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第19回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」優秀賞

『推 定 有 罪 すべてはここから始まった~ある痴漢えん罪事件の記録と記憶』

前川優

「無罪の推定」は刑事裁判の原則か?

 ボクたち家族は今、ほとんどどん底の生活を味わっている。二〇〇七年十一月二十九日に横浜市教育委員会から「免職にする」という辞令を受け、ボクの収入が途絶えることですっかり生活が変わってしまった。しかし、これはあくまでも経済的にであって、精神的にはこれまでに経験したことがないくらいの「家族らしい」家族生活を実感している、と言ったら悔し紛れに聞こえるだろうか。
 ボクが事件に巻き込まれたのは、二〇〇六年一月十五日。一九七七年から教壇に立って、間もなく三十年になろうとしていた。ボクは、社会科の教師として時には独自の手作り教材で授業をしたこともあるが、ほとんど教科書に沿って教えてきたし、ものごとを真っすぐに見て自分で考える大切さを生徒に伝えてきた。その教科書には、「疑わしきは被告人の利益に」とある。これは法治国家の大原則であり、誰もがこの「無罪の推定」の原則に従って裁判が進められているものと思っている。少なくともボクは、そう思っていた。
「われわれが論じているのは、人ひとりの生命にかかわる問題なんです。五分間で決められる事ではない、もしわれわれが間違っていたらどうなります」
「無罪を立証する必要はないのですよ。有罪が立証されるまでは、無罪なんですからね」
 シドニー・ルメット監督の名作映画『十二人の怒れる男』の一場面の台詞だが、「有罪が立証されるまでは無罪」という言葉こそが、十二人の陪審員にそれぞれの言い分の根拠を問い掛け、ついに全員一致で逆転無罪を評決するという劇的な結末に至るキーワードだった。この映画が、国を超えて観る者の胸を打った要因はここにあったのだろうと思う。
 では、日本の司法は、この原則通りに動いているのであろうか。二〇〇七年一月に封切られた周防正行監督の映画『それでもボクはやってない』は、痴漢冤罪事件の被告人となった青年を描き、『キネマ旬報』の第八十一回日本映画第一位を得た作品である。そこには「推定無罪」どころか「推定有罪」がまかり通るわが国の刑事裁判の現状が生々しく描かれていた。
 東京地裁のある公判で、ボクは偶然にも周防監督とお会いし、自分の事件のことを話す機会があった。監督は、「最初に『有罪ありき』という裁判での訴訟指揮が問題だが、それ以前に取り調べの段階から「犯人」扱いされる現状はもっと問われていいのではないか」と話してくれた。
 起訴されれば九十九・九%が有罪、という現実を、あなたはどう理解するだろうか。優秀な警察組織のなせる捜査の結果か、あるいは刑事裁判の鉄則である「推定無罪」が機能していないからと考えるのか。はたまた、他に理由を求めるのか。
 『裁判官はなぜ誤るのか』(岩波新書)の著者で元裁判官の秋山賢三弁護士は、「裁判官は公正な審理とか、公平な判断を意識しているのでしょうか」というボクの問い掛けに、「捜査機関は被害者の訴えを優先し、裁判官は彼らが作成した調書を優先する傾向にあるのだから、実際の裁判では推定無罪という刑事裁判の大原則も揺らいでいる」と言い、「『被害者』の訴えを鵜呑みにした調書を優先するのではなく、積極的に証拠採用し、きちんと証拠に基づいた審理をすれば、捜査機関の体質も確実に変わる」と答えてくれた。
 もう一人、『犬になれなかった裁判官』(NHK出版)の著者である元裁判官の安倍晴彦弁護士も、「『疑わしきは被告人の利益に』という原則が無視され、ほとんどが有罪判決になっている」と現状を批判し、自戒も込めて「多くの裁判官は事なかれ主義で官僚化している。裁判官だけに期待せず傍聴に駆け付けるなど、市民が司法に関心を持つことが必要」と言う。
 ボク自身、事件に巻き込まれ、逮捕され、起訴され、裁判にかけられるなかで、「推定有罪」の現実をいやというほど味わった。警察での取り調べでも、検察での聴取でも、裁判でもしかり。起訴有罪率九十九・九%という刑事裁判の異常な数値が、「推定有罪」の現実を如実に示し冤罪を生んでいるとは言えないだろうか。
 「推定有罪」は何も刑事司法の現場だけではなかった。最高裁で罰金刑が確定すると、教育委員会ではまともな調査も審理もないまま、ボクは教壇から追放された。ボクを「免職」にした横浜市教育委員会の姿勢も、ほとんど「推定有罪」だった。
「十人の真犯人を逃すとも、一人の無辜を罰するなかれ」
 これは、周防監督の映画『それでもボクはやってない』の冒頭、スクリーンに映し出される法格言だが、この言葉はもう日本ではどこかへ置き去りにされてしまっている。だから、もっともっと刑事裁判の原則がないがしろにされているわが国の司法の現状に目を向けてほしいし、「推定有罪」が当たり前のように蔓延る社会の現状を考えてほしい。
 ここでは紙面の制約上、事件から起訴までの経過の中にしか記述できないが、裁判員制度の導入を前にぜひ、実際に「推定有罪」の現実に身を置いたボクの悲痛な叫びに耳を傾けていただきたい。

事件

 二〇〇六年一月十五日、ボクはJR桜木町駅の三番線ホームのベンチで目覚めた。前夜は深酒をし、終電に乗り損ねた。日付けが変わって駅のシャッターが開くと同時に改札を入り、始発電車を待つ間に、ホームのベンチで寝入ってしまった。一月の風は冷たかったが、気がつくとやわらかな日差しが心地よかった。
 三番線に停車していた始発電車に乗り、時計を見ると針が十時半前を指していた。このまま帰れば、十一時過ぎには帰宅できる。女房と子どもに詫びる言葉を考えながらみなとみらいの観覧車に目をやると、小さなゴンドラがゆっくりと動いているのが見えた。
 電車が横浜と桜木町の中間くらいに差し掛かったころ、横浜に立ち寄って弁当を買おうという思いが頭を過った。百貨店の地下食品売り場には、アルバイトを始めたばかりの下の娘もいる。娘の顔を見て、シューマイ弁当を買って帰ろう。急きょ、横浜駅で下車した。
 百貨店の下りエスカレーターに乗る際に、カードや免許証が気になったのでバッグのチャックを開けて、それらが入っていることを確認してバッグを右手で持った。このことははっきりと記憶している。正月明けの日曜日の高島屋はかなり混雑していた。特にエスカレーターを降りた先の地下食品売り場の混雑は「すごい」、の一言だった。
 ここで、女性と肩が少し強くぶつかった。すぐに、別な客とも肩が触れた。普段だったら、「すみません」の一言が口をついたかもしれないし、「申し訳ない」という言葉になったかもしれない。でも、そのときは「なんだ、しっかり前を見て歩けよ」という少し乱暴な言葉が口を突きそうになった。
 手にしたバッグを左肩にかけ直し、そのまま通路を進んだが、特にすれ違った人間の記憶はない。一つ角を曲がったあたりで、突然、左手首を掴まれた。そして、いきなり「あんたでしょ、触ったでしょ」とすごい怒声を浴びせられた。後から分ったのだが、最初に女性とぶつかった地点からおよそ八メートル進んだところだった。
 すぐに振り返ったものの咄嗟のことで、「えっ…」と声を発するのがやっとだった。人だかりができ集中する視線に恐怖心を感じたが、「触ってなんかない、違う…」と絞り出すように答えた。頭の中にはアルバイト先の娘のことが浮かび、このままでは迷惑がかかるという思いがだんだん強くなっていた。何とかこの場を離れなければ、ということしか思い浮かばなかった。
 手首は固く掴まれたままだった。いつまでも放そうとしないので、思いっきり振りほどいてまっすぐに走り始めた。ボクは、夢中で逃げた。背中に怒声を感じながら必死に逃げた。娘の店を避けるように左へ左へと廻って逃げた。通行人を微妙にかわしながら逃げた。冷静だったつもりが、息はあがっていた。
 結局、百貨店を出たあたりでカード会社のアルバイトの男性に取り押さえられ、事務所に向かう途中で居合わせた二人の警察官に引き渡された。
「何、やったの」
 けっこうやさしい口調で警察官が聞いてきた。
「何もしてない」
 ボクが答えると、このやり取りに、取り押さえた男性が割って入る。
「痴漢らしいんです」
「そんなこと、やってない」と否定するが、「事情は交番で聞く」と言って交番に連行し、簡単な質問の後、すぐに本署にパトカーで送られた。

取り調べから逮捕へ

 本署では机が一つ置かれた狭い取り調べ室に入れられ、最初に所持品検査をされた。
「隠しているものがあったりしたら、後で大変なことになるよ」
若い巡査が、威嚇するように睨む。隠しているものなどあろうはずがないし、これではすでに犯人扱いではないか。免許証にキャッシュカード、現金、携帯電話、定時制関係の資料、それに美空ひばり展のパンフレットが一枚。これらが無造作に机に並べられたが、自由に触ることさえ許されなかった。
「しばらく待っていろ」という指示を守ったが、あまりに待たせるので、「帰してほしい」と言うと、「帰せる訳、ないだろう。自分が何をやったか考えてみろ」と、上目づかいに睨む。
 結局、一時間くらい経ってから事情聴取が始まった。
「痴漢なんかしてないし、被害にあったという女性に会わせてくれ」
 ボクは怒りを抑えるように、丁寧に懇願した。
「もう、被害届けが出てんだよ。早いとこ認めりゃあ、すぐ済むし、すぐに帰れるんだよ」
 冗談じゃない。ボクはすでに痴漢の犯人か、という思いが頭を廻るが、「やってないことはやってないし、その女性と話をさせてもらえれば分ると思うから、すぐに会わせてほしい」
 こう訴えるのが精一杯だったが、ボクのこのささやかで至極あたり前な申し出は、いとも簡単に却下された。このままでは、痴漢の犯人にされてしまうかもしれない。恐怖が現実のものとなっていくようで身体が小さく震えたことも記憶している。それでもきちんと話をすれば、痴漢などしていないということを分ってもらえるだろうと信じきっていた。結果から言えば、これが甘かった。「推定有罪」。調べは、ここから始まるということを理解していなかった。
 一通りの事情聴取を終えて、一時間くらい経っただろうか。以前から面識のあった岡田尚弁護士と連絡が着いた。ボクにはこの一時間が三時間にも、四時間にも感じられるほど長かった。
 この時点でのボクの身分について、岡田弁護士は次のように語る。
「逮捕されてないのですから、本来は部屋の外に出るのも、自宅へ帰るのも自由なのですが、実態は事実上、身柄拘束状態と等しいのです。その間に逮捕状を裁判所に請求し、逮捕状の交付を受けて執行します。執行によって、やっと身柄を拘束する権限が付与されるのです。従って『帰りたい』と明確に意思表明し、そこから立ち去ることが望ましいのです。警察がこれを拒否したら違法なのですが、ただ突然のことなので、そこまで出来る人は少ないでしょう」
 ここまでの経過を憲法に照らすとどうなるのだろうか。「被害者」に嫌疑をかけられただけで、証拠もなく、本人もまったく身に覚えもなく、否認しているのだから現行犯逮捕ではない。したがって、逮捕状未提示のままでの六時間に及ぶ拘禁は明らかに憲法第三十三条違反だろう。さらに、第三十四条の弁護人依頼権にも違反している。
 本来なら自由であるべき弁護士との接見も捜査の妨げになるとして、日時場所などの「接見指定」によって阻止される。まず弁護士と面接して相談した上で、事情聴取に応ずることさえ容易ではないのだ。ましてや、人権先進国で行われている弁護士立ち会いの供述など、夢物語でしかない。
 また、第三十七条二項の「証人審問権の保障」は、証人の供述がなされるのと同じ機会(調書供述時)に行使できなければ実効性はない。公判が始まってやっと認められる証人尋問での審問のチャンスなどは、伝聞証拠として禁止のはずの証人の「供述調書」をもって有罪認定する儀式にすぎない。「痴漢なんかしていないし、被害にあったという女性に合わせてくれ」という要求は、被告人の証人審問権として当然の権利のはずなのだが、いとも簡単に却下されてしまった。まったく納得のいかない取り調べだった。
 

ボクは逮捕された

 窓の外に目をやると、うっすらと赤みがかって夕暮れ時を迎えようとしていた。陽が落ちるのと重なるように不安が増幅していった。家族のことが気がかりだったが、思いを寄せれば寄せるほど、胸が締めつけられて息苦しさを覚えた。
「おいおい、先生。いい加減に認めたらどうなんだよ。被害届けが出てんだよ。ちょっと手が触れただけなんだろ。出来心で触っただけだよな。こんなの微罪だし、交通事故みたいなもんだよ。罰金払ったら終わりなんだよ」
 まったく、面倒くさそうな素振りで執拗に自白をせまる。根競べ、とでも言わんばかりに、入れ替わり立ち替わり狭い取調室に警察官がやってきて、ぶっきらぼうに、時には猫なで声で言葉を吐いた。いつからかは定かではないが、警察官に分ってもらおうとするのが間違いなのかもしれないという思いをいだき始めていた。警察官にものごとを理解させるのは、ゴキブリに言葉を教えるよりも難しいという思いが、何の脈絡もなくふっと頭に浮かんだ。
 先頃立て続けに起きた富山と鹿児島の冤罪事件で、最高検察庁が両事件での杜撰な捜査を認める異例の報告書を出したが、それだけ事態が深刻だということなのだろう。特に、両事件に共通する自白を誘導した取り調べについて、「予断をもって証拠を眺めるならば、証拠はその真の姿を明らかにすることはない」と報告書には書かれている。要は自白に頼るなと言っているのであり、取り調べの全面的な録音・録画などの「取り調べの可視化」は時代の要請と認めたのである。
 しかし、警察での「取調べの可視化」など実現するはずがない、とボクは確信的に考えている。なぜなら、彼らは取調室という密室の中での優位性だけで調べを進めているのであって、これが可視化などされたら、彼らの能力の程度や杜撰な取り調べがあからさまになってしまう。それにしても、なぜ事実を知ろうとしないのか。不安がだんだん怒りに変わってきた。とっぷりと陽が暮れてしまった。
「よーし、最後だ。今日、この署で一番偉い人が事情を聴くから、いい加減に認めるんだぞ」
 二人の警察官を従えて斉藤と名乗る副署長が入ってきた。
「否認してんだってな。どうだい、被害者二人が触られたって言ってんだから、いいかげん素直に認めようや」
 一見、風格を漂わせてはいるが、発言はまったく若い警察官と変わらない。
「やってないからやってないと言ってるだけで、きちんと調べてくれれば分るはずです」
 怒りで爆発しそうだったが、ここは冷静さを装うように言葉を選んで訴えた。
「まず、お前が認めることが先だろう。認めたら、調べてやるよ。どうなんだ、しゃべる気になったか」
「やってないんだから、触りましたなどとは言えません。どうか信じてくださいよ」
 何を言ってもだめだから、最後は懇願するしかなかった。誠心誠意、懇願した。一人だけでも、分ってほしかった。
「はい、否認!否認だ、否認。否認で決定」
 そんなに大きな声で叫ばなくても、というような大きな声をあげた。なぜか急に、騒然とした雰囲気になった。後から考えると、この時点で逮捕状が請求されたのだと思う。潮が引くように取調室周辺に静寂がもどった。一人になると極度の緊張からか、全身に気だるさが漂い、ぐったりと椅子の背にもたれかかった。少し前まではあれほど様々な思いが廻っていたのに、頭の中はほとんど空っぽになってしまい、思考力も低下していくのが分った。視線を空中に漂わせ、ちょっとウトウトしてしまったかもしれない。
 どれくらい時間が経ったのか記憶にないが、急に人の気配がして足音が響く。それも数人の足音が近づいてくる。
「逮捕!」
 ひと際大きな声が響いた。すぐに状況は呑み込めたが、呼吸が激しくなると同時に、身体が硬直していく。騒然とする中で、目の前に逮捕状が示された。これをしっかり見ろとでも言うように、若い警察官が手をいっぱいに広げて逮捕状を見せる。
「逮捕状を執行する!」
 再び大きな声が響く。まるで儀式だ。逮捕状を読み上げ、続いて上司に逮捕を報告する。ご丁寧に何時何分と時間まで入れる。間違いなくある種の興奮が、取り調べ室を中心とした空間に生み出されている。逮捕状が執行される時には、いつもこんなに熱い空気が流れるのだろうか。
 すぐに手錠をかけられ、腰縄がまかれた。この瞬間、自由を奪われた屈辱、人間としての尊厳を否定されるような屈辱感を味わった。手錠をかけられた姿を写真に撮られ、すべての指の指紋もしっかり録られた。
「やってないものは、やってない」
 なのになぜ、ここまでの屈辱を味わわねばならないのだろうか、という理不尽な思いで爆発寸前だった。しかし、屈辱はこれで終わりではなかった。

代用監獄最初の夜

 警察官に誘導されて、取調室から二十メートルも進まないうちに、小窓のついたけっこう頑丈な扉の前にたどり着く。この扉から先が、代用監獄と批判される留置場となり、扉を境に担当が変わる。しかし、これはあくまでも建前だけなのだ。
「お願いします」
 小窓を開けて警察官が叫ぶと、「了解」という言葉が返ってきて、静かに扉が開いた。
「進め」
 簡単な一言に促されて細い通路を進むと、目の前には鉄格子の部屋が現れた。
薄暗い空間だが、こっちを注視する人の気配だけははっきりと感じる。
「身体検査するから裸になれ」
 強烈な言葉にちょっと怯むが、パンツ一丁になって形ばかりの検査を受けた。「迷惑防止条例違反」でここまでやるのか。まぁ、見せしめと立場を自覚させることに主眼があるのだろうが、屈辱を味わうには十分だった。
「拘置所はもっとひどいぞ。パンツも脱がせて、すっぽんぽん。そして、ナニの検査までやるんだから、ここはまだいい方よ」
 留置場から拘置所へ移管経験のある人間は異口同音に拘置所の待遇の酷さを訴えるが、一度手錠を掛けられれば人権なんて制限されても仕方がない、とでも考えているのだろうか。所持品の預かり証を書き手続きが終わると、所定の房まで案内された。
「ここがお前が寝起きする所だ。お前は今から八番。いいな。八番って呼ばれたら、返事するんだぞ」
 なぜ、ボクが八番なのか。それは、一月初めからの留置者の順番で、ボクは、年明け八番目ということだった。二百番に近い被疑者がいたから、年間ではおよそ二百人がここに留置されたことになる。手錠が外された。四号と書かれた房の扉の上と下の二か所の鍵が開けられて、ゆっくりと扉が開いた。
「今日からこいつを頼むよ」
 担当さんが声を掛けた。ここでは、看守の警察官を「担当さん」と呼んでいた。三人の目が一斉にこちらを向き、その中では一番年長なのだろう、四十歳前後かと思われる男が、ボクを招き入れた。丁寧に挨拶すると、三人も簡単な自己紹介をした。
 房の広さは、六畳より少し広いくらい。ここで四人が寝起きするのだろうが、ほとんど雑魚寝状態に違いない。奥の一角にトイレがある以外は閑散としている。扉側の前面と後ろ側は細かい鉄格子で、両サイドは隣の房との境界の壁になっている。
「食事がとってあるから食べなよ。味噌汁はないし、冷えちゃったから美味くはないけど、腹減ってるでしょ」
 勧められるままに、弁当箱の蓋をとって箸をつけるが、ご飯もおかずもほとんど喉を通らなかった。冷めたご飯が不味いというのでも、おかずが気に入らないというのでもなかった。先が見えない不安と家族のことが心配で、空腹を満たすことなどどうでもよかった。弁護士が来たのは、逮捕から一時間以上経ってからだった。
「八番、弁護士接見だ」
 接見室のドアが開くと、岡田弁護士の顔があった。第一声は、身体は大丈夫か、だった。小さくうなずくと、全身から力が抜けていった。弁護士はボクの話をメモに取りながら、時々首を傾げ、腕を組んで考える仕草を見せる。アクリル板を通して聞こえる声は、聞き慣れたトーンよりも甲高く聞こえ、しかも一拍遅れで伝わってきた。こちらの声もストレートには伝わってないのだろうか。たった一枚のアクリル板が、途方もなく厚い存在のように思えてならなかった。
「きついよ。やっぱり、きつい」
 弁護士は自分に言い聞かせるように呟くが、これが結論だとは思いたくなかった。もっと前向きな話しをしてほしかった。がんばれ、と励ましてほしかった。俺に任せろ、と安心させてほしかった。
 期待はずれだった。しばらくは出られないかもしれないという言葉を聞いた時には、顔には出さなかったが、絶望感に近い思いが全身を支配した。そんな中で、家族のことと学校のことは心配するなと言われ、少し救われた。最後に、嘘をしゃべることはないと言ってボクの目を見た。不安が大きく解消することはなかったが、このひと言は大きな支えになった。
 四号房に戻ると蒲団が運ばれていた。やがて「消灯」と
いう声が場内に響き、すぐに明かりが半分に落とされた。
話し声が消えた。時々、見回りの靴音が響く以外は、外の
騒音だけになった。ボクはしばらく天井を眺めて、ゆっく
りと目を閉じた。こうして、振り返りたくもない一日が終
わった。

非日常の中の日常生活

 窓に薄日が差し、いつもと変わらぬ一日が始まる。ガシャン、という鉄の扉が開く低い音が響く。
「起床!」
 午前七時にこの声がかかると、九つの房に収容された二十六人が一斉に動き始める。薄い敷布団を三つ折りにし、その上に毛布を二枚重ねる。残り一枚の毛布は各自がきちんと畳み、四隅に置く。そして、房の鍵が開き、四人が一列になって寝具を収納庫へ運ぶ。
「遅れをとるな!」
 頭に突き刺さるような尖った声が飛ぶ。布団を運び終わると、房内の清掃にかかる。その後、洗面が終わると、八時から朝食が始まる。これほど不味い食い物を食べた記憶がない。昭和三十年代の初め、わが家も例外なく貧しかった。それでも、親が用意してくれる温かな食事には満足感があった。だから、ここでの二十五日間は、これまでのボクの人生で最低の食生活、といっても過言ではなかった。 
 「食事は不味いし、ひど過ぎる」と言うと、「だったら、こんなところに入るな」と怒鳴られた。これは、人権問題だろう。こんな言葉を吐いても問題とは思わない感覚が、すでに「推定有罪」が刷り込まれていることの証左であり、どんな教育を受けているのか、と問いたいくらいだった。
「ここを出たら、一番初めに何を食べる?」
「そうだな、寿司かな」
「肉もいいよな。分厚いステーキとかさ」
「イタリアンはどう? パスタも捨てがたいよね」
 こんな他愛もない話でも、心がなごみ顔がほころんだ。結局、外に出て一番初めに食べるものは、なんとカップラーメンに決まった。最終的には全員の意見が一致したが、ボク等は素朴な味に飢えているというのが分った。
 「はい、運動」
 十二時からの昼食後、しばらくするとこの声が掛って、運動の時間になる。運動といっても、外に出て走るわけではない。六人づつが順番に房外に出て、十畳ほどだろうか、猫のひたいほどのベランダでタバコを吸ったり、爪を切ったり、ひげを剃ったり、身体を伸ばしたり、と思い思いの方法で過ごす時間だった。それでも、ひとり十分程度。狭いベランダに担当さんが六人、被疑者が八人。ボクは何をするというでもなく、ひげを剃り軽く屈伸運動をして、高い壁に囲まれた空を眺めて、ただボケっとこの時間を過ごした。
 小さな雲が浮かんでいた。あの雲に乗ることが出来たら、何をしようか。くだらないことを考えていた。ボクからはあの雲は見えても、あの雲から僕は見えない。なんてちっぽけな存在なんだろう。今、突然消えても分らないかもしれない。誰も心配しないかもしれない。心配なんてされない方がいいし、気にかけてくれなくてもかまわない。どこまでも否定的になっていく自分がいた。それでも、自殺などということは考えなかった。
 運動から午後五時の夕食までが長かった。本も読み疲れたのか、みんな寝ていた。どんな夢を見ているのだろうか、穏やかな顔をしていた。
 新聞が回ってきた。毎日朝刊を見ることができたので、世間の動きは理解していた。横浜版に目をやると、事件欄の一部が黒塗りされていた。透かしても字が読み取れないように、ご丁寧にボールペンをこすりつけるように黒塗りされている。場内の被疑者に関係するニュースに違いなのだが、詳細はわからない。ここには、報道に関しては一切詮索しないという不文律があった。
 二〇〇六年一月十七日の新聞もそうだった。ボクの記事が出ていると思われる場所が黒塗りされていた。けっこう大きく扱われていてショックだったが、誰も問題にはしなかった。実名報道されたことは後から知ったが、こちらの方がショックは大きかった。無実を訴えているのになぜ実名報道しなければならないのか。納得がいかなかったが、これも「推定有罪」なればこそなのだろうと思う。

海よりも深い眠れぬ夜

 消灯になってもなかなか寝付けなかった。天井を見ると薄暗い明りが三つ点っている。毎日同じ明かりを見ているのに、今日の明かりはくすんで見えた。
 目を横に向けると、細かな鉄格子の向こうからさまざまな思いが画像とともに浮かんできた。
 事件の場面も現れた。消そうにも消えずに、ぼんやりとだがいつまでも画像が脳裏に残る。ほんとうに「被害者」がいるのだろうか。どんな「被害」を訴えたのだろうか。被害届けが出されたというのだから、「被害者」がいるのだろう。見えない「被害者」を恨み、憎み、自分を責めた。逮捕拘留から何日経っただろう。毎晩同じことの繰り返しで、こんな自分を否定する自分の声が聞こえるようになっていた。怖かった。夜が来るのが怖かった。
 ボクは逮捕されて留置場に収容され、ここで取り調べを受けているし、ここにいるほとんどの被疑者が同様な扱いを受けている。しかし、本来は送検された時点で拘置所に移管されなければならないのだと弁護士は言う。そして、いわゆる代用監獄問題を次のように指摘する。
 「『送検』ということは、事件を取り扱う主体が警察という地方自治体機関から、法務省という国の機関に変わることを意味します。ですから被疑者の身体の拘束も本来なら法務省が管轄する拘置所に移さなければなりません。しかし、現状は拘置所が収容不足ということを理由に、送検されてもそのまま警察署で留置することがほとんどです(東京地検特捜部が逮捕する政治家などは最初から拘置所ですが)。国の機関である拘置所や刑務所を元々『監獄』というのです。だから警察の留置所は『代用』監獄と称するのです。取り調べをする警察の留置場に被疑者が収容されていれば、警察はいつでも、何時間でも取り調べられ、『面倒見』というアメも嫌がらせや脅しのムチも可能となって、無実なのに自白させられたりして冤罪の温床となっているという問題点が指摘されています。『ダイヨウカンゴク』の廃止は、長い間の国民的課題であり、今では海外からも批判され、外国でも『ダイヨウカンゴク』のままで通用する位の問題となっています」
 理想はそうかもしれない。ここでの取り調べも、確かにひどいものがある。現実に鉄の扉を一枚開けたら、二十メートルも進まないところが取り調べ室だし、取調官と留置場の担当も明確な区別などない。現に、朝から夜遅くまで連続して取り調べを受けていたケースも目にしている。
 それでも、ここで聞いた話を総合すると、誰一人として拘置所に行きたいという被疑者はいなかったし、逆に拘置所だけには行きたくないという話をよく聞いた。
 留置場内は静まり返っている。前を通る国道十六号線の喧噪が、外界と完全に遮断された厚い壁をすり抜けるように入ってくる。車の騒音はもちろんのこと、パトカーや隣りの消防署の救急車のサイレンが、深夜や早朝を問うことなく容赦なく響く。隣りの房からは、大きないびきが聞こえる。いびきばかりか歯ぎしりあり、寝言ありで、外からの喧騒と相まって妙な音のハーモニーを奏でている。いきなり、大きな叫び声があがった。嫌な夢でも見てうなされているのだろうか。それともストレスの爆発か。隔離された状況の中で、先の見えない不安と強い圧迫感を味わっているのだから、ボクだって叫びに近い寝言を言わないとも限らない。
 コツコツコツ…、という乾いた足音が響く。小さな音がだんだん大きくなり、やがてボクの枕もとを過ぎていく。担当さんの見回りだった。だんだん寒さが増してきた。煎餅蒲団の上に毛布を敷き、その上に寝て毛布を二枚掛けただけだから、寒さが堪える。敷いてあった毛布を掛け直して三枚にしても寒い。小さく丸まって寒さを凌ぐが、首筋付近を流れる冷たい空気はどうすることもできなかった。ウトウトはしても、熟睡することはなかった。 
 昔のことが次から次へと浮かんできた。一つひとつの出来事をたどりながら、海よりも深い夜を彷徨う自分がいた。

勾留延長

 ボクは二十五日間の勾留中に警察で二回、検察庁で三回の取り調べを受けた。逮捕の翌日に警察での調べが午前中の二時間。その翌日に送検されて、検察庁で午前中に約四十分の取り調べを受けた。そして夕方、裁判所へ移動させられ「勾留尋問」が行われた。
 六畳ほどの個室に四角いテーブルがあり、正面に若い女性の裁判官が座り、両サイドにこちらも若い男性が座っていた。
「座りなさい。これから、あなたの勾留について尋問します。意見があれば聴きますから、後で述べなさい」
 正面の若い裁判官が、偉そうに、いやきっと偉いのだろう、勾留理由を読み上げた。
「以上について、言いたいことはありますか」
 あるある、あるに決まってる、という焦る思いを落ちつけるように一つ息を呑んだ。
「いいえ、私は言われるような痴漢行為はやっていません。そもそも右手にバッグを持っていたのだから、触ることなどできるはずがありません」
 事件当時の状況を説明した後、はっきりと一言ひとことを噛みしめるように言葉を吐いた。
「はい、否認するということですね」
 裁判官は、表情一つ変えることなく言葉を返した。そして、書類らしきものにポンとハンコを押して隣りの男性に渡した。十日間の勾留が決まった瞬間だった。
 あっけない。わずか五分足らずのやり取りで、勾留が決まるなんて納得できなかった。しかし、これが現実のようだ。元裁判官の安倍晴彦弁護士も、「裁判官による勾留審査など形式的なものになっている」と嘆き、「今ではほとんど検察の言いなり」と批判する。
 十日間の勾留の最後の日に、署での二度目の取り調べが午前九時半から始まった。
「そこへ座れ」
 狭い部屋の奥の椅子に座らされ、腰縄の先端が机の脚に繋がれた。手錠がやけにくい込んだ。担当さんによって加減というか、締まり具合が微妙に違って、今日は確実に穴一つ分きつかった。
「どうだ、しゃべる気になったか」
 二人の警察官のうちの若い方が言葉を切り出した。
「しゃべるって、全部しゃべったじゃないですか」
「じゃあ、もう一度ゆっくり聞こうじゃねえか。なあ、思い違いってこともあるからよう」
ボクはあの日のできごとをできる限り詳しく語った。と言っても同じことを話すしかなかったから、調べの警察官もうんざり、という顔で聞いていた。
「分るか、ぶつかったのと触ったのじゃあ、違うんだよ。『被害者』は触られたって言ってんだよ。いい加減に認めろよ」
「肩がぶつかったけど、触ってなんかない。第一、右手にバッグを持ってたんだから、触れるわけがないでしょ」
 堂々巡りの根競べだった。前夜の行動から事件までのことを四度も語らされ、さっきと違うだの、時間が合わないだの、と重箱の隅をつつくような質問で、ほとんど体力、というよりも気力が限界に達していた。
 「早く認めろ」とか、「帰りたくないのか」とか、「家族が心配してるだろ」とか、こんなやり取りが三時間も続いただろうか。年齢のいった警察官(東生活安全課長)がおもむろに立ち上がり、ボクを斜め上から鋭い眼光で睨んだ。
「なめんじゃねえよ。やったくせにやってねえとは、どういう量見だ。それでも教員かよ。おめえのしゃべることなんか生徒はまともに聞いてねえだろ」
 突然、切れた。これ以上ないほどの下品な言葉使いで罵詈雑言を浴びせられ、ほとんど人格まで否定された気分になった。
 そこまで言うか。ボクがどんな授業をやってるか今度見に来るといい。もっと、冷静に調べができないものなのか。机を叩かなくったて通じてるのに。こんなことを考えたが、口にはしなかった。涙があふれそうになった。警察官には品格などない。また一つ学んだ。
「よう先生、このまま裁判になったら、手錠掛けられて腰縄付きで法廷に出るんだぜ。卒業生だって生徒の親だって裁判を傍聴するだろ。おもしれえ裁判になるだろうな」
 こんな捨て台詞を最後に、この日の取り調べは終わった。そして、これ以後は一度も警察署での取り調べはなかったし、事件現場へ連行されて現場検証する「引き当て」もなかった。まったく、杜撰でいいかげんな取り調べだった。こうした取調べの傾向について、痴漢冤罪事件を多く手がけてきた鳥海準弁護士は次のように語る。
「現在、痴漢で逮捕されると刑法の強制ワイセツか迷惑防止条例違反に問われるのですが、とりわけ条例違反の法定刑と身柄拘束の不利益の大きさを考えると、あまりにもバランスを欠いた状態にあることが分ります。条例違反は軽微事件と言えますが、それでも起訴するまでは身柄を拘束するのですから、それによる不利益は小さくはありません。
 逮捕後に否認しても、最初の二、三日の間に取り調べが行われるだけで、その後はただ単に留め置かれるだけ、時間的な経過によって社会生活の崩壊を待つだけの状態に置かれるわけです。これを避けるには、自白して開放してもらうしかありません。
 ですから警察は無理をせず、強引なこともしません。せいぜい『認めれば数万円を払ってすぐに解放される。しかも、誰にも分らない』という程度の誘惑をするだけ。しかし、これが社会人にとっては、強烈なインパクトなのです。言わば、これまでの自白を迫るやり方とは明らかに違う自白の強要がここにはあるのです。
 捜査機関は合法的な手続きに従って身柄を拘束したに過ぎないのですから、当然のごとく任意性あり、となります。しかし、このような事態を放置すれば、冤罪の暗数は確実に増加するでしょう。このような事態にどう対処するのか、ということが問われているのです」
 結局、勾留二十三日目の夜に担当さんから起訴状を示され、「神奈川県迷惑防止条例違反」で起訴されたことを告げられた。
 志布志の選挙違反事件で晴れて無罪を勝ち取った谷田則雄元被告は、「何もないのに逮捕して、起訴までする。日本人を拉致した北朝鮮とどこが違うのか。これで有罪になるのなら日本はつぶれてしまう。こんな警察など、ないほうがいい」と憤るが、ボクにはこの思いがよくわかる。
 ボクも、追い詰められていく息苦しさを感じずにはいられなかったし、怒りで身体が震えたが、この怒りをぶつける場はどこにもなかった。

シャバの空気は美味かった

 二月八日(勾留二十五日目)の朝、一番に次女が面会に来た。
「お父さん、よかったね。出られるよ」
 満面に笑みを浮かべて第一声を放った。
「保釈されるってことなのか」
 ボクが訊ねると小さく頷いた。
 これでやっと解放されると思うと、涙があふれてきた。
「こんな最低の人間に監視されてるようなところとは、早くお別れした方がいいよ」
 次女は警察官の横柄な対応を心底怒っていた。確かにそうだ。留置場の被疑者に対してはほとんど犯罪者扱いだし、一人の人間としての扱いなど皆無だった。だから、面会に来る家族や知人に対しても犯罪者の関係者という思いがどこかにあり、横柄な対応になったとしても何の不思議もない。
 全部が全部というわけではないのだろうが、こんな差別的な人間たちとは、たとえ私生活でも付き合うのは御免だ。これがボクの、ここでの最終の結論だった。とりあえず出られる。出れば状況が変わるだろうし、事態が少しは好転するかもしれないという淡い期待をいだいた。
 この時点での保釈について、弁護士は次のように語る。
「本来保釈は一定要件(例えば、重い刑や、前科や、常習性やら)に該当しない限りこれを許さなければならない、とするのが法律の規定です。前川さんにはどの要件も該当せず、保釈を許さない理由は何もありません。しかし現状は、被疑者が「やっていない」と否認していると、これを要件の一つである「罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由がある」に結び付けて、保釈を許可しないことが多いのです。前川さんの場合も、保釈請求はご多分にもれず、その理由で最初却下されたのです
 この事件は目撃者もいないし、被害者の供述しか証拠はない。この時点で前川さんは、被害者とされている女性二人の名前も、住所も知りません。接触のしようがない。なのに「どうやって、何の罪状を隠滅する」のかと問いたいが、裁判官は何の説明もしない。こんな理不尽なことはありません。私は当然のことながら却下決定に対して不服申立(準抗告)をしました。今でも記憶に残っていますが、夜の八時か九時に私の携帯に裁判所からの『保釈却下の裁判を取り消して保証を許可する。保釈金は二百万円』との連絡が入り、ホッとしました」
 こうしてボクは、ようやくシャバの空気を吸うことができた。

ボクは真実が知りたい

 起訴状にあるような実行行為など断じてやってない。しかし、二十五日間にわたって勾留され、満足な調べもない(警察では半日単位で二日、検察庁では四十分ほどの調べが三日)まま起訴され、裁判にかけられた。結果は、一審では懲役刑。控訴審では、原判決が破棄されたものの罰金刑だった。そして、最高裁ではわずか二か月足らずで上告が棄却された。
 そして、ボクの行政処分が決定した。二〇〇七年十一月二十九日、「地方公務員法第二九条一項第一号及び第三号の規定により免職する」という辞令をもらった。
 ボクは、もう一度教壇に立つという思いを捨ててはいない。多くの支援者の思いも同じだろうと思う。弁護団もボクの職場復帰が実現するまで、継続して支援することを決定した。もちろん、家族とも今後のことを語り合った。
「お父さん、これですべてが終わりなの。もう、どうにもならないのかな」
 女房が、不安そうに言葉を掛けた。
「うん、厳しいしきついよ…」
 この後に、言葉が続かなかった。暗い雰囲気の中で話が進んだが、最後はせめて前を向いて生活していこうと確認した。子どもたちの心に負担をかけているのがわかり、ボクの胸は締めつけられて張り裂けそうだった。
 悔しくてやりきれない思いでいっぱいなのに、涙さえ出ない。辛い一日になったが、明日は少しはいい一日になるように、いやいい一日にするように生活しよう。せめてこう思うしかなかった。
 今振り返ってみると、警察や検察は判ろうとしなくとも裁判官なら判ってくれるとどこかで期待していた。が、甘かった。すべてが「推定有罪」から始まる現実など、想像すらしていなかった。犯罪の立証責任は無き(「被害者」供述だけで十分立件される)に等しく、被告人の側には疑いの余地がないほど無罪の証明が求められる現実を考えれば、起訴されれば九九・九%が有罪という驚くべき刑事裁判の実態だって、多くの冤罪が生み出されている現状だって納得できるだろう。
 現状の裁判には、刑事裁判の鉄則など無きに等しい。すべてが、「推定有罪」から始まるのだ。ボクは、これを嫌というほど体験した。
 だから裁判員制度の導入で、法律の専門家ではない人たちの感覚が裁判に反映されるという点には、大いに期待したいし、これで「疑わしきは被告人の利益に」や「十人の真犯人を逃がすとも、一人の無辜を罰するなかれ」という刑事裁判の原則に従った裁判が実現するかもしれない。
 しかし、裁判員制度の導入を前に考えてほしいことが一つある。自白しないと保釈が認められない「人質司法」や、検察が不都合な証拠や供述調書を隠して出さないという問題は、何も裁判員制度うんぬんの問題ではない。裁判官が検察ともたれ合うのをやめさえすれば、そして裁判官が普通の市民感覚を身につけさえすれば解決する問題なのだ。
 だから、改革されなければならないのは制度ではなく「心」なのかもしれない。まず、裁判官の意識改革を先行させてほしいというのが、実際に公判廷に立って裁判を体験したボクの切なる願いである。
 「推定有罪」は何も司法の現場だけではなかった。教育委員会も然り。もしかすると社会全体に漂う閉塞感や息苦しさは、この鵺(ぬえ)のように蔓延(はびこ)る「推定有罪」から派生しているのかもしれない。
 裁判は決着したが、裁判所は真相を見極めるのではなく、刑罰を決める所でしかなかった。ここでは裁判の模様は詳述できなかったが、一審の横浜地裁ではこちら側が申請した証拠や証人はほとんど不採用となり、証拠に基づく十分な審理などなされなかった。刑事訴訟法には「事実認定は証拠による」とうたわれているが、争われたのは供述の信用性だけだった。
 「被害者」の供述は信用できるが、「被告人」の供述は「被害者」のそれに反するので信用できないと結論付ける。ボクを犯人とする客観的な物的証拠はどこにあったのか。ボクは真実が知りたい。これがすべてで、これ以上でも以下でもない。
 市教委からは「免職」という厳しい処分が下され、ボクは職を失った。その上、免許法の規定により教員免許状の返還も求められるのだから、ほとんど教員としての存在を否定されたも同然だ。
 今、職のないボクは家族にも助けられている。女房が働き、二人の娘も就職が決まって社会へと旅立って行った。勉強嫌いだった上の娘は、短期と長期の留学を経験してひと回りもふた回りも大きくなったように感じる。英語がからっきし苦手なボクからすると、字幕なしに洋画が観られるというのは、ほとんど驚愕に近い。
 下の娘は、ボクの反対を押し切るように教職の道を選んだ。優しさと温かさだけでは教員は務まらないと、何度も何度も話して聞かせた。それでも初志貫徹で四月から教壇に立っている。口の悪い友人は、親父よりも娘の方が生徒のためだなどと言うが、最近ではそんな言葉も笑って聞けるようになった。一呼吸おいてものが考えられるようになったのだから、少し成長したということなのだろう。
 ボクたち家族は今、ほとんどどん底の生活を味わっている。しかし、これはあくまでも経済的にであって、精神的にはこれまでに経験したことがないくらいの「家族らしい」家族生活を実感している。この言葉は、悔し紛れに聞こえるだろうか。