おしらせブログ 週刊金曜日から定期購読者の皆様へのおしらせを掲載しています。

第24回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」佳作入選作

沈黙の坑口

「不可抗力」の名の下に、67人の坑夫が化石となった豊州炭鉱災害(福岡県川崎町)
53年目に辿り着いた〝真実〟とは

著者・肥後義弘

沈黙の抗口(縦書き・イラスト入り)PDFファイル
             

目次
プロローグ                            
第一章 「不可抗力」で処理された大災害 
1・火の見やぐらの半鐘
2・筑豊に君臨した男、上田清次郎
3・一人の遺体も収容されずに閉山
4・紙面に踊った「不可抗力」の文字
5・膨らむ疑念¦本当に大雨だったのか

第二章 なぜ私は再検証を思い立ったのか
1・私の生い立ち¦炭住に生まれ育って
2・織井青吾の取材姿勢に感化される
3・脳裏から離れない石井画伯の作品
4・住民運動から得た教訓
5・豊洲炭鉱災害の再検証に着手
6・大雨は「誤報」だった
7・ガンと闘いながらの調査

第三章 人災¦¦「複合災害」の証明
 1・原子力安全・保安院石炭保安室
 2・浸透破壊による堤防決壊
 3・福島原発事故との共通点
 4・参議院社会労働委員会の議事録
 5・盗掘が引き金となった地下爆発
 6・人命を無視した経営姿勢
 7・巨額な政府買い上げが内定していた
 8・守銭奴経営者による事故の連鎖
 9・政財界や黒社会とも通じた圧制のヤマ
 10・ヒューマニストの炭鉱転がし
 
第四章 再び事故現場を歩く
1・鉱夫たちの遺体を放置してはならない
2・67人の上に眠る清次郎
3・無名の英雄たち
4・永井渡の盗掘跡に立ち、想う

あとがき
参考資料・著者経歴   

プロローグ
2012年5月13日、日曜日の昼下がり。福岡県田川市の元三井病院跡地に出来た「田川文化センター」は1200人の市民で賑わっていた。
地元・筑豊炭田の労働実態を描いた炭坑絵師、故・山本作兵衛(1892~1984)の作品が、国内で初めてユネスコの世界記憶遺産に登録されて1年になるのを記念した式典が、文化庁長官や田川市長、ユネスコの担当官らが出席して開催されたのだ。
 「ヤマ(炭坑)の絵師」として知られた作兵衛は、父の後について7歳で炭坑に入り、以来、半世紀にわたって坑夫として働いた。やがて60歳になり子供のころ絵を描くことが好きだったことを思い出し、「孫たちにヤマの生活やその作業と人情を書き残しておこう」と絵筆を握った。92歳で亡くなるまで、2000枚もの絵を描いたといわれる。
 その絵心は、幼いころに観た紙芝居を思い起こさせる。「ツルハシで石炭を掘り出す上半身裸の男女」など坑内の様子を描いた作品から、「男女混浴の入浴」「炭坑を訪れた軽業師」といった日常生活の風景まで、すべて自らの経験や伝聞がベースとなっている。絵の余白に味わいのある説明を書き加えているのも特徴的だ。
 その魅力について、長年にわたり作兵衛の作品を世に広める取り組みをしてきた画家・菊畑茂久馬は「既存の美術作品にはない、原始的な力があふれている」と語る。


 それにしても・・・・と私は考えてしまう。
 筑豊の炭坑労働者を父に持ち、少年時代を「炭住」で育った私にとっても、ヤマを描いた絵がユネスコの「三大遺産事業」のひとつに選ばれ、アンネ・フランクの「アンネの日記」やベートーヴェン交響曲第9番の直筆楽譜、フランス革命の「人権宣言」など、そうそうたるメンバーの仲間入りを果たすとは……。夢のような出来事である。
 すばらしいことで、偉業であることに一点の疑いもない。
 明治維新後、日本の近代化の過程において重要な役割を果たしたのは石炭産業であり、その中心が福岡県の筑豊地区であった。当時の記録の大半が公文書や社史など〝権力側〟である炭鉱資本家の手によるものであるのに対し、作兵衛の作品は、半生を地底で過ごした〝一介の〟坑夫によるもので、より「真実味」に富む。
 「当時の筑豊の様子を知ることは、その後さらに工業化が進む日本だけでなく、産業革命が世界中に波及する歴史を知るための重要な手がかりになる」との登録推薦書の文面は、まさにその通りである。
 が、それにしても、である。
作兵衛の作品の背後に潜む「悲劇性」、すなわち労働者の奴隷的労働制や絶叫・悲しみを一体どれだけの人がこの一連の絵を見て、感じ取り、後世に正しく伝えきれているのだろうか、と私はつい悲観的になってしまうのである。
 記念式典では、地元の小中学生や県立大学の意見発表、市内のNPO法人による創作劇、民謡保存会による炭坑節総踊りの披露のほか、公募で選ばれた「マスコットキャラクター」や「世界記憶遺産ロゴマーク」のお披露目も行われた。
 登録決定以来、地元は祝賀ムード一色だ。だが、こうした喜びに沸く地元(田川市郡)の地下深くには、今もなお、約2000人もの救済されぬ坑夫たちの魂が眠っているのだ。「不可抗力」との一語で片付けられ、事故の本当の原因も責任の所在もあいまいにされた・遺体の回収や十分な供養も無く。・・・

 炭坑や原発などにおける労働災害の闇を解き明かそうと奮闘している数少ないルポライターの一人に、鎌田慧がいる。その鎌田氏が、作兵衛の絵をこう評している。
 「作兵衛の絵は芸術ではなく、執念によって書き続けられた徹底した写実であり、一目でわかる図解である。きわめて即物的に記述された行間からは、筑豊鉱夫たちの無念の死の声が立ち上がってくる」
 この「無念の死の声」を今一度、我々一人ひとりが噛み締めなければ、世界記憶遺産としての価値は半減してしまうと私は思う。
 作兵衛の作品群に比べれば、私の力など微々たるものだ。しかし、筑豊炭鉱で生まれ育った者として、誤った歴史認識や災害の風化を放置しておくわけにはいかない。私のような者にも、使命感から書き残しておかなければならないものがある。作兵衛作品にない数千人の坑夫の声なき声である。
それが『沈黙の抗口』と題した、豊州炭鉱災害に関する本ルポルタージュである。

第一章 「不可抗力」で処理された大災害
1 火の見やぐらの半鐘
1960年9月20日、午前2時。
 福岡県田川市猪金新庄の「新庄公民館」前に建つ火の見やぐらの鐘が、狂ったように鳴り出した。
カーン。カーン。カーン。
 
薬屋の林正康(42歳
消防団員)は、必死で
半鐘をたたき続けた。
住民たちは、鳴りやまない
鐘音に豊州炭鉱でまたもや事故でもあったのかと思い、外に出た。カーン、カーン。
 乱れた調子の半鐘は、住民たちの心を今までにない不吉さで揺さぶる。
 メリメリ、メリメリ、メリメリメリ。
 半鐘の音とともに、断続的に地底からうめき声のような振動が聞こえてくる。
 ふだんの火事とは違う危険を感じ取った人々は、寝巻き姿で外に駆け出していた。
 暗闇に目を凝らすと、地面は大きくひび割れ、モウモウと白い湯気が上っていた。
 カーン、カーン、カーン。
 半鐘は1時間経っても
鳴り続いていた。
同じころ、中元寺
(ちゅうがんじ)川
をはさんで田川市の隣にある川崎町池尻三ケ瀬では、迫田仙太郎(豊州炭鉱坑夫)が妻を起こして戸を開けると、庭先から白煙が20㍍も立ち上っていた。
 驚いて地割れした地面を見ると、炎が不気味に燃えている。仙太郎が子供の手を取り、慌てて家から離れると、まもなく納屋は地中に沈んでいった。
 一方、中元寺川の南側にある田川市新庄の永井渡(51歳)方の庭では、突然、直径4、5㍍の穴が4カ所にでき、水蒸気をまじえた坑内ガスが噴出した。

 だが、中元寺川を挟んだ田川市・川崎町民宅の色々な異常現象は、まだほんの序の口であった。豊州炭鉱の地下坑内では、戦後最大規模となる炭鉱災害が発生して、坑夫67人が生き埋めになったのである。
 同日午前0時すぎ、田川市の猪金新庄で、「ダーン」という大音響とともに、同市を貫流する中元寺川の左岸堤防下部に穴が開いた。川水は真下の古洞(石炭を掘ったあとの旧坑道)に勢いよく流れ込み始めた。
 古洞の約250㍍先には、豊州炭鉱の坑道が走っていた。危険を感じた同鉱は、零時半ごろ、坑内で作業をしていた二番方(午後5時から午前2時まで勤務)221人
に「非常昇坑」(緊急避難命令)
を命じた。しかし、中元寺川底の
穴は広がる一方で、午前2時すぎ
には、すぐ下流でも直径20㍍
はものすごい勢いで古洞に流れ込んだ。さらに、坑口から230㍍地点にある炭壁を突き破ると、地下の採掘現場を襲った。
非常昇坑を命じられた作業員のうち、坑口付近にいた154人は辛うじて脱出できたものの、坑口から3㌔~4㌔以上入った地点にいた67人が濁流に飲み込まれ、坑内に取り残された。
中元寺川の水が古洞を通じ本坑に到達してから3時間が経過した。午前3時、古洞からの水の勢いは一段と強くなり、地下坑道の崩壊が次々と始まった。地上にある三ケ瀬の豊州炭坑納屋が危険地帯に指定され、550世帯が避難した。けたたましく鳴り響く消防や警察の車両のサイレンが緊迫した状況を伝えていた。
事故現場となった坑口には凄惨な光景が広がっていた。急を聞いて坑口につめかけた被災鉱夫の家族たち。「助かったぞ、助かったぞ」??泥と水に汚れきった父親と抱き合って無事を喜ぶ子供たち。じっと手を握り、目にタオルを当てて夫の生還を祈る主婦の姿。
 中元寺川の陥没穴には、巨大な渦が巻き、上流から流れてきた水がものすごい勢いで吸い込まれていく。怒り狂った水の勢いは、轟音をたてて救助の作業員たちを寄せ付けず、復旧作業は難航を極めた。田川市民、川崎町民、消防団など約2千人が川の穴に土嚢を投げ込み、午前7時すぎには水の流入は弱まったものの、坑口から13mの地点まで水が入り、中元寺川の水位と同じ高さとなり、同鉱は完全に水没した。
 会社側は排水ポンプを総動員して排水に努めたが、すでに現場では、「67人の命は絶望」との見方が強まっていた。 
 午後には自衛隊に出動を要請、作業は本格的となり、同夜には坑内に流れ込んだ水も止まり、翌21日には、ようやく水が引いて、〝魔の陥没穴〟が姿を見せた。

2 筑豊に君臨した男、上田清次郎 
かつて石炭が「黒ダイヤ」と呼ばれ、崇拝された時代があった。エネルギー資源の中心が石油・原子力に移行した1960年代初頭まで、国内産業や国民生活を支え続けたのが「ダイヤモンドのように貴重で利益を上げる」この黒い固形燃料であった。
 太平洋戦争後、一次エネルギーに占める石炭の割合は40%に達し、その大半は国内炭だった。政府は石炭・鉄鋼業を基幹産業に据えて、国内炭の増産によって全産業を牽引する「傾斜生産方式」を打ち出し、廃墟からの〝奇跡の復興〟を図った。その国策の中核を担ったのが、筑豊炭田であった。
 筑豊炭田は、総面積約787平方キロ、福岡県北東部の田川市、飯塚市など6市4郡にまたがる。八幡製鉄所の後背に位置し、最盛時には256鉱を数え、全国石炭の6割以上を掘り出した。
 その歴史をたどると、1478年、遠賀郡埴生村で「燃える石」が発見されたのが起源とされる。
 江戸時代に入ると、福岡藩や小笠原藩が地元農民や渡り坑夫を使って採掘を行い、四国・中国地方の塩田や大阪にも船で送った。明治維新を迎えると、新政府は国内鉱山を解放。筑豊炭田も漸次民間に払い下げられた。
 三井鉱山、三菱鉱業、住友石炭鉱業、古河鉱業などの財閥系による開発が進む中で〝中小炭鉱の雄〟として、大手に対抗したのが、地場資本の麻生炭鉱と豊州炭鉱である。中でも、豊州炭鉱など5炭鉱を支配した実業家・上田清次郎(1987年没、享年86歳)は「筑豊最後の炭鉱王」と謳われた。
清次郎は、のちに衆院選に福岡2区、日本社会党(右派)から出馬して当選し、国会議員となった。炭鉱業から撤退した後には、中央競馬馬主協会連合会会長を務めた。そのときルール破りのことを行い、「ダービーは金では買えない」と全国の競馬ファンから激しい非難を浴びた。
ところが、その華麗なる実業家人生の陰で、生い立ちや青年時代までのエピソードはほとんど残されていない。
 清次郎の生年月日は1900年10月28日、出生地は福岡県・川崎町川崎とされている。1923年、弱冠23歳で豊州炭鉱を買収し、兄弟親族で炭鉱経営に乗り出す。続いて東洋炭鉱、豊前炭鉱を買収、折からの朝鮮戦争で、石炭増産特需を受けて事業は大成功を収めた。1933年、33歳で川崎村(現在は町)長に就任、同職を12年間にわたって務めた。大手鉱業会社の同町誘致などを行い、町発展の功労者として名を馳せた。
 栄華のピークは戦後、朝鮮戦争前後の1950年代初頭。51年、53年には高額納税者番付で全国一位に輝く。6位米蔵・7位富蔵と、兄弟が揃ってベストテンに入った。
 だが、ほどなく炭鉱不況の波が押し寄せる。
 転換点となったのは1955年。国の「石炭鉱業合理化臨時措置法」が施行され、中小炭鉱の閉山や合理化が始まった。
 中東・アフリカで相次いで大油田が見つかると、エネルギーの主役は石油へと移行。さらに「原子力基本法」が制定され、原子力委員会が誕生する。
 一方、海外から安価な石炭が流入し、価格競争で敗れた国内炭は過剰生産に陥り、貯炭(石炭の蓄え)が急増。大手資本の〝有望〟炭鉱を徹底的な合理化・機械化で近代化させる一方で、非能率の中小炭鉱を閉山へと誘導する「スクラップ・アンド・ビルド」と呼ばれる国内炭鉱業の再構築が加速していく。

 豊州炭鉱にも合理化の波は押し寄せた。事故発生前の月産は約1万トン、従業員は約900人。出炭量は月ごとに減っており、会社側は大幅なリストラを計画し、労働組合との団体交渉が大詰めを迎えていた。一方、福岡県最南端、有明海に面する大牟田では「総資本対総労働の対決」と評され、日本労働史最大の争議と言われた「三井三池争議」がクライマックスを迎えていた。
 1960年9月20日未明に発生した豊州炭鉱事故は、こうした日本石炭鉱業を取り巻く社会情勢と歴史の大きなうねりの中で発生した。

3 一人の遺体も収容されずに閉山
生き埋めになった67人の救出作業は難航を極めた。救出活動は254人の作業員により無休の4交替制で進められた。坑道はドロとボタ(廃炭)で詰まり、減水は1日平均3mほど。引いたと思うとまた水がわいてきた。
 近隣の川崎町森安地域や田川市新庄地区の住宅地区では陥没騒ぎが多発したため、田川市議会は坂田市長を始め監督官庁に抗議をし、12月に入って福岡通産局が原因究明に乗り出した。炭鉱労働組合も組合員大会を開き、その結果、二次災害発生の危険があるとして、翌1961年の2月7日、坑内の捜索活動は中断された。そして学術調査団が「遺体の収容は極めて困難」との結論を出し、同炭鉱の廃棄が決まった。
3月31日、炭坑周辺の古洞に注水が開始され、遺体収容作業は打ち切られた。4月16日に豊州炭鉱は休山し、鉱員539人を全員解雇する交渉が妥結。これを受けて、事故当日が採掘終了日とされ、4月4日に消滅登録されて、完全に閉山となった。

4 紙面に踊った「不可抗力」の文字
発生当時、戦後最大の炭鉱事故といわれた豊州炭鉱事故だったが、事故原因や責任所在の究明において、世間の目は大手マスコミの報道も含めて〝落ち着いた〟ものであった。
 事故発生当日、1960年9月20日の夕刊紙面には『不可抗力』の文字が踊った。

福岡鉱山保安監督部の横田部長は、事故原因について「豊州鉱は出水指定炭鉱でなく、採掘箇所の坑内水も少なく、付近の古洞が陥没、川の水と連絡したものと思われる。田川地区は古洞が多く、九州地区では雨が多いときは出水事故が多いが、今度の場合は先進ボーリングでも予防できないので不可抗力というほかはない」とコメントした。
 また、福岡通産局の川瀬局長と横田保安監督部長は「あのあたりには昔石炭を掘った古洞が無数にある。炭鉱はこれを埋める義務はなく、空洞のまま放置されている。今度の場合、雨による外部からの流入浸水で報告を待たないとわからないが、まずやむを得ない事故のように思われる」と語り、被災家族から怒りを買った。

 「不可抗力」とは¦¦地震、台風などの天災地変のように、有害な結果をもたらすできごとであって、社会観念上その結果を防止するために通常の人に期待される最高の注意を払い、いっさいの方法を尽くしても、なお避けることのできないものを言う。一般に、法律上の責任、義務、不利益を免れさせるという法律効果を持つ。なお、当事者の病気や企業施設の瑕疵など内部事情によるものは、たとえ過失によらなくとも不可抗力とはいえない(世界大百科事典第二版より)

 各新聞とも、発生当初こそ紙面を大きく割いて報道したものの、その後、調査報道を通して事故災害が検証されることはなかった。もしかしたら、「不可抗力」という言葉が再取材や調査報道に対する彼らの意欲を削いだのかもしれない。
この「不可抗力」文字の誤魔化しが大きく活用されたのは豊州炭坑災害後3年1963年11月9日発生した、
三井三池炭鉱三川鉱の炭塵爆発で458人死者を出したとき政府による災害原因調査団は「不可抗力」と主張した。

 一方、被害者側である鉱夫たちの家族や労働組合側からも、炭鉱会社や行政側を糾弾するような大きな動きは出なかった。炭鉱規模が違うとはいえ、三井三池炭鉱における労働争議や炭塵爆発災害に比べると対照的であった。
 事故から約3週間後の10月15日、参議院社会労働委員会で、豊州炭鉱事故について半日にわたり質疑応答が行われた。古洞調査における国・炭鉱会社側の責任問題や、ある民家の〝盗掘〟が川底の陥没に及ぼした影響等、極めて重要な討議が行われたにもかかわらず、これを伝える新聞記事はなかった。
 ある出版社系週刊誌が〝盗掘者〟の独占インタビューや炭鉱会社側の過失を追及する特集記事を組んだものの、世論を喚起するまでには至らず、結局、国内最大の生き埋め事故の原因とその責任所在の解明は、翌年の同炭鉱の閉山とともに終息した。

5 膨らむ疑念¦本当に大雨だったのか
 事故からちょうど5年が経過した1965年9月20日、罹災者に哀悼の誠を捧げるため、旧坑口跡に慰霊碑が建立された。以来、遺族会による法要が毎年続いていたが、遺族の高齢化などから、それも2009年の50回忌を最後に打ち切られた。
 閉山後、ボタ山は防災工事が施されて公園や駐車場となり、鉱害復旧事業によって炭住は、こざっぱりした住宅街に生まれ変わった。今や事故当時の面影を残すものはほとんどない。世界記憶遺産登録で山本作兵衛の炭鉱画に関心が高まる一方で、豊州炭鉱事故の記憶の風化は一段と進んでいる。
だが、「あの日、本当に大雨が降ったのだろうか」¦¦。当時、現場近くに暮らしていた私の胸には、以前より〝ひっかかる〟想いがあった。その疑問は53年近く時が過ぎても消えないどころか、日増しに強くなっていった。これが本ルポ取材の動機である。

明治以降、炭鉱災害による死者は、田川市郡全体含め日本全体では30万人以上の死亡者・負傷者を出したという驚愕の資料もある。

これが、事実であれば、ナチスのユダヤ人大量虐殺に匹敵する犯罪行為ではないのか。しかも、坑内作業という「密室殺人」である。事故原因は全て未解のままだ。加害者である経営者一族と国は責任も問われずに、その後も石炭成金や地元の名士、国会議員、大臣として今日も華麗に生き続けている。

地元福岡県田川市で弁護士事務所を開設している角銅立身は「三井三池・三川鉱炭塵爆発」の著書で安全を無視した生産第一主義の会社側の刑事責任を「未必の故意による殺人罪あたる」と断定している。

第二章 なぜ私は再検証を思い立ったのか

1 私の生い立ち¦¦炭住に生まれ育って
私は1947年、福岡県田川市東区芳ヶ谷
(よしがたに)に生まれた。父は鹿児島県姶良郡出身で、三井鉱山田川の電気保安員として閉山まで40年間働き続けた。
 1960年9月20日。当時13歳、中学生の私が豊州炭鉱災害を知ったのは、新聞配達のアルバイト中、自分が配達している夕刊の紙面を目にした時だった。
 自分たちが暮らしている炭鉱社宅から4キロと離れていない隣町で、67人もの労働者が生き埋めに遭う大惨事が起きたのだ。私は夕刊200部を配り終わると、記事の内容を思い出して身震いした。
 豊州炭鉱災害から1年後の1961年3月、今度は自宅から6キロ先の香春町の上清炭鉱で71人の労働者が死亡する事故が起きた。さらに1963年12月にも、田川市の糒炭坑で10人の死亡事故が発生。いずれも上田清次郎一族の会社が経営する炭坑での災害であった。
私の好きな、クラスメイトの女生徒が急に学校に来なくなった。どうしたのかと心配していたら、転校するという。上清炭鉱で働いていた父親が事故で亡くなったからだった。

 中小事故は枚挙にいとまがない。
 三井鉱山の炭鉱住宅街に突然、サイレンが鳴り渡る。「また事故か!」。炭住長屋の人々の顔が、大人も子供も恐怖にひきつる。
まもなく、救急車がうなり声と砂塵を立てて事故現場の炭鉱坑口へと向かう。人々は心配顔をしながらも、やがて日常生活に戻っていく。事故と日常生活は背中合わせだった。
 私の社宅の隣に住む一家の親父さんも落盤で頭をつぶされて即死した。
土門拳の写真集『筑豊の子供たち』の世界は、まさに私たちの幼い日の姿であった。
不況が押し寄せていた。中学卒業を前にして、父は「炭鉱抗夫になれ」と私に勧めた。
「父ちゃんは俺を殺す気だ。俺は絶対に炭鉱坑夫にはならない」。子供心にも本気で思った。そんな父自身、採炭現場で何度も事故に遭った。その都度生き延びて92歳まで生きたが、晩年は塵肺にかかって毎晩咳き込み、田川市夏吉にあった国立労災新生病院で亡くなった。

2 織井青吾の取材姿勢に感化される
田川地区における炭鉱事故死者は、明治以降約2000人(田川石炭記念資料館調べ)を数える。
中でも豊州炭鉱事故は、悲惨で無慈悲な事故であった。にもかかわらず、同事故には詳細な報告書が存在しない。何故なのか。地元・川崎町の役場や図書館、田川市の石炭記念資料館や図書館にもない。研究者の記録もない。あるのは沈黙の67人の慰霊碑だけである。
 豊州炭鉱事故ばかりではない。日本の大きな炭鉱爆発事故は、そのほとんどが原因不明とされている。炭坑経営者は、多くの坑夫が大勢死亡しても刑事事件として責任を追求されずにきた。

1914年12月15日、田川郡方城村(現・福智町)の三菱方城炭鉱で、大爆発が起きた。三菱炭鉱の公式発表では671人、新聞報道では最大で800人もの死者を出した大事故であったが、三菱側がまとめた調査報告では「原因不明」とされている。この炭坑災害事故も経営者が刑事事件として責任を問われることは一切なかった。
 ノンフィクションライターである織井青吾(本名・浜井隆治)は、「被害を僅少に工作して操業を継続したのでは」との疑惑を抱き、4年間にわたり現地に入って克明に調べ上げ、その成果をルポルタージュ『方城大非常』(1979年、朝日新聞社刊)として完成させた。東京国立市の自宅から何度も熱心に筑豊に通いつめて取材する姿に、私は感銘を覚えた。「出来る限りの支援がしたい」。当時30歳だった私は自分の車で彼を取材現場まで送迎した。そしてボランティア活動をしながら作品の完成を見守った。

3 脳裏から離れない石井画伯の作品
 私が豊州炭鉱事故を〝想う〟時、まず脳裏に浮かぶのは、画家の故・石井利秋が残した作品の数々である。
石井画伯は三井鉱山田川炭鉱で、事故・労務係をしていた。私の父親と同じ鉱山で働き、年齢も同じだ。山本作兵衛とは違う。石井画伯は東京芸術大学出身のプロ中のプロである。その作風は抽象画だが、私には一点一点がリアルに感じられる。
 『坑道密閉』(1973年作)で描かれたガス漏れの坑道内の様子は、豊州炭鉱事故から着想を得たとされるが、九死に一生を得た鉱夫たちの証言と一致する。
彼の作品を見ると、私はピカソの「ゲルニカ」¦¦ナチスによるスペイン市民への無差別空爆を思い出す。

4 住民運動から得た教訓
豊州炭鉱事故の発生直前には雨が降った。
9月18日・19日の2日間だ。合計で118・2㍉の雨量だった。朝日新聞はこの雨を、9月20日付け夕刊全国版で「大雨」と報道した。また、読売新聞も「中元寺川の氾濫で地盤が陥没」として、災害原因が雨との見方をした。他の新聞やテレビ報道も同様に報じた。こうした報道により、事故原因は人災ではなく自然災害とのイメージが日本全体に広がった。それは半世紀以上経った現在でも変わらない。この私自身、最初はそうだった。「豊州炭鉱災害は大雨による災害だ。だから仕方がない」と、50年近く信じてきた。
 ところが、やがて私は、「2日間で100㍉は大雨か」と、この日の雨量に疑問を持つようになった。いまから10年ほど前のことである。
東京から田川市に里帰りした際、現地を歩いて住民に聞き取り調査をした。すると、「あの日は雨が降ったが、大雨ではなかった。裏庭に草取りに行ったからよく覚えている」と、田川市新庄地区で働く農家の老婆から証言を得た。その証言に最初は疑問を覚えた。それでも「その時期は裏庭のイモの草取りをしたからよく覚えている」と言うから信じた。当時小学校の教員をしていた清水定一郎も「大雨でなかった」と証言した。

当時の朝日新聞の記事によれば、9月17日から20日にかけて100㍉の大雨が降ったという。「数日間で100㍉の雨が本当に大雨なのか」。私は何日も疑問を抱き続けた。働いている時も夜寝る時も頭から離れない。それが私の性格だ。思い込んだら、納得するまで考える。
 国会図書館を訪れ、朝日新聞の記事と航空写真を複写して分析した。
伊勢湾台風や多摩川決壊といった過去の大災害時の航空写真と比べると、明らかに違う。
中元寺川の水は溢れていない。水田も家屋も水没していない。しかも、堤防の水位はまだ1~2㍍も余裕があるではないか。

ついに私は、「中元寺川に降った100㍉の雨は大雨ではない。よって雨は炭鉱災害の原因ではない」と確信するに至った。
その自信の裏には、「住民運動家」としての過去の経験があった。
私は高校進学とともに、両親が暮らす田川市の炭住を離れた。飯塚市内の私立高校に入り、公務員の長兄とアパートで自炊生活を始めた。そして福岡県内の大学を卒業すると、西部・読広に入社し、広告マンとしての道を歩み始めた。私の仕事は、読売新聞筑豊版の広告営業であった。川崎町や田川市などを隈なく歩き回った。
 1982年7月、35歳の時、私は父母のいる田川市に帰っていた。自宅のある田川市芳ケ谷・白鳥町地区で洪水問題が発生した。芳ケ谷川の氾濫により、約1000世帯が床下浸水の被害を受けたのだ。氾濫の原因は、行政による山林の乱開発にあった。

気がつくと私は住民運動の先頭に立っていた。かつて七〇年安保の時代、私は大学で自治会書記長を経験していた。そのためか行動的だった。
 芳ケ谷川は、幅3㍍、長さ4㌔の小川である。中元寺川とともに英彦山川に流れ込み、やがて遠賀川に合流して玄界灘へ注ぎ込む。
 芳ケ谷川はそれまで、どんな大雨の時でも石垣一個の水位のところで洪水を免れてきた。私は20年間にわたってそれを見てきた。

1982年頃、田川市は芳ケ谷川上流に大規模工業団地を造成するため、5万8000坪もの森林を削った。これで山林は保水能力を失い、雨水が小川に流れ、堤防の石垣を乗り越えるようになった。さらに、雨水は造成地の土砂を運んで川底を埋めた。
私は洪水の後、川に入って川底に竹棒を差し込み、土砂の調査をした。土砂の堆積量は平均30~40㌢、多い所では1㍍を超した。長さは1㌔に及んでいた。団地造成時に出た土砂が芳ケ谷川の川底を埋め、洪水の引き金となったことをつきとめた。
 ところが、各新聞の報道は「雨の降り方が異常であり、川の氾濫は仕方のないこと」と自然災害説で一致していた。
 田川市側も「集中豪雨と河川の老朽化によるもの」と表明。九州大学教授で河川工学の専門家も「筑豊地方に7月23日から25日にかけて降った雨は、長崎で日雨量1000㍉を超え300人の死者を出した豪雨が及んだものである」と、もっともらしい報告書をまとめて市側に付いた。
「洪水は天災であり、不可抗力である」¦¦九州大学教授の分析と新聞報道を前面に押し出した行政側の説明に、純朴な被害者らの多くが「想定外の自然災害」として納得し始めた。以前テレビと新聞で見た、あの痛ましい長崎大豪雨による雨が筑豊地区に来たと言われれば、そうかと納得する。
しかも、九州大学の偉い先生が言うのだから間違いない。住民たちの誰にも雨量や気象、河川、土木工学についての知識はない。言われるがまま、信じてしまう。
そこには、3・11福島原発事故における「安全神話」と同一の構造があった。
しかし、私は説明会会場で立ち上がり、現場調査で見た川底の変化を田川市の助役や住民たちに向かい大声で訴えた。
「ちょっと待たんね。おれは川底の変化をみてきたバイ。あんた達の言うことと違うタイ。ありぁ山の土砂バイ。山畑の土タイ。なんであげんか、雨で土砂が流れて来ると。みるみる川底が埋った。おれは雨の日、毎日川の底を観察してきたとバイ」
三井鉱山田川本社の雨量計データによると、芳ヶ谷川の洪水時における雨量は、7月23日73㍉、24日78・5㍉で、25日はほとんど降っていない。1日で1000㍉を超えた長崎大水害の比ではない。普段の雨だった。しかも、同月13日には108㍉、同16日に126・5㍉の雨が降っても洪水にはならなかった。
 長崎の雨と同様、天災と決め付ける根拠を田川市に求め、雨量を尋ねた。回答はなかった。
それもそのはず、実は10日前の7月13・16日の2日間の雨で、工場団地の造成地で掘り起こされた土砂が川底を「石垣一個分」浅くしてしまい、23日・24日の雨であふれ出したのであった。
炭住街の人々は私の説明に耳を傾け、住民運動を支援してくれた。炭鉱長屋に住むヤクザの組員までが「百円カンパ」をしてくれた。私は彼らの気持ちに感激した。
そこで私は、住民向けに小冊子やチラシを作り、自宅の前に大看板を出した。
 このような住民運動に押されて、田川市議会が動いた。国会議員も視察に訪れた。最後には田川市側も折れて、河川改修工事に乗り出すことを決め、約2億円の予算を計上した。

私が体験した住民運動での初勝利であった。私は「官学に勝った」という快感を味わった。そして、小さな事実や客観的証拠を積み重ねて証明していく大切さを実感したのだ。

同住民運動の経験から、私は豊州炭鉱の「大雨被害説」に対しても次第に疑念を深めていく。そこには新聞報道を信じない自分があった。

5 豊州炭鉱災害の再検証に着手
1992年、45歳の時、私は西部・読広を辞め、起業してPR会社を東京都内に立ち上げた。それまでの〝宮仕え〟から、規模は小さいながらも社長となり、少しは自由な時間を作れるようになった。そこで本業の合間を縫って、自分が興味を抱いた「世間的には関心が薄れかかった社会的テーマ」を追う気持ちがわいてきた。ライフワークはやはり、豊州炭鉱災害の再検証であった。

 まずは、災害当時の資料集めからスタートした。国会図書館で当時の新聞記事を片端から集めた。日雨量100㍉が大雨・豪雨とあり、その雨が原因で災害が起き、不可抗力だったという記事を見て、疑問が再びわいてきた。100㍉が大雨・豪雨であることが、心の底で理解できなかったのだ。
 2001年8月、東京・千代田区の気象庁を訪れ、窓口で相談してみた。
1960年9月の福岡県筑豊地域の雨量計データはあるか?
重い腰をようやく上げての裏付け調査開始だ。「100㍉の雨は大雨や豪雨なのか、」という簡単で単純な質問だけでやってきた。少々恥かしかったが。
 「全国の雨量データは、1935年から76年間分を保存している」との回答だった。福岡県筑豊地区の降雨量は、1960年9月18日20・1㍉、19日は98・1㍉と記録されていた。

私は再度たたみかけるように、「2日間で118・2㍉だが、この程度の雨量は大雨・洪水と一般的に言えるのか」と何度も繰り返して聞いた。「50年前でも、今日でも、大雨ではない」と、気象庁の中年の専門官は雨量データを見ながら自信たっぷりに答えた。長い間の疑問が一瞬に解決した。
 
6 「大雨」は誤報だった
 1960年9月20日付け朝日新聞夕刊の記事を見てみよう。「17日夜から20日午前零時ごろまでの間に、筑豊地区で100㍉を超える大雨が降り」とある。実際には、雨は降ったが、18日、19日の2日間である。朝日の報道では4日間を通して継続的に降ったと誤解してしまう。4日間、毎日100㍉の雨だと、計400㍉で確かに大雨だ。が、事実は違う。17日と20日には雨は降っていないのだ。
 災害現場の中元寺川は、普段は水量が少なく、川底がいつも見えていた。だから、大事故直後に取材を受けた地元住民らは、つい〝感覚的〟に「大雨だった。豪雨であった」との声を返してしまったのだろう。人間の感覚とはそうなりがちである。
 それにしても、なぜ、新聞記者たちは大雨報道の裏付けとして、きちんと雨量データを調べなかったのか。観測データに基づく雨量報道は〝科学的〟である。これに対して、記者が取材したときの住民の声は事実であって事実でない〝主観的〟な感情である。記者たちはジャーナリストとして災害報道の基礎ができていなかった。
2日間の〝普通の〟雨が、誤報によって大雨となり、世論は鉱山側が主張する自然災害説に大きく傾いてしまった。それにしても、現場記者・支局デスク・本社編集局の担当デスク、整理記者らが何故ミスに気付かなかったのか。
 新聞記事にある誤報や曖昧な表現が、豊州炭鉱災害の真相解明を発生から半世紀後の今日まで大きく歪曲させ、被災者・遺族たちをも信じ込ませてきた。その責任は重い。その間、67人の鉱夫は地中で化石になった。
政府・自民党や通産省も大雨を災害の原因とした。鉱山側も「不可抗力だった」と言い、死者1人あたりわずか64万円の見舞金で事故の幕引きを図った。国会で政府・通産省の責任を追及した日本社会党の参議院議員・阿具根登の文書の中にさえも「事故発生の前日には、北九州一帯に豪雨があり、中元寺川の水量が増えていた」とある。
 「誤報」は今も続いている。最近では、川崎町の「広報かわさき」(2010年7月・8月号)までが「大雨説」を引用している。インターネットで検索しても、豊州炭鉱の災害は大雨によるものと信じている人々がほとんどだ。
 誤報が誤報のまま放置され、誤った歴史を作っている。かく言うこの私も、事故は自然災害であるという先入観があった。
しかし、気象庁データによって「大雨ではなかった」と判明した今、誤った歴史認識をそのまま後世に残してはいけない、と強く思った。では、本当の原因は何か? 根本から取材し直さなければならない。67人の死亡事故が、原因次第では天災から人災に変わるという重要問題でもある。
小さな事実を積み重ねて真の災害原因に迫る。それは新事実を発見する作業であり、その都度、私の原稿の方向性が変わる。何度も書き直した。200枚の原稿が10回の書き直しで2000枚以上のボツ原稿のヤマを作った。古いリコーの業務用のプリンターが新品になった。用紙・インク代の支払い額が跳ね上がった。

7 ガンと闘いながらの調査
私は2011年7月、前立腺のガンと診断された。まだ64歳だ。東京・築地のがんセンター中央病院で手術を受けた。今も通院治療を続けており、時折、下腹部に痛みが走り、副作用で大小便に黒い出血がある。
持病の心臓病、二度にわたる脳梗塞発症に加え、新たにガンに襲われたのだ。東京の病院で大腸検査予約を入れてから福岡まで取材に出た。地を這うような調査活動は、正直つらい。
「炭鉱災害の調査どころじゃないでしょう」¦¦妻はひどく悲しんだ。そして、何故そんなに熱心なのか、いつまでこだわり続けるのか、と聞いてくる。「私の心を突刺す」変人扱いだ。大声で泣きたくなるが、グート抑え聞こえないフリを通した。

正直、私自身、夜中に目が覚め何度も辞めたいと思ったか。ため息と弱音も出た。
 しかし、その都度、「私が彼ら67人の生き埋め事故ルポを作らなくて、誰がこの仕事をするのか」と自らを鼓舞した。仏師が仏様を彫る様に、一行一行に魂を入れて書こう、と思い直した。いつ死んでも良い「地元芳ヶ谷川の洪水問題で住民運動を体験したお前だからこそ、豊州炭鉱の中元寺川問題にも取り組める」。
 石井画伯が作品制作中に聞いた「数十人の鉱夫の声なき声」が、私の背中をグイと押すのを感じる。何が何でもこのルポを完成させて、慰霊碑やご遺族に捧げたい。

第三章 人災¦「複合災害」の証明

1 原子力安全・保安院石炭保安室
 豊州炭鉱事故原因の「真実」を求めて、私が次に出向いたのは、東京・霞ヶ関の経済産業省旧原子力安全・保安院石炭保安室であった。情報公開制度を活用することで、何か参考になる資料が見つかるかもしれないと思った。
豊州炭鉱事故に関する公文書の開示を願い出た私を、担当職員の課長補佐・藤原昌彦は、「お前は何者か」とばかりに訝しげに見つめた。私は「日本ジャーナリスト会議会員」と記した名刺を渡すと、豊州炭鉱災害事故を10年間追いかけている理由をかいつまんで話した。
 私は組織に所属するジャーナリストではなく、フリーライターであること。筑豊の炭住で生まれ育ったこと。事故当日までに降った雨は大雨とは言えず、よって世間で信じられているような単純な「大雨災害説」ではないこと。事故の本当の原因を調べてルポルタージュにまとめ、故人の供養をしたいこと。
そして、真面目に取材活動に取り組んでいることを証明するために、持参した『週刊金曜日』社主催の第1回(1997年)ルポルタージュ大賞で特ダネ賞(優秀賞)を獲得した「アルミ片の恐怖、缶ビール・缶コーラ等の飲料公害」の記事を見せた。

 国の石炭行政は現在、「原子力安全・保安院」の中にある。通された応接室は狭く、警察の取り調べ室のような雰囲気が漂う薄暗い所だった。福島原発問題を抱え、連日デモ隊に包囲された状態にあり、担当者の警戒心は当然強かった。
最初は色よい返事は得られなかった。一体何の目的で今さら石炭資料なのか、と不審がった。名刺にある「日本ジャーナリスト会議」とはどんな団体か、とも聞いてきた。私は彼の心証を害さないように、丁寧に説明した。
最終的に、A3用紙4枚にまとめられた報告書を入手することができた。本邦初公開、一級品の資料だと、私は直感した。

同報告書では、「災害の原因」について、「①本災害は、過去に石炭の坑外露頭付近の地下を採掘、その後自然発火が発生し地盤がゆるみ、地表の陥没をしていたところで、②たまたま災害前日に一時的に降雨があり、③中元寺川より溢水した河川水が陥没箇所から流入し川底浅部の古洞を伝い、坑内に流出したもの」と定義していた。
同報告書では、「地下の古洞の存在と、石炭盗掘とそれに伴う地下火災、」この2点が私の新しい発見であった。古洞の地図も得ることができた。
しかし、私には③の「中元寺川より溢水した」との箇所がどうしても理解できなかった。「川の水は溢水していない」と語った地元の証言者もいる。では、雨水が堤防を溢水しない中で、どうやって堤防が崩壊したのか。
私はこの点について現地調査をして、当時の朝日新聞の航空写真の分析もしたが、どうしても理解できず、悩み苦しんできた。
 豊州炭鉱事故の主原因は、発生当初マスコミで報じられたような「大雨」による川底の崩壊では説明がつかない。2日間で100㍉という雨量で、川底の2~3㍍もある猫岩岩盤を崩壊させることは不可能だ。
また、地下ガス爆発が長期間にわたり何度も発生したため、ヒビ割れで川底の岩盤と地層全体の劣化を招き、崩壊につながったとする考え方もあるが、私はさらに「長年にわたる岩盤・地下地層のガス爆発等による劣化現象」と「雨水」を結びつける「何か」があったはずだと思った。

2 浸透破壊による堤防決壊
2012年9月、九州地域を集中豪雨が襲った。矢部川(福岡県柳川市)の堤防の決壊原因を調べた国土交通省は「浸透破壊」と結論付けた。

堤防の土砂の粒子が雨水で外に流れ出し、日本の河川堤防は見かけとは違い、その機能を全て失っているという驚くべき見方だ。
 全国の河川が2000カ所以上において危機的な状況にあるというのだ。日々の雨水でも堤防の土砂が流れ出て、堤防の中は空洞や小さい水路が生じて大きな劣化が起きている。さらに、水圧現象によって降雨期には雨水が堤防を越えなくても地下水として堤防の崩壊を招くという。これは現代河川工学の最先端理論である。
堤防が「歯茎」だとすると、すでに深刻な歯槽膿漏を起こしており、大事な歯が全てダメになっているということだ。同理論を知り、私は積年のナゾが解けたと思った。
「芳ヶ谷川洪水」で住民運動をした際に川に入り石垣の隙間調査をしたことを思い出した。ドブ川の石垣にも鉄棒を差し込み、奥行調査をしたが、奥行き3㍍ほどの空洞がたくさんあった。こうした経験から、「浸透破堤」理論は素人の私にも十分納得ができた。

さっそく、河川工学の第一人者である山田正・工学博士を東京都文京区の中央大学理工学部に訪ね、いろいろと質問をした。
全国の河川の堤防が「浸透破壊現象」で崩壊の危機にあるというが、半世紀前に起きた豊洲炭鉱事故にも同様の現象があてはまるのか?
山田教授は少し考えてから、「想像はできる」と答えた。
私は、探し求めてきた中元寺川を崩壊させた「何か」をつかんだ気がした。中元寺川の流れは、100年、200年という単位で、堤防の真下に空洞を作り上げてきたのだ。
災害の原因は複雑である。確かに約100㍉の降雨もそのひとつとされているが、主因ではない。「浸透破壊理論」と山田教授への取材によって、長い間悩んできた「重大疑問」の一つが解決された。
私は自分の仮説に確信を持った。豊州炭鉱災害は人災を含んだ「複合災害」である。地下空洞の調査と保全を怠った会社・通産省側の行政責任は一段と大きい。

3 福島原発事故との共通点
 2010年8月5日、チリ・サンホセ鉱山で落盤事故が発生した。33人の鉱夫が地下700㍍地点に閉じ込められ、事故発生から実に69日後の10月13日、無事全員地上への生還を果たしたのだ。
 この〝奇跡の救出劇〟には、日本を含む世界中から39カ国、計2500人もの報道陣が押し寄せ、全員生存が確認された8月下旬からは、救助作業の一挙手一投足を24時間生中継で伝えた。鉱夫たちの落ち着き、勇気、組織力、そして何よりも生きることへの執念、家族への愛情。そして、救助隊の人々の粘り強さ、英知。「逆境を勝利に変える力」は、未曾有の世界同時不況に喘ぐ世界に明るいニュースを与えた。私も連日テレビの前に釘付けで救出劇を見守り、拍手喝采を送った。
                   
そのチリの落盤事故から半年後の2011月3月11日、今度は東日本大震災と福島原発放射能漏れ事故が勃発した。
 事故の概要がわかるにつれて、原発事故を取り巻く状況がかつての炭鉱災害と驚くほど似ていることに私は愕然とした。
 ともに「エネルギー開発」という国策を最優先し、政府・経済界・学者がスクラムを組んで支配する構造。マスコミは事故の本質を見ず、「想定外」「不可抗力」「未曽有」との一言に騙され、「事実の報道」から逃げようとする。本来、支配者の「監視役」でなくてはならないマスコミの不勉強と調査報道への及び腰??。
かつて豊州炭鉱事故でもマスコミに「真実に迫ろう、それを国民にいち早く知らせよう」という姿勢は感じられなかった。そうした有様は、半世紀後の今日も変わっていない。そして今後も変わらないのではないか。国も報道機関も信じることができないのなら、一体我々国民は、何を信じればよいのであろうか。

4 参議院社会労働委員会の議事録
福岡県土木河川課からも20枚の写真データが届いた。独立行政法人新エネルギーからも資料が届き、災害の全体像が浮かびあがってきた。
続いて入手したのが、事故後25日の1960年10月15日に開催された参議院社会労働委員会の議事録である。
質問に立った
日本社会党の
小柳勇議員は
「現地ではかなり
前より自然発火
の事実があった。
隣接する田川市
では、市議会挙げて監督官庁に対して十分な保安対策を早急に講じるよう再三再四にわたり要請し、その危険性について警告を発し続けてきたにもかかわらず、適切な措置がついに講じられなかった」とし、国側の怠慢を糾弾している。
当局の説明によれば、豊州炭鉱事故の1年前(1959年9月19日)、現地で爆発事故があり、3戸15人が避難する騒ぎがあった。
その後も、井戸水が40度を超える、家屋が倒壊寸前となるといった鉱害が発生していたにもかかわらず、現地の通産局がガス漏れと炭層火災の報告を受けたのは9カ月近くも経った60年6月(事故の3カ月前)だった。
 同年8月、坑口から百数十㍍付近の坑内亀裂部分から一酸化炭素が検出されたため、通産局は鉱業権者(上田尊之助社長)に対して充填対策を講じるよう交渉した。しかし、炭鉱側は「現在の採掘現場は川から離れているし、古洞は盗掘によるもので我々としては関知しない」と応じない。

鉱山保安法上、盗掘による場合、消火命令を下すことは困難なのだ。それでも粘り強く行政側が協力を頼むと、最後は「しぶしぶ応じ、本抗付近の穴に泥をつめる応急措置をとった」という。
このような処置方法がいいのか問題が残る。石井画伯の作品にもあるように、ガス・水漏れの対応は、コンクリートで徹底して壁塗りをしないと、ガスや水の圧力で地下坑道壁を破る大惨事につながる。安全管理に金をかけたくない中小炭鉱経営者の本音がここにある。しかも当時、すでに会社側では、鉱山を閉山して国から交付金を得る計画を進めていた。

5 盗掘が引き金となった地下爆発
どうやら石炭の「盗掘」がキーポイントのようだ。その詳細が知りたい。国会図書館や福岡県立図書館や福岡県庁の河川課、田川市役所、川崎町に出向き、当時の新聞や雑誌、資料を片端から調べた。
週刊新潮1960年10月30日号に興味深い記事が載っていた。
盗掘の張本人、永井渡の独占インタビューである。
 インタビューの冒頭で、「67人の生命に賭けて申し開きをする」と声を震わせて弁明した永井は、「盗掘問題は(上田)清次郎さんが中に入って石炭監督部に陳情書を書いて、昭和28年1月にすでに済んだ問題。事情聴取と採掘図をとられ、穴も埋戻し始末書・罰金を支払っていて一切終わっている。その時取られた採掘図には、通産省も豊州炭鉱も戦争で焼いてしまったという古洞の地図が全部書かれている。おれの盗掘でとられた採掘図さえあれば(事前に保安対策が講じられて)今度のようなことは起きなかった」と訴えた。

一度密封された古洞を開いて、外気を古洞に入れることは極めて危険なことだ。〝眠っている〟石炭の自然発火を100%促進する。
彼は約1ヵ月間かけて、70㌧もの石炭を掘り出したのだ。外気を地下古洞全体に入れてしまった。大変な誤りを犯したのは事実だ。それなのに、「後で埋め戻したから自分には責任がない」とは言えないのだ。
その採炭方法についても大きな問題がある。地下坑道は真っ暗であるため、採掘作業には照明がいる。この灯りが何であったのか重要だ。
個人が鉱山用帽子型の充電式キャップランプ(エジソン)を入手するには高価すぎる。といって安いカンテラや蝋燭を灯しての作業は非常に危ない。ガソリンのあるところで花火をするのと同じことだ。
地下でタバコを吸うこともタブーだ。採炭でツルハシを使うことも摩擦熱を石炭層に与え、自然発火の原因になる。また、採炭が永井一人で行われたのか、もっと大勢だったのかも不明である。
また、永井の話によると、豊州炭鉱事故発生の1カ月前の9月20日、自宅横の畑から火柱が上がった。豊州炭鉱から鉱長がやって来て、坑口の扇風機を回したら火柱は消えたが、その穴に水を入れるだけで帰ったという。「テレビや新聞の人たちがかけつけたが、豊州の人がうまい具合にどこかに連れて行った。おかげで新聞にもテレビにも出ないで終わった」。その後、上田清次郎や米蔵(尊之助の父、上尊鉱業会長)から「会社も苦しい時だから協力してくれ」と言われ、爆発騒ぎに関しては、警察にも消防署にも通報しなかったという。
ところが、その後も田川市新庄地区のあちこちで地下爆発が相次いだ。地域住民は豊州炭鉱に対して防護策を求めたが、「お前らの家が倒れようが倒れまいが、豊州の知ったことではない」と突っぱねられ、そこで初めて市と消防署に届け出ることを決めたという。

「週刊新潮」の特集記事の中には、同炭鉱関係者の次のような談話も掲載されている。
「(炭鉱側は)事故災害の大きさに驚き責任逃れのために、古洞の存在を知らなかったようなことを言っているが、5年前の昭和30年6月ごろ、中元寺川の水が増水した時、今回と同じ場所で古洞の坑口から相当量浸水して落盤しそうになり、大きな空洞があることは知っていた。1年前から猛烈に自然発火していたこともわかっていた。その空洞内でガスが発生して煙が現場に流れ込み、ガスで倒れる者が出て作業できなくなった。会社では煙を消すことをしようとせず、(セメントで完全にふさぐ方法をとらずに)赤土でガス突出部分をぬり応急処置作業をした。坑内の安全に金を掛けられない、その結果どうなったか。煙(ガス)は、たまって行き場がなくなり、煙自身で吹き破るしかない。今度の事故は、その吹き上げたところが地下坑道の赤土粘土の閉鎖壁だったということ」
石炭の盗掘は違法になる。そこで、それまで採掘した70㌧の石炭について、示談と損

害金支払が永井譲と上田清次郎との間で行われた。
手打ち式だ。永井は、これで問題は解決済みだと思っていた。大災害の7年前のことだ。契約書がなくても豊州炭鉱との間で合意ができていた。だから、古洞災害・水害問題も炭鉱側の責任だと、永井は考えていた。

6 人命を無視した経営姿勢
地下火災について豊州炭鉱側は、大災害が起きる7年前にはすべて知っており、その
上で無視して来たさらに、地域住民に行政への「口止め」をした。もっと早く住民たちが勇気を持って立ち上がり、行政側も鉱山側に強く保安対策を指示していたなら、事故は未然に防げた公算が強いのだ。
百歩譲って、それでも出水が避けられなかったとしても、出水後の坑内の連絡体制さえ整っていたなら、鉱夫たちは67人のうち数人でも無事避難できたはずである。
通産省の事故調査書や参議院社会労働委員会の議事録などによると、9月20日午前0時ごろ、昇坑中の掘進夫が坑口から175㍍の位置の壁から水が噴出しているのを発見、担当係員に報告した。同係員は現場を確認した後、急いで昇坑し、上司の採鉱主任に報告した。採鉱主任は同15分ごろ、「大焼区域」と「芳之谷区域」の坑内詰所に退避指示の電話をしたが、大焼区域には通じなかった。そこで、坑内運搬夫に口頭連絡を指示し、同運搬夫は炭車で本線を下ったが、すでに途中まで浸水して先に進めず、連絡を断念したという。一方、芳之谷区域では「全員急ぎ昇坑せよ」との指示を各人が口頭伝達し合い昇坑したが、最下部の切羽までは連絡が徹底しなかったという。
 出水が確認された際、大焼区域はおそらく水が入って落盤したために電話線が切れたのであろう。しかし、芳之谷区域は完全に連絡がつきながら、25人の犠牲者が出た。

 社会労働委員会の事故調査によると、避難指示には「水異常」の連絡はなく、ただ「坑内が事故だから上がれ」という連絡だけだったという。保安教育もさることながら、実際に災害が起きた時にどうやって助けるか、その助け方さえも定められていなかったのである。
 〝九死に一生を得た〟坑夫から話を聞いたという同炭鉱関係者は、週刊新潮紙面で次のように告白している。「67人という犠牲者を出したことも決して不可抗力ではない。災害があってからでも、普通なら坑内を走って行ってでも『危険だからすぐ上がれ』というはず。川の水が古洞に一杯になって坑道をぶち破るまでに1時間ほどはあったのだから間に合ったはず。それを災害があってからでも、搾取にあくなき根性というか、『水非常だから上がれ』と連絡していない。『坑外が事故だから上がれ』という連絡だった」
 連絡を受けた坑夫たちは、皆命にかかわる事故とは知らずに避難した。伝達を受けてから、各人が仕事を始末して、道具の点検作業までしてから上がり、人道まで出てきたら水が押し寄せてきた。そこで初めて出水を知り、それから無我夢中で地上を目指したという。
 大手炭鉱においては、電話連絡が不能になった緊急時の連絡手段として、電灯を点滅させ、臭気を風で流出させるなどの対策を施していたが、豊州炭鉱にそのようなシステムはなかった。

事故発生の1年前から続いていた地下炭鉱爆発事故でのずさんな後始末。そして、安全よりも重視される仕事の効率。「人命を無視した」豊州炭鉱の経営姿勢は、参議院社会労働委員会でも槍玉に挙げられた。
 「保安監督官の命令を受けたから、いやいやながら上尊鉱業がセメント処置をした。あの山がすでに早くから整備事業団に売りに出ていて、事故後1年目の今年9月には政府が買い取ることが決まっていた。そういうことで、社長としても保安対策を渋ったのではないか、それが大災害の原因ではないか。使用者の方でもう少しお金をかけて日常的に対策・教育を立てていれば、事故は未然に防げたのではないか」

7 巨額な政府買上げが内定していた
 鉱山側はすでに炭鉱を売ることに決めていたから、保安対策に手を抜いていたのか?
 事実、豊州炭鉱は近く政府から買い上げられる手はずになっていた。今回、私が行った情報開示請求で、その実態が初めて判明した。
 石炭鉱業合理化事業団によると、同じ上田一族の上田米蔵が経営する東洋炭鉱は、1960年7月12日に約1億3千万円で買い上げられている。毎月600万円から700万円の赤字が続き、銀行からの借入金が1億円を超えていた豊州炭鉱も、災害月の11日前9月1日に政府の買い上げ枠に入り、同9日にその旨通知を受けていた。
 同事業団の担当者は、今回の出水事故による買い上げ審査への悪影響はほとんどない、とコメントしている。むしろ、離職者への離職金支給を考慮して買い上予定日が繰り上げる見込みだという。「いざ閉山となると労使間の話し合いが困難を極め、使用者側も相当犠牲を払わなければならないのが常だが、事故で山が立ち上がれなくなったということになると、問題は別。鉱害賠償を勝ち取ろうとする人たちの矛先もかわすことができる。鉱業主にとってはプラスの方が多い」というわけだ。鉱山会社は倒産・閉山した。そのために借金の支払いは一切ない、と言う。うまい図式だ。

 同炭鉱関係者は言う。「会社側はすでにやめようと思っていたから、ほったらかしにして、早くヤマを売ってしまうことばかり考えて、(保安対策に)手を打たなかったのではないか」。その根拠として、①本年7月に個人経営を株式会社組織にした(債務が経営者個人に及ばないため)。②昨年ごろから鉱員採用に当たって必ず臨時として試採用の形式をとった(退職金なしにクビにできる)③閉山する社の常だが、巻上げ機その他の施設を拡大している(炭鉱合理化臨時措置法によって政府に買い上げてもらう際、施設が大きいと埋蔵量をある程度大きく見せることができ、高く売れるので、政府買い上げを狙う炭鉱の常用手段であろう)と挙げている。
まさに「泥棒に追い銭」である。労働者の命を無視しても金儲けに走る守銭奴的姿が垣間見える。

8 守銭奴経営者による事故の連鎖
戦後最大規模の惨事を起こしながら、経営者側に〝当事者意識〟は非常に薄かった。いや全くなかったといってもよい。
 参議院社会労働委員会の小柳勇調査団代表は言う。「(事故後)上尊社長(上田尊之助)に会うと、自分の方が実は迷惑しているという。古洞が原因で水が入ったのだから、我々の方は被害者であるという感情にあるようだ。会社はもっと責任感が強いと思ったが、会ってみてもそれほどの責任感を我々は感じなかった」
清次郎も「週刊新潮」のインタビューの中で「事故の責任については、こっちには絶対責任はない。盗掘によるもの」と断言している。
こうした無責任な守銭奴的な経営は、さらなる重大事故を引き起すことになる。
豊州炭鉱事故からわずか半年後の1961年3月9日、今度は清次郎が社長を務める上田鉱業上清炭鉱(田川郡香春町)で坑内火災が発生する。一酸化炭素のガス中毒と窒息で亡くなった鉱夫の数は、豊州事故を上回る戦後最大の71人。火元はコンプレッサー室で、モーターの加熱と見られた。この時も坑内電話が故障で使えなかったり、消火活動の際に、水をくむバケツがなかったり、放水用のホースが短くて水が届かないという不手際が生じた。
事故発生の2週間前、福岡通産局鉱山保安監督部が同炭鉱を検査したばかりで、「異常なし」と報告していた。しかし、事故後の調べで、コンプレッサー室は木造で、鉄板やレンガで囲んでもおらず、ちょっと火が出ればすぐに炭壁に燃え移るようになっていたことが判明。しかも、火災現場の奥は200㍍にわたって人が通れるような排気坑道がなかった。加えて、高さ20㍍もの絶壁には、はしごもロープもなく、多くの鉱夫たちが逃げ場を失ったと見られる。
かなりずさんな「立ち入り検査」である。検査担当の管理課長補佐が事故後、責任を感じてのことだろうか、自殺するという不幸も起きた。
だが、同鉱山の上田慶三常務は同災害も「不可抗力」であったとコメントした。豊州炭坑で語った言葉の繰り返しだ。
さらに1963年12月13日には、豊州炭鉱と同じ上尊鉱業が所有する田川市東区の糒(ほしい)炭鉱の採炭現場でガス爆発があり、鉱夫10人が死亡した。地元紙である西日本新聞の報道によると、爆発直前に坑内には174人が入っていたが、大部分は危険を察知して昇坑、難を免れたという。入坑中の大部分の労働者が事故を予測できたということは、坑内にガスが充満していたことを意味しており、またしても保安が放置されていたといえる。
上田清次郎グループの3鉱山(豊州・上清・糒)で起きた事故で共通するのは、安全管理を無視した生産第一主義である。これが事実だ。

このような上田一族の「横暴」を許した国側も糾弾されてしかるべきである。後日、参議院社会労働委員会で問題視されたのは、炭鉱の管轄が労働省ではなく、通産省である点であった。社会党の小柳勇議員が叫んだ。
 「鉱山の災害については通産省に委託をしたような格好になっている。本来ならば、労働大臣が働く者の一切の問題を労働行政としてやるべき。労働基準監督署の監督権についても、監督官が実際炭鉱の現場をどの程度監督しているか非常にあやふや。中小企業の場合、違反をしているために監督を拒否する。その監督を拒否された場合、無理に入れない場合がある」
「場合によっては暴力によって拒否される場合もある。しかし、そういう違反を許している政治も悪いのではないか。通産省の意見を聞くと、まさに出炭第一、保安第二。そして非常に低賃金、しかも賃金欠配。あれだけの経営をしていて(月給は)炭坑夫40歳で1万2000円。通産省から取って労働省で解決しなかったら、労働者の安全は期しがたい」

9 政財界や黒社会とも通じた「圧制のヤマ」
筑豊地区の中小炭坑はほとんどが〝圧制のヤマ〟だった。過酷な労働に音を上げてケツワリ(脱走)を図った者には、「高松キナコ」(鉱夫に殴る蹴る等の暴行を加え、地面に横たえると泥が付くが、その色が黄粉に似ている)や「下がりグモ」(クモのように天井から逆さにして吊るすこと)などのリンチが待っていた。高松キナコの高松とは、遠賀郡水巻町にあった三好炭坑(日炭高松)のことだ。
捕まれば地獄のリンチが待っている。それでもなおケツワリをする。中小炭坑も大手炭坑も鉱山開発初期の頃は同様であった。
政府も労働組合も、そして遺族やマスコミまでも、上田一族への追及は及び腰だった。なぜか。それは清次郎が地元・中央政財界の「こわもて」だったことと無関係ではあるまい。
 「サンデー毎日」1961年3月26日号に、上田グループ炭鉱の評判が次のように記されている。
 「『一に豊州、二に泉水』と謳われる筑豊一の圧制ヤマ。暴力炭鉱でこれほどの大事故があった直後ともなれば、たとえどんな圧制ヤマでも、それまで抑えていた憤まんが爆発して、会社の悪口、保安サボの実情を吐き散らすのが例である。ところが、この上田一族経営のヤマでは事情は異なる。悲しみの涙にぬれながら誰一人として会社の悪口も言わなければ、保安サボの暴露もしない。わずか6カ月間に、同じ上田経営のヤマで、こんな大事故が、しかもこんなバカらしい原因による大事故が続発すると、上田鉱業の経営には何か特別な欠点があるのではないかと勘ぐられても無理はない。事故が起きた後でさえ、何一つ不満を訴えることができないという現実では、二度三度と、ますます悲惨な大事故を生むのも至極当然である」
こうした周囲の悪評に対しても、豊州炭鉱側は全く動じるところはない。「週刊新潮」1960年10月30日号の特集記事で、豊州炭坑の渡辺総務課長は「うちの経営の特徴はなんと言っても〝経営家族制度〟。会社が苦しい時は従業員も一緒に苦しみ、楽な時には一緒に楽な思いをできる。そういうわけですから、ストがいままでに一度もない」と自慢げに語っている。
だが、当時の週刊誌を調べて見ると同炭鉱の黒い評判が続々と出てくる。「週刊朝日」1
960年10月30日号では、「田川周辺で天皇といわれる上田一家は、鉱員の子供が入学の時には、運動靴やランドセルを買ってくれるという温情もあるそうだが、そういう義理と人情に、問題の本質が埋もれてしまっている。上田一家は、このあたりでひどくおそれられてもいる。暴力団との黒いうわさも流れている」
さらに、「ガスが出て仕事ができない」とサボる坑夫に対して、総務課社員が暴力的に仕事をさせたという理由で田川警察署に逮捕された、と読売新聞が報じている。まさに「炭鉱ヤクザ」である。
同炭鉱の古参坑夫は明かす。「地元では上田の家のことをあれこれ言うものはいない。清次郎は兵隊から帰った二十四か五の時、ヤマを譲り受けて、ほとんど無一文同様から事業を広げていった。うちは川崎町の農家だったらしいが、十七、八の時にはもう、荒くれ男の中にまじってビクともしなかったというのが清次郎さんの自慢話だ。昭和7、8年頃、川崎村・町長33歳でやったころから、町をおさえる力を持つようになり、戦争中から田川市近辺では、上田さんにさからったら暮らしていけんというようになった」
当の清次郎は「週刊新潮」でこう言い放っている。「経営法のツボを言うと、大手の炭鉱では1500円日給をやっていても不平を言う。ところが私のところは1000円で満足して働く。私は人間をまず〝欲〟の動物だと考える。私自身もそうだし、労働者もそうだ。大手会社みたいに、1500円なら1500円と決めてしまえば労働者は決して余計に働こうとしない。だから私のところは全部能率給。余計働けば子供に品物を買ってやれるし、女とも遊べる。そういうやり方なら労働者はついてくる。不況のときは率直に労働者に訴える。私と一心同体になって協力してくれというと、必ずついてくる。そりゃ中には協力しないやつもいるが、中心は私の下で長年働いてきた、いわば家の子郎党だから、その人たちがフッとやると、どんな共産党員だって感化されてしまう」
当時、石炭産業は斜陽化の一途をたどっていた。炭価が安くなってヤマは閉山する。しかし、行く先はやはりヤマしかない。40歳を過ぎて家族を抱えていまさら転職はできない。低賃金と悪い労働条件の中小炭鉱でも甘んじて世話になるしかないのだ。上田一族は、そんな鉱夫たちの弱みに付け込み、政財界や〝黒社会〟ともうまく付き合いながら私腹を肥やしていった。
この点に関して写真家・土門拳は疑問を持った。「暴動がおきてもおかしくない状況下にあるが皆沈黙している」。土門は写真集『筑豊のこどもたち』で疑問を投げかけた。
だが、本来、筑豊人はそんなにおとなしくも、馬鹿でもない。
歴史を紐解くと、筑豊地区では過去に二度権力に対する農民や労働者たちの暴動があった。明治6年6月16日、生活に苦しんだ貧しい農民・氏族30万人が明治政府と金貸しに反旗を翻した。この「筑前竹槍一揆」は、川崎町から始まって福岡全県を巻き込んだ(清水定一朗著「郷土村の形成と発展」)。
また、大正・米騒動の際には、添田町の蔵内炭鉱峰地鉱業で暴動があった。日本初の軍隊と炭鉱労働者との戦いだ。首謀者である故・大池杉松は、生前、私の取材に対して「圧制の経営者に対してギリギリの要求をしてきた。あれは暴動ではなく、労働運動だった」と涙目して語った。
ところが、その後、筑豊の炭坑は閉山が相次ぎ、物言えぬ抗夫たちが立ち上がることは二度となかった。
そして、このような従属関係が大災害の連鎖を生んでいくのである。

 豊州炭鉱事故についての私の結論とは
一、地下火災対策の遅れ
盗掘による地下火災と地盤崩壊・劣化があり、住民からの再三にわたる陳情があったが、それを軽視し、放置した国・会社の責任は重い。
二、人権を無視した鉱山側の日常保安対策
三、盗掘者による堤防崩壊の現象
四、降雨による中元寺川の増水
五、浸透破堤による堤防の劣化
 以上の5つの人的・自然要因が複雑に絡み合って事故は起きた。ゆえに、単純なる降雨による天災や「不可抗力」などでは決してない。明らかに「人災」・複合災害である。

10 ヒューマニストの炭鉱転がし
 私の手元には、2012年6月、情報公開請求によって「独立行政法人新エネルギー・産業技術総合開発機構」から入手した、上田一族の各炭鉱の買い上げ額と石炭鉱山整理促進交付金に関する、マル秘資料がでた。

東洋 約1・3億円  豊前 約2・1億円
上清 約4・6億円  糒 約5・1億円
飛島 約2・9億円 豊州 約0・93億円

 6炭鉱の総額で約16億6000万円にも上る。当時の筑豊町村の財政が年間約10億円である。国は「殺人経営者」に16億円ものの追い銭を支払った、ともいえる。
 この資料の中では、最も交付金額が高い糒炭鉱に素朴な疑問がわく。
上田グループの中で最も規模が小さい糒炭鉱が、なぜ二倍ものの5・1億円閉山交付金を得ているのだろうか。(機械設備を査定の終わった炭鉱より集め、交付金の査定額を高めたのではないか。週刊新潮記事にある)
豊州炭坑災害時、遺族が受け取った生活資金は、当面見舞金として1家族2万円、基本給として月額8000円、扶養家族1人当たり月額1500円(平均1万2000円)。他に学校補助金として、幼稚園児・小学生月額500円、中学生同800円、高校生同1100円、大学生同1500円。上田一族が得た巨万の富に比べれば、まさに〝雀の涙〟である。

上田清次郎一族は、圧制のヤマを食い物にした「炭鉱転がし」である。手品師、錬金術師といってもいいだろう。だが、地元では、大金を気前よく寄付する名士、ヒューマニストとして慕われているのだ。
 福岡市の日本赤十字九州国際看護大学に上田清次郎の弟・上田米蔵の胸像がある。アンリー・デュナンが赤十字の思想を考案して100年目にあたる1959年、米蔵が巨額の寄付を行ったことを顕彰して、同支部が設置したという。胸像の背面には、米蔵が何度も赤十字を支援したことが記されている。
日本赤十字九州国際看護大学のホームページには「米蔵翁は、生活に困っている退職者の支援を黙々と続けられていたとの記録がある。一世を風靡した炭鉱主の一族というイメージでは量れない、ヒューマニズムに満ちた家庭教育があったのだろう」と、最大級の賛辞が掲載されている。米蔵は、地元・川崎町の宮地神社にも1億円の寄付をしている。

一方では「暴力ヤマ」の経営者として恐れられ、他方では「ヒューマニスト」として慕われる。戦後日本の国策・石炭事業で、多くの炭坑労働者を生き埋めにした上田一族とは、何とも摩訶不思議な一族であった。

              

第四章 再び事故現場を歩く

1 坑夫たちの遺体を放置してはならない
坑夫たちの遺体はどこにあるのか。遺族関係者や地元出身者なら気になる問題だ。
半世紀も前の事故であったとしても、川崎町田川市内のどこかに眠っている、というだけで済ませることに私は納得がいかない。

「いまさら遺体を掘りおこしたところで、一体何の得があるのだ」と、友人らからよく言われる。
 しかし、自分の親・兄弟・夫が炭鉱災害で生き埋めの被害に遭ったとして、「不可抗力だから仕方がない」と政府や鉱山会社から説明されて、貴方たちは納得し、許せるだろうか。
しかも、地中に50年間も遺体を放置してきたことを人間として許せるのか。
東日本大震災では、地震・津波で未だ2668人もの行方不明者がいる。彼らの家族に向かって、「いつまで探してもむだです」と言えるだろうか。捜索をあきらめるということは、事故を風化させるのと同じだ。

チリ・サンホセ鉱山での落盤事故では、33人の鉱山労働者が69日後に奇跡的に救出された。そこに我々は、家族間の愛情、抗夫間の連帯の絆を見た。この救出劇を誰も批判せずに見守った。世界のマスコミは、彼らを英雄として讃えた。
私は亡くなった67人とは何の縁も関係もない。ただ、事故の事実を知りたい、真実を知りたいという一念だけだ。この世は損得勘定ばかりではない。一人の人間として災害の原因を調査して真実を探り、ご供養させていただきたい。

 遺体はどこに眠っているのか、正確には分らない。ただ、現在の先端技術を使い、地下300㍍の金属反応を調査していくことは可能だろう。まず坑道を見つけ、その先の採炭現場を捜す。そこに遺体がある可能性が大である。
芳之谷層にいた25人の遺体は、後藤寺バスセンター~白鳥工業団地の地下300メートルに眠っている。非常に浅いところだ。
ここは私が住民運動をした芳ヶ谷川の洪水の原因となった元三井鉱山のボタ山跡地だ。現在は白鳥工場団地となっている。私の住民運動と豊州炭鉱災害における中元寺川の洪水問題は、地下深く繋がっていたのだ。
ボタ山のあった昔、私は一度だけ、三井鉱山伊田斜坑から伊加利平原までの2㌔間、トロッコ電車に乗ったことがある。よほど嬉しかったのか、大人になるまでトロッコ電車の夢をよく見た。
つまり、遺体の上を電車で遊んでいたことになる。
残る42人の遺体は大焼層にある。豊州炭鉱の坑口から2・3キロの地区、池尻駅を越えて旧三井鉱山田川・伊加利立坑方面だ。

2  67人の遺体の上に眠る清次郎

2012年3月17日、再び川崎町内を歩く。気温15度。体調が悪く、実際の気温よりも熱く感じる。5kg程の取材鞄が重い
 ガンの手術から8カ月が経つ。当日も昼間4回も濃厚な血尿が続くが、頑張れる。

 田川後藤寺バスセンターから徒歩約12分のところに後藤寺不動院(田川市奈良)と願成寺がある。ここより丸山公園の住宅団地坂を歩き100メートルの所には上田家の墓がある。私の父母の墓参りのついでに立ち寄る。豊州炭鉱から約2キロ地点。地下には67人炭坑の遺体が広がる坑道の上だ。

 続いて10km先の川崎町役場に立ち寄った。
 同役場を訪れる人で、正面庭先にたたずむ胸像に気付き、関心を持って碑文を読む人は少ない。なぜなら、町民にとってはあまりに見慣れた風景だからだ。
2メートルを超える上田清次郎の銅像だ。町制20周年の1958年に制作された。初代町長として、また炭鉱経営者としても川崎町の発展に尽くした人物として、堂々とした風格が漂う。
上田清次郎は1951年の全国長者番付で一位になった。朝鮮戦争の石炭特需の賜物だ。全盛期、清次郎一族は豊州・豊前・上豊州・新豊州・東洋・糒・弁城の7炭鉱を経営。月産約12万トンの中小炭鉱であっても、その繁栄ぶりは、日本一の三井鉱山田川と肩を並べる程であった。炭鉱の下請け掘り業で巨額の利益を出していた。
町役場にある銅像は、町内全域を威厳に満ちてながめている。「ソロモンの王」の如き、我世の栄華を極めた男。石炭・ボーリング場・映画館・観光開発・ゴルフ場・競走馬馬主、等々。歴代の町長の中で清次郎を抜く大物は出ていない。裏に記された碑文は黒く汚れて判読不明だが、町誌に説明がある(句読点のみ付記)。
上田清次郎、昭和9年2月13日生まれ。第14代川崎村村長、在位9年間、33歳で町長になる。町長在任中、報酬は全額返上した。私財を再三に渡り惜しみなく町財政に寄贈した。
昭和20年8月15日終戦。21年3月衆議議員選挙に出馬した。戦争中公職にあったことで国会議員の公職追放を受ける。
 そのあとは炭坑経営をしていく。川崎町においては、昭和33年3月、町制施行20年記念に胸像建設が決まる。町誌には、筑豊最後の炭坑王に相応し、郷土の誇りとして広く人々に知れ渡った。博愛・人徳ある人として広く町民に生きた教訓として業績を褒め。たたえていく。
 銅像は柳原建(日本美術連盟理事)の作品。台座は高さ2・5㍍、御影石。

3 無名の英雄たち
私は町役場を出ると、中元寺川の川下「三ヶ瀬橋」近くの元豊州炭鉱坑口跡にやって来た。そこには67人の鉱夫たちの慰霊碑が立っている。その中に、自らの命を捨てでも仲間を助け出そうした英雄たちの名前もあった。

萩原勝、享年29歳。
1960年9月21日付の西日本新聞によると、萩原は被災当時、採炭見習い工として働いていた。9月20日は炭鉱の地上事務所にいた。水非常を聞き、大勢の仲間に知らせるために水のあふれる坑口に入った。自分の命がどうなるかを十分に理解しながらも、勇気をふりしぼった。
中元寺川の陥没騒ぎで、炭鉱事務所では芳之谷層と大焼層の仲間たちに連絡が取れないと大騒ぎをしていた時のことだ。
萩原勝は一刻を争う災害連絡を自らの身を挺して示したのだ。
このことを後で知った伯母の萩原妙子は、抗口に急行すると、「マサル、マサル」と叫び、地面をたたき、何時間も泣き続けた。周囲は悲しみと泣き声であふれた。
 仲間を救うために自らの命を投げ打った、このような若者もいたのだ。チリの鉱夫の全員救出劇も素晴らしいが、
53年前の豊州炭鉱の
彼らも素晴らしい。慰霊碑の管理人に
話を聞いた。彼によると、全国から年間約600人の献花人が訪れるという。
遺族や社会教育関係者、朝鮮人が中心という。中には私のように、その歴史を知って訪れる人もいる。管理人は会社を定年退職後、自宅が慰霊碑参道入り口にあるということから、仕事を引き受けているという。

今ではこのような自己犠牲の話は風化してしまい、地域の人すら知らない。川崎町の広報誌にも登場しない。まさに無名の英雄だ。

 1961年12月に発生した上田グループ・上清炭鉱でのガス爆発事故(71人死亡)でも、仲間の救助活動中に命を落とした者が
いる。
吉村国雄(享年42歳)である。
2人の同僚に大事を知らせるために、吉村はガスの充満する地獄の坑口に飛び込んだ。同僚らは無事救出されたが、吉村は遺体で運ばれた。今日、自己犠牲的精神で仲間を救うために自らの命を投げ出す人がどれだけ日本にいることか。
その様に言う私自身も災害現場に出会い友人ために死ねるか疑問だ。恐怖感で腰を抜かし動けないでいると思う。
世間では筑豊の川筋風土を「青春の門」 粗暴な人物像を抱くがここに炭坑労働者の川筋原型を見る
そんな彼ら炭鉱夫を讃える記念碑さえない。あるのは、会社側の都合のよい慰霊碑文であり、災害原因を天災に求め、「不可抗力」とする言い分である。私はどうしても、彼ら無名英雄である炭坑夫たちの行動を残し、命ある限り、熱く語り事実を公開して地元に伝えたい。

「水非常」はかつて全国の炭鉱どこにでもあった。遠賀郡水巻にあった日炭高松・東中鶴炭鉱でも1956年18人の炭坑夫の犠牲者が出る惨事があった。この事故で経営者の社長は、1年半をかけて自分の財産を投げ打ち、鉱夫らの遺体の回収に努めた。豊州炭鉱の上田清次郎一族と比較して、同じ炭鉱経営者であっても、その志には天地の差がある。

私は慰霊碑を後にして「芳の谷層」に向けて歩き出した。かつて豊州炭鉱があったあたりは、いまはのどかな水田風景が広がっている。この水田の直下に石炭層があり、地下坑道の3キロ先には救出を待つ遺体が埋まっている。
いま現場を歩きながら、僅かな風の音で「水非常を知った鉱夫達・家族・遺族の悲痛な叫び声を聞いた気持ちになった。」
助けてくれと言う悲鳴だ
画家・石井利明画伯が作品制作中に聞いた鉱夫の声と同じではないかと思った。
私の心に怒りと涙がこみ上げてきた。

4 永井渡の盗掘跡に立ち、想う
私はもう一つ重要な場所に立ち寄って来た。
それは永井渡の「盗掘」跡だ。今ではコンクリートで地下も地表も覆われており、中元寺川の水が堤防の浸透破壊する恐れもない。

「彼はなぜ石炭を盗掘したのだろうか」
今では穴や納屋もなく、更地となっている土地に立ち、しばし考えた。
当時の新聞報道によると、永井の稼業はシャモット(耐火レンガ)製造販売だった。
「盗掘」した70㌧もの石炭は、個人が消費するには多すぎる。また、転売というのも闇ルートが出来ていないと考えられない。
そこで私は、稼業のシャモット製造に注目した。当時、筑豊地域には多くのシャモット業者がおり、屋根瓦・タイル・レンガ等が高値で販売されていた。シャモット製造には多くの燃料が要る。しかも1200度という高温の焼き物だ。そこで石炭の出番となる。木材では高温が維持できないからだ。
自宅の庭先を少し掘れば、地下には石炭層が無尽蔵に広がっている。シャモットの製造原価がタダになる。多少の危険は覚悟の上だ。永井渡はこう思ったのではないか。石炭盗掘の動機を私は勝手に推測した。
永井家の地下には石炭層が広がっており、先祖代々掘り出して生活の糧にしてきた。明治時代に入って国の石炭の統制・法律が強化され、自由に採掘して販売することが禁止されたが、実際には、「盗掘」は日常的であり、生計を立てるために必要不可欠であった。
 いわば、他人の山に入ってキノコや材木、タケノコを採るように、永井家をはじめ田川市の新庄地域に暮らす人々は、石炭を堂々と採掘してきた。「盗掘」を行っていたのが永井家だけではないことは、中元寺川の流域一帯に狸穴が数多く存在することが証明している。私も幼い頃、よく石炭を掘って遊んだものだ。
明治末期から大正時代にかけて、中元寺川の河川改修事業が行われた記録がある。
また三ヶ瀬猫岩は、水量があるときには石炭の積み出し基地となっていた。
永井家とは目と鼻の先の場所だ。
永井家は豊州炭鉱が開設される以前から石炭を掘り続けてきた。「自宅の庭先や畑の下に眠る石炭は自分たちのものだ。自由に掘り、販売することは当然の権利だ」と思うのも、もっともである。水のない夏場には、中元寺川の川底に石炭層が見えていた。
最近でも田川郡香春町の金辺川の改修工事の際、川底から石炭塊が出てきた。この石炭は田川石炭記念博物館に寄贈されている。

豊州炭鉱事故から6年後の1966年、民法に「入会権」という法律ができた。永井渡の採掘は合法か違法か、また、上田清次郎との合意事項は民法上有効か否かについては、判断が分かれるところだろう。

永井渡による石炭盗掘と中元寺川底の古洞の存在、これらが大事故の引き金の一と、なったことは疑う余地がない。
いまも生々しく残る永井家の白いコンクリートの埋め跡。堤防・地下古洞の崩壊現場跡。
豊州炭鉱事故を取材する中で、地元住民らにいろいろ質問してきたが、いまや老人たちの古い記憶のみとなり、若い地元住民は事故のあらましを全く知らない。
今更寝た子を起こさないで欲しいと言う雰囲気もある。
今年12月6日秘密保全法が可決され情報公開の制限で再び豊州炭坑災害真相は黒闇の中に入る。「意識の風化」の荒波が容赦なく日本全国を覆い尽くしてくる。      
=終わり=
           

あとがき

私は本テーマを書くにあたり「一つの疑問」を掲げた。
それは、「100㍉の降雨は豪雨か大雨か、それとも普通の小雨か」であった。疑問を解こうと調べていく中で、次々と新たな疑問が湧いてきた。これらの疑問を一つ一つ乗り越えていく形で災害事故の真実を追いかけた。
本文中にも書いたが、遺体・遺骨探しは人権問題、人間の尊厳に関わる問題であり、本来、国や行政の仕事である。小さな町の炭鉱事故であるが、当時の石炭産業は日本の国策でもあった。

筑豊の炭坑災害の調査では、朝鮮人問題・被差別部落問題を避けては通れない。
朝鮮人の強制連行は、筑豊地域の炭坑では特に多く、15万人~17万人にものぼる。
一方、豊州炭鉱災害における犠牲者の大半は、被差別部落の出身者であったという。清水定一郎著「川崎町郷土のむらの形成と発展」に記されている。

私は今年、「3・11福島原発再稼働反対の霞ヶ関デモ」と「12・6秘密保全法反対デモ」に参加した。旧経済産業省の巨大な建物の下を歩きながら、昨年取材に訪れた時のことを思い出した。同省の石炭担当者は原子力安全保安院の担当でもあった。豊州炭坑災害と福島原発事故との意外なつながりを知り、私は驚いた。

半世紀以上経っても、国の政策とエネルギー会社が掲げる「生産第一主義」の経営方針は変わらない。信じがたいが、変化変貌したのは地域社会の住民側の意識の風化もあった。
地下には約2000人無慈悲死亡者者がいて十分な供養もせずに、ユネスコ文化賞の受賞祝賀会が堂々と続けられていた。
 私は「霞ヶ関デモ」の中で、様々な疑問を抱きながら、一切の風化を許さないと誓って歩いていた。        
              

       

【参考図書・資料】

石井利明著「画集炭鉱」、織井青吾著「方城非常」、宮田昭著「坂田九十百」、角銅立身著「男はたのしくたんこうたろう弁護士」、矢田政之著「最後の炭坑夫たち」、本田勝一著「ルポルタージュの方法」、九州工業大学情報工学部・筑豊写真ギャラリー、林えいだい著「筑豊米騒動」、 土門拳著「筑豊のこどもたち」、川崎町町史、 川崎町議会資料、川崎町図書館川崎町・川崎町教育委員会著「郷土の「むら」の形成と発展」、 田川市石炭歴史博物館「日本の石炭産業展」、メディア総合研究所「メディアは原子力をどう伝えたか」、柴野徹夫作「まんが原発列島」、安斎育郎著「福島原発事故」、高田昌幸・小黒純編著「権力VS・調査報道」、小林よしのり著「脱原発論」、犬飼憲著「三井三池・三川鉱 炭塵爆発の真相・真実」、
《新聞・雑誌参考資料》 朝日新聞・読売新聞・毎日新聞・西日本新聞・赤旗・週刊新潮・週刊朝日・サンデー毎日・週刊サンケイ他
《情報公開制度による15件の請求先と150枚の資料入手先》 経済産業省原子力保安院石炭室・豊州炭鉱災害記録、独立行政法人新エネルギー・上田清次郎一族の清算交付金一覧表、田川市役所・川崎町役場・福岡県土木課・中元寺川の古洞写真・図面等、防衛省広報記録(西部方面災害記録)、福岡県県警、建設省九州河川事務所

【著者経歴】
肥後義弘(65歳)  会社員
1947年福岡県田川市生まれ 九州国際大学法学部卒業
1997年雑誌週刊金曜日社主催の第1回ルポルタージュ大賞特ダネ賞受賞「アルミ片の恐怖、缶ビール・缶コーラ等の飲料公害」
元・明治大学 経営学部 非常勤講師
連絡先東京都在住

イラスト作家
    倉橋達治