして答えた。「そらあ、会うてもええで、本人だけなら……」
さてヒデヨが京都まで和子につきそって行ったのは、娘ひとりをおっぱなして、作之助と縒りがもどってはこまるという危惧からだった。家風に合わぬ、神をおそれぬ婿は、もうごめんだった。
が、佐々木からきいてきた『千切家別館』の玄関の前まで来ると、ヒデヨは脇の簾子格子のところで足を停め、竹を植えこんだ向こうに、ほの暗い式台が覗いている内玄関の方へと和子を押しやった。女中におしえられて二階へあがった和子は、作之助のいる奥まった部屋まで行ったのはいいが、用件を切り出すどころではなかった。何故なら、電信棒と輪島昭子が、掴みあいにおよばんばかりの見幕で大声をあげて、派手にもめている最中だったからだ。
 下着類をとどけに、富田林の家からふらっとやってきた昭子が、先客の電信棒とぶつかって、大もめにもめたのは、べつにヤキモチが原因ではなかった。売りごとばに買いごとばの応酬が急速に増幅して、口論となった。そこへ和子が突然現れたものだから、その場の空気は新入りの和子も、わけのわからないケンカの渦にまきこまれざるをえない状況となった。
昭子は突然現れた初対面の和子に動転したが、彼女がここにきた理由が堕胎の為だと聞き、目の前が真っ白になった。
作之助が、「わかった、ハンコをつく……」と頷くのを待たず、「どういうことなのよ!」昭子が飛び出し、和子にむしゃぶりついた。
「好きなひとの子供なら、堕そうなんて思わない筈でしょう?」
作之助への恨みより和子への憎しみが湯沸し、つかみ合いになった。
この騒ぎでついに作之助は千切家の番頭に追い出されてしまう。

2・2 夜光虫
笹田和子の件は医者に渡す書類に作之助が捺印して、ひとまずけりがついた。
有頂天になって結婚を天下に公表し、婚家へと向かったあの日の羽織袴姿と、目の前に突き付けられた中絶許可証。聞くところによると、作之助は和子に対し、「君は天才、僕は奇才、二人の間にどんな子供が生まれるだろう」と言っていたという。
だとしたら彼はどんな気持ちで、その書類に印を押したことだろう。自分という存在を否定され、子孫を絶たれ、どれほどプライドを傷つけられただろうか。
この騒動以降、昭子は作之助のそばから離れなくなる。いつもヒロポンのアンプルとタバコを入れたカバンを提げて、ついて歩くようになった。作之助の生傷を目の前に見、彼以上に自分も深く傷ついたのだろう。彼が可愛そうでならなかった。作之助を傷つけた笹田母子に対し抱いた憎しみは、彼との強い仲間意識に変わり、自分こそが織田作之助の本当の女房という自覚が生まれた。
ヒロポンを打ちながら、徹夜仕事する作之助の傍に座り、昭子は辞書をひき、助手がわりをつとめた。もともと嫌いな仕事ではなかった。小説の構想について作之助から意見を求められると、「こうしたら、ああしたら……」、と自分の考えも喋った。が、作之助は、なかなかウンとは言わない。つい、昭子もイライラしてきて、沸かして入れてきたコーヒーを、わざと書きかけの原稿紙の上にこぼしてやったこともあった。
朝、出来上がった原稿を手に昭子は郵便局へと走った。住む家もなく、旅館暮らしの行き当たりばったりの生活だったが、かまわなかった。一緒に地獄に落ちてゆく決意でついていった。
ナマな感情をあらわにし、血の上った素顔を向け始めた昭子に作之助の態度も少しずつ変わり始めた。二人の間に、わだかまりや遠慮がなくなった。コミュニケーションが深まり、本音を理解しあえるようになった。この頃より、作之助は昭子のことを、『オバハン』と呼ぶようになる。人前でもかまわずそう呼ぶ彼に、
「アタシはまだ二十三よ!」昭子は言い返す。それでも、やめようとしない作之助。昭子は彼を、『作やん』と呼び返すようになる。

当時の二人と親交のあった伊吹武彦(フランス文学者・作之助の高等学校時代の恩師)は以下のような文章を「織田作之助全集1」の解説に寄せている。少し長いが、貴重な証言だと思うので、そのまま引き写したい。

……織田作は昭子夫人のことを「オバハン」と呼んでいた。彼はとりわけ、彼の「オバハン」から「気イ」つかってもらいたかったにちがいない。というのは、ある日、これもまた世界文学社で、こんな光景をわたしは目撃したからである。
織田作は『土曜夫人』の原稿を書いていた。新聞社の使いが夕方五時には取りにやってくる。いま午後三時半。織田作はイライラしながら、ペンを動かしているが、筆はいっこうに進まない。
「オバハンどこへ行きよったんやろな」とじりじりしている。昼過ぎから買い物に出かけた昭子夫人が予定の三時になっても世界文学社へもどってこないのである。三時四十分―やっとオバハンは買い物包みをさげて帰ってきた。
織田作は、怒る─というよりは、むしろ訴えるような声で、
「オバハン、どこ行ってたんや。帰るいうた時間にそばにいてくれな(いてくれなければ)原稿書けへんやないか」
「すんまへん」
二人のやりとりはそれですんだ。だがわたしの気持ちのなかには、それだけでは終わらないものがあった。わたしはふと『夫婦善哉』を思い出していたのである。
むろん織田作は『夫婦善哉』の柳吉のような「ぐうたら」ではなく、昭子夫人は、蝶子とはおよそかけ離れた人柄だろうと思う。しかしわたしは、蝶子を「頼りにして」いる柳吉の物語をそのときふと思い浮かべたのである。

東京娘だった昭子が大阪のオバハンになった。彼女はもう、めったなことでは泣かなくなった。あつかましく開き直った。『作やん』は命を削って書いている。だからアタシも命をかけて尽くすのだ─。
「アコ、お前やないと、アカンねん」
そんな作之助の言葉に、昭子はきっぱりと自分自身に言い聞かせるのだった。
「この人、アタシじゃないとダメなのよ!」

しかし、やはり「女、女、女」に変わりはなかった。もちろん、嫉妬したが昭子は感情を隠さなくなった。その一方で、前妻・一枝のことを持ち出されても、自分への侮辱やからかいとは取らず、むしろ自分への甘えと受け止めるようになった。何か言われてもハイハイと受け流せるようになった。或はもっと踏み込んで、この人はアタシが守らなければならないという意気込みさえもつようになっていた。そんな気構えのオバハンに、作之助もこれまでにない信頼を寄せ、二人の絆はどんどん深まってゆく。

二日続きの雨が御體にさはらなければ良いがと心配して居ります。確か、シャツがちぎりやさんに置いてある筈です。面倒でもワイシャツの下にシャツを重ねて御召になって下さい。風邪をひくとなかなか抜けませんから。
十六日、伯父さんは無事に別府に行かれました。京都からのおみやげは、とても喜ばれました。歯磨きは旅行用に欲しい由、差し上げました。ピーナツ、石鹸、歯磨き、タバコ、この頃よく気をつけてくれると喜んでいかれました。
今日は姉上が大阪へ行かれたので、留守居をして居ります。ペペは泥んこになって雨の中で吠え立てています。今日から駅前の新聞やに頼んで(おいた)大阪日日が毎日はいるので、『夜光虫』が読め、とても楽しみです。今日のコントには、吉田さんのがのって居ました。なんだかとても貴方(の文章)を真似してるように思えました。京都では久しぶりに贅沢させてくださって嬉しかったな。忘れません。外で食事するなんて三年ぶりでした。 *()は筆者による

これは昭子から作之助に宛てたメモの下書き(中之島図書館・所蔵)である。日付は不明だが新聞連載『夜光虫』の記載があることより、昭和二十一年六月から七月頃に書かれたものだと思われる。実はこれと同内容のものが三枚あり、作之助宛ての伝言を書くのに、昭子は三回も下書きをしていたことがわかる。やはり作之助は昭子にとって特別な人だったのだろう。

笹田の堕胎事件から二か月後の七月、作之助は出版社の世話で、京都市左京区下鴨下河原町に二階建ての家を買った。下が八畳、六畳と台所、上が六畳二間。「京都に、ちゃんとした家をこさえた」、と作之助は姉・タツに報告し、彼女を喜ばせている。十一月にはこの家へ引っ越すと、知人にも手紙で知らせているが、結局ここに二人で住むことはなかった。この半年後、作之助は帰らぬ人となる。

昭子と連れだって四条河原町を歩いていたとき、作之助は手相を見てもらった。五十二才位から、めきめき書けるようになる、と言われ、「まだまだ苦労せなあかん」、と喜んだ。「十年後の日本を書く」と張り切った。
八月八日(木)、作之助の小説が原作の映画『新婚第一夜・鸚鵡は何を覗いたか』が松竹で封切られた。監督は大曾根辰夫、主演は佐分利信。記録には残っていないが、作之助も昭子も見たことだろう。

2.3 死神

午前四時
忘れていた、忘れていた、
やがて死ぬ身であることを、
飯をくらいお茶をのみ馬鹿話しして、
けちくさい恋も照れてやり、
小説本を読みながら、
死ぬことを忘れていた、
やがて死ぬことを
(織田作之助の日記より)

 京都日日新聞『それでも私は行く』の連載は七月二十五日(木)に終わった。
依然、執筆に追われ忙しいが、その頃より作之助は富田林の竹中家に落ち着き始める。文名が上がり、俄かに来客の多くなった作之助は竹中家一階の二間続きの広い客間を占領し、義兄夫婦の方が裏座敷を使う事態となった。

大阪日日新聞の『夜光虫』の連載は八月九日(金)まで。この八月九日は一枝の三回忌にあたる。ずっと身辺から離さなかった亡妻の骨を彼は遂に楞厳寺にある織田家先祖代々の墓に入れている。それは昭子への思いやりか? あるいは半年後となる自分の死への、何らかの予感があったのかもしれない。

この夏頃から作之助は、けだるそうで、しきりに咳をした。顔は青く、目の下には隈があった。痩せて、皮膚がカサカサして、起き上がるには、「よっこらせ……」と、両手を踏ん張らなければならない。暑い日はサルマタひとつで仕事し、昭子やタツに、「こんなになっても書かなあかんねや」と算盤のように痩せた胸を叩いてみせた。油照りの中、疲労は重なり、身体は衰弱する一方だった。そのためにもヒロポンは必要だった。一本打つと、体がしゃんとして仕事ができた。

八月三十一日(土)より、東京讀賣新聞の連載小説『土曜夫人』の執筆を開始。しかし、これと同時にヒロポンの使用量がさらに増え、一日二箱(十アンプル)使用するようになる。
作之助の健康が気になっていたが、昭子は彼のヒロポン乱用を止めさせることはできなかった。自分自身、ヒロポン中毒になってしまっていたからだ。
「依頼された小説が納品できれば、あとはもうどうでもいい……」それが注射で二十四時間もたせている作之助と昭子の共通のテーマとなった。寝る時間も惜しんで、書きつぎ、書きつぎしても仕事は相変わらず山積みのままで、晴れ晴れとした顔というのは、注射のアンプルをカットする時だけ。流行作家の現実の生活はわびしいものだった。

九月、作之助は小説『死神』の執筆を開始する。これは二年前の九月三、四日に連続して起きた南海高野線での脱線転覆事故から発想を得たもの。作之助は、線路に死神が憑りついたと、イメージを膨らませ、不気味で前衛的な小説に仕立てている。続きを予定していたが、(彼自身の死で)未完に終わる。

又この頃、作之助は敬愛していた志賀直哉に『世相』を汚らしいと酷評され、ショックをうけている。(志賀は著名な財界人、政治家を身内にもつ名門出身。当時は小説の神様と言われていた)以後、彼は志賀への反感を強め、この気持ちは一流への、そして東京文壇への挑戦へと形を変えていく。

……世には俗物が多い。佃煮にするぐらい多い。多すぎる。
外界の変化に応じてますます増えてくる。
すべて皆精神を忘れてしまった連中で、自分を精神で見張ることを怠ると必ず俗物になります。
(浅井民への手紙より)

九月中旬、作之助は評論『二流文楽論』を脱稿。これは文楽の第一人者であるのに、一介の市井人として倹しく暮らした津太夫以下、文楽の人々をモチーフに、一流を名乗る文学者を批評する内容。『世相』をけなした志賀直哉への挑戦状だった。
この異常なまでの闘志も、あるいはヒロポンの作用によるものであったかもしれない。この時期、作之助本人も注射するたび寿命を縮めていることに十分気付いており、秘かに「六神丸」だの「救心」だのを併用して心臓をいたわっている。
しかし、その強力な依存性には勝てなかった。ヒロポンの効果が薄れる前に、次のアンプルを切ってしまう。覚醒状態は薄れることなく、「再び色鮮やかな世界へと踏み込んでゆく」。ヒロポンが無ければ一字も書けない状態だった。

ヤミの米と栄養価の高い食べ物を口にしていても病気(肺結核)は明らかに進行していた。作之助は日ごとに痩せてゆく。そんな彼をみかねて、
「注射ばかしして、ダメじゃないのっ!」
注射と注射の間の昏睡から覚めた昭子が声を荒げる。しかし、
「ええんや! ヒロポンやめたら仕事がでけへんのや」
作之助は注射針にアンプル液を吸い上げるのをやめようとはしない。昭子がむしゃぶりつき、注射を止めさせようとする。が、それより早く作之助は服の袖をまくり上げ、きらきら光る眼でまだ皮膚の柔らかい部分を探し始める。その顔に、そして差し迫った気迫のようなものに、昭子は飲まれてしまい、声もでなくなる。
注射液が皮膚の下に流れ込み、作之助は身震いしながら快感の表情を見せる。そんな彼の姿に、彼女はただオロオロと手をこまねくばかり。うっかりしていたら、昭子自身も腕をつかまれブラウスの袖をたくしあげられ、打たれてしまう。
「君も、一本、どうや」作之助は誰彼構わずに注射したがるので困った。気の弱い編集者等は皆、彼にヒロポンを打たれた。まさしくヒロポン地獄だった。そんな作之助に、ある出版社は執筆依頼にヒロポンを添えた。陣中見舞というわけだった。

十月十四日(月)ミス・ワカナが心臓発作で死亡。その間接的な死因はヒロポン注射五本を立て続けに打ったためだとされている。

2.4 可能性の文学

今は小説を書くために、自分の人生を浪費しているのではないかとさえ思うぐらいだ。すくなくとも、私は小説を書くために、自分をメチャクチャにしてしまった。これは私の本意ではなかった。しかし、かへりみれば私という人間の感受性は、小説を書くためにのみ存在しているのだと、今はむしろ宿命的なものさえ感じている。
(夕刊新大阪『私の文学』(昭和二十一年九月二十四日)より抜粋)

 十月頃より作之助は上京する事を考えていたらしい。
 『土曜夫人』の刊行について、実業之日本社や日本社、世界文学社から申し込みがあったが、以前から知り合いであった鎌倉文庫の出版部長・厳谷大四が直接京都へ出向き、作之助に頼むとその場で承諾した。その時も、「どうも、これせんとあかんねン」、といきなりヒロポンを打ち、厳谷を驚かしている。この種のエピソードは多い。作之助流のデモンストレーションであったのだろうか。それともヒロポンがなければ人と会えない状態になっていたのか。
二年ぶりで作之助に会った厳谷は、彼の面貌が一変しているのに驚いた。痩せ衰えて顔色が悪い。「近いうちに東京へ行くさかい、そのとき金くれや」というのが条件だった。金額は三万円。「金は湯水のように使うので何ぼでもいるんや」。出版の前祝をしようと伊吹武彦らを加え、その夜は木屋町に繰り込んでいる。

私は目下孤独であり、放浪的でもある。しかし、これも私の本意ではなかった。私は孤独と放浪を描き続けているうちに、ついに私自身、孤独と放浪の中に追い込まれてしまったものだった。だから私は今、私を孤独と放浪へ追いやった私の感受性を見極めてこれを表現しようと思っている。……(中略)書きつくしたいのだ。反吐を出しきりたいのだ。その後には何も残らないかもしれない。おそるべき虚無を私はふと予想する。

(夕刊新大阪『私の文学』(昭和二十一年九月二十四日)より抜粋)

 十月二十一日(月)、二日(火)の二夜。京都新聞会館で世界文学社主催の火の会芸術祭が開かれ、作之助は講演する。講演タイトルは不明だが内容は、「日本の文学はすべて二流である。一流文学の真似事で自分をカムフラージュせず、二流文学者として、それに徹することで、新しいスタイルが生まれる。志賀直哉の小説の形式を盲信している限り、日本の新しい文学はでてこない……」。これは九月に書いた評論『二流文楽論』と、当時構想中だった『可能性の文学』の内容をミックスさせたものだった。
作之助はやせた肩をいからせ、長髪をたえずかき上げ、ポーズを作り、舞台を歩きまわった。なかなかの演技者だった。
「あなたたちは借り着の悲しみをご存じないだろう。この上着もズボンも、みんな人に借りて、私はいまここに立っている。だけど、私の思想は借り着ではありません」
ブルーのライトが強すぎて、顔が真っ青に見えた。さらに彼は続けた。
「私はもう長くは生きません!」ドストエフスキーやシェイクスピアを一流だと称えたあとで、「直哉は二流だ!」、そう叫んだ途端に、客席から「お前は三流や」とヤジが飛んだ。作之助は一瞬ひるんだが、すぐに二言三言、くってかかった。
初めて彼の講演を聞く昭子は胸をドキドキさせ、呼吸をつめ、祈るような気持ちで聞いていた。演台に立つ直前に、ヒロポンを二本注射したせいだろう。もののけに憑かれたように、のりに乗って喋っている。ただブルーのライトのせいで、顔が青鬼の青さになり、革ジャンパーにフラノのズボンの借り着の晴れ姿は、まるで巨大な影が立っているかのように見えた。目がつり上がって、常人の目ではない。つり上がったまま、鋭角的に目玉がチャッと動く。人間の目の動き方じゃない……。
死神? ふっと彼の最近の小説のタイトルが脳裏に浮かび、昭子は慌ててその不吉な四文字を心から振るい落そうとした。

第3章 上京、そして死
3・1 土曜夫人
これは俺の実験小説だ、あらんかぎりの人間の可能性を書くのだ、と勢い込んでいたものの、『土曜夫人』は失敗作だった。連載が始まり二か月たっても、京都のキャバレーの一昼夜の出来事から抜け出せない。連載が七十回をこえても、小説の構想は広がる一方で登場人物ばかりが数を増してゆく。作之助も行きづまりを感じたらしい。小説の舞台を東京に変えたい、その取材を兼ねて上京したいと、讀賣新聞本社に申し出た。
許可がおり、出発前日の十一月九日(土)、讀賣から手伝いの人が来て、富田林の家がごった返した。姉・タツはとうとう過労で倒れてしまう。
翌十日(日)、大阪支社の記者・赤井弥一郎が迎えにきた。上京の支度を終えた作之助は革のジャンパーに手を通しながら、「姉(ねえ)、どないや、どこ悪いねン、悪かったら注射したろか、お医者呼んだろか?」と、姉の様子をのぞき込んだ。タツは、その弟の顔に優しい悲しみを見た。何か虫のしらせがする。意気軒昂としているが、その胸は洗濯板のように痩せている。
「大丈夫や、行っといで。体には着イつけや」タツが言うと、「ふん、僕、死ぬのン平気や、生きてンのもみじめやでエ、僕が死んでも何やかや姉の食べるくらい残すさかいな」作之助はバサバサと長髪をかき上げた。肺結核はすすんでいるのを彼は自分で知っていた。
「ほな、行ってくるで」といったん外に出ては、また引き返す。
「ええから! わてにかまわんと行っておいで!」とタツは声を励ました。
見送った後ろ姿は、生きてみる最後になった。
と、門の辺りで作之助が昭子に大声を出すのが聞こえた。
「病人があるのに、お前は家に居らんかア、姉さん看たらんかア!」

作之助は昭子を富田林に置いて行く。彼は大阪駅へと向かう途中、難波で途中下車し、道頓堀の『コンドル』に寄り、マダムの井上節に会っている。節は作之助の影が何やら薄いような気がし、「この人死ぬんと違うやろか」と嫌な予感がしたという。また作之助はお気に入りだった女性を店に呼んでもらい、東京に一緒に行かへんか、と誘った。しかし、「女はそんならとすぐ行けるもんやないわ」と断わられた。「そんなら、あとから来いや」。作之助は読売新聞に東京行の切符二枚の手配を頼んでいたという。身のまわりのことをしてくれる女性が必要な作之助は昭子の代わりに、その女性を連れて行こうとしていたのか。結局、赤井と彼女が大阪駅まで見送り、作之助は一人、夜行列車に乗り込んだ。

翌朝、上京した作之助は讀賣新聞社へと向かった。文化部のデスクに腰を下ろし、挨拶が終わるなり、いきなりポケットから注射器を取り出し、ヒロポンを打ってみせ、初対面の文化部次長の藤沢逸哉を驚かせている。
その夜は新聞社が用意した築地の闇旅館へと案内された。
「明日、もう一人来ますので……」作之助の言葉に、もっと落ち着ける宿を探すことになった。が、当時はまだ食糧難の時代で米を持っていかなければ旅館へ泊めてもらえない。暖房のため木炭も必要だった。

その後、作之助は東京新聞の頼尊清隆と落ち合い、愚痴っている。
「……うちの女房は、僕が一日か二日家をあけると、もう女に手を出すん違うかとおもて、すぐ追っかけて来よんねん。もうそろそろやって来よる時分や」
タツの具合が悪いからと昭子を置いていった作之助だったが、実際体調不良だったのは彼本人だった。ひと時は減っていたヒロポンだったが、上京の慌ただしさに乗じ本数が一日二十本を越していた。元気そうに見えても、空咳が続き常に熱があった。
四日後、昭子が上京する。その一週間後に、二人は讀賣新聞社の近くにある銀座松屋裏の佐々木旅館へと移動する。旅館と言ってもバラック建て。看板などは掲がってはいない。訪問客があまりにも多いので二階全部を借り切った。

 築地育ちの昭子の家族は東北に疎開していたが、終戦後、東京に戻り、浜離宮の近くに住んでいた。昭子は作之助を自分の主人だと家族に引き合わせたらしい。以下は、昭子が東京から、富田林の竹中夫妻に宛てた手紙である。

如何お過ごしかと気になりながら、思ひがけぬ忙しさに毎日追われて、つい延び延びになりお許しください。朝九時頃から日に十人以上の来客がつめかけ、原稿と座談会、対談会で、まだ一日も外出して、のんびりする日はありません。小説は大変な評判で、讀賣では夏からまた連載して織田作之助だけでゆきたいと言って居ります。雑誌でもひっぱりだこで、映画スターみたいに毎日写真を撮りに来て、東京での人気はびっくりしてしまいました。張り合いがあるのか、大変元気で風邪一つひかず、毎日忙しがって活動致して居りますから、御安心くださいませ。(中略)
一昨日、一寸暇ができたので板橋の家へよって貰いました。大変に喜ばれて、是非家へきてほしいと言ふのですが、暇が無いから駄目だと行かないで居りましたら、今日まいりました。忙しく盛な有様を見て、驚いて居りました。若くて優しい良い人だと皆、喜んで居ります。東京はとてもさびれて、大阪、京都には何かかなわない感じで物も関西より乏しいようです。久しぶりに関東に来てみると、関西の食物は美味しいことがしみじみわかります。
テリ、ペペは元気で居る事と思います。犬を見かける度に思ひ出してしかたがありません。随分気にかかるものです。
くれぐれも身体に気を付けて、元気で居られますように、祈っています。お目にかかる日を楽しみに。
          十一月二十九日 昭子

手紙にもあるように上京した作之助を待ち受けていたのは、讀賣新聞だけではなかった。婦人画報社の熊井戸立雄、文芸春秋の徳田雅彦、中央公論者の海老原光義、東京新聞の頼尊清隆、そして改造社の西田義郎。出版社や新聞社から次々に作之助のもとに仕事が持ち込まれる。当時の東京のマスコミが作之助に求めたのは、混乱する風俗の描写、反抗精神、そしてエロだった。東に舟橋、西に織田。これが当時の編集者らの合い言葉であったという。愛欲の小説を次々と発表する舟橋聖一に対抗させるべく、作之助にも「軽薄」で「刺激的」なものを書かせようというのだ。

 讀賣新聞の藤沢は、ストックのない『土曜夫人』の原稿(三枚半)を取りに、毎朝出社前に佐々木旅館に顔をみせた。
追い立てられる作之助の生活は注射の切れ目に、つんのめるように眠りに着く毎日となった。毎日が締切の連続で、恐ろしいことに二つの作品が同時に締切だったり、締切日を過ぎてしまうものもあった。作之助とマネージャー役の昭子の生活は昼夜の区別がなくなり、敷いたままの蒲団は体力が弱り、寝そべって書くための、やはり仕事場だった。
 寝汗がひどかった。冬だというのに、いくらか時間が経つと、まるで泳いだ後のようにぐっしょりと濡れた。昭子がバスタオルでその汗を拭いてやると、その体は体中の骨格がむきだしになり、標本室に飾られた人体模型そっくりだった。うつむいて原稿を書けば、その肩甲骨や背骨がグリグリと波打つようにもみえる。酷い痩せ方だった。
「……文学は恐ろしいもんや」
注射と注射の切れ目の時間にみせる、百歳の老人のような作之助の老け込み方に昭子は言葉をなくす。

殺到する編集者や新聞記者に囲まれ、作之助は毎日注射器を持って外出する。
十一月十七日(日)より東京新聞に、『サルトルと秋声』を三回連続で、二十日にはNHKから講演を依頼され、二十二日(金)にはマルクス主義者・岩上順一と『文学とエロチシズムをめぐって』対談した。十一月二十五日(月)夜、作之助は太宰治、坂口安吾との座談会に出席する。『現代小説を語る』というタイトルだったが、太宰と坂口は既に酒が入っており、放言を乱発。その夜半より再び、同メンバーで改造社主催の座談会が開かれたが、太宰と坂口の酒は進む一方で、とりとめのない内容となった。日付は不明だが林芙美子との対談も実現した。こちらは『夜の構図』を連載中の婦人画報が主催した。タイトルは『処女という観念』。対談は新宿・下落合の林邸で行われ、作之助は昭子を同伴した。この対談会で、座に着くなり作之助が注射器を取り出し、腕に刺したところを、同行のカメラマンがすかさずシャッターをきった。また菊池寛から使いが来て、雑司ヶ谷の菊池邸にも出かけ、将棋を指した。
作之助は得意満面だった。沢山の編集者に追いかけられ、おだて上げられ有頂天だった。傍若無人にふるまい、金遣いは荒くなる一方。札束をわしづかみにし、天井に吹き付けるように使い、当時は貴重品だったラッキーストライクを周りにいる人々に投げ与えた。
銀座裏のバーを夜な夜な梯子する。そんな作之助の後ろには必ず改造社の西田の姿があった。
西田の胸には、「織田に爆弾的評論を書かせよう」という企みがあった。京都での火の会の講演を聞いた西田は、作之助のいう『可能性の文学』をもっと強烈な内容なものにし志賀直哉らの私小説を叩かせようと、文壇を攻撃させ、マスコミの注目を集めようという戦略があった。

……志賀直哉とその亜流そのほかの身辺小説作家は一時は「離れて強く人間に即く」やうな作品を作ったかもしれないが、その後の彼らの作品がますます人間から離れていったのは、もはや否定しがたい事実ではあるまいか。彼らは人間を描いているというかもしれないが、結局自分を描いているだけで、しかも、自分を描いていても自分の可能性は描かず、身辺だけを描いているのだ。他人を描いても、ありのまま自分が眺めた他人だけで、他人の可能性は描かない。彼らは自分の身辺以外の人間には興味がなく、そして自分の身辺以外の人間は描かない。これは彼らのいわゆる芸術的誠実のせいだろうか。それとも人間を愛して居ないからだろうか。或は、「彼らの才能の不足だろうか?
(『可能性の文学』より抜粋)

小説とはそもそも何であるか? それはフィクションであり、ロマンであり、人間の可能性について描くものである。自分の身辺に起こったことをつらつらと書き綴る私小説ではいけない。これが『可能性の文学』の主張であり、作之助の叫びだった。
「朝までに書かせる」、という西田に缶詰にされ、作之助はヒロポンを打ち徹夜で原稿を書く。

十二月四日(水)、正午。讀賣新聞社の藤沢が佐々木旅館にやってきた。
別室へ作之助を誘う。それは『土曜夫人』を年内に打ち切りたいとの通告だった。嫌な役目の藤沢はできるだけ感情をおしかくし、その報せをつたえるとそそくさと立ち去った。藪から棒の話に表情を失くしたまま、作之助の右手はすぐ注射器にのびた。が、針は固くなった皮膚にイライラととおらない。見かねた友人の青山光二が、看護兵だという実績を見せて、手ぎわよく注射した。昭子には後ろ姿をみせていたが、その肩の怒らしかたは、不本意な納得しかねる気分を充分に背負い、行きくれたように心もとなかった。
「実のところ、新聞小説はおれも少々疲れたよ……」
作之助は弱音を吐かなかったが、打撃は大きかった。その夜、彼は大喀血し、一月後、ついに帰らぬ人となる。昭和二十二年一月十日、享年三十四才。

エピローグ
婦人画報社の熊井戸は、西田がこう宣言するの聞いている。
「日本の文壇に爆弾をかかえて織田を突入させる」
作之助の人生最後の叫びとなった『可能性の文学』を掲載した『改造』十二月号が書店に並んだ頃、作之助は既に死の床にいた。西田の思惑どおり、まさに爆死させられたというわけだった。
その頃、西田ら編集者は話し合っていたという。
「この流れが済んだら、私小説に帰ろう……」と。

昭和二十二年一月十三日、作之助は桐ケ谷火葬場で荼毘に付され、白い骨に変わった。
その夕方、料亭での仕上げの席に二重回しを羽織った太宰が、ひょっこりあらわれ、黙って仏前に追悼文を置いた。
その一部を紹介する。

……世の大人たちは織田君の死に就いて、自重が足りなかったとか何とか、したり顔の批判を与えるかもしれない。が、そんな恥知らずの事はもう言うな!……織田君を殺したのは、お前じゃないか!

*織田を苦しめたヒロポンは昭和二十四年、劇薬指定を受け、翌々年の二十六年、覚醒剤取締法施行により一般人の使用、所持が禁じられた。しかし時すでに遅く、以後、覚醒剤は密輸や密造により、社会に蔓延してゆくこととなる。

あとがき
「喀血の血は赤じゃない。橙色をした、生きた血でね、ぶくぶくと泡立っているんですよ……」
自ら肺結核を患い、喀血した経験のある稲垣真美氏は筆者にそう語ってくれた。現在八十八才になられた稲垣氏は昭和四十八年、輪島昭子に直接会われ、織田の評伝『可能性の騎手』を執筆されている。
平成二十六年六月、筆者は京都で氏にお会いし、この原稿(原題は『この恋もどかし』を査読していただき、お話を伺った。ヒロポンが当時、東京大学の生協でも売られていたこと、新薬ストレプトマイシンが手に入らなかった戦後の状況等々……。
また稲垣氏によると、結核には喀血性と、非喀血性の二種類あるとのことだった。
「実は喀血性のほうが、ずっとたちがよくって、これは栄養をとって、安静にしていれば治るんですよ。……それにしても、昭子さんは何故もっと織田の暴走をとめてくれなかったのかなあ」
死の床で織田は最後に「おおきに」と昭子に言ったのかどうか、記録にも残ってはいない。喀血後、佐々木旅館から東京病院(現・東京慈恵医科大学付属病院)に運ばれた彼が果たして、生きようという気持ちをみせたのかどうか、筆者は気にかかってならない。そうであってほしいと願う。さらには、自分を思ってくれる女性がいることに、昭子の愛に、織田が気づき、生きようと思ってくれていたならば、どれほど彼女は救われただろうかと思う。

昭子にとって織田は命かけて愛したただ一人の男性だった。
報われない恋だと思う反面、愛する男性と一緒に生き、そのひとを看取ることができ、彼女は幸せだったのではないかとも筆者は思う。織田があの名作『世相』、『競馬』、それに『可能性の文学』他を世に送り出すことができたのも、昭子の支えがあってのことだった。織田没後、昭子は道頓堀で『コンドル』を手伝い、その後は林芙美子に私淑。若手作家と結婚し離婚。東京に戻ってからは、新宿で雇われママになり、銀座に自分の店『アリババ』を持ち、平成十六年十二月十三日、八十二才で亡くなっている。

さて昭子は昭和二十年、織田が笹田和子のもとへ去って後、山市千代(『夫婦善哉』の蝶子のモデル、織田の姉)を頼り、別府に行き、そこで生活している。彼女の滞在から、六十八年後の平成二十六年二月、筆者はその地を訪ねた。驚いたのは、湯煙のむこうに雪をいだく山(鶴見岳と扇山)が望めたことだった。南国の保養地らしからぬそのシュールな風景に、思わず目をみはった。戦争で焼けていない街には、竹瓦温泉、駅前高等温泉をはじめ、戦前からの建物が数多く残っていた。また駅から海にかけてのエリアには細い路地裏が張り巡らされている。織田が二階の窓から顔を出し、煙草を吸っていたという建物も、最近まで現存していたというが、昭和二十一年二月から三月にかけて昭子が滞在していた西沢家の場所は不明だった。「竹瓦かいわい路地裏文学散歩」を主宰されている平野芳弘氏、別府市の日刊新聞『今日新聞』の記者・小野弘氏にもご協力をいただいたが、西沢家があった栄町六班は特定できなかった。小野氏によると町名では栄町ではなく栄区であり、昭和四十年頃に新町名に変更。栄区、錦区、此花区が一緒になって、現在は光町になっている。西沢家はずっと西法寺裏(南側)にいたとの情報があるとのことで、栄町ではなかった。
路地に一歩踏み込めば、そこには置屋や検番、貸席といった色街の名残も数多く残っていた。しかし、千代とその夫の乕次が経営していた流川通りの割烹『文楽』は、今はカラオケ店のビルに、また別府駅裏の旅館『文楽荘』(戦後に山市夫婦が開いたもの)は駐車場に、また乕次亡きあと、千代が経営していた甘辛の店『夫婦善哉』は中華料理店に建て替えられていた。甘辛の店『夫婦善哉』には、映画で柳吉を演じた森繁久弥氏も来店した様子。千代と森繁氏がカウンターに並ぶ写真が現存するのみである。

織田と昭子が暮らした野田村(南河内郡野田村丈六)も現在、北野田と地名を変えている(現:堺市丈六174)。難波から南海電車(南海高野線急行)で二十分、北野田駅は現在、駅ビルに改築されている。改札を出、連結した駅ビルの二階に上がる。そのまま通路を歩き、エスカレーターで一階に降り三分も歩けば、織田の住んでいた家に到着する。六軒長屋のひとつだった織田の家は今は惣菜屋さんに変わっているが、隣家はブロック塀以外、当時のままの姿で残っている。筆者が最初にこの場所を訪ねた時、フランチャイズ店の入った駅ビルから、わずか数分の場所に、まだこうした昭和二十年代の家屋がポツンと残っていることに驚かされた。
思えば、織田ゆかりの建物はここしか現存していない。大阪市天王寺区の生家も焼けてしまったし、高等学校時代の下宿も今は単身者用マンションに、竹中夫婦が住んでいた富田林の家も駐車場に変わっている。織田が買い、昭子と住むのを楽しみにしていた京都下川原町の家も今はわずかに隣家との壁に沿うかたちで庭の植栽、飛び石が残っているのみである。
あの難波の法善寺でさえ、水かけ不動尊以外は戦後のものだというのだ。
午後の遅い時間でもあり、また大きなビルの陰になっていて薄暗かったせいでもあるのか、織田の住んだ長屋建物の前にたたずんでいると時間の谷間にスリップしたような不思議な感覚に襲われた。織田を識る浅井民氏が語ってくれた通りに、二階の雨戸が、今にもガラリと開き、「来たん?」と織田がタバコ片手に顔を出し、ニッと笑いかけてくるような気さえした。立ち去りがたく、案内してくれたオダサク倶楽部の井村躬恒氏と一緒に用水路跡と思われる溝に沿って裏手に回ってみた。織田が引っ越した後、二度改装されたというお惣菜屋の裏には、タイルの破片が落ちていた。おそらく便所の床のタイルだったのだろう。家の前に尻田池という大きな溜池があったと織田は自作にも書いているが、これもスーパーとその駐車場に変わってしまっている。彼のいた頃の野田村の地図(作成・喜多槇之氏)を手に歩いてみる。現在でこそ、駅前、表通りは賑わっているが当時はまだ金剛、葛城、笠置、その他の山々が見渡せたという。もちろん、織田のいた当時も商店街や小学校、病院もある新興住宅地ではあっただろうが、周囲には田んぼや畑もあり、ネオンもなく、「まだまだ草深い村」であったらしい。思えば、生まれも育ちも東京娘の昭子である。大阪郊外のこの村に連れてこられ、なんと寂しい場所に来たことかと不安に感じたのではないだろうか。

織田の晩年について書き終えた今、筆者の胸に迫ってくるのは、ヒロポンの恐ろしさ、戦後すぐの出版業界の非情さ。そして人間の尊厳の悲しさだ。
このルポタージュの冒頭にも書いたが、第二次大戦下、戦況が激化するにつれ、こうした覚醒剤(メタンフェタミン)製剤は、「突撃錠」、「猫目錠」などと呼ばれ、前線の兵士や軍需工場で働く人たちに支給された。が、なにもこれは日本軍に限ったことではなかった。同時期、ナチスに支配されていたドイツ軍でも、一九四〇年の四月─七月の間に、PervitinとIsophanという二種のメタンフェタミン製剤三五〇〇万錠が、「興奮剤」のラベルを貼られ、OBMのコードネームでドイツ陸軍並びに空軍向けに出荷されている。三ミリグラムの塩酸メタンフェタミンが含有された錠剤が、「戦車用チョコレート」、あるいは「パイロットの塩」などと呼ばれ、ポーランド侵攻作戦に従軍する前線の兵士に支給されていたという。
ここで述べるまでもないが、薬物と軍部との関係は根深い。日中戦争においても、アヘンが関東軍の財源とされていた事実がNHKスペシャル「調査報告 日本軍と阿片」(二〇〇八年八月十七日)でも放映され、物議をかもしたことはまだ記憶に新しい。

戦争によって吹き寄せられ、身を寄せ合って芽生えた織田と昭子の恋は、焼け跡を流転しロマンの花を咲かせた。今、アスファルトが敷かれ、コンクリートで固められた街に二人の足跡はどこにも残っていない。風化され、塵と消え、織田が『世相』に書いた通り「白い風が白く走っている」だけだ。
あの時代にこんな男と女がいた……もしかして私が書きたかったのは、ただこれだけの事実だったのかもしれない。

これを書くために色々な方々にお会いする機会をもつ事ができた。織田作之助を、輪島昭子を直接に知る方々は年と共に少なくなっている。今回の取材を通し、貴重なお話を伺う事が出来、感謝するとともに風化されてしまう戦中、そして終戦直後の事柄を記録しておく必要性を強く感じた。

―主な参考文献―
織田昭子『マダム』(三笠書房)
織田昭子『わたしの織田作之助』(サンケイ新聞出版局)
大谷晃一『生き愛し書いた 織田作之助』(沖積舎)
大谷晃一『表彰の果て』(編集工房ノア)
稲垣真美『可能性の騎手 織田作之助』(社会思想社)
青山光二『純血無頼派の生きた時代』(双葉社)
弁護士小森榮の薬物問題ノート(http://33765910.at.webry.info/)

第25回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」佳作入選作

銀さん帰還せず ~タイ残留元日本兵の軌跡~

 安江俊明

序章

 敗戦の日が訪れるたびに、ある人のことを思い出す。その人の名は利田銀三郎(としだ ぎんざぶろう)さん。わたしは彼のことを親しみ込めて「銀さん」と呼んでいた。
初めて出会ったのは一九八六年(昭和六十一年)春、場所はタイ王国の首都バンコクにある日本人会の応接室だった。
銀さんは小柄で俊敏そうな体躯。白髪頭は短く刈り、肌は赤銅色で精悍な感じだった。わたしを見て、一瞬人懐っこい眼でほほ笑んだが、その眼は直ぐに鋭さを取り戻し、緊張が解けない様子で落ち着かない感じがした。
わたしは当時大阪にある民放の報道部に勤務していた。ある日、デスクから参考になるかも、と手渡された新聞記事の写真に、川で船を漕ぐお年寄りが写っていた。その人が銀さんだった。
銀さんは敗戦直後に捕虜収容所から仲間と脱走し、タイに残留した元日本兵で、戦友らが集まり、銀さんを一時帰国させようという計画を進めていた。
戦後生まれのわたしは、敗戦の日を迎える頃になると、大阪大空襲に関連した取材に出かけたり、学童疎開の体験をもとにした原作の映画化を取材したり、在日コリアンの戦争体験をルポしたりしていた。
大阪には銀さんの亡くなった実弟の家族が住んでいた。早速家族に会いに、現在の大阪市鶴見区にある中華料理店を訪ねた。
店では銀さんの義理の妹にあたる利田敬子さんと息子の朋靖さんが客待ちをしていた。わたしは訪問の目的を告げ、取材を申し込んだ。
敬子さんの顔が険しくなり、思わぬ言葉が返って来た。
「マスコミの人は自分らの都合のよい時にだけやって来て、約束したことも守らんと、用が済んだらハイさいならや。帰っておくれやす!」
 わたしは、どういうことなのか話してほしいと食い下がった。敬子さんはようやく重い口を開いた。
「兄さんが、昭和四十六年にテレビで放映された今村昌平監督のドキュメント番組に映ってはったんです。てっきり戦地で亡くならはったと思い込んでたから、主人とジャングルの川に浮んだ筏の上に兄さんを見つけた時、本当にびっくりしました」
 敬子さんの表情は、怒りに変わっていった。
「戦死したはずの元日本兵が数人生きていたことがわかって、ちょっとしたニュースになって、あんたのような記者さんが、ぎょうさんうちを訪ねて来はりました。兄さんの帰国の手助けをしましょうと言うてはったのに、記事が載ったらもうおしまい。あとは梨のつぶてやった。何であんなウソつかれなあかんのですか!」
 他のマスコミのせいで、取材が入り口で閉ざされるのは合点が行かなかった。わたしは説得を試みた。結果わたしなりの誠意を評価していただいたのか、とにかく取材をさせてもらうことになった。
 並行して、戦友会にも足を運んだ。近々代表がバンコクを訪れ、銀さんの一時帰国のための旅費の足しにと現金三十万円相当のドル紙幣と戦友からのカンパを日本人会で手渡すという計画が進んでいた。わたしもその場に参加したいと申し出た。
 収容所から脱走したら、戦友らから後ろ指をさされて、肩身の狭い思いをする場合が多いらしいが、銀さんの小学校時代の親友、波部卓美さんは次のように弁護した。
「銀ちゃんはタイで水上生活をしながら医療に携わり、ジャパニーズ・ドクターと呼ばれて貧しい人々のために活動していると聞いている。メナムの赤ひげ先生なんだから、何も恥ずべきことはない。胸を張って一時帰国すればよい」
 バンコク出発まで、もう余り日がない。早速取材の準備に入った。
 合間を見つけて、敬子さんと朋靖さんに会いに行った。家族が銀さんらをどのように迎えようとしているのか、タイでの取材の前に見ておきたかったからだ。
 朋靖さんが話した。
「四十三年ぶりにおじさんが日本に帰って来るんや。会いたいよなあ。血のつながっている家族やし。僕は二十七歳やけど、この歳まで会えなかった。それを埋め合わせるには、一週間では余りにも短すぎる。でも、たとえ短くても、そこでお互いに生まれる関係が、タイに帰っても、また会いたいという気持ちにつながればいいと思う。おじさんは入院してる名古屋のお姉さんにも会いたいやろし。寝たきりの状態で、認知症が進んでて、孫の顔もわからんらしい。でも、とりあえず会わしたらんとなあ。とにかくのんびりとさしてあげたい。環境の全然違うところに来て、しかも高齢やしね。銀三郎おじさんは遠慮深い人らしいが、本人の意思を尊重してあげたい。おじさんが帰って来ることで、うちの絆も強まるやろし」
朋靖さんは、時には怒りを堪(こら)え切れないように、語気を強めた。
「国の命令で戦争に行った人が行方不明になっている。でも、もし生きているのがわかったら、一時帰国でもしませんかと、国が声掛けるべきやろ。最低の旅費だけでも、国が出すべきや。おじさんは独身で出征した。もし結婚してたら、残された家族は一体どうなっていたことか」
 朋靖さんの目には光るものがあった。
「飛行機の中でおじさんは一体何を思って帰って来るのやろ。きっと、熱い思いがこみ上げて来るのやろなあ」
「そやなあ、本当に」
 敬子さんも涙ぐんだ。

第一章

 一九八六年(昭和六十一年)三月二十四日の夕刻、わたしは香港経由でバンコクのドン・ムアン国際空港に到着した。現地の気温は摂氏三十度。タラップに降り立った瞬間、サウナに入ったような刺激を覚えた。
ホテル行きのマイクロバスに乗り込む。ストリート沿いのビルの屋上にはタイに進出している日本企業のネオンサインが目立つ。数珠つなぎの日本車の列の間を無数の日本製バイクが間を埋め尽くし、喧騒を増幅させている。この国の経済は間違いなく日本と深い関係にあった。
 バスは一方通行をノロノロと進み、ホテルや宿泊所を回って、最後にわたしが泊まるホテルに到着した。初めての熱帯の地での緊張感から解放された部屋で、生まれて初めてコークを一気飲みし、恐ろしいほどの喉の渇きを癒した。

 翌日、タイ日本人会で銀さんに会う。その場にはタイ観光の合間に銀さんを訪ねて来た戦友の姿があった。
「いやあ、ほんまに元気でよかった。ほんでな、戦友会代表の岡田准尉が、君が誰に会いたいのかを聞いて来てくれということや」
「そら、みんなに会いたいですわ。戦友に」と、銀さん。
「戦友は准尉が集合かけたらすぐに集まって来るから。そうじゃなしに、戦友以外で誰に会いたいのか、具体的な名前を挙げてえな。だって、帰って来るのはたった十日ほどやろ。出来るだけたくさんの人に会わせたいと思ってるんで、調べて来てくれと言われてんのや」
「波部卓美。小学校の親友です。それから守道・・・・・・」
「ハベさんね。ふんふん。それとモリミチさん。はい。あっ、それから、君は誰と帰って来るつもりや?」
「娘で看護婦しているのがいるんで、おそらくはその娘と帰る」
「君は現地の奥さんもらったと聞いてる。准尉は是非奥さんも連れて帰って欲しいと言うてるんや。どんな人か見たいって」
「そら無理や」
「何でやねん?」
「言葉が出来ないでしょ」
「いや、言葉の問題は別にしてや。それから要点を言うと、あんたが帰って来るについて、今カンパやらで百万円ほどの金が集まってるねん。そのうち三十万をドルに替えて、今さっき、ここの事務局長の荒井さんに渡しておいたから、覚えといてな」
「へえ、それは、それは」
「その金を使って、帰国費の一部にしてな。だから安心して帰って来たらええねん」
 それでも、銀さんの心配は消えない。
「帰国して何処に泊るかなあ」
「そんなこと絶対に心配すな。戦友も皆君を泊めると言うてるから。ひとりのところに二泊ずつすりゃいい」
「結婚してね、子どもが七人出来て。今一番小さいのが中学生」
「子どもが七人? こら大変だあ!」
「だから金がなかなかたまらない。バンコクでたくさんの収入を稼ぐ人もいる。だけどね、田舎でね、貧乏な人相手に治療してても、金がたまる訳がない。そうでしょ?」
「そらね、誰もあんたが金持ちやなんて思ってないよ。お金と泊るところは絶対に心配いらんから、安心して帰って来なさい。わかったね」
「ありがとう、ありがとう」
もしも銀さんが脱走などせずに戦友と共に日本に帰還していたとしたら、ひょっとしてこの戦友のようにのんびりとタイ観光などして、老後の人生を送っていたかも知れない。  
そう想像すると、同じ人間でも放り込まれた環境によって、こんなにも人生が変わってしまうのかという想いに至る。
服装ひとつとってみても、戦後日本の物的な豊かさの恩恵を全く受けていない銀さんの地味で古い衣服と、戦友がはめている高級腕時計や身につけている仕立てのいいシャツやズボンをつい比較してしまう。
もっとも、果たして心はどちらが豊かなのか。銀さんの取材を通じてよりはっきりとその姿を現して来るような気がする。
荒井事務局長によると、銀さんらのパスポートは申請中で、四月初旬には取得できる見通しになっていた。
「それなら桜と一緒に帰って来たらどうや? 気候もええし。寒かったら厚着したらええねん。心配いらん」
 戦友が言った。
「そうですなあ。そうしますわ」
わたしは荒井さんに二人だけでお話を伺いたいと申し出た。銀さんと戦友を応接室に残して、荒井さんは別室で話し始めた。
「利田さんが前回日本人会に来られたのは、未帰還元日本兵の取材で利田さんと出会った国際報道カメラマン、三留(みとめ)理男さんの情報がキッカケでした。三留さんが利田さんの親友、波部さんに連絡し、利田さんが生存していることを伝えたんです。波部さんが、そのことを戦友らに伝えたところ、利田さんの一時帰国を実現させようという話になって、波部さんがそのことを手紙で利田さんに知らせました。今度は利田さんが驚いて、わたしに波部さん宛ての返事を書いてもらいたいという依頼がありました。返事の内容としては、余り日本に帰る気持ちがないこと。それに、金を出してもらって帰るのは気が進まない。何とか旅費ぐらいは自分の力で貯めた上で、貯まったら行ってみたいということでした。その内容をわたしが代筆して波部さんに送りました。その頃です。利田さんのことが日本のマスコミで騒がれていることを初めて知ったのは。それまでは年に三、四回来ておられましたけどね。最初は四年前です。それまでは音信不通の状態で、その時日本人会には会員の日本人が二千五、六百人いるとお話したら、驚いていました。ここで初めて日本の新聞をご覧になって、一日遅れで日本から新聞が届くと言ったら、びっくりされましたね。長年人前に出ると危ないと、身を隠して来られたでしょ。ほとぼりがさめてからも、家族を抱えて身動きが出来ない。まあ、日本人会に出て来る気持ちの余裕はなかったでしょう。多少収入が出来て、子どもも大きくなり、ようやく月に一回バンコクで物を仕入れるために、来られるようになった。その頃は、お金をしまうにしても、バンコクではスリも横行して危険だというので、懐の奥深くにお金をしまうところを決めておられましたね。とにかく警戒心は強かったです。緊張して、身の回りには気を配ってね。だからシャキッとされていました。でも、日本の状況がだんだんとわかって来て、気持ちが緩んだせいか、腰も痛いこともあって、気持ちの張りが崩れたという感じですね」
「もし帰国が実現するとしたら、どうお考えでしょうか」
「今更日本に帰って生活するのは厳しいと思います。まずもって、日本の寒さに耐えられないでしょう。タイは十二月のクリスマス前後が一番寒く、バンコクでは摂氏十三、四度になります。それでも利田さんはぶるってましたから。ましてや冬の日本では氷点下の気温さえある。我々がシャツ姿でも、利田さんは分厚いジャンパーを着込んでいましたからね。それにタイの人は板間に直か、あるいはゴザを敷いて寝るんです。固いところで寝るタイの生活に慣れたら、ふわふわしたところでは寝られないです。長年の生活習慣は、あのお年になったら、まず変えることはできないと思いますよ」
荒井さんにインタビューしながら、わたしは銀さんと今日このまま別れると、ひょっとしたらもう会えなくなるのではという危惧を抱き始めていた。
銀さんの家には電話など連絡方法が全くない。それに初めての土地で水上生活者の群れの中から銀さんの家を探すのは至難の業である。それなら、こちらでタクシーを用意し、銀さんと一緒にチャオ・プラヤ川支流にあるという彼の家までとにかく行ってしまうのが最も確実だ。
わたしは銀さんに日本人会で待つように頼み、一週間の予約を入れたホテルに戻り、当面不要な物は残して、取材用のテープレコーダーとマイクのセット、カセットテープに財布など、必要と思われる物だけを小分け用のバッグに詰め込んだ。
そのバッグを持ち、銀さんの案内でタクシーを走らせた。簡易アスファルト舗装の道を一路、タイの古都アユタヤに向かう。バンコクから北へ約百キロの道のりである。銀さんは川沿いにある高床式住居に妻と子どもと暮らしている。
途中、川を越えるために、タクシーごと小型フェリーに乗った。群生するニッパ椰子の葉脈に熱帯の陽光が降り注ぎ、思わずサングラスを掛けた。フェリーには近隣に住む人々が物資を運ぶ姿があった。
バンコクを出てから約二時間後、タクシーはチャオ・プラヤ川の支流にぶつかった。小さな船着場があり、男が二人モーターボートのそばで休んでいた。銀さんがタイ語で話しかけた。男らはやおら立ち上がり、ボートに乗った。
「タバコがあれば、彼らにやってください。船賃代わりですわ」
 銀さんがほほ笑んだ。タバコを三本ずつ手渡すと、男らは顔の表情を緩めて、ボートに乗るように手招いた。ボートは爆音をあたりに響かせながら、川を上り始めた。途中から、目の前に太い緑の帯が川面に現れた。
「銀さん、あれは何ですか?」
「ホテイアオイですわ。流れに乗って塊になって、あっちこっちと自由気ままに流れて行くんです。近くで見ると、でかいでしょう?」
 確かに日本で見るより、かなり大きなもので、川面を覆い尽くすように流れて来て、行く手を阻んでいる。モーターボートは爆音もろとも、まともに正面から群生の塊に突っ込んだ。途端にエンジンが切れ、ボートは巨大な浮き草の群れの真ん中に閉じ込められてしまった。
「しばらくやり過ごして抜け出すきっかけをつかみましょう」
 皺深い顔をほころばせながら、銀さんは頭を掻いた。
初めて会った時に見た、あの緊張した鋭い眼差しは消えていた。
 しばらくして、ホテイアオイの切れ目が現れた。ボートは間髪を入れずに、エンジンを始動させて、群生した浮き草の塊から逃れた。
 川沿いに高床式の民家が現れた。川は東南アジア特有の「泥の川」だ。半ズボンをはいた子どもが数人、茶褐色の流れに潜って遊んでいる。
「病気にならないんでしょうか?」
わたしが心配そうに尋ねた。
「すぐ腹を壊して、わしのところにやって来ます。この辺は下痢患者が一番多いんですよ。犬猫の死体やら川には色んな物が流れて来ます。上流の方で強盗団に襲われた一家が殺されて、首をはねられた死体がぷかぷか浮いて流れて来たこともある。トイレもそのまま川に流すから、大腸菌で一杯ですわ。でもね、ここではちゃんと糞(くそ)が出ます。バンコクに行ったら糞が出なくなる。バンコクの娘の家でも出ない。たまには北部のチェンマイにでも遊びにいけば、と言われるけど、なかなか行けない。何処に行っても、とにかくこの川に早く戻って来ようと思う。泥の川で毎日沐浴して、頭から水をかぶるんです。そうすれば、気持ちがスーッと落ち着きます。この川には深い馴染(なじ)みがありますわ。川の表面は温いけど、底はうんと冷たい。魚が尻をつついたり、足に喰らいついて来るんです。ぽっぽ、ぽっぽとね。蛭(ひる)も吸い付いてくるしね。吸い付いてくれた方が、味がある。ちょっとうるさいけど、これがここの常識ですわ。この川の生活にそれほど慣れ親しんでしまったということですな。ここに長い間暮らしているから、心の安定が保てるんです。町の中でそんな安心はどこにも得られません」
 そう言いながら、六十八歳の元日本兵は泥の川をじっと見つめた。その眼には深い安堵感があった。
わたしは初めてバンコクで銀さんと出会った時の、何処となく緊張が解けない眼を思い出していた。都会慣れしている者には決してわからないであろう銀さんなりの安心感を生み出すのが、泥川沿いの暮らしだったのだ。
しかし、そうなるまでには長い星霜が要った。
銀さんは一九一七年(大正六年)九月二十七日、大阪市北区角田町に生まれ、現在は新設校に統合された地元の済美(せいび)小学校の前身、済美第五高等小学校を卒業した。一九三七年(昭和十二年)母親の実家があった福井県の鯖江三十六連隊に二等兵として応召し、翌一九三八年(昭和十三年)大阪第八連隊に入隊した。
銀さんが応召した前年、すなわち一九三六年(昭和十一年)には、陸軍皇道派の影響を受けた青年将校が昭和維新断行を掲げて決起した二・二六事件が起きている。さらに銀さんが応召した一九三七年(昭和十二年)七月には、北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国国民革命軍との衝突事件が発生し、日中戦争の導火線となり、主戦場は中支(現在の華中すなわち中国中部)に移って行った。
銀さんは一九三九年(昭和十四年)中国大陸に陸軍衛生兵として出征。病のため、一度は日本に戻ったものの、一九四三年(昭和十八年)秋の臨時動員令で再び出征。今度はフィリピン、インドネシア、タイと転戦した。
二年前の一九四一年(昭和十六年)には日本軍による真珠湾奇襲攻撃があり、同時にマレイ半島侵攻作戦が行われ、戦域は太平洋へと拡大していた。
歩兵第八連隊第六中隊の戦友会である南方八六会のメモによれば、銀さんは第四師団歩兵第八連隊第六中隊の兵士として、昭和十八年九月二十六日、臨時動員令を受けた。
十月八日、広島の宇品港を出帆。ちょうど一カ月後の十一月八日、スマトラ島ベラワン湾に上陸し、同十二日パダンに到着した。任務は中部スマトラ、主にインド洋岸の警備であった。
昭和二十年二月五日、仏印(フランス領インドシナ)派遣のため東海岸州パカンバル港を出帆し、同月七日シンガポールに上陸。同月二十二日マレイ・タイ国境を通過し、三月六日バンコクに到着した。
同月九日タイ・仏印国境を通過し、日本軍がフランス軍を攻撃し、仏印を制圧した明号作戦に参加した後、同月三十一日にサイゴンを出発。四月十五日、タイのノンホワリンに到着し、警備の任務に就いた。
六月二十七日タイ北部に転進(退却)し、八月十四日敗戦を迎える。この後、日本兵は捕虜となり、南方八六会のメモによれば、十月五日、ナコンサワン収容所に収監され、十二月八日タイ駐屯の日本兵が全員捕虜としてナコンナヨーク集結地に連行された。
翌二十一年十月二十八日、一行はバンコクを離れ、シンガポールを経由して十一月二十七日佐世保港で故国日本の地を踏んだ。同月三十日復員完結と記されている。
ところが、復員者の中に銀さんの姿はなかった。銀さんは捕虜としてナコンサワン収容所の後に収容されたタイ・ビルマ国境中部サラブリ県の山間部にあったノンホイ収容所から脱走したからである。

   *

ボートは一軒の民家の軒先に着いた。銀さんの家である。わたしは日本人会の荒井さんの言葉を思い出していた。
「利田さんがタイ国籍を取ったのは、国籍がないと家や土地が取得できないからですね。正式に結婚せずに、同棲しているタイ人女性の名義で土地を所有することは出来ますので、そうしている人は結構居ます。ところが、利田さんは正式に結婚されて、結婚の証明書がある。そうなると、奥さんの名義で土地や家が買えない。本人がタイ国籍になるしかなかったんですね」
開け放した民家からこちらを見つめていたのは、その奥さんだった。
銀さんは奥さんにわたしを紹介し、二晩ほど泊めてあげてほしいと頼んでくれた。
「お世話になります」
 わたしはペコリとお辞儀をし、案内されるままに階段を上がった。
 奥さんが冷たい飲み物を出してくれた。その場で銀さんが奥さんについてプロフィールを紹介してくれた。
「うちのカカアはプラーパーという名で、中国系のタイ人です。知り合いが紹介してくれて一緒になりました。お金に対しては、とってもしまり屋です。結婚して、三十年。いくらか金が貯まっても、わしに酒を飲まさない。いや、わしが飲むと、そらご機嫌が悪くなる。独身の頃、わしはタバコをよく吸いました。歯が黄色くなるくらい。結婚してから止めてくれと言われました。タバコ代を節約しろって。タバコを買う金があるなら貯金しろって。服も節約して、雑巾になるまで着ろってね。そうして来たから、この家が買えたんです。良いカカアをもらったもんです。わし独りやったら、未だに家もないでしょ。お金を全部使っちまうから」
 何をしゃべったのかを奥さんが聞いて来た。銀さんがかいつまんで話すと、奥さんは嬉しそうに笑った。
「夫婦げんかをされることは?」
「ありますよ。そうなるとカカアの方が強い。まあ、わしがわずかな金を稼ぐから、ふだんは一応奉(たてまつ)るが、けんかをしたら負けや。ハハハハ」
 銀さんは奥さんとの間に七人の子どもを儲けた。女四人、男三人である。
次女のマリワンは看護師で、後に銀さんの一時帰国に付き添うことになる。銀さんが一時帰国した一九八六年(昭和六十一年)現在、長女のソンクリーンは二十七歳で大学の職員、マリワンは二十三歳、長男のソムブーンは二十五歳で銀行の警備員。次男はチャイヨス二十一歳。四女のジラワンが十六歳。最年少で三男のサッカリンが十三歳で、中学生だった。長女と長男それに三女のアンチャリー(十八歳)はバンコク在住である。
しばらく談笑してから、居間へと案内された。居間の隣には子ども部屋、その隣に診察室があった。医学書の棚と漢方薬の棚が隣同士にあった。
 銀さんが何故「メナムの赤ひげ」や「ジャパニーズ・ドクター」などと呼ばれるようになったのか。その夜直接伺った。
「元々、軍隊では補助衛生兵やった。戦争がいつの間にか終わって、敵軍に収容所に放り込まれて、これからどんな運命が待ち受けているのかわからず、不安な日々やった。日本は負けたんや! 日本に帰ってもええことが待っているはずがない! このままじゃ、日本に強制送還されてしまうかも知れん。そんならこちらで一旗上げようやないか。一旗上げてから日本に帰ればええ。そんな思いもあって、三人でポロポロしたんですわ。ポロポロというのは脱走することです。いったん逃げ出したら、日本兵ということを隠し通さなくちゃならん。兵隊服を中国服と交換して、中国人になりすましたこともあった。捕虜の脱走を英国兵やインド兵が放免するはずがない。カムフラージュしてうまく逃げました。歩いて、歩いて。マンゴーかじって。ちょうどマンゴーの季節でした。逃げ回るうちに、三人一緒に行動するのは目立ち過ぎるから、単独行動にしようということになり、わしは他の二人と別れました。行くあてがあったわけやないが、とにかく食っていかなあかん。そんな孤独な逃亡の中でわしが行き着いたのはタイのお寺やったんです。こっちのお坊さんは日本人のわたしに親しくしてくれました」
 銀さんは当時を懐かしく思い出す表情を見せた。
「お寺で漢方の勉強をしました。境内に生えてる草木の名前を覚えて、その草木がどんな症状に効くのかなどを勉強したんです。そうすることでわしは生き延びることが出来ました。お寺の周辺で祭りがあると、刃傷沙汰(にんじょうざた)がありました。手術といっても麻酔があるわけやなし。痛い! 痛い! と叫ぶ患者をそのまま切開したりもしましたわ。切開せんと、治療が出来なかったから。頭を切られた患者、手を切られた患者。朝から晩までいっぱい来ました。傷を縫ってくれってね。最初は糸針。きれいに磨いて、焼いて、曲げて。それからヨウチン。ピンセットもないから、手で縫ったわけですよ。針もやっぱり縫い針でないとだめですよ。一緒に逃げた同じ衛生兵のN君が医者になっていて、くれたんですよ。針から、糸から、包帯から、薬から全部」
「それで今もお医者さんを・・・・・・」
「そうです。昔は川の上流の遠いところまでよく往診に行ったもんです。真夜中にドンドン戸をたたかれて飛び起きる。家族に病人が出たと言って、わしを船で迎えに来るんです。往診のカバンを持って、真っ暗な川を上って行く。別の日にはバンコクの方まで何十キロと下って、二日がかりで船で往復したりしました。漕ぎ手を雇ってね。そんなことは日常でした。昔は元気やったから。リンゲルとか漢方を背負って出かけました。もう今はとても無理。そんなことをしたらいっぺんにへたってしまう。最近は川に沿って自動車道も出来たが、この辺は歩いて行かんとたどり着けないところが多い。沼地を歩くと、蛭(ひる)が吸い付いて来る。日本の蛭みたいに小さいやつじゃない。ここのは、とっても大きいですわ。それが何匹も吸い付いて来る。手でとろうとしても、取れない。こんな時にはタイ原産の草でよく効くのがある。草を水に溶かして、すり込むと血がいっぺんに止まる。強力な止血作用があるんですな。沼地や水の中を歩いていると、貧血で眼や頭がくらくらして来る時がある。へその下のほうがかゆい。触ってみると、睾丸(こうがん)に蛭が吸い付いて、血だらけになってた。それで貧血が起こったんですわ。こんな時にもこの草が役立ちます。田んぼの水牛にも蛭が吸い付いて、牛が血だらけになる。そんな時もこの草を塗ってやると、すぐに蛭が縮んで簡単に取れる。蛭に対しても強いが、止血にもよく効くというもんです」
 都会に住む人間からすれば、銀さんの蛭に対する治療の話を聞いただけで、虫唾(むしず)が走るだろう。でも、銀さんはその蛭さえも自分にとって慣れ親しんだものとして捉えている。人間の心のあり方というものは、左様に捉えがたくもあり、自由でもあるのだろう。さすがに銀さん。医療の話を始めたら、なかなか止まらない。
「この辺で一番多いのは下痢患者。それから感冒。この辺には風土病があって、全身の毛細血管から血が噴出すんです。蚊に咬まれてね。マラリアとは違いますが、ここらへんの伝染病です。夜になったらこの辺は蚊だらけです。蚊に咬まれて体の調子がおかしくなって、子どもも大人もわしのところにやって来る。原生のタイの薬草でよく効くのがあるんです。五年ほどで何百人と治療しました。よく効く薬草を何とかして日本の製薬会社に売ろうかと考えたこともあります。ガンや止血によい薬草なんかをね。しかし、日本でわしのことを赤ひげ先生なんていうのは何故ですかね。赤ちゅうのは共産党のことでしょ? どうして赤ひげなのか」
「銀さんのように、貧しい人々を無償で治療する医師のことを、そう言うんですよ」
 わたしの説明に、銀さんはほほ笑んだ。
「ここの患者には本当に貧乏な人が多いんです。借金に追い回されている人からはなかなか治療代は取れないです。金のない人から取るのは日本人としての道義が許しません。日本人である以上は高利貸しのような気持ちにはなれませんわ。タイの病院は治療代が高い。ここでもらうのはわずか。そんな調子だから、患者はわしを拝んでくれます。そういう患者は信用できます。金持ちは拝もうとしません。ここにいる以上はタイ人の味方になってね。わしも後、命も何年もないから、日本人として、タイ人に良い感情を残しておく。それでいいんです。あの日本人のお医者さんは良かった、と言われるように、後から来る日本人がタイ人から良く思われたらそれでいいんです」
 奥さんが隣の部屋から顔を出し、銀さんに声をかけた。
「ああ、患者さんがやって来たんですわ」
 赤ん坊の泣き声がだんだんと近付いて来た。見ると、子どもを抱いた母親が銀さんの手招きで前に進み出た。銀さんはタイ語で母親から赤ん坊の容体を聞き出し、熱を測った。知らない指で腕をとられた赤ん坊は、何をされるのかと泣きじゃくったが、銀さんは目を細めて話しかけていた。薬棚から粉末状の薬草を取り出し、量を計って金壺の中に入れ、すりこぎでさらに細かく砕いた。心配そうな表情の母親に薬を手渡し、服用の説明をしてから、もう一度赤ん坊にやさしく声をかけて、親子を送り出した。
「数年前から部落ごとに診療所が出来ました。だから、わしの存在も昔のように必要なくなって来たんです。そろそろ商売替えしてもいいんですよ。タイの薬草集めて日本に売ったり、製薬会社に持って行ってガンや喘息に効く成分を抽出して、試験してもらったりしてね。原生の薬草だから、化学成分の薬より、ずっと安く薬が作れる。売れたら世界中に売ってね。診療の方は娘のマリワンに任そうかと思っています。近くの病院で看護婦をしてますが、産婆もうまいし。お父さんは目が悪くなったから、診療をやめて安楽に暮して欲しいと言ってくれるんでね」
 マリワンが勤める病院を訪ねた時、彼女が日本に留学したいという希望を持っているのを知った。今度日本にマリワンを連れて行くのは、彼女を留学させようという気持ちが働いているのかを尋ねてみた。
 銀さんは否定的であった。
「日本の学校は授業料が高いでしょう。タイなら、政府系の学校は学びながら月給をくれます。日本の留学費用なんて、誰が出してくれるんですか。とても出せませんし、無理です」
わたしは銀さんから余計なお世話だと思われるのを覚悟の上で、敢えて進言してみた。
「日本に留学すれば、一体どのくらいかかるのかを一応調べてみたら如何でしょう。折角彼女は留学したいと思っているのだし、今回二人で日本に行かれる訳ですから。何といっても大阪には弟さんの家族がおられるわけですからね。随分精神的には違うと思いますよ」
 銀さんはマリワンについてそれ以上何も言わなかったが、まだ学校に通っている子どもについて次のように話した。
「将来はしっかりとした職業に就いてもらいたいと思います。腕に技術をつけて欲しい。そのために男の子は電気の専門学校に行かせています。女の子には、そこまで期待は持っていません」

第二章

 翌日、銀さんがアユタヤを案内したいと言い出した。わたしは昨夜ピックアップを頼んでいたタクシーが待つ水辺まで取材の機材を持って銀さんと出かけた。
「この辺は腹を空かせた野犬の群れが人を襲うし、毒蛇もいるから草むらを歩くときは十分気をつけてください」
 銀さんの口から出る言葉にはいちいち驚かされる。でもそれは本当なんだろう。
 アユタヤには一三五一年、王朝の都が創られ、一七六七年ビルマの軍隊に滅ぼされるまで四百年余り王朝の中心地だったところだ。現代に当時の面影を伝える王朝の遺跡は今公園として整備されているが、遺跡の中を歩くと、ビルマに破壊されたままの姿で保存されていた。
「象に乗ったビルマ軍が侵入して、王宮に火を放った。その後王朝の宝がたくさん持ち去られた。瑪瑙(めのう)なんかが、いっぱいね。破壊された仏像とか、遺物は博物館にも保管されています」
アユタヤにはかつて日本人町があり、在タイ日本人の指導者、山田長政が王朝に仕えたことで有名なところだ。現地にあった日本人町跡の碑文によれば、最盛期には約八千人の日本人が暮らしていたという。
 銀さんは川沿いにある店に案内してくれた。わたしは店のノートに観光客の名前と住所を見つけた。
「日本人の観光客が来ていますよ。ほら、京都とか大阪とか」
 昔は交易のためにやって来た日本人が、今では観光客として訪れる。
このお店、土産物のタイ生地を売る店舗だが、当時は捕虜収容所から脱走した銀さんら三人の日本兵が先代に一時かくまわれたところだそうだ。歴代、山田長政を祭っていた山田神社の堂守をしていた家系だったという。
銀さんらが居た頃は、バンコク行きの船が何艘も発着し、活気があったそうだが、今は船の姿も少なく、時にモーター船が行き来する程度で、昼間でも船着き場周辺はひっそりとしている。唯一姿を見せたのは托鉢の僧だった。
「この辺の坊さんは船に乗って托鉢をします」
 銀さんは財布から小銭を出して僧に差し出した。
 近所の住民は銀さんと顔なじみ。わたしと銀さんが何処で知り合ったのかと聞いて来た。わたしが日本人と知り、残念ながら日本語はしゃべれないと笑った。
当時銀さんらは脱走日本兵と見抜かれるのが恐ろしく、半年ほどは誰とも話さなかったという。日本語を話せば、通報されて捕まってしまう。中国服をまとい、帽子を目深にかぶって目立たないようにするのだ。その後遺症からなのか、その後全く日本語を話さなくなった元日本兵もいる。
 そう言えば、銀さんもこんな話をしていた。
「子どもが小さい頃、今度日本に連れて行く娘のマリワンにも、他の子にも、日本語を教えませんでした。子どもが日本語を話して、もしも万にひとつでも何かあったらと心配でしたから」
 日本人であるのを隠して、決死の逃亡生活を続けた銀さんならではの、子どもに対する思いやりでもあったのだろうと思った。
日本人会の荒井さんは、この点次のように話していた。
「最初日本人会に来られた時も、はっきりとした日本語でお話になっていましたね。一緒にキャンプから脱走したNさんとは全然違いますねえ、と利田さんと話していたんです。Nさんはこちらが日本語で話しかけても、タイ語で返して来ましたからね。利田さんは日本人会に来られた時も、日本の新聞や雑誌などは全然読んだことがないし、日本人とも接触が無かったと言っていました。なのに、よく日本語を忘れなかったなあと感心しましたね」
 タクシーを停めて、銀さんと川沿いの林の中を歩くことになった。わたしに見せたいところがあるらしい。それはかつて山田長政の神霊が祠に祭られていた山田神社だった。祠はその後泥棒に持って行かれ、野ざらしになっていた神霊を、銀さんは何処に行くにも肌身離さず持ち歩いていたという。日本で亡くなった両親の手製の位牌とともに、毎日ご飯、お茶、果物を供え、拝む度に「金がたまったら、祭りをして山田神社に神霊をお返しします」と口ずさむのが日課となった。
「山田長政は、貧乏なわしのせいで幸せだと思います。神社に観光客が訪れても、満足に手を合わす人もいません。ただ、見て素通りして行ってしまうだけ。果物とかのお供えも何もない。それでは山田長政がかわいそうです」
懐かしくも、苦しくもある昔のことを思い出し、想いがあふれ出て来たせいか、銀さんはある戦場での体験を話してくれた。
「良心にとがめることがありました。未だに自分のことを責める気持ちになります。あれは中国戦線で夜明けの戦があった時のことです。わしは他の兵隊と斥候に出ていました。目の前で民間人の朝市が賑わっていました。朝市が行われている手前に、共産軍の兵隊の姿がありました。われわれに気付いた共産軍は住民を楯にして、朝市の人ごみのなかに紛れ込んで行きました。われわれは銃を構えて、朝市の人だかりに少しずつ近付いて行きました。いきなり共産軍が発砲して来たんです。われわれも撃ち返しました。銃撃戦となり、住民らが逃げまどい、あたりは修羅場と化しました。わしも共産軍を狙って何発か撃ち込みました。撃った瞬間、手ごたえがありました。でも、倒れたのは共産軍ではなかった。女の人です。五十歳くらいの。わしの撃った弾に当たったと思います。ボーンと狙い撃ちした時に、婦人が倒れましたから。銃撃戦で住民が何人も殺され、うめき声を上げていたけれど、とにかく自分が撃ったという感情のある人はその婦人だけですわ。共産軍はその場から走り去ろうとし、われわれは後を追い始めました。わしは倒れている婦人のそばに駆け寄りました。喉に弾が貫通して、息も絶え絶えでした。共産軍追討のため、わしは直ぐにその場を立ち去らなければならなかった。たった今何とかすれば、ひょっとしたら助かるかもしれない。そう思ったりもしました。でも行かなきゃならなかった。本当にすまないことをしてしまった。婦人に、許してくれと叫んで走り過ぎて行きました」
 銀さんは指で目をそっと拭いていた。
「無慈悲なもんです。戦争というやつは。兵隊なら殺されても仕方ない。しかし何の罪もない人間まで殺してしまうんですから。あの婦人にも子どもがあったろうに。夫や、両親がいたろうに。それを、よりにもよって、このわしがこの手で殺(あや)めるなんてね。毎日沐浴した後で、仏壇に向かって今でも南無妙法蓮華経を唱えて、この婦人を拝んでいます。今思い出してもこの人だけは目に残っているから」
 目を閉じて、銀さんは静かに祈りを捧げていた。

   *

水際生活を経験しながら、板間にゴザを敷いて身体を横たえる。蚊が多いので、蚊帳の中で銀さんと寝た。すだれを通して、川べりに住む虫の羽音や生物の鳴き声が絶えない。月明かりだけが、闇夜を照らしていた。
翌朝、銀さんに声をかけられた。
「どうです。川の中に入ってみますか」
 足先を水につけると、生温かい。熱帯の泥の川だ。さもありなん。子どもたちはきゃあきゃあ言いながら、水中に潜ったり、手で泥水を掛け合っている。足を川底につけた。ひんやりとする。温度差がかなりある。足先が底に沈んでいるものを感じた。何だろう。ずいぶんと硬いものだ。足を切ることはなさそうだ。蛭だけは吸い付かないでくれ。頼むぞ。
「色んなものが沈んでいますね」
「そうです。ガラス瓶の割れたのもあるから気をつけて下さい」
 銀さんは水を顔から肩に浴びていた。
「やはり、ずいぶん臭いますね」 
 わたしは鼻をひくひくしてあたりの臭いを嗅いでいた。
「そうでしょ。わたしなんか慣れてますから。水は飲まんように。すぐ腹下しますから」
 しばらくして銀さんは、と見ると、水を頭からかぶり、手を合わせている。沐浴が始まったのだろう。中国戦線で自分が殺めたという、あの中国婦人を心に描いているのか。それともご両親か。あるいは山田長政か。よそ者からすれば、汚い泥の川でも、銀さんにとっては、聖なる川に違いない。川で穢れを落として、この後銀さんはきっと仏壇に向かい、経を唱えて、死者を弔うのであろう。
 銀さんの隣で、沐浴のまね事をしてみた。身体と顔だけ水を浴びてしばらく水に浸(つ)かっていたが、潜らずに川から上がった。
            
           *

夜の帳が下りてから、銀さんの家にある備え付けの木の船に乗り、銀さんをかくまったというワッシン寺に出かけた。夜の川は昼間の熱帯モンスーンも一段落して川風が吹き、涼しい。寺は対岸にあり、銀さんの櫂を漕ぐ声が闇にこだましていた。サッカリン君が銀さんのアシスタントだ。
闇夜の彼方から寺の本堂が浮かび上がって来た。川で身を清めていた僧侶が銀さん親子とわたしを迎えた。先代の住職は既に亡くなり、後を継いだ住職が本堂に案内してくれた。住職は鮮やかなオレンジ色の法衣に身を包んでいた。
「この方は、アユタヤのバンサイ地区で一番偉いお坊さんです」 
 銀さんが恭しく頭を垂れた。
「この寺で先代にお世話になりました。居候になってね。脱走してから心の落ち着く暇がなかった。敵に捕まったら命はない。家もなし、金もなし、カカアもなし。そんな時にお坊さんが助けてくれた。本当に親切にしてくれました。地獄に仏ということですね。今でも感謝しています。寺には漢方に詳しいお坊さんがいて、何年も漢方のことを教わりました。それで何とか独り立ち出来る基礎が出来ました。その後バンコクに出て、知り合った日本人の医者と一緒に船で往診しながら治療して回り、いろんな病気と治療法を勉強しました。漢方に加えて一般治療法も身につきましたから、その医者が日本に帰ってからは、独りで水上生活者の群れの中に入って行ったわけです」
境内にある講堂から子どもが発する声明(しょうみょう)のような響きが聞こえて来た。サッカリン君が講堂を覗き込んでいた。わたしの問いに銀さんが答えた。
「あれはね、寺で養われている孤児たちです。日課を終えて、寝る前のお祈りの時間ですわ。彼らも厳しい社会から逃れて、寺に保護されて安楽な暮らしをしている。ちょうどわしの昔のようです。敵から逃げまくり、やっとここでかくまわれて、心が安らいだから」
 孤児らの声明の響きが一段と高くなり、突然止んだ。境内は底知れぬ静寂に包まれた。
 静けさを破り、銀さんが口を開いた。
「ここに来た頃、無性に日本に帰りたくなったことがありました。収容所から逃げた頃はそんな気持ちは全くなかった。こちらで一旗あげようというつもりでしたから。日本が恋しくなったけど、だいたい帰るお金がありません。敵にとっ捕まったらシンガポールに送られてしまうし。そのうちに漢方の勉強や仕事に追われるようになった。どんな時期に薬草が採れるのか。どんな効き目があるのか。犬にも飲ませて研究しました。タイの草にも毒があります。薬になるものとはっきりと分けなきゃなりません。ヘタしたら死んじゃう。すごく神経を使いました。医学のこと、患者のこと考えていたら、頭がこんがらがり、帰ることを忘れてしまった。タイ語もだんだん分かるようになって、住民とも親しくなれた。それで帰りたい気持ちが薄らいで行きました。帰るにしても、成功してからや。成功せんと帰る意味ない。そのうちカカアをもらって、子どもが出来た。嫁さんと子どもを持つと、日本に帰りたいという気は持っていても、ますます帰れなくなった」
 遠く去ってしまった祖国。「天皇陛下万歳!」と叫んで戦場で散り果てた同期の桜。
「昔の日本は大元帥陛下の命令ひとつで何でも決まった。でも今はそうじゃないですよね。一般の日本人が一体どういうような気持ちを持って暮らしているのか知りたいですねえ。昔は何でもかんでも官僚主義でね、自由なことは言えなかった。朝から晩まで教育勅語読まされてね。軍隊に入ったら戦陣訓。そんなもん読んだって、ひとつも頭に入りませんから。無理やりひとつに固めてしまえって、上層部は思とったんでしょうなあ。でも、それを読む人間がそういう気持ちにならんとダメですわなあ。あれは失敗ですわ。それよりも、人民に自由な気持ちを持たしてやらんとね。昔は無理な権力を振り回して無茶苦茶でした。とにかく、上官でも、官吏さんでも何でも好きなように無理やりに通しちまう。わしが中学の頃、大阪・天神橋六丁目の交差点で、休暇中の軍人が赤信号を無視したのを交通整理中の警官に咎(とが)められ、交番に連行された。これが陸軍と警察が対立する大事件になったんですわ」
一九三三年(昭和八年)のゴー・ストップ(信号機)事件である。満州事変後の大陸での戦争中に起こった事件で、当時は陸軍が肩で風切って歩いていた。
「軍人は警官よりエライんや。警官ごときが軍人に対して指図するのはけしからんちゅうことですわね。今でもそんな風潮があるのか知りたいです。そんなことは日本から追っ払っちまって、道理の通ることをやらんと。抵抗も何もしない人間を蹴飛ばしたり、たたいたり、あれは日本人の悪いとこですわ。」
 銀さんには一時帰国が現実味を帯びて来ているのであろう。彼はこうも言った。
「どうせ帰ったって一時のこと。妻も子もある。日本に帰っても何もできん。この歳になって一時帰国しても、弟の家族とあいさつして、両親と弟の墓に詣でるくらい。後は何の役にもたたん。ようガンに効く草を日本に持って行って特効薬に出来たらいいのになあ。わしは日本に住むことは出来ません。このアユタヤを捨てることは出来ないんです。両親も亡くなったし、財産と言うて、無い。こんな歳になって、何が出来るんです!」
 戦争という大海に飲み込まれて、人生を大きく狂わせられながらも、異国の地で必死に生きて来た男が、限りある人生に向かって叫んだような気がした。
 透明の液体を入れた器が運ばれて来た。
「これは何ですか」
「雨水だそうです」
「これを頂くということですか」わたしは少し首を傾げていた。
「寺ではお茶は飲みません。雨水を頂いて、僧が修行するんですわ」
「へえ、それはまた何故でしょう」
「雨水は天から頂いたもので、これを飲むと体調がよくなる。自分の気持ちや精神が浄化されて、きれいになるそうです。寺では久しぶりに降る最初の雨は屋根などのホコリを含むので使わないが、その後何回か降った後の雨水を大きな甕(かめ)にいくつも貯めるとのことです。その量、何千リットルだそうですよ」
「それはスゴイですね」
 出された雨水を一口飲んでみた。
「ああ、おいしいですね。自然の恵みという感じがします」
 わたしは住職の前で、残りの雨水を飲み干した。
  
第三章

 銀さんが戻らないまま、戦後の月日が流れて行った。大阪には銀さんの弟である大作さん一家が暮らしていた。弟は役所に何度も足を運んで、消息が全くわからない兄を捜していた。ある日やっと兄がタイに居るらしいということがわかった。しかし、意外なことも耳に入った。兄は医師免許がない医者だったのだ。
(これ以上捜したら、兄さんの居所がタイの警察に知れてしまい、銀兄さんが法律違反で捕まったりするかも知れん)
 弟夫婦は偶々映画監督を通じて兄が無事家族と暮らしていることを知った。
(兄さんが無事ならそれでええ。生きてさえいてくれたら)
 弟は兄に会いたい気持ちを胸に収めてしまった。
 しかし、兄から便りが届いた時には、それを何度も読み返し、男泣きに泣いた。一九七一年(昭和四十六年)のことだった。

大阪市城東区茨田諸口(まったもろぐち)町 利田大作様
終戦より二十六年其の間、何の沙汰もせず、今日に至り、己の無責任さが本当に悔やまれます。時々私の居る田舎に来る売薬業者のニュース映画で見る内地の状況は、大阪、東京は爆撃で、焼け野原の醜い状態で、この分なら、多分母親も姉も、もう死んでしまったに違いないときめていました。
貴下も現役海軍で、艦に乗る以上、ニュース映画で見る如く度々の海空戦で艦もろとも戦死してしまったことと思ってをりました。
それが今、元気に居られる消息を受け取り、こんな嬉しいことはありません。
姉さんも病身ですが、ご無事で何よりです。
私方一家八人毎日楽しく幸福に其の日其の日を送ってをりますから御安心下さい。
今タイ国も冬の最中で、朝は寒いです。とんとを燃やして円陣を作り、家族皆で楽しく話し合っています。昔、子どもの頃、大作と姉さんと三人で、とんとしながら芋を焼いて食べましたね。
それから父親のことで思い起こしましたが、其の昔姉さんが久しく患った時、父親は自分の金歯まで取り外し、姉の治療代に充てた親心は今でも忘れません。こんな良い親は世界中捜しても居らないと私は常に感謝し、生前己の親不孝が心に痛み、しみ入ります。
現在父母の位牌は山田長政の位牌と共に二十六年間一日もかかさず、毎朝食事を捧げ冥福を祈って来ました。これがせめてもの私の供養でした。
まだまだ書きたいことはありますが、二十何年も文字を離れた私には思うやうに書きません。へたな走り書きながらこれにて失礼致します。
                            利田銀三郎

 兄から手紙を受け取った弟、大作さんは念願の兄との再会を果たせないまま、それから九年後、一九八○年(昭和五十五年)の師走に病死し、帰らぬ人となった。

    *

 銀さんは家族で集まる機会には、日本の歌を子どもと一緒に唄う。銀さんがハーモニカで伴奏し、子どもらは父親と一緒に、父親の祖国の歌を唄う。文部省唱歌の「靴が鳴る」や「君が代」を。
その部屋にはプミポン国王の肖像画が掲げられている。タイ国民から尊敬されているという国王のことを尋ねた。その国王を、銀さんはタイの天皇陛下と呼んだ。
「ここの天皇陛下はね、平民的ですわ。われわれにも言葉をかけます。直にね、生活はどうかって。お金はちゃんと貯まっているかどうか。畑の造作物がよう出来たかどうか。道は大丈夫か、灌漑はうまくいっているかどうか。何でも気軽に尋ねてくれます。この前、ここにも来ました。タイ人の苦しい生活を知っています。それでよく援助してくれますわ。ここの陛下は汗だくになってね、畑をどんどん歩いてね、自分のことを構わずにね、国のために何とかしてやらないといかんてね。ここの天皇陛下はなかなか出来てますわ。若いけどね。一方で日本の天皇陛下は昔から近寄ることも出来ませんですわ。どうしてですかな、あれは。平民がね、平易にね、立って話しすることが出来ない。あれは官憲が阻害しとったんですか。昔から奉り過ぎて、全然平民から苦情を聞いたりもしなかった。昔の大元帥陛下は絶対権力を持ってますから。だから、国民の中に直に入って日本の状態を本当に知っていただくことは出来なかった」
 銀さんがタイ国籍を取ったのは、国籍を変えないとせっかく住み慣れた家を追われるというやむを得ない事情があったからだ。そのことで、日本の軍人恩給は支給されなくなってしまった。
「おかしいですね。わしはタイ人になるまで、日本の兵隊さん。ところが、タイ人になった途端に恩給が消滅するなんてね。どう考えてもちょっとおかしいですよね。日本の国籍がなくなった途端に日本人やなくなるなんて、自分の気持ちがそんなこと許しませんわ。タイ人になったって、タイ人になりきれないもん。なったんは、名称だけでね。言葉はちょっとできますけど、タイ人並みの動作ができるわけやないしね。気持ちがタイ人と全然違いますから。でも、もう日本人扱いしてくれない、法律上では。もう世間がつらくなって来たわね。昔はそんなこと言わなかったはず。今は世の中が世知辛くなったんでしょう? 日本がね、要するに」
今度は戦争について銀さんにマイクを向けた。
「人間が殺し合いするよりも、こんな小さな地球に居るよりも、地球よりも何倍もある、空気も水もある、そんな星を見つけて、人間増えてきたら移住したらいい。そうしたら戦争する必要がない。戦争は要するに人間多すぎて、食うに困って自分の勢力伸ばして、自分だけいいことしょうと思うから、戦争が起こる。お互い競り合って。だから、もっと世界各国協力してからに、どこの国もひとつの共同部隊にしてね、新しい人間の住める星を探せばいい。そう思うんですけどね。新聞で見たって、広島の原子爆弾でも、あれ未だに火傷負って治らない。死んでいく人間が居るでしょ。もうわかっとることですわねえ。そうなるってこと。それはねえ、人間に融和がないから。友情がないから。お寺の坊さんが言うように、仏教の慈愛、愛情。人を恵む気持ちが薄らいで行って、自分さえよければ、強くなればいいってね。妥協が出来ないと、戦争が起こりますわな」
 日本企業がこれほど進出しているタイなら、水上生活者の群れの中で企業広告のヌード・カレンダーを眼にしてもおかしくはない。こういうものに対して、銀さんはどう思っているんだろう。尋ねてみた。
「真っ裸の男女が性交しているのを映像で見せたりね。こんなのが金になることは、昔なかった。全裸ばっかり見ていると、嫌気がさす。着物の裾がちょっと乱れてるくらいはいいが、今の日本人女性は乳を放り出してね、カレンダーに載っている。とんでもない話や。こんなのを見て、日本人に親しくしてくれるタイ人の日本に対する目が変わって来ました。カレンダーに火をつけて燃やしてしまう。こんな写真はとんでもないって。子どもが見たらどうするんやて。昔のカレンダーはね、四季の風景の中で、夏は浴衣で女性もつつましやかな格好をしてました」

銀さんは大阪から来た手紙に返事を書いた。

大阪市城東区茨田諸口(まったもろぐち)町 利田敬子様
御手紙有難う御座いました。
そちら様に大変ご苦労を掛け、当方長らくご無沙汰致し、真に申し訳御座いません。
さて大作が六年前に亡くなったとのこと、お手紙で知り、まだまだ元気で居ることと思っていましたのに遺憾にたえません。
とし子姉さんが入院中のこと、病状は如何か。心配になります。
今日、恩給の件で大使館領事部に行きましたが、タイ国籍を持つと、日本の国籍は消滅するとのことで、駄目でした。
近いうち、私は日本に帰りますが、まだはっきり予定の日が決まりませんので、決まりましたら御一報致します。
利田銀三郎

          *

わたしは銀さんよりも一足早く帰国した。銀さんとマリワンのパスポートの受け取りと、飛行機便の手配、大使館との折衝には同行したが、銀さんらを出発便に乗せ、日本に送り出す世話は、日本人会を通じて日本の新聞社のバンコク支局長夫人に買って出ていただくことになったので、安心してバンコクを発つことが出来たのである。二人の帰国までに、敬子さんと朋靖さんに会い、銀さんらの事情を説明がてら報告することで、受け入れ態勢を整える手助けにもなると思っていた。
素材編集や記者リポート作業の合間に、わたしはタイで撮ったスナップ写真を携えて、二人を訪ねた。
「ああ、こんなものを食べてはるのやなあ。玉ねぎと海老の炒め物、それとタイ米」
 敬子さんが写真に見入った。
「食卓というのはないんですか?」
「皆さん板の間の上にゴザ敷いて、その上に食べ物を盛った皿や食器を直に置いて食べてはりました」
「そうですか」
「兄さん中華料理みたいなものやったら、いけるのちゃう?」
「でも、おじさんはいけるにしても、娘さんがなあ」
 朋靖さんが疑問をはさんだ。
「ああ、これがお兄さんやな。身体はうちの主人のほうが大きいやろけど、立ち上がった姿勢は、よう似てる。兄弟やから骨格が似てるからやろね。指とかも」
 銀さんの写真の次に、家の中を写したものがあった。
「床の光り方。棚付けした壁。ホンマ、物を大切に小ぎれいにしてはるのがようわかりますわ」敬子さんが目を細めた。
「ねえ、空港にはどんなもの持って行く?」
二人ともおじさん親娘を迎える準備で楽しそうだ。
 しかし、家族と戦友会の間には、銀さん親娘の帰国をめぐって、いつの間にか軋轢(あつれき)が生じていた。朋靖さんは戦友会幹部の発言に対して憤る。
「自分らで予定を全部決めてしまって、こうしてください、ああしてくださいと言うて来るんですよ」
 具体的にはどういうことなのか。
「僕らはね、おじさんが生存していることがわかった段階から、あちこちに連絡していただいた、おじさんの親友波部さんとなかなか一緒に行動が出来ないのが残念なんです。住んでいるのが栃木県でしょ。遠いんです。やはり地元大阪ということで、どうしても戦友会の人が表に出て来るんです。それは仕方がないにしても、この前も戦友会の人が僕ら家族にこういう言い方をするんです。
(銀三郎さん親娘を空港に迎えに行くのは戦友会でやりますから。家族の方は行かれるなら、どうぞ個人的に行ってください)
何や、その言い方は! ということになるでしょ。それにこんなことまで言うんです。(帰国した日だけは疲れてはるやろし、利田君はお宅で一泊してもろて。あと泊るとこは、また会合で決めまひょ)ですわ。
ちゃんと言いましたやん。おじさんの帰国中は全部うちで泊ってもらいますって。空港の迎えにしても、戦友会として行くとだけ言うけど、お世話願っている小学生の同級生の方はどうするんですか、放っておくんですかと言いたくなる。そもそも、おじさんの生存確認から一時帰国のきっかけまで作って頂いた三留さんから波部さんに連絡があったのを受けて、波部さんが親切に僕ら家族と戦友会にきちんと連絡を頂いたから、今回の帰国が実現すると思うんです。当事者が一丸となっておじさん親娘を迎えないとあかんのに、戦友会ばかりが表に出て、勝手に振舞っているという印象がしてならない。僕はおじさんの帰国中は店を閉めるつもりです。何日も店を閉めるのは正直痛いけど、ちょっとでも長く一緒に居たいし、手足になってあげたいからです。戦友会は何でそういう気持ちを分かってくれへんのかなあ」
 朋靖さんは大きなため息をついた。

第四章

 銀さんが、一時帰国する日がやって来た。一九八六年(昭和六十一年)四月二十四日、夜八時前に娘のマリワンに付き添われ、タイ航空620便で大阪空港に到着。実に四十三年ぶりに祖国の地を踏んだことになる。
 空港で銀さんは弟の遺族、戦友会や同級生に暖かい出迎えを受けた。
「皆さんのお陰で祖国に帰ってくることができました。ありがとう」
「よう日本語忘れへんかったのう」
 級友の言葉に出迎えの輪は盛り上がり、銀さんは大笑いした。
「おじさん、お帰りなさい、大作の娘です」
「そうですか、あなたが。お父さんは残念でしたね」
「お兄さん、お帰り。敬子です。よう帰られました」
「大作は残念やった。また後でゆっくりな」
「班長の中尾や。よう帰って来たな」
「ああ、班長殿。ただ今、帰りました。本当に懐かしい」
「波部や。覚えてるでしょ。よう帰って来たな」
「ああ、懐かしい!」
「守道です。久しぶりやのう」
 銀さんは早速弟の遺族が住む大阪市内の家に向かった。そして両親と弟の仏前を拝み、帰国の報告をした。
「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・・・・・」
 しばらく、お題目が唱えられ、静かな瞑想の時が流れて行った。唱和が終わり、銀さんは弟の葬儀の写真に見入った。
「とっても盛大にやってもらって、ありがとうございました」
 銀さんは亡き弟の家族に頭を下げた。
「ああ、これが大作の海軍時代の写真・・・・・・」
「お兄さんとほんまによう似てはるわ」
「ほんとやなあ」
 敬子さんと、朋靖さんが顔をほころばせた。
「おじさん、これ日本の水」
 朋靖さんが銀さんに水を差し出した。
「ああ、これはいいですよ。タイの水はこんな澄み切った水やないですよ」
「マリワンに説明してあげてください」
 銀さんは日本の水についてタイ語で娘に語りかけた。マリワンは頷きながら水を透かして眺めていた。
「赤飯入れてあげて、皆に」
 敬子さんの声が聞こえた。
「ほう、こんなに大きな鯛があるんですね」
 銀さんがテーブルの真ん中に置かれた祝い鯛に目を落とした。
「おじさん、最初に箸(はし)をつけてください。そのために焼いてもらいましたから」
 朋靖さんが声を掛けた。
「日本の鯛なんて、もう四十年ほど食べてない。折角ですから、少しだけ頂きます」
 遠慮がちに、銀さんは鯛に箸をつけて、口に運んだ。
「ああ、やはりおいしいです」
 周りから拍手が起こった。
「赤飯もおいしい。絶対タイ国では食べられません」
 今度は笑い声。
栃木県から駆けつけた親友の波部卓美さんが口を開いた。 
「昔、焼き芋一緒に買いに行ったな。二銭持って」
「一銭で大きな焼き芋買えましたよねえ。覚えてる、覚えてる。今は一銭では買えないでしょ?」
「そら、買えないよ。何百円とする。貴重品だよ」
「タイでは安いですよ。さつま芋はね。それに水はタダ。タイは金があんまり儲からんでも、物価が安いから暮らしやすい。日本とタイの物価の差が激しい。日本は高いですね」
「日本は変わったでしょ?」
「自動車が多くなった。タイもね、今は自動車が多い。でも終戦の頃、バンコクでも車はほとんど走ってなかった。アユタヤなんか一日中自動車は見たことがなかった。ところが、今では日本から自動車がどんどん入ってきてね。すごく増えました」
「マリワンは日本語がわからないから、ちょっとかわいそうやなあ」
 朋靖さんが気遣った。
「この娘は日本の文字は多少書けるが、話すことは出来ないんです」
 銀さんが目を細めた。
小学校の卒業アルバムも懐かしい。大阪市北区にあった済美(せいび)第五高等小学校のものだ。座の話題はやはり戦争中の話になった。
「えっ、爆弾が落ちた? 大阪駅の近くに?」
 驚いた銀さんが、身を乗り出した。
「ものすごい爆弾でね。皆焼かれました」
「ボクの家さ、爆弾が落ちて、この家くらいの穴が開いたんだよ」と波部さん。
「そうですか。大阪駅の近辺に爆弾が落ちたんですか。大変でしたねえ。そら外地で戦争している人より、内地の人のほうが大変ですね」
 外地に居て銀さんが知らなかった大阪大空襲は、一九四五年(昭和二十年)三月十三日深夜から翌日未明にかけて、最初の空襲が行われ、B―29二百七十機余りが襲来した。米軍の照準点は大阪市北区扇町、西区阿波座、港区市岡元町、浪速区塩草で、都心部を囲む住宅密集地を標的にしており、先導機が港区市岡の照準点に大型焼夷弾を投下し、大火災となった。他の機はそれを目印に、相次いで焼夷弾を投下した。無差別爆撃はこの後、六月一日から八月十四日までの間に七回行われ、大阪市民一万人以上が死亡したと言われている。
 銀さんは昔何度も登ったという大阪城に足を運んだ。天守閣から大阪の町を眺める。
「変わりましたなあ。大きな建物が一杯建って。ビルディングの林ですわな。大阪があんまり変わり過ぎて、どっか外国に来たみたいな感じや。変わらんのは昔からの人情だけや」
「おじさん、ほらあそこに通天閣が見える」
 朋靖さんが声を掛けた。
「ああ、あれが。昔の通天閣はあんなに高くなかったような気がする」
 一九○三年(明治三十六年)に開催された第五回内国勧業博覧会の会場跡地に、パリのエッフェル塔と凱旋門を模した初代通天閣が、一九一二年(明治四十五年)七月、ルナパークとともに建設された。太平洋戦争中の一九四三年(昭和十八年)一月、直下にあった映画館の火災で脚部が強度不足となり、鉄材を軍需資材として大阪府に献納するという名目で解体された。現在の通天閣は二代目で、一九五六年(昭和三十一年)完成した。
「ここ、真っ直ぐ見るでしょ。そしたら四角の大きなビル。あれが大阪駅前ビルや」
「大阪駅の前にビルが建った? 何となあ!」
 銀さんは呆気にとられるばかり。
「変わった大阪をご覧になって、どうですか。良かったですか」
 わたしは銀さんに尋ねた。
「良かったですよ。日本が進んで行ってね。良くなった訳ですよ。昔のバラックみたいな建物はひとつもない」

      *

その日の午後、済美小学校の講堂で、銀さんの帰国歓迎会が開かれた。講堂には小学校当時の同級生と並んで戦友が各地から集まり、銀さんはその一人一人と昔話に花を咲かせた。
「俺はM少尉の当番しとったんや。そしたら、利田がこんな大きな亀を拾って来てな、ひっくり返して置いとったんや。真夜中に少尉の寝室から大声で「曲者!」って聞こえたから、何事やと思って急いで少尉の寝室に行ったら、どうも亀が夜中に起き上がって、部屋を出て、少尉の寝室に入ってゴソゴソしとったらしいわ。少尉も亀やとわかって、ほっとしたらしいが、当番やったから、えらいこと怒られた。俺は知らんがな。利田が連れて来た亀やから」
「ああ、あの亀のことやな。よう覚えとるわ。ハハハハ」
 戦争当時、銀さんの直属の上司だった班長の中尾さんは、銀さんら三人がタイ・ビルマ国境のノンホイ収容所から脱走する前に、銀さんが分隊から離れて行方不明になったことを明かした。
「ある朝、利田君がどこを捜しても居らん。敗戦で、兵器を返納した後のゴタゴタの頃やった」
 銀さんは強制収容所から脱走したと新聞などに書かれているが、これとても日本が敗戦してから年が替わった翌年になってからのことであり、脱走という表現が果たして正しいのかどうか、議論の余地が残るところだ。戦争はすでに終わっており、兵器返納後のことだから脱出という方が正しいという説もある。銀さんは強制収容所について、収容所というよりは、休憩所みたいな状態だったと証言しているところからすれば、終戦後は結構隙のある収容状態だったのかも知れない。
 要するに、銀さんは二度もキャンプから「脱出」したのである。当時のことを、当の銀さんが戦友を前に語った。
「兵器を返納した後、今更降参するなんてと思い、わし独りでも中隊から離れてずらかろうという気持ちが強くなった。それでビルマの方向に歩いたんです」
「最初の夜はどうしたんや」と中尾元班長。
「野宿しました。そしたらおかしな蛇が出て来てね」
「道中誰かと会ったのか? それに食べ物はどうした?」
「現地人に会いましたが、言葉がさっぱりわからない。寺の坊さんからバナナをもらって食べました。まずいバナナ! どうにかこうにか食べ終わって、また歩き出しました。タイとビルマの国境あたりでしょ、恐らくは」
 銀さんはどうもお坊さんと縁があるらしい。
「少数民族と物々交換しました。わしは持って出た薬品で、向こうからは原石です。夜中に懐中電灯照らしながら。原石やから、磨いて加工せんとあかんが、磨くと青く光る石。売れますからな。一週間ほど経って、この中尾班長が捕まえに、いや迎えに来てくれました。どうしてこんなところに居るんかって言われました。だから、班長とは縁が深いんじゃ。戻ったら大隊長に叱られると思ってたら、よう戻ったなあと言うてくれました」
関係者の話を総合すると、銀さんは先にキャンプを離れた部隊に偶々合流したため、助かったというのがどうも事実のようである。合流するまでは、単独行であったのは確かのようだ。
当該部隊はナコンサワン収容所から、当時タイ駐屯の日本兵が全員捕虜として連行されたナコンナヨーク集結地に向かっていた部隊と見られる。銀さんが所属していた部隊もその集結地に二カ月ほど経って集合した結果、銀さんが所属部隊を捜し当てて中尾班長を見つけ、会いに来たというのがどうも真相らしい。その時、銀さんは土産に魚を持って来たと中尾さんは証言している。
銀さんが二回目の「脱出」をしたノンホイ収容所は、ナコンサワン収容所とナコンナヨーク集結地のほぼ中間にあった。銀さんや当時収容されていた元日本兵の証言によると、ノンホイ収容所には鉄条網などの柵はあるにはあったが、近くに流れる川沿いには柵はなく、衛兵は居たものの、逃げようと思えば逃げられる状態だったという。
その日、銀さん歓迎のため、思い出の済美小学校に集った戦友らは、一九四六年(昭和二十一年)十月二十八日、バンコクを離れ、シンガポールを経由して十一月二十七日佐世保港で故国日本の地を踏んでいる。銀さんのノンホイ収容所からの二回目の「脱出」は、同じ一九四六年。本人の記憶によれば、マンゴーの季節と記憶しているので、五月頃だったという。
銀さんと戦友の運命の分かれ道となったのが、正にこの頃だった。
「君が居らなくなったのは、この辺やと思うんや」
中尾さんが古ぼけた国境地帯の地図を見せた。銀さんらがのぞき込んだ。
「もう昔のことやからなあ」
 銀さんは頭に手をやり、短い白髪を引っ張っていた。
「あれからね、通信隊から連絡があったって。戦争に負けたって。確かに負けたって。いや、日本が負けるなんて、そんなはずがない! 何かの間違いや! そう思いました」
 銀さんの声が震えた。

           *

大阪市内は北のターミナル、梅田を中心とした「キタ」と呼ばれる地域と、南のターミナル、難波(なんば)を中心とした「ミナミ」と呼ばれる地域に大きく分かれている。梅田と難波を結ぶ南北の幹線道路が、銀杏並木で有名な御堂筋である。
四十三年ぶりの日本は驚くことばかり。梅田では妙な若者たちを見かけた。当時流行の「竹の子族」の女の子だった。
「道路の真ん中で、七、八人でね、腕組んで、派手なズロース穿(は)いて」
 銀さんの現場報告も熱を帯びる。
「ズロースやない。スカート、スカート」と波部さん。
「おう、道路の真ん中でまあるくなっとるねん。口紅。それと、あれ何塗っとんですか」
「アイシャドーね」
「青いね。何か、眼のとこに塗っとるねん。化粧が必要以上にね。自然の顔やない。自然の姿やない」
「作っとるんやね」
「これから踊りますって。踊るちゅうねん! 大変だなあ、まあ道路の真ん中でね。踊った後で、昔の猿回しの猿みたいに、お椀持って回って「金くれ」言うんと違うんかと言ったら、「一銭も金とらない」って。あれ自分で志願してやっとるんやね。何とまあ、日本の娘も華やかになってねえ。内気なとこがちょっともないのね。家の中入ってやるんやったらいいけど、あんな大きな道路の、人が何千といるところで堂々とやるんやから。恥ということはないやね。もう面の皮が厚うなってるのやね。驚いてもうた。ハハハハハ!」
昔懐かしい小学校の校庭では、子どもたちに囲まれた。銀さんが尋ねる。
「あんたたち、どこに行って来たんですかな?」
「須磨離宮公園!」
「スマ? スマってどこにある?」
「神戸」
「ああ、神戸か」
「月見山で降りて、阪急電車乗って、アスレチック行って来たんや」
「大東亜戦争でね、アメリカと戦争したんや、わたしはね。フイリッピンで物凄う撃ち合いをやったんや。爆弾が一杯飛んで来てね、日本の兵隊さんが、どんどんどんどん死にました」
「俺もう帰ろっと!」
「大東亜戦争は、先生教えてないですか?」
「教えてもらってない」
「大東亜戦争って何ですかって。そしたら日露戦争は? 日清戦争は? わかりますか? えっ、全然わかりませんて」
「習ってないもん」
「欧州大戦は? それもわかりませんって? 戦争のことは全然わかりませんって?」
「だって、習ってない。第二次大戦は習った」
「あ、そう。第二次大戦は習ったんやね。日本は負けました。ここ大阪に爆弾落ちましたか?」
「・・・・・・」
「広島やったら知ってる」
「そや、広島に落ちたんや。原爆が」
 子どもたちは口々に銀さんの質問に答えていた。
「さいなら! さようなら!」
子どもたちが去ってから、銀さんにマイクを向けた。
「昔はね、子どもは(わたしは六年生です)と言ったもんです。ところが今は(六年だよ!)って。もう野暮で、あんちゃんみたいな言い方をする。大人とでも対等にね。上の者を奉(たてまつ)らない。礼儀がすたれちまってる。あれ、何でですかな。いい気持ちはしませんわ。質問でも、(おじさん、どっから来たの?)と言わない。(何しに来たんや?)と言う。何とまあえらいこと言うなあと思って、驚いちまった。昔と全然違う。昔は(おじさん、何の用事で来ましたか)って尋ねた。言葉が丁寧で礼儀正しかった。今の子どもと話してると、おかしいことがいっぱい出て来る。ところが、今でも女の子の中には言葉の柔らかい生徒がおりますね。(おじさん、どっから来ましたんですか?)と尋ねた子が居りました。わしが(タイ国から来ました)と言うたら、(えっ、タイ国? タイ?)そんなんあったんかいなって」
「全然知らないんですね」
「そう、どこの国やわからないんや」と銀さんが嘆く。
「それにね、気になることは昔と違って人がどんどん、ぱっぱっとせわしなく歩くこと。歩き方が何だか世知辛くてね。昔は緩やかにね、ゆっくり人は歩いてた。四十年ほど前はね。今はゆっくり歩いてる時間がないちゅう感じですね。時間がそれほど大切なんでしょうね」
百貨店では銀さんに驚かされた。エレベータに乗った途端、銀さんの目がエレベータ・ガールに注がれた。おじいさんにしげしげと見つめられているのに気がついた女性はうつむき加減になり、困惑していたが、銀さんは遠慮なく女性に近付いて話しかけた。
「あんたは化粧が厚いね。どうしてそんなに厚くするんですか」
 化粧の濃さを指摘する小柄な日本人のおじいさんが、いきなり目の前に現れて、さぞエレベータ・ガールは驚いたことであろう。わたしは事情を女性に説明し、納得してもらった。
 銀さんは銀さんで、昔とは女性の化粧が全然違うと嘆くことしきり。
「昔の日本女性は化粧と言っても、あくまで薄化粧。自然でした。それがつつましやかで良かったんです。今の女性は何であんなに塗りたくるんですかねえ」
 銀さんは何度も首をかしげていた。

        *

 一九八六年(昭和六十一年)四月二十九日。天皇誕生日。銀さんはテレビの画面で陛下のお姿を見る。陛下が御立ち台に立たれた。
「おおーっ、これ天皇陛下やね! なるほど! ううん、腰が弱いですね。立つのがえらいですわな。相当な年寄りですね」
「陛下も八十四歳だもんなあ」
一緒に皇居からの中継を見ていた親友の波部さんがつぶやいた。
 陛下がお言葉を発した。
「大勢の人が来てくれて、嬉しく思います。これからも皆が幸せであるように・・・・・・希望、します」
「ほう、なかなか天皇陛下もまだまだ語尾がはっきりしとる。大丈夫、大丈夫。これだけ頭がはっきりしとったら、日本も大丈夫や」
 身を乗り出して画面を眺め、満面に笑みを浮かべた銀さん。
「向こうに居るとね、日本のことが気にかかります。日本の状態がどう変わって来たかってね。タイは日本の援助がなかったら、うまく行かない。だからタイは日本の動向をうかがっているんですよ。日本が傾いたら、タイはえらいことになりますから」
 銀さんはタイのプミポン国王を、また天皇陛下と呼んだ。
「タイの天皇陛下は日本の天皇陛下と違って権力を持ってますから、政府や官僚が怖がってますわ。問題のある閣僚が居れば、こんな不埒(ふらち)な大臣がいるってね、天皇陛下自らラジオで国民向けに放送しますから。やましいところがある閣僚は、何とか悪事が天皇陛下の耳に入らないように動く。自分の心が真っ白やないから。この辺が日本の天皇陛下とは違うところです」
わたしは改めて銀さんの天皇観を尋ねてみた。
「主権は全然ありませんけどね。それでも日本の崇敬の的。日本人全部のね。今までずっと万世一系の天皇陛下でありますからね。日本の象徴ですから、これをずっと続けてもらいたいですわ。潰さずにね。それを潰してもろうて、新たなものをつくるなんてことを考えると、全体主義になってしまう。わたしはちょっとそういう国家はおことわりですわ。個人としての天皇陛下は、国全体の人民の希望によってね、政治をしてもらいたいと思います。昔のように大元帥陛下の命令ひとつで何でもなるということは、あんまり望みません。天皇陛下が一番偉い神さんというのは間違いですよ。あの人も人間ですからね。食ったり、糞(くそ)したり。陛下は奉るだけで、内閣の統治権のある人に政治を治めてもらうのがいいんですよね」

          *

姉と再会する日がやって来た。銀さんはマリワンと一緒に、愛知県まで足を運んだ。
実姉の伊神(いがみ)とし子さんは、愛知県大府(おうぶ)市にある病院に入院していた。寝たきりの状態で果たして姉は、銀さんが弟と認識できるのかどうか、気がかりだった。病院の玄関で、とし子さんの娘が待っていた。
「一時帰国されたんを知ってて、大阪空港までお迎え出来ませんでよう、ごめんね。常識のない、どういう人なんかと思っただろうね。さあさ、おじさん、お姉さんはこちらでごぜいますけど」
 銀さんはマリワンや敬子さん、朋靖さんと一緒に、案内されるまま、病室に足を踏み入れた。ベッドで布団をかぶったお年寄りが寝ていた。点滴の装置がベッドの横に立ててあり、管が布団の中に潜っていた。
「お母さん、ちょっと起きや。弟さん来たよ。銀ちゃんが来たよ。会いたい、会いたい言ってた銀ちゃんが・・・・・・」
「銀ちゃんです。わかりますか、姉さん。長いことすみませんでした。銀三郎。あんたの弟ですわ。まだ死なずに帰って来ました」
「お兄さん、手握ってあげて」
敬子さんの声がした。銀さんは言われるままに姉の手を握った。
「銀ちゃんです。わかりますかね。長いことご無沙汰して、本当に申し訳ありません。会えて嬉しいです」
 銀さんの目に涙があふれていた。とし子さんの声がかすかに聞こえているようだが、何と言っているのかは定かではない。
「姉さんには色々言いたいことはありますが、わからんようなので言いません。こら、困ったなあ!」
 銀さんが頭を抱えた。そしてマリワンを姉のそばに呼び寄せた。
「姉さん、娘のマリワンです。あなたの姪ですわ。一緒にやって来ました。タイからね。ああ、意識がもうろうとしとるわね。もっと早く来られたら良かったのになあ。姉さんの顔が全然変わってしもて、昔の状態が思い出せませんわ。すっかり変わってます」
 担当の看護師さんによると、とし子さんは独力で立つことは無理で、ずっと寝たきりのまま二十四時間点滴が離せない状態とのことだった。
「あっ、ぱっと目開けたね。おばさん、銀三郎さんのことわかったら、手を握ってあげてください」
 朋靖さんがとし子さんに耳元でささやいた。
「知ってますか? ああ! 知ってる! ほら、握り返してる! わかったんや! 会えて良かったねえ!」
 マリワンは、と見ると、病室の窓の外を眺めながら肩を震わせていた。マリワンからすると父親の姉で、伯母にあたるとし子さん。姉と弟が何十年の歳月を経て、やっと再会出来たことを、看護師の立場から、また人として素直に喜んでいると、わたしはマリワンの後ろ姿を見ながら感じていた。
「本当にこれで堪能しました。生きて会えてね。ありがとうざいました」
 銀さんが姉の娘と看護師さんに声をかけた。お金をやりくりして来たらしく、姉の娘に金一封を手渡そうとしていた。
「ほんのわずかですがね。四十年も放っておいたのは、わしがだめなんですよ。まあ、帰れなかった事情がいくつもありますけどね。でも運良く帰って来られましたから、受け取ってください」
「それじゃ、受け取らせてもらいます。ありがとうございました」
「伊神さんにはね、今日弟さんが見えるって、わたしどもから何度も確認しておきました。だから、きっとわかったと思います」
 看護師さんが話しかけた。
「まあ、生きて会えたことがねえ・・・・・・。それじゃこれで失礼します。何ぼ居ってもねえ、寝てしまってるから。これで納得しました」
 弟は再び姉の手を握り、語りかけた。
「じゃあ姉さん、これで失礼させていただきます。どうぞ身体を大事にしてください。またやって来ます。必ずね! 早く治ってください」
 マリワンも銀さんに促され、お別れをした。
「はるばるありがとうございました。お元気で!」
姉の娘らが玄関で一行を見送った。銀さんは感慨深げに病院を後にした。
 
        *

 銀さんのニッポン滞在は夢のように過ぎ去り、帰国の日が来た。
「ご案内いたします。タイ国際航空621便。マニラ並びにバンコク行きのお客さまは七番ゲートにお越しください」
「達者でね。気いつけて」
「どうもありがとうございました」
「また会おうね!」
 見送りの人々から拍手が起こった。それに答えるように、銀さんとマリワンは大きく手を振った。
「元気でね!」
二人の姿は搭乗口に消え、やがて機上の人となった。
一時帰国した銀さんが弟一家に残したものは何だろう。
「何となくこれでもっと充実したものの考え方が出来るようになったわ」と息子の朋靖さん。
朋靖さんの姉、文子さんはこう話した。
「わたし、銀三郎おじさんに会うて、もう一度お父ちゃんに教育されたような気がしたわ。そやから会えてすごく良かった。お父ちゃん、孫の顔も見んと死んだやんか。もう一回孫の育て方、マリワン見てたら、こういう風にせいよって言われているのがようわかったわ。おじさんも、マリワンも、貧しくても心はリッチよ。よかったわ。ほんまに会えてな」
 改めて、朋靖さんにマイクを向けた。
「家族って何やということがわかった気がする。その良さがしみじみわかった。うちらの親せき付き合いは、今からですよね。今までになかった分を取り戻し始めたんです。大事にしてあげたいですよ、すごく。日本は平和ですからね。未帰還兵は銀三郎おじさんだけやない。他の未帰還兵のためにもこれから運動して行かんとね。今回のおじさんのことを第一歩として、難関を突破して行きたい。それが今後の課題や思います」
 
第五章

あれから更に二十六年の歳月が過ぎ去り、わたしは二○一○年(平成二十二年)秋、定年退職の日を迎えた。
その後、引き続き社にシニア・スタッフとして勤務し、現在に至るが、銀さんのことは心から離れなかった。それは、銀さんをかくまった寺の住職から頂いた小さな仏像がいつもあの頃をわたしのそばで想い起こさせてくれていたからかも知れない。
わたしは、いつか銀さんのことを原稿にまとめたいと思っていた。何年か前に一度作業に入ろうとしたことはあるが、果たせないでいた。
今度こそと言う思いで、関係者を訪ねてみることにし、当時の取材手帳にある関係者の電話番号に連絡をしてみた。二○一二年(平成二十四年)十月十五日のことだった。
だが、そこには二十六年という歳月の壁が大きく立ちはだかっていたのである。
敬子さんが亡くなられたのは、風の噂に聞いていたので、、是非朋靖さんと連絡が取りたかったが、容易ではなかった。
銀さんの小学生時代の親友で、栃木県在住の波部卓美さんは三年前に亡くなられ、卓美さんの長男によると、その後大阪の朋靖さんらとの付き合いはなかったという。波部さんは、銀さんがタイに帰国した後は一切この件には触れられなかったという印象を長男から受けた。
バンコクの日本人会で銀さんに会い、一時帰国の支援金を届けた戦友会の幹部も、奥さんによると、十年前に亡くなっていた。
利田家の人々の中で、取材手帳にある文子さんの自宅電話も、戦友会代表の自宅も、銀さんの一時帰国を支援した地元の長寿会会長の事務所も、電話が現在使われていないとのことだった。
わたしは次にタイの日本人会に当たってみることにした。果たしてどんな情報が入手出来るのであろうか、一縷の望みを託しながら。

      *

二○一二年(平成二十四年)十一月二日。わたしはタイの日本人会から返信を受け取った。
「利田様は以前確かに当会の会員でしたが、退会され、既にご他界されたとのことで御座います」
 銀さんの当時の年齢から推定はしていたものの、やはり二十六年という歳月の壁は超えられなかった。
わたしはタイの寺でご住職から頂いた仏像に向かい、銀さんの霊安らかなることを祈った。
 自宅近くの図書館で、全国の電話帳が閲覧できることがわかり、大阪府・市を中心に電話帳を調べてみることにした。ひょっとしたら朋靖さんの電話が載っているかも知れない。大阪市から始めて、しだいに大阪府内各市の電話帳を片っ端から当っていった。偶々「利田」姓は、数が少ないのが、作業としては都合がよかったが、結局名前は見つからなかった。大阪府以外に転出している可能性もあるし、そうなれば雲をつかむような話になってしまう。
 もう一度当時の取材手帳の電話連絡先の項に目を通してみた。朋靖さんのひとつ上の姉、文子さんのご主人、辻野ヒデノブさんの名前では、電話帳はまだ調べていない。手帳の電話番号は以前掛けてみた時に、現在は使われていないとメッセージが回った。
「辻野ヒデノブ」で、電話帳に載っているかも知れないと思い、再び図書館に足を運んだ。大阪市の電話帳で「辻野」姓を調べていくと、鶴見区に「辻野秀信」とあった。しかも、町名は横堤(よこづつみ)で、敬子さんらの中華料理店があった場所だ。
 わたしは「辻野秀信」さんが、文子さんのご主人に違いないと思った。逸(はや)る心を抑えながら、早速電話を掛けてみた。
 女性が出た。会社名と名前を告げて「文子さんですか」と尋ねたら、「どういうご用件でしょうか」と返って来た。かいつまんで銀さんのことを告げると、待つように言われた。
 次に電話口に出たのが、銀さんの弟、大作さんの三女、文子さんだった。一時帰国した銀さんと娘のマリワンを空港で見送った後で、二人のことを「貧しくても心はリッチよ」と印象的な言葉を放った人である。
驚いたのは、所在を探していた朋靖さんが亡くなっていたことだった。
それも前年のことで、心筋梗塞で倒れ、五十三歳という若さで帰らぬ人となったという。後には奥さんと二人の息子が残された。
朋靖さんは利田家では最も銀さんとマリワンに関わっていた印象が強かった。文子さんによれば、二人の帰国後も二、三回ではあるが、手紙の交換をしていたという。残念ながら、その手紙も残っていないということだった。
「二十六年も経ってしまいました。一度お会いしてお話が伺いたいです」
 わたしのことを少しは覚えて頂いていたようなので、心強く思い、取材を申し込んだ。
 
          *

二○一二年(平成二十四年)十一月十二日午後二時。わたしは大阪・西区新町にある会社の社長室に案内された。文子さんのご主人、秀信さんはIT関連企業のトップで、文子さんも一緒に経営に当たっていた。文子さんは長女の伊都香(いつか)さんと次女の紗耶香(さやか)さんを伴って、社長室に来られた。わたしはご一家四人を前に、色々とお話を伺った。文子さんはマリワンといとこ同士で、伊都香さんと紗耶香さんからすれば、銀さんは大伯父(おおおじ)にあたり、マリワンは従叔母(いとこおば)にあたる。
 秀信さんが口火を切られた。
「わたしが当時のことで、よく覚えているのは、銀三郎さんの奥さんが、夫が日本に一時帰国すれば、ひょっとしたらもうタイに戻ってこない恐れがあると、帰国に猛反対したことです。しかし説得されて、帰国を許す代わりに娘のマリワンをお目付け役にし、一緒に日本の地を踏むことにさせたということですね。もうひとつは、銀三郎さんが未帰還日本兵を支援する名目で関係者が集めた浄財何百万円かを受け取る際、その浄財を額に擦り付けるようにして有難がったことと、浄財をタイに持ち帰り、新しく家を建てて、子どもを大学に通わせたいと言ったことです。二十六年前の日本円で三百万、四百万と言えば、タイでなら、それの十倍として、数千万円にもなったでしょう」
わたしは、タイ帰国後の銀さんを身近に知る人物として、何とかマリワンに連絡を取りたいと思い、ダメもとで当時彼女が勤務していた病院気付と水際生活の自宅宛に手紙を送っていた。しかし、返信はなかった。
文子さんの娘、紗耶香さんは次のように話した。
「当時のことは、小さかったから状況すら覚えていません。大伯父さんは戦争で人生を変えられてしまった。今までどういう気持ちで生きて来たのか。何故タイで暮らし、日本に帰って来なかったのか、知りたいと思いました。そして、一時帰国する前と後でどう変わったのか、マリワンさんに確かめてみたいと思います。人を無理やり戦争に駆り出しておいて、未帰還兵になっても放ったらかしにして来た日本政府なんて、一体何なんだと思います。戦争やから仕方が無かったっていうのは理由にならないと思いますよ」
 
       *

 銀さんがいつ、どのような形で亡くなったのか。何処に埋葬されたのか。わたしはタイの日本人会を通じて、帰国後の銀さんを知る人物を探した。
 ある日、関係者から来たメールに「バンコク在住のカメラマン、瀬戸正夫さんが利田さんのアユタヤの自宅を二度ほど訪問したことがあるので、直接お尋ねください」と、電話番号が添えてあった。
 銀さんを直接知る人物にやっとたどり着けたことに、心が騒いだ。
わたしは瀬戸さんに電話を入れてみた。彼は日本の大手新聞社の元カメラマンで、一九六○年代から残留元日本兵を追いかけていた。取材の過程で、アユタヤの銀さんに出会ったと言う。
 だが、二十六年前以後の銀さんのことはご存知なかった。
 わたしは電話で話しながら、メモを取った。
「未帰還兵は脱走兵でも、逃亡兵でもありませんよ。勝手にそんなレッテルを貼られている。そんな兵隊は、タイで千人以上いたはずです」
 瀬戸さんの声に怒気がこもっていた。
「未帰還兵の中にはマスコミに絶望して、取材拒否をする人もいました。彼らは祖国から遠く離れ、異国の地で望郷の念を抱きながらも、苦労に苦労を重ねて、淋しい思いで細々と生き長らえて来たんです。地元のタイ人に助けられながら。戦争中、赤紙で応召させておいて、戦場に駆り出し、終戦になって、帰還しなくても後は放ったらかし。日本政府の無責任さには呆れ果てます」
 銀さんの境遇を浮かべながら、メモを取り続けた。そして、いつかマリワンに会えることを期待しながら、受話器を置いた。

最終章

 新たな年、二○一三年(平成二十五年)を迎えたが、マリワンの消息は不明のままだった。わたしは、前年お会いした辻野秀信さんが翌月社用でバンコクに行かれ、その際マリワンを捜し出してみようとおっしゃっていたのに、淡い期待を寄せていた。
 二月十五日、辻野さんがマリワンと再会されたという一報がもたらされた。わたしの心もはずんだ。
 一体どのようにして彼女の居所がわかったのか。辻野さんの帰国を待って、話を伺った。
 探索範囲は銀さん一家が住みついたアユタヤ。そのアユタヤの村ごとにいる長老に、タイ人看護師で、父親が日本人で、マリワンという名の女性はいないかと尋ねて回り、わかったという。
 辻野さんにはマリワンが勤める病院の前で撮ったスナップ写真を見せていただいた。二十七年前よりも顔と身体は丸くなってはいるが、当時のままのほほ笑みを蓄えたマリワンが辻野さんら一行と写っていた。わたしはその時、彼女に会うためにタイに行く決意をした。早速、辻野さんから紹介を受けたバンコクにある日系ツーリストを通してマリワンと会うべく、段取りを進める。
 マリワンはわたしのことをよく覚えているとの連絡が入った。提示した日程の中で、三月二十三日の土曜日に再会することになった。
 三月二十日、わたしはタイ国際航空でバンコクに向け、関西空港を飛び立った。
そして夕刻、二十七年ぶりで二度目のタイに降り立った。今度は一回目のドン・ムアン空港ではなく、スワンナプームという新国際空港であった。
 タクシーでバンコク中心街にあるホテルに向かう。客を乗せた途端、噴出したエアコンの冷風が落ち着くまで、熱帯モンスーンの猛暑が肌を攻め立てていた。逃げ遅れた蚊が一匹、車内でわたしを狙っていた。
「蚊がいるぞ!」
 わたしは英語で叫んだ。今年初めて見かけた蚊を手で追いかけ、後部座席で奮闘した。
運転手は蚊一匹で大げさな客だとでも思っていたであろう。
長くて寒い冬をやっと抜け出し、春めいた日が顔をのぞかせ始めた国から一気に猛暑の国に来た実感は、一回目の訪問と同じである。季節もちょうど同じ三月下旬だ。
しかし、車窓に展開する風景は何処か初めての感じがした。その後高架の高速道路網が出来て、沿道の寺院などを見下ろす形になる一方で、高層ビル群が目立つようになったからだろう。ホテルでチェックインを済ませて、十一階の部屋に入り、窓から市内を一望した。近くを走る高速道路は大渋滞を引き起こしていた。
      
      *

 三月二十三日。いよいよマリワンと再会する日がやって来た。彼女は一時帰国した後の父親の暮らしぶりをわたしが尋ねたいことをツーリストとの連絡で知っていた。
しかし、彼女は一時帰国後五年くらいで結婚し、実家を離れたので、より長く父親と暮らしていた姉や妹を同席させるという配慮をしてくれていた。
 わたしは通訳を伴って、バンコク中心部から五十分ほどにある日本食レストランに向かった。銀さんの四人娘が、長姉の家に程近いレストランの個室を予約していたのだ。通訳と部屋で準備して待っていると、間もなく一行が到着した。
 ほほ笑むマリワンと目が合い、思わず握手した。やっと会えたのだ! 懐かしい顔、顔、顔。姉のソンクリーン、妹のアンチャリーとジラワン。皆と微笑を交わしながら、席についた。
 バッグから何枚か写真を取り出す。二十七年前のバンコクでの取材の際、訪れた銀さんの高床式民家で撮ったアンチャリーとジラワンの写真。マリワンの来日当時の写真。それに銀さんに撮ってもらった三十歳半ばの写真である。その写真を姉妹に手渡した。
「わたしもご覧の通り、髪の毛がとっても薄くなって禿げ上がりました。写真と比べてみてください」
 通訳がタイ語に訳すと、席が笑いに包まれた。
「皆さん、今日は小生の希望を実現させていただき、本当にありがとうございます。ご承知のとおり、亡くなられたお父様とマリワンさんは今から二十七年前に日本を訪問され、またこのタイに戻って来られました。その後、お父様がどういう生活をされ、暮らされて来たのかを中心に皆様に質問させていただきますので、どうかよろしくお願いします」
 早速インタビューに入った。
ソンクリーンは二十七年前と変らず、名門チュラーロンコーン大学の職員で、五十四歳になっていた。妹のアンチャリーは四十五歳。知的障害があり、ソンクリーンと妹のジラワンとともに暮らしている。末妹のジラワンは四十三歳である。
マリワンは四十九歳となり、アユタヤにある病院に看護師として勤務し、HIV患者の担当だという。米穀販売業者の夫との間に大学生の一人息子がいる。息子は「母の希望で、大学では薬学を専攻しています」と言って、ほほ笑むマリワンと目を合わせた。マリワンはアユタヤから家族三人、自家用車で駆けつけてくれたのだ。
わたしは事実の確認をしながら、四姉妹の話に耳を傾けた。
 銀さんは日本で頂戴した寄付金を資金にして、家を建てた。新築の家屋は以前から住んでいた川沿いの高床式民家とつないで、古い民家は倉庫になった。帰国後も相変わらず薬草の研究を続けた銀さんは植木を愛し、薬草のメモを書き溜めていたという。そのメモは銀さんの死後も倉庫に保存されていたが、二○一一年(平成二十三年)十月初旬、タイ中部を中心に発生した大洪水によって倉庫が水害に見舞われ、散逸してしまったという。銀さんと一緒に入ったあの泥の川も大増水したのだ。
マリワンは、日本の親戚の名前をよく覚えている。また日本訪問当時に親戚らと撮った写真を大切に保存していた。彼女が如何に父の親戚を大切に思っているのかがよくわかる。インタビュー中に見せる表情は、銀さんを彷彿とさせる。
銀さんはマリワンとタイに戻ってからも、特に目立った生き方の変化は感じられなかったが、祖国が経済的に発展を遂げた様子を目の当たりにして、非常に誇りを感じ、機会がある度にニッポン自慢をしていたという。
「お父さんからは、正直に、誠実に生きるように言われました」とソンクリーン。マリワンとジラワンは「お父さんは言葉にこそ出さなかったが、不言実行で如何に生きるべきかをわたしたちに説きました」と話した。
 娘たちによれば、銀さんは日本から帰って約十年、すなわち七十九歳頃までは医者を続けていた。
しかし、病が銀さんの身体を徐々に蝕んでいった。心臓のポンプに血栓が出来て、手術でとりあえずの回復を見たが、血栓が脳の血管にも広がり、脳梗塞を引き起こした。そのため右半身が不自由になった。それでも自力で歩いて、トイレにも行ったという。
 ジラワンが語る。
「病気になってからお父さんはそれまで太陽を拝むのが常だったけど、プミポン国王の長寿を祈るようになりました」
 銀さんがタイの天皇陛下と呼んだ国王も高齢となり、自分の病気と重ね合わせて、国王には長生きして欲しいという銀さんの願いだったのであろう。
 それまでずっと言葉を発しなかったアンチャリーが顔をしかめて何かを言った。
「部屋が寒いそうです」
 通訳がわたしに言った。姉妹がエアコンの冷気が直接当たらない席に移るようにアンチャリーを手伝った。
 マリワンが結婚して家を出て、ソンクリーンとジラワンがバンコクに住んでいた頃、アンチャリーは母親プラーパーとアユタヤに住んでいた。その頃退院した銀さんはソンクリーンのバンコクの家で療養していたが、奥さんのプラーパーが銀さんの世話をしたいということで、銀さんはアユタヤに移ることになった。
 その頃の銀さんは自分の父母や、一時帰国の際名古屋の病院で再会した姉のとし子さん、
行方不明の銀さんをずっと捜し続けた弟の大作さんのことなどを思い出しては話をしていたという。亡くなるまでその記憶はしっかりしていた。
 そして二○○四年(平成十六年)十二月二十六日、長年暮らして来たアユタヤの自宅で食べ物を喉に詰まらせて、呼吸困難に陥り、亡くなった。享年八十八であった。
 銀さんの四人娘のインタビューを終え、わたしはお願いしてソンクリーンの家に安置されている銀さん夫婦の遺骨を拝ませてもらった。
銀さん夫婦の遺骨は一階にある祭壇に置かれ、銀さんと二年前に亡くなった奥さんのカラー写真の遺影が立てかけられている。タイでは死者を葬るのは散骨が普通だが、亡くなった家族の遺骨の一部を散骨せずに持ち帰り、骨箱に安置して正月などに拝むこともあるという。
 わたしは用意したトワン・マーライ(花輪)を銀さん夫婦それぞれの霊前に供え、持参した数珠を指に掛けて、魂の安らかなることを祈った。
祈りながら、スラムの医療に取り組んで来た銀さんの言葉を思い出していた。
「患者には貧乏な人が多いんです。金のない人から取るのは日本人としての道義が許しません。日本人である以上は高利貸しのような気持ちにはなれませんわ。タイの病院は治療代が高い。ここでもらうのはわずか。そんな調子だから、患者はわしを拝んでくれます。そういう患者は信用できます。金持ちは拝もうとしません。ここにいる以上は貧しいタイ人の味方になってね。わしも後、命も何年もないから、日本人として、タイ人に良い感情を残しておく。あの日本人のお医者さんは良かった、と言われるようにしたい。後から来る日本人がタイ人から良く思われたらそれでいいんです」
ともに訪れたあの寺で、銀さんが語った言葉が心にしみる。
「この寺で先代にお世話になりました。居候になってね。脱走してから心の落ち着く暇がなかった。敵に捕まったら命はない。家もなし、金もなし、カカアもなし。そんな時にお坊さんが助けてくれた。本当に親切にしてくれました。地獄に仏ということですね。今でも感謝しています。寺には漢方に詳しいお坊さんがいて、何年も漢方のことを教わりました。それで何とか独り立ちする基礎が出来ました」
わたしはもう一度、遺影でほほ笑む銀さんを見つめた。
                                      終

第24回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」佳作入選作

沈黙の坑口

「不可抗力」の名の下に、67人の坑夫が化石となった豊州炭鉱災害(福岡県川崎町)
53年目に辿り着いた〝真実〟とは

著者・肥後義弘

沈黙の抗口(縦書き・イラスト入り)PDFファイル
             

目次
プロローグ                            
第一章 「不可抗力」で処理された大災害 
1・火の見やぐらの半鐘
2・筑豊に君臨した男、上田清次郎
3・一人の遺体も収容されずに閉山
4・紙面に踊った「不可抗力」の文字
5・膨らむ疑念¦本当に大雨だったのか

第二章 なぜ私は再検証を思い立ったのか
1・私の生い立ち¦炭住に生まれ育って
2・織井青吾の取材姿勢に感化される
3・脳裏から離れない石井画伯の作品
4・住民運動から得た教訓
5・豊洲炭鉱災害の再検証に着手
6・大雨は「誤報」だった
7・ガンと闘いながらの調査

第三章 人災¦¦「複合災害」の証明
 1・原子力安全・保安院石炭保安室
 2・浸透破壊による堤防決壊
 3・福島原発事故との共通点
 4・参議院社会労働委員会の議事録
 5・盗掘が引き金となった地下爆発
 6・人命を無視した経営姿勢
 7・巨額な政府買い上げが内定していた
 8・守銭奴経営者による事故の連鎖
 9・政財界や黒社会とも通じた圧制のヤマ
 10・ヒューマニストの炭鉱転がし
 
第四章 再び事故現場を歩く
1・鉱夫たちの遺体を放置してはならない
2・67人の上に眠る清次郎
3・無名の英雄たち
4・永井渡の盗掘跡に立ち、想う

あとがき
参考資料・著者経歴   

プロローグ
2012年5月13日、日曜日の昼下がり。福岡県田川市の元三井病院跡地に出来た「田川文化センター」は1200人の市民で賑わっていた。
地元・筑豊炭田の労働実態を描いた炭坑絵師、故・山本作兵衛(1892~1984)の作品が、国内で初めてユネスコの世界記憶遺産に登録されて1年になるのを記念した式典が、文化庁長官や田川市長、ユネスコの担当官らが出席して開催されたのだ。
 「ヤマ(炭坑)の絵師」として知られた作兵衛は、父の後について7歳で炭坑に入り、以来、半世紀にわたって坑夫として働いた。やがて60歳になり子供のころ絵を描くことが好きだったことを思い出し、「孫たちにヤマの生活やその作業と人情を書き残しておこう」と絵筆を握った。92歳で亡くなるまで、2000枚もの絵を描いたといわれる。
 その絵心は、幼いころに観た紙芝居を思い起こさせる。「ツルハシで石炭を掘り出す上半身裸の男女」など坑内の様子を描いた作品から、「男女混浴の入浴」「炭坑を訪れた軽業師」といった日常生活の風景まで、すべて自らの経験や伝聞がベースとなっている。絵の余白に味わいのある説明を書き加えているのも特徴的だ。
 その魅力について、長年にわたり作兵衛の作品を世に広める取り組みをしてきた画家・菊畑茂久馬は「既存の美術作品にはない、原始的な力があふれている」と語る。

(さらに…)

第24回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」佳作入選作

外食流民はクレームを叫ぶ
大手外食産業お客様相談室実録

 ガンガーラ田津美

 四十二歳、既婚、一子あり、夫の国籍スリランカ。過去五年間、夫の収入はほぼゼロ。
生活のために、私は大手外食産業のお客様相談室に勤務している。時給一二〇〇円。各種手当てなし。五歳の子供を保育園に送った後、私は職場に向かう。そして、朝九時から夕方の六時、あるいは昼の十二時から夜八時まで、ヘッドセットをつけて電話を待つ。その内容は九割が苦情である。
私の仕事は、いわゆるクレーム担当者だ。
「今店行ったら、店員がいらっしゃいませも言わなかったぞ。おまえら、ふざけすぎだろ。食わないで店出てきたからな。チェーンがでっかいからって、つけあがってんじゃねえぞ。すぐ俺の家まで謝りに来い!」
「カレー弁当にスプーンがついてなかったわよ。どうやって食べろって言うのよ! 子供の運動会で食べようと思ったのに、食べられなかったじゃないの。運動会がぶちこわし。カレー代全額返金してよ」
「キムチチャーハンに髪の毛が入ってたけど? あり得なくない? あんな不潔なの食べられるわけないっしょ。どうしてくれるのよ」
「ゆで卵にひびがあります。不衛生です。御社の衛生管理はどうなっているのでしょうか。サルモネラ菌に私が感染したら、御社は全責任を負ってくれるのでしょうか?」
 日によって差があるが、私が一日に対応するクレーム数は二十本から二十五本。最初は、一本のクレーム対応を終えた後、次の電話を取るのに少々息継ぎの時間を必要としたが、五年間勤務した今では、電話を切ると同時に次のクレームを聞き始めている。
クレームからクレームへ、私の業務は人々の怒りと不満を延々と聞き続けることだ。
(さらに…)

第21回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」選外期待賞入選作

在日米軍基地移転の中のグアム

 篠崎正人

はじめに

 沖縄で起きた少女暴行事件に対する沖縄県民の怒りが高揚し、基地負担の軽減を求める世論が高まった1996年頃、西太平洋に浮かぶマリアナ諸島のグアムから「沖縄の米軍基地を受け入れてもいい」という意思伝える州知事などの発言が相次いだ。その後、沖縄県宜野湾市の海兵隊普天間基地を名護市辺野古地区に移設する計画が行き詰った今日、長崎県内の大村市や佐世保市、佐賀空港、徳之島など九州各地への移設が話題になる一方、沖縄に駐留する第3海兵師団の一部をグアムに移駐させることが日米で合意された。
 しかし、沖縄に駐留する海兵隊の一部をグアムに移転させることが沖縄の負担軽減にとって解決策なのか、今年3月6日から9日まで、原水禁九州ブロックのグアム調査団に同行して取材した。

南海の楽園の今

 グアムは、沖縄の3分の2にも満たない南北に最長45キロ、東西に最大10キロ、人口17万人弱の小さな島である。グアムは16世紀、大航海時代のスペインによる占領から1899年の米西戦争による米国統治、アジア太平洋戦争時の日本の占領、そして再び米国の信託統治を経て現在は米国の準州(自治領)となり今日に至っている。ベトナム戦争当時はB52爆撃機などの出撃拠点として、また1980年代の東西冷戦が激化したときは西太平洋における海軍と空軍の補給・支援拠点として全土の3分の1を米軍基地が占めるほどの「基地の島」であった。
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第21回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」佳作入選作

「おくりびと」の先に
――ある火葬労働者の死が問うもの――
 

 和田通郎

はじめに

 昨年アカデミー賞をとって話題になった映画「おくりびと」のきっかけになった青木新門さんの「納棺夫日記」(青木新門著:文春文庫増補改訂版)に、次のように書かれている。
「医者や看護婦だって、警察の鑑識員だって、納棺夫よりひどい死体を扱っているではないか、と思ったりした。しかし、冷静に考えれば、社会通念的に無理がある。葬儀屋の社会的地位は最低であるし、納棺夫や火葬夫となると、死や死体が忌み嫌われるように嫌われているのが現状である。」
「職業に貴賎はない。いくらそう思っても、死そのものをタブー視する現実があるかぎり、納棺夫や火葬夫は、無残である。
 昔、河原乞食と蔑まれていた芸能の世界が、今日では花形になっている。士農工商と言われていた時代の商が、政治をも操る経済界となっている。そんなに向上しなくても、あらゆる努力で少なくとも社会から白い目で見られない程度の職業に出来ないものだろうか。」
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