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第25回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」佳作入選作

銀さん帰還せず ~タイ残留元日本兵の軌跡~

 安江俊明

序章

 敗戦の日が訪れるたびに、ある人のことを思い出す。その人の名は利田銀三郎(としだ ぎんざぶろう)さん。わたしは彼のことを親しみ込めて「銀さん」と呼んでいた。
初めて出会ったのは一九八六年(昭和六十一年)春、場所はタイ王国の首都バンコクにある日本人会の応接室だった。
銀さんは小柄で俊敏そうな体躯。白髪頭は短く刈り、肌は赤銅色で精悍な感じだった。わたしを見て、一瞬人懐っこい眼でほほ笑んだが、その眼は直ぐに鋭さを取り戻し、緊張が解けない様子で落ち着かない感じがした。
わたしは当時大阪にある民放の報道部に勤務していた。ある日、デスクから参考になるかも、と手渡された新聞記事の写真に、川で船を漕ぐお年寄りが写っていた。その人が銀さんだった。
銀さんは敗戦直後に捕虜収容所から仲間と脱走し、タイに残留した元日本兵で、戦友らが集まり、銀さんを一時帰国させようという計画を進めていた。
戦後生まれのわたしは、敗戦の日を迎える頃になると、大阪大空襲に関連した取材に出かけたり、学童疎開の体験をもとにした原作の映画化を取材したり、在日コリアンの戦争体験をルポしたりしていた。
大阪には銀さんの亡くなった実弟の家族が住んでいた。早速家族に会いに、現在の大阪市鶴見区にある中華料理店を訪ねた。
店では銀さんの義理の妹にあたる利田敬子さんと息子の朋靖さんが客待ちをしていた。わたしは訪問の目的を告げ、取材を申し込んだ。
敬子さんの顔が険しくなり、思わぬ言葉が返って来た。
「マスコミの人は自分らの都合のよい時にだけやって来て、約束したことも守らんと、用が済んだらハイさいならや。帰っておくれやす!」
 わたしは、どういうことなのか話してほしいと食い下がった。敬子さんはようやく重い口を開いた。
「兄さんが、昭和四十六年にテレビで放映された今村昌平監督のドキュメント番組に映ってはったんです。てっきり戦地で亡くならはったと思い込んでたから、主人とジャングルの川に浮んだ筏の上に兄さんを見つけた時、本当にびっくりしました」
 敬子さんの表情は、怒りに変わっていった。
「戦死したはずの元日本兵が数人生きていたことがわかって、ちょっとしたニュースになって、あんたのような記者さんが、ぎょうさんうちを訪ねて来はりました。兄さんの帰国の手助けをしましょうと言うてはったのに、記事が載ったらもうおしまい。あとは梨のつぶてやった。何であんなウソつかれなあかんのですか!」
 他のマスコミのせいで、取材が入り口で閉ざされるのは合点が行かなかった。わたしは説得を試みた。結果わたしなりの誠意を評価していただいたのか、とにかく取材をさせてもらうことになった。
 並行して、戦友会にも足を運んだ。近々代表がバンコクを訪れ、銀さんの一時帰国のための旅費の足しにと現金三十万円相当のドル紙幣と戦友からのカンパを日本人会で手渡すという計画が進んでいた。わたしもその場に参加したいと申し出た。
 収容所から脱走したら、戦友らから後ろ指をさされて、肩身の狭い思いをする場合が多いらしいが、銀さんの小学校時代の親友、波部卓美さんは次のように弁護した。
「銀ちゃんはタイで水上生活をしながら医療に携わり、ジャパニーズ・ドクターと呼ばれて貧しい人々のために活動していると聞いている。メナムの赤ひげ先生なんだから、何も恥ずべきことはない。胸を張って一時帰国すればよい」
 バンコク出発まで、もう余り日がない。早速取材の準備に入った。
 合間を見つけて、敬子さんと朋靖さんに会いに行った。家族が銀さんらをどのように迎えようとしているのか、タイでの取材の前に見ておきたかったからだ。
 朋靖さんが話した。
「四十三年ぶりにおじさんが日本に帰って来るんや。会いたいよなあ。血のつながっている家族やし。僕は二十七歳やけど、この歳まで会えなかった。それを埋め合わせるには、一週間では余りにも短すぎる。でも、たとえ短くても、そこでお互いに生まれる関係が、タイに帰っても、また会いたいという気持ちにつながればいいと思う。おじさんは入院してる名古屋のお姉さんにも会いたいやろし。寝たきりの状態で、認知症が進んでて、孫の顔もわからんらしい。でも、とりあえず会わしたらんとなあ。とにかくのんびりとさしてあげたい。環境の全然違うところに来て、しかも高齢やしね。銀三郎おじさんは遠慮深い人らしいが、本人の意思を尊重してあげたい。おじさんが帰って来ることで、うちの絆も強まるやろし」
朋靖さんは、時には怒りを堪(こら)え切れないように、語気を強めた。
「国の命令で戦争に行った人が行方不明になっている。でも、もし生きているのがわかったら、一時帰国でもしませんかと、国が声掛けるべきやろ。最低の旅費だけでも、国が出すべきや。おじさんは独身で出征した。もし結婚してたら、残された家族は一体どうなっていたことか」
 朋靖さんの目には光るものがあった。
「飛行機の中でおじさんは一体何を思って帰って来るのやろ。きっと、熱い思いがこみ上げて来るのやろなあ」
「そやなあ、本当に」
 敬子さんも涙ぐんだ。

第一章

 一九八六年(昭和六十一年)三月二十四日の夕刻、わたしは香港経由でバンコクのドン・ムアン国際空港に到着した。現地の気温は摂氏三十度。タラップに降り立った瞬間、サウナに入ったような刺激を覚えた。
ホテル行きのマイクロバスに乗り込む。ストリート沿いのビルの屋上にはタイに進出している日本企業のネオンサインが目立つ。数珠つなぎの日本車の列の間を無数の日本製バイクが間を埋め尽くし、喧騒を増幅させている。この国の経済は間違いなく日本と深い関係にあった。
 バスは一方通行をノロノロと進み、ホテルや宿泊所を回って、最後にわたしが泊まるホテルに到着した。初めての熱帯の地での緊張感から解放された部屋で、生まれて初めてコークを一気飲みし、恐ろしいほどの喉の渇きを癒した。

 翌日、タイ日本人会で銀さんに会う。その場にはタイ観光の合間に銀さんを訪ねて来た戦友の姿があった。
「いやあ、ほんまに元気でよかった。ほんでな、戦友会代表の岡田准尉が、君が誰に会いたいのかを聞いて来てくれということや」
「そら、みんなに会いたいですわ。戦友に」と、銀さん。
「戦友は准尉が集合かけたらすぐに集まって来るから。そうじゃなしに、戦友以外で誰に会いたいのか、具体的な名前を挙げてえな。だって、帰って来るのはたった十日ほどやろ。出来るだけたくさんの人に会わせたいと思ってるんで、調べて来てくれと言われてんのや」
「波部卓美。小学校の親友です。それから守道・・・・・・」
「ハベさんね。ふんふん。それとモリミチさん。はい。あっ、それから、君は誰と帰って来るつもりや?」
「娘で看護婦しているのがいるんで、おそらくはその娘と帰る」
「君は現地の奥さんもらったと聞いてる。准尉は是非奥さんも連れて帰って欲しいと言うてるんや。どんな人か見たいって」
「そら無理や」
「何でやねん?」
「言葉が出来ないでしょ」
「いや、言葉の問題は別にしてや。それから要点を言うと、あんたが帰って来るについて、今カンパやらで百万円ほどの金が集まってるねん。そのうち三十万をドルに替えて、今さっき、ここの事務局長の荒井さんに渡しておいたから、覚えといてな」
「へえ、それは、それは」
「その金を使って、帰国費の一部にしてな。だから安心して帰って来たらええねん」
 それでも、銀さんの心配は消えない。
「帰国して何処に泊るかなあ」
「そんなこと絶対に心配すな。戦友も皆君を泊めると言うてるから。ひとりのところに二泊ずつすりゃいい」
「結婚してね、子どもが七人出来て。今一番小さいのが中学生」
「子どもが七人? こら大変だあ!」
「だから金がなかなかたまらない。バンコクでたくさんの収入を稼ぐ人もいる。だけどね、田舎でね、貧乏な人相手に治療してても、金がたまる訳がない。そうでしょ?」
「そらね、誰もあんたが金持ちやなんて思ってないよ。お金と泊るところは絶対に心配いらんから、安心して帰って来なさい。わかったね」
「ありがとう、ありがとう」
もしも銀さんが脱走などせずに戦友と共に日本に帰還していたとしたら、ひょっとしてこの戦友のようにのんびりとタイ観光などして、老後の人生を送っていたかも知れない。  
そう想像すると、同じ人間でも放り込まれた環境によって、こんなにも人生が変わってしまうのかという想いに至る。
服装ひとつとってみても、戦後日本の物的な豊かさの恩恵を全く受けていない銀さんの地味で古い衣服と、戦友がはめている高級腕時計や身につけている仕立てのいいシャツやズボンをつい比較してしまう。
もっとも、果たして心はどちらが豊かなのか。銀さんの取材を通じてよりはっきりとその姿を現して来るような気がする。
荒井事務局長によると、銀さんらのパスポートは申請中で、四月初旬には取得できる見通しになっていた。
「それなら桜と一緒に帰って来たらどうや? 気候もええし。寒かったら厚着したらええねん。心配いらん」
 戦友が言った。
「そうですなあ。そうしますわ」
わたしは荒井さんに二人だけでお話を伺いたいと申し出た。銀さんと戦友を応接室に残して、荒井さんは別室で話し始めた。
「利田さんが前回日本人会に来られたのは、未帰還元日本兵の取材で利田さんと出会った国際報道カメラマン、三留(みとめ)理男さんの情報がキッカケでした。三留さんが利田さんの親友、波部さんに連絡し、利田さんが生存していることを伝えたんです。波部さんが、そのことを戦友らに伝えたところ、利田さんの一時帰国を実現させようという話になって、波部さんがそのことを手紙で利田さんに知らせました。今度は利田さんが驚いて、わたしに波部さん宛ての返事を書いてもらいたいという依頼がありました。返事の内容としては、余り日本に帰る気持ちがないこと。それに、金を出してもらって帰るのは気が進まない。何とか旅費ぐらいは自分の力で貯めた上で、貯まったら行ってみたいということでした。その内容をわたしが代筆して波部さんに送りました。その頃です。利田さんのことが日本のマスコミで騒がれていることを初めて知ったのは。それまでは年に三、四回来ておられましたけどね。最初は四年前です。それまでは音信不通の状態で、その時日本人会には会員の日本人が二千五、六百人いるとお話したら、驚いていました。ここで初めて日本の新聞をご覧になって、一日遅れで日本から新聞が届くと言ったら、びっくりされましたね。長年人前に出ると危ないと、身を隠して来られたでしょ。ほとぼりがさめてからも、家族を抱えて身動きが出来ない。まあ、日本人会に出て来る気持ちの余裕はなかったでしょう。多少収入が出来て、子どもも大きくなり、ようやく月に一回バンコクで物を仕入れるために、来られるようになった。その頃は、お金をしまうにしても、バンコクではスリも横行して危険だというので、懐の奥深くにお金をしまうところを決めておられましたね。とにかく警戒心は強かったです。緊張して、身の回りには気を配ってね。だからシャキッとされていました。でも、日本の状況がだんだんとわかって来て、気持ちが緩んだせいか、腰も痛いこともあって、気持ちの張りが崩れたという感じですね」
「もし帰国が実現するとしたら、どうお考えでしょうか」
「今更日本に帰って生活するのは厳しいと思います。まずもって、日本の寒さに耐えられないでしょう。タイは十二月のクリスマス前後が一番寒く、バンコクでは摂氏十三、四度になります。それでも利田さんはぶるってましたから。ましてや冬の日本では氷点下の気温さえある。我々がシャツ姿でも、利田さんは分厚いジャンパーを着込んでいましたからね。それにタイの人は板間に直か、あるいはゴザを敷いて寝るんです。固いところで寝るタイの生活に慣れたら、ふわふわしたところでは寝られないです。長年の生活習慣は、あのお年になったら、まず変えることはできないと思いますよ」
荒井さんにインタビューしながら、わたしは銀さんと今日このまま別れると、ひょっとしたらもう会えなくなるのではという危惧を抱き始めていた。
銀さんの家には電話など連絡方法が全くない。それに初めての土地で水上生活者の群れの中から銀さんの家を探すのは至難の業である。それなら、こちらでタクシーを用意し、銀さんと一緒にチャオ・プラヤ川支流にあるという彼の家までとにかく行ってしまうのが最も確実だ。
わたしは銀さんに日本人会で待つように頼み、一週間の予約を入れたホテルに戻り、当面不要な物は残して、取材用のテープレコーダーとマイクのセット、カセットテープに財布など、必要と思われる物だけを小分け用のバッグに詰め込んだ。
そのバッグを持ち、銀さんの案内でタクシーを走らせた。簡易アスファルト舗装の道を一路、タイの古都アユタヤに向かう。バンコクから北へ約百キロの道のりである。銀さんは川沿いにある高床式住居に妻と子どもと暮らしている。
途中、川を越えるために、タクシーごと小型フェリーに乗った。群生するニッパ椰子の葉脈に熱帯の陽光が降り注ぎ、思わずサングラスを掛けた。フェリーには近隣に住む人々が物資を運ぶ姿があった。
バンコクを出てから約二時間後、タクシーはチャオ・プラヤ川の支流にぶつかった。小さな船着場があり、男が二人モーターボートのそばで休んでいた。銀さんがタイ語で話しかけた。男らはやおら立ち上がり、ボートに乗った。
「タバコがあれば、彼らにやってください。船賃代わりですわ」
 銀さんがほほ笑んだ。タバコを三本ずつ手渡すと、男らは顔の表情を緩めて、ボートに乗るように手招いた。ボートは爆音をあたりに響かせながら、川を上り始めた。途中から、目の前に太い緑の帯が川面に現れた。
「銀さん、あれは何ですか?」
「ホテイアオイですわ。流れに乗って塊になって、あっちこっちと自由気ままに流れて行くんです。近くで見ると、でかいでしょう?」
 確かに日本で見るより、かなり大きなもので、川面を覆い尽くすように流れて来て、行く手を阻んでいる。モーターボートは爆音もろとも、まともに正面から群生の塊に突っ込んだ。途端にエンジンが切れ、ボートは巨大な浮き草の群れの真ん中に閉じ込められてしまった。
「しばらくやり過ごして抜け出すきっかけをつかみましょう」
 皺深い顔をほころばせながら、銀さんは頭を掻いた。
初めて会った時に見た、あの緊張した鋭い眼差しは消えていた。
 しばらくして、ホテイアオイの切れ目が現れた。ボートは間髪を入れずに、エンジンを始動させて、群生した浮き草の塊から逃れた。
 川沿いに高床式の民家が現れた。川は東南アジア特有の「泥の川」だ。半ズボンをはいた子どもが数人、茶褐色の流れに潜って遊んでいる。
「病気にならないんでしょうか?」
わたしが心配そうに尋ねた。
「すぐ腹を壊して、わしのところにやって来ます。この辺は下痢患者が一番多いんですよ。犬猫の死体やら川には色んな物が流れて来ます。上流の方で強盗団に襲われた一家が殺されて、首をはねられた死体がぷかぷか浮いて流れて来たこともある。トイレもそのまま川に流すから、大腸菌で一杯ですわ。でもね、ここではちゃんと糞(くそ)が出ます。バンコクに行ったら糞が出なくなる。バンコクの娘の家でも出ない。たまには北部のチェンマイにでも遊びにいけば、と言われるけど、なかなか行けない。何処に行っても、とにかくこの川に早く戻って来ようと思う。泥の川で毎日沐浴して、頭から水をかぶるんです。そうすれば、気持ちがスーッと落ち着きます。この川には深い馴染(なじ)みがありますわ。川の表面は温いけど、底はうんと冷たい。魚が尻をつついたり、足に喰らいついて来るんです。ぽっぽ、ぽっぽとね。蛭(ひる)も吸い付いてくるしね。吸い付いてくれた方が、味がある。ちょっとうるさいけど、これがここの常識ですわ。この川の生活にそれほど慣れ親しんでしまったということですな。ここに長い間暮らしているから、心の安定が保てるんです。町の中でそんな安心はどこにも得られません」
 そう言いながら、六十八歳の元日本兵は泥の川をじっと見つめた。その眼には深い安堵感があった。
わたしは初めてバンコクで銀さんと出会った時の、何処となく緊張が解けない眼を思い出していた。都会慣れしている者には決してわからないであろう銀さんなりの安心感を生み出すのが、泥川沿いの暮らしだったのだ。
しかし、そうなるまでには長い星霜が要った。
銀さんは一九一七年(大正六年)九月二十七日、大阪市北区角田町に生まれ、現在は新設校に統合された地元の済美(せいび)小学校の前身、済美第五高等小学校を卒業した。一九三七年(昭和十二年)母親の実家があった福井県の鯖江三十六連隊に二等兵として応召し、翌一九三八年(昭和十三年)大阪第八連隊に入隊した。
銀さんが応召した前年、すなわち一九三六年(昭和十一年)には、陸軍皇道派の影響を受けた青年将校が昭和維新断行を掲げて決起した二・二六事件が起きている。さらに銀さんが応召した一九三七年(昭和十二年)七月には、北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国国民革命軍との衝突事件が発生し、日中戦争の導火線となり、主戦場は中支(現在の華中すなわち中国中部)に移って行った。
銀さんは一九三九年(昭和十四年)中国大陸に陸軍衛生兵として出征。病のため、一度は日本に戻ったものの、一九四三年(昭和十八年)秋の臨時動員令で再び出征。今度はフィリピン、インドネシア、タイと転戦した。
二年前の一九四一年(昭和十六年)には日本軍による真珠湾奇襲攻撃があり、同時にマレイ半島侵攻作戦が行われ、戦域は太平洋へと拡大していた。
歩兵第八連隊第六中隊の戦友会である南方八六会のメモによれば、銀さんは第四師団歩兵第八連隊第六中隊の兵士として、昭和十八年九月二十六日、臨時動員令を受けた。
十月八日、広島の宇品港を出帆。ちょうど一カ月後の十一月八日、スマトラ島ベラワン湾に上陸し、同十二日パダンに到着した。任務は中部スマトラ、主にインド洋岸の警備であった。
昭和二十年二月五日、仏印(フランス領インドシナ)派遣のため東海岸州パカンバル港を出帆し、同月七日シンガポールに上陸。同月二十二日マレイ・タイ国境を通過し、三月六日バンコクに到着した。
同月九日タイ・仏印国境を通過し、日本軍がフランス軍を攻撃し、仏印を制圧した明号作戦に参加した後、同月三十一日にサイゴンを出発。四月十五日、タイのノンホワリンに到着し、警備の任務に就いた。
六月二十七日タイ北部に転進(退却)し、八月十四日敗戦を迎える。この後、日本兵は捕虜となり、南方八六会のメモによれば、十月五日、ナコンサワン収容所に収監され、十二月八日タイ駐屯の日本兵が全員捕虜としてナコンナヨーク集結地に連行された。
翌二十一年十月二十八日、一行はバンコクを離れ、シンガポールを経由して十一月二十七日佐世保港で故国日本の地を踏んだ。同月三十日復員完結と記されている。
ところが、復員者の中に銀さんの姿はなかった。銀さんは捕虜としてナコンサワン収容所の後に収容されたタイ・ビルマ国境中部サラブリ県の山間部にあったノンホイ収容所から脱走したからである。

   *

ボートは一軒の民家の軒先に着いた。銀さんの家である。わたしは日本人会の荒井さんの言葉を思い出していた。
「利田さんがタイ国籍を取ったのは、国籍がないと家や土地が取得できないからですね。正式に結婚せずに、同棲しているタイ人女性の名義で土地を所有することは出来ますので、そうしている人は結構居ます。ところが、利田さんは正式に結婚されて、結婚の証明書がある。そうなると、奥さんの名義で土地や家が買えない。本人がタイ国籍になるしかなかったんですね」
開け放した民家からこちらを見つめていたのは、その奥さんだった。
銀さんは奥さんにわたしを紹介し、二晩ほど泊めてあげてほしいと頼んでくれた。
「お世話になります」
 わたしはペコリとお辞儀をし、案内されるままに階段を上がった。
 奥さんが冷たい飲み物を出してくれた。その場で銀さんが奥さんについてプロフィールを紹介してくれた。
「うちのカカアはプラーパーという名で、中国系のタイ人です。知り合いが紹介してくれて一緒になりました。お金に対しては、とってもしまり屋です。結婚して、三十年。いくらか金が貯まっても、わしに酒を飲まさない。いや、わしが飲むと、そらご機嫌が悪くなる。独身の頃、わしはタバコをよく吸いました。歯が黄色くなるくらい。結婚してから止めてくれと言われました。タバコ代を節約しろって。タバコを買う金があるなら貯金しろって。服も節約して、雑巾になるまで着ろってね。そうして来たから、この家が買えたんです。良いカカアをもらったもんです。わし独りやったら、未だに家もないでしょ。お金を全部使っちまうから」
 何をしゃべったのかを奥さんが聞いて来た。銀さんがかいつまんで話すと、奥さんは嬉しそうに笑った。
「夫婦げんかをされることは?」
「ありますよ。そうなるとカカアの方が強い。まあ、わしがわずかな金を稼ぐから、ふだんは一応奉(たてまつ)るが、けんかをしたら負けや。ハハハハ」
 銀さんは奥さんとの間に七人の子どもを儲けた。女四人、男三人である。
次女のマリワンは看護師で、後に銀さんの一時帰国に付き添うことになる。銀さんが一時帰国した一九八六年(昭和六十一年)現在、長女のソンクリーンは二十七歳で大学の職員、マリワンは二十三歳、長男のソムブーンは二十五歳で銀行の警備員。次男はチャイヨス二十一歳。四女のジラワンが十六歳。最年少で三男のサッカリンが十三歳で、中学生だった。長女と長男それに三女のアンチャリー(十八歳)はバンコク在住である。
しばらく談笑してから、居間へと案内された。居間の隣には子ども部屋、その隣に診察室があった。医学書の棚と漢方薬の棚が隣同士にあった。
 銀さんが何故「メナムの赤ひげ」や「ジャパニーズ・ドクター」などと呼ばれるようになったのか。その夜直接伺った。
「元々、軍隊では補助衛生兵やった。戦争がいつの間にか終わって、敵軍に収容所に放り込まれて、これからどんな運命が待ち受けているのかわからず、不安な日々やった。日本は負けたんや! 日本に帰ってもええことが待っているはずがない! このままじゃ、日本に強制送還されてしまうかも知れん。そんならこちらで一旗上げようやないか。一旗上げてから日本に帰ればええ。そんな思いもあって、三人でポロポロしたんですわ。ポロポロというのは脱走することです。いったん逃げ出したら、日本兵ということを隠し通さなくちゃならん。兵隊服を中国服と交換して、中国人になりすましたこともあった。捕虜の脱走を英国兵やインド兵が放免するはずがない。カムフラージュしてうまく逃げました。歩いて、歩いて。マンゴーかじって。ちょうどマンゴーの季節でした。逃げ回るうちに、三人一緒に行動するのは目立ち過ぎるから、単独行動にしようということになり、わしは他の二人と別れました。行くあてがあったわけやないが、とにかく食っていかなあかん。そんな孤独な逃亡の中でわしが行き着いたのはタイのお寺やったんです。こっちのお坊さんは日本人のわたしに親しくしてくれました」
 銀さんは当時を懐かしく思い出す表情を見せた。
「お寺で漢方の勉強をしました。境内に生えてる草木の名前を覚えて、その草木がどんな症状に効くのかなどを勉強したんです。そうすることでわしは生き延びることが出来ました。お寺の周辺で祭りがあると、刃傷沙汰(にんじょうざた)がありました。手術といっても麻酔があるわけやなし。痛い! 痛い! と叫ぶ患者をそのまま切開したりもしましたわ。切開せんと、治療が出来なかったから。頭を切られた患者、手を切られた患者。朝から晩までいっぱい来ました。傷を縫ってくれってね。最初は糸針。きれいに磨いて、焼いて、曲げて。それからヨウチン。ピンセットもないから、手で縫ったわけですよ。針もやっぱり縫い針でないとだめですよ。一緒に逃げた同じ衛生兵のN君が医者になっていて、くれたんですよ。針から、糸から、包帯から、薬から全部」
「それで今もお医者さんを・・・・・・」
「そうです。昔は川の上流の遠いところまでよく往診に行ったもんです。真夜中にドンドン戸をたたかれて飛び起きる。家族に病人が出たと言って、わしを船で迎えに来るんです。往診のカバンを持って、真っ暗な川を上って行く。別の日にはバンコクの方まで何十キロと下って、二日がかりで船で往復したりしました。漕ぎ手を雇ってね。そんなことは日常でした。昔は元気やったから。リンゲルとか漢方を背負って出かけました。もう今はとても無理。そんなことをしたらいっぺんにへたってしまう。最近は川に沿って自動車道も出来たが、この辺は歩いて行かんとたどり着けないところが多い。沼地を歩くと、蛭(ひる)が吸い付いて来る。日本の蛭みたいに小さいやつじゃない。ここのは、とっても大きいですわ。それが何匹も吸い付いて来る。手でとろうとしても、取れない。こんな時にはタイ原産の草でよく効くのがある。草を水に溶かして、すり込むと血がいっぺんに止まる。強力な止血作用があるんですな。沼地や水の中を歩いていると、貧血で眼や頭がくらくらして来る時がある。へその下のほうがかゆい。触ってみると、睾丸(こうがん)に蛭が吸い付いて、血だらけになってた。それで貧血が起こったんですわ。こんな時にもこの草が役立ちます。田んぼの水牛にも蛭が吸い付いて、牛が血だらけになる。そんな時もこの草を塗ってやると、すぐに蛭が縮んで簡単に取れる。蛭に対しても強いが、止血にもよく効くというもんです」
 都会に住む人間からすれば、銀さんの蛭に対する治療の話を聞いただけで、虫唾(むしず)が走るだろう。でも、銀さんはその蛭さえも自分にとって慣れ親しんだものとして捉えている。人間の心のあり方というものは、左様に捉えがたくもあり、自由でもあるのだろう。さすがに銀さん。医療の話を始めたら、なかなか止まらない。
「この辺で一番多いのは下痢患者。それから感冒。この辺には風土病があって、全身の毛細血管から血が噴出すんです。蚊に咬まれてね。マラリアとは違いますが、ここらへんの伝染病です。夜になったらこの辺は蚊だらけです。蚊に咬まれて体の調子がおかしくなって、子どもも大人もわしのところにやって来る。原生のタイの薬草でよく効くのがあるんです。五年ほどで何百人と治療しました。よく効く薬草を何とかして日本の製薬会社に売ろうかと考えたこともあります。ガンや止血によい薬草なんかをね。しかし、日本でわしのことを赤ひげ先生なんていうのは何故ですかね。赤ちゅうのは共産党のことでしょ? どうして赤ひげなのか」
「銀さんのように、貧しい人々を無償で治療する医師のことを、そう言うんですよ」
 わたしの説明に、銀さんはほほ笑んだ。
「ここの患者には本当に貧乏な人が多いんです。借金に追い回されている人からはなかなか治療代は取れないです。金のない人から取るのは日本人としての道義が許しません。日本人である以上は高利貸しのような気持ちにはなれませんわ。タイの病院は治療代が高い。ここでもらうのはわずか。そんな調子だから、患者はわしを拝んでくれます。そういう患者は信用できます。金持ちは拝もうとしません。ここにいる以上はタイ人の味方になってね。わしも後、命も何年もないから、日本人として、タイ人に良い感情を残しておく。それでいいんです。あの日本人のお医者さんは良かった、と言われるように、後から来る日本人がタイ人から良く思われたらそれでいいんです」
 奥さんが隣の部屋から顔を出し、銀さんに声をかけた。
「ああ、患者さんがやって来たんですわ」
 赤ん坊の泣き声がだんだんと近付いて来た。見ると、子どもを抱いた母親が銀さんの手招きで前に進み出た。銀さんはタイ語で母親から赤ん坊の容体を聞き出し、熱を測った。知らない指で腕をとられた赤ん坊は、何をされるのかと泣きじゃくったが、銀さんは目を細めて話しかけていた。薬棚から粉末状の薬草を取り出し、量を計って金壺の中に入れ、すりこぎでさらに細かく砕いた。心配そうな表情の母親に薬を手渡し、服用の説明をしてから、もう一度赤ん坊にやさしく声をかけて、親子を送り出した。
「数年前から部落ごとに診療所が出来ました。だから、わしの存在も昔のように必要なくなって来たんです。そろそろ商売替えしてもいいんですよ。タイの薬草集めて日本に売ったり、製薬会社に持って行ってガンや喘息に効く成分を抽出して、試験してもらったりしてね。原生の薬草だから、化学成分の薬より、ずっと安く薬が作れる。売れたら世界中に売ってね。診療の方は娘のマリワンに任そうかと思っています。近くの病院で看護婦をしてますが、産婆もうまいし。お父さんは目が悪くなったから、診療をやめて安楽に暮して欲しいと言ってくれるんでね」
 マリワンが勤める病院を訪ねた時、彼女が日本に留学したいという希望を持っているのを知った。今度日本にマリワンを連れて行くのは、彼女を留学させようという気持ちが働いているのかを尋ねてみた。
 銀さんは否定的であった。
「日本の学校は授業料が高いでしょう。タイなら、政府系の学校は学びながら月給をくれます。日本の留学費用なんて、誰が出してくれるんですか。とても出せませんし、無理です」
わたしは銀さんから余計なお世話だと思われるのを覚悟の上で、敢えて進言してみた。
「日本に留学すれば、一体どのくらいかかるのかを一応調べてみたら如何でしょう。折角彼女は留学したいと思っているのだし、今回二人で日本に行かれる訳ですから。何といっても大阪には弟さんの家族がおられるわけですからね。随分精神的には違うと思いますよ」
 銀さんはマリワンについてそれ以上何も言わなかったが、まだ学校に通っている子どもについて次のように話した。
「将来はしっかりとした職業に就いてもらいたいと思います。腕に技術をつけて欲しい。そのために男の子は電気の専門学校に行かせています。女の子には、そこまで期待は持っていません」

第二章

 翌日、銀さんがアユタヤを案内したいと言い出した。わたしは昨夜ピックアップを頼んでいたタクシーが待つ水辺まで取材の機材を持って銀さんと出かけた。
「この辺は腹を空かせた野犬の群れが人を襲うし、毒蛇もいるから草むらを歩くときは十分気をつけてください」
 銀さんの口から出る言葉にはいちいち驚かされる。でもそれは本当なんだろう。
 アユタヤには一三五一年、王朝の都が創られ、一七六七年ビルマの軍隊に滅ぼされるまで四百年余り王朝の中心地だったところだ。現代に当時の面影を伝える王朝の遺跡は今公園として整備されているが、遺跡の中を歩くと、ビルマに破壊されたままの姿で保存されていた。
「象に乗ったビルマ軍が侵入して、王宮に火を放った。その後王朝の宝がたくさん持ち去られた。瑪瑙(めのう)なんかが、いっぱいね。破壊された仏像とか、遺物は博物館にも保管されています」
アユタヤにはかつて日本人町があり、在タイ日本人の指導者、山田長政が王朝に仕えたことで有名なところだ。現地にあった日本人町跡の碑文によれば、最盛期には約八千人の日本人が暮らしていたという。
 銀さんは川沿いにある店に案内してくれた。わたしは店のノートに観光客の名前と住所を見つけた。
「日本人の観光客が来ていますよ。ほら、京都とか大阪とか」
 昔は交易のためにやって来た日本人が、今では観光客として訪れる。
このお店、土産物のタイ生地を売る店舗だが、当時は捕虜収容所から脱走した銀さんら三人の日本兵が先代に一時かくまわれたところだそうだ。歴代、山田長政を祭っていた山田神社の堂守をしていた家系だったという。
銀さんらが居た頃は、バンコク行きの船が何艘も発着し、活気があったそうだが、今は船の姿も少なく、時にモーター船が行き来する程度で、昼間でも船着き場周辺はひっそりとしている。唯一姿を見せたのは托鉢の僧だった。
「この辺の坊さんは船に乗って托鉢をします」
 銀さんは財布から小銭を出して僧に差し出した。
 近所の住民は銀さんと顔なじみ。わたしと銀さんが何処で知り合ったのかと聞いて来た。わたしが日本人と知り、残念ながら日本語はしゃべれないと笑った。
当時銀さんらは脱走日本兵と見抜かれるのが恐ろしく、半年ほどは誰とも話さなかったという。日本語を話せば、通報されて捕まってしまう。中国服をまとい、帽子を目深にかぶって目立たないようにするのだ。その後遺症からなのか、その後全く日本語を話さなくなった元日本兵もいる。
 そう言えば、銀さんもこんな話をしていた。
「子どもが小さい頃、今度日本に連れて行く娘のマリワンにも、他の子にも、日本語を教えませんでした。子どもが日本語を話して、もしも万にひとつでも何かあったらと心配でしたから」
 日本人であるのを隠して、決死の逃亡生活を続けた銀さんならではの、子どもに対する思いやりでもあったのだろうと思った。
日本人会の荒井さんは、この点次のように話していた。
「最初日本人会に来られた時も、はっきりとした日本語でお話になっていましたね。一緒にキャンプから脱走したNさんとは全然違いますねえ、と利田さんと話していたんです。Nさんはこちらが日本語で話しかけても、タイ語で返して来ましたからね。利田さんは日本人会に来られた時も、日本の新聞や雑誌などは全然読んだことがないし、日本人とも接触が無かったと言っていました。なのに、よく日本語を忘れなかったなあと感心しましたね」
 タクシーを停めて、銀さんと川沿いの林の中を歩くことになった。わたしに見せたいところがあるらしい。それはかつて山田長政の神霊が祠に祭られていた山田神社だった。祠はその後泥棒に持って行かれ、野ざらしになっていた神霊を、銀さんは何処に行くにも肌身離さず持ち歩いていたという。日本で亡くなった両親の手製の位牌とともに、毎日ご飯、お茶、果物を供え、拝む度に「金がたまったら、祭りをして山田神社に神霊をお返しします」と口ずさむのが日課となった。
「山田長政は、貧乏なわしのせいで幸せだと思います。神社に観光客が訪れても、満足に手を合わす人もいません。ただ、見て素通りして行ってしまうだけ。果物とかのお供えも何もない。それでは山田長政がかわいそうです」
懐かしくも、苦しくもある昔のことを思い出し、想いがあふれ出て来たせいか、銀さんはある戦場での体験を話してくれた。
「良心にとがめることがありました。未だに自分のことを責める気持ちになります。あれは中国戦線で夜明けの戦があった時のことです。わしは他の兵隊と斥候に出ていました。目の前で民間人の朝市が賑わっていました。朝市が行われている手前に、共産軍の兵隊の姿がありました。われわれに気付いた共産軍は住民を楯にして、朝市の人ごみのなかに紛れ込んで行きました。われわれは銃を構えて、朝市の人だかりに少しずつ近付いて行きました。いきなり共産軍が発砲して来たんです。われわれも撃ち返しました。銃撃戦となり、住民らが逃げまどい、あたりは修羅場と化しました。わしも共産軍を狙って何発か撃ち込みました。撃った瞬間、手ごたえがありました。でも、倒れたのは共産軍ではなかった。女の人です。五十歳くらいの。わしの撃った弾に当たったと思います。ボーンと狙い撃ちした時に、婦人が倒れましたから。銃撃戦で住民が何人も殺され、うめき声を上げていたけれど、とにかく自分が撃ったという感情のある人はその婦人だけですわ。共産軍はその場から走り去ろうとし、われわれは後を追い始めました。わしは倒れている婦人のそばに駆け寄りました。喉に弾が貫通して、息も絶え絶えでした。共産軍追討のため、わしは直ぐにその場を立ち去らなければならなかった。たった今何とかすれば、ひょっとしたら助かるかもしれない。そう思ったりもしました。でも行かなきゃならなかった。本当にすまないことをしてしまった。婦人に、許してくれと叫んで走り過ぎて行きました」
 銀さんは指で目をそっと拭いていた。
「無慈悲なもんです。戦争というやつは。兵隊なら殺されても仕方ない。しかし何の罪もない人間まで殺してしまうんですから。あの婦人にも子どもがあったろうに。夫や、両親がいたろうに。それを、よりにもよって、このわしがこの手で殺(あや)めるなんてね。毎日沐浴した後で、仏壇に向かって今でも南無妙法蓮華経を唱えて、この婦人を拝んでいます。今思い出してもこの人だけは目に残っているから」
 目を閉じて、銀さんは静かに祈りを捧げていた。

   *

水際生活を経験しながら、板間にゴザを敷いて身体を横たえる。蚊が多いので、蚊帳の中で銀さんと寝た。すだれを通して、川べりに住む虫の羽音や生物の鳴き声が絶えない。月明かりだけが、闇夜を照らしていた。
翌朝、銀さんに声をかけられた。
「どうです。川の中に入ってみますか」
 足先を水につけると、生温かい。熱帯の泥の川だ。さもありなん。子どもたちはきゃあきゃあ言いながら、水中に潜ったり、手で泥水を掛け合っている。足を川底につけた。ひんやりとする。温度差がかなりある。足先が底に沈んでいるものを感じた。何だろう。ずいぶんと硬いものだ。足を切ることはなさそうだ。蛭だけは吸い付かないでくれ。頼むぞ。
「色んなものが沈んでいますね」
「そうです。ガラス瓶の割れたのもあるから気をつけて下さい」
 銀さんは水を顔から肩に浴びていた。
「やはり、ずいぶん臭いますね」 
 わたしは鼻をひくひくしてあたりの臭いを嗅いでいた。
「そうでしょ。わたしなんか慣れてますから。水は飲まんように。すぐ腹下しますから」
 しばらくして銀さんは、と見ると、水を頭からかぶり、手を合わせている。沐浴が始まったのだろう。中国戦線で自分が殺めたという、あの中国婦人を心に描いているのか。それともご両親か。あるいは山田長政か。よそ者からすれば、汚い泥の川でも、銀さんにとっては、聖なる川に違いない。川で穢れを落として、この後銀さんはきっと仏壇に向かい、経を唱えて、死者を弔うのであろう。
 銀さんの隣で、沐浴のまね事をしてみた。身体と顔だけ水を浴びてしばらく水に浸(つ)かっていたが、潜らずに川から上がった。
            
           *

夜の帳が下りてから、銀さんの家にある備え付けの木の船に乗り、銀さんをかくまったというワッシン寺に出かけた。夜の川は昼間の熱帯モンスーンも一段落して川風が吹き、涼しい。寺は対岸にあり、銀さんの櫂を漕ぐ声が闇にこだましていた。サッカリン君が銀さんのアシスタントだ。
闇夜の彼方から寺の本堂が浮かび上がって来た。川で身を清めていた僧侶が銀さん親子とわたしを迎えた。先代の住職は既に亡くなり、後を継いだ住職が本堂に案内してくれた。住職は鮮やかなオレンジ色の法衣に身を包んでいた。
「この方は、アユタヤのバンサイ地区で一番偉いお坊さんです」 
 銀さんが恭しく頭を垂れた。
「この寺で先代にお世話になりました。居候になってね。脱走してから心の落ち着く暇がなかった。敵に捕まったら命はない。家もなし、金もなし、カカアもなし。そんな時にお坊さんが助けてくれた。本当に親切にしてくれました。地獄に仏ということですね。今でも感謝しています。寺には漢方に詳しいお坊さんがいて、何年も漢方のことを教わりました。それで何とか独り立ち出来る基礎が出来ました。その後バンコクに出て、知り合った日本人の医者と一緒に船で往診しながら治療して回り、いろんな病気と治療法を勉強しました。漢方に加えて一般治療法も身につきましたから、その医者が日本に帰ってからは、独りで水上生活者の群れの中に入って行ったわけです」
境内にある講堂から子どもが発する声明(しょうみょう)のような響きが聞こえて来た。サッカリン君が講堂を覗き込んでいた。わたしの問いに銀さんが答えた。
「あれはね、寺で養われている孤児たちです。日課を終えて、寝る前のお祈りの時間ですわ。彼らも厳しい社会から逃れて、寺に保護されて安楽な暮らしをしている。ちょうどわしの昔のようです。敵から逃げまくり、やっとここでかくまわれて、心が安らいだから」
 孤児らの声明の響きが一段と高くなり、突然止んだ。境内は底知れぬ静寂に包まれた。
 静けさを破り、銀さんが口を開いた。
「ここに来た頃、無性に日本に帰りたくなったことがありました。収容所から逃げた頃はそんな気持ちは全くなかった。こちらで一旗あげようというつもりでしたから。日本が恋しくなったけど、だいたい帰るお金がありません。敵にとっ捕まったらシンガポールに送られてしまうし。そのうちに漢方の勉強や仕事に追われるようになった。どんな時期に薬草が採れるのか。どんな効き目があるのか。犬にも飲ませて研究しました。タイの草にも毒があります。薬になるものとはっきりと分けなきゃなりません。ヘタしたら死んじゃう。すごく神経を使いました。医学のこと、患者のこと考えていたら、頭がこんがらがり、帰ることを忘れてしまった。タイ語もだんだん分かるようになって、住民とも親しくなれた。それで帰りたい気持ちが薄らいで行きました。帰るにしても、成功してからや。成功せんと帰る意味ない。そのうちカカアをもらって、子どもが出来た。嫁さんと子どもを持つと、日本に帰りたいという気は持っていても、ますます帰れなくなった」
 遠く去ってしまった祖国。「天皇陛下万歳!」と叫んで戦場で散り果てた同期の桜。
「昔の日本は大元帥陛下の命令ひとつで何でも決まった。でも今はそうじゃないですよね。一般の日本人が一体どういうような気持ちを持って暮らしているのか知りたいですねえ。昔は何でもかんでも官僚主義でね、自由なことは言えなかった。朝から晩まで教育勅語読まされてね。軍隊に入ったら戦陣訓。そんなもん読んだって、ひとつも頭に入りませんから。無理やりひとつに固めてしまえって、上層部は思とったんでしょうなあ。でも、それを読む人間がそういう気持ちにならんとダメですわなあ。あれは失敗ですわ。それよりも、人民に自由な気持ちを持たしてやらんとね。昔は無理な権力を振り回して無茶苦茶でした。とにかく、上官でも、官吏さんでも何でも好きなように無理やりに通しちまう。わしが中学の頃、大阪・天神橋六丁目の交差点で、休暇中の軍人が赤信号を無視したのを交通整理中の警官に咎(とが)められ、交番に連行された。これが陸軍と警察が対立する大事件になったんですわ」
一九三三年(昭和八年)のゴー・ストップ(信号機)事件である。満州事変後の大陸での戦争中に起こった事件で、当時は陸軍が肩で風切って歩いていた。
「軍人は警官よりエライんや。警官ごときが軍人に対して指図するのはけしからんちゅうことですわね。今でもそんな風潮があるのか知りたいです。そんなことは日本から追っ払っちまって、道理の通ることをやらんと。抵抗も何もしない人間を蹴飛ばしたり、たたいたり、あれは日本人の悪いとこですわ。」
 銀さんには一時帰国が現実味を帯びて来ているのであろう。彼はこうも言った。
「どうせ帰ったって一時のこと。妻も子もある。日本に帰っても何もできん。この歳になって一時帰国しても、弟の家族とあいさつして、両親と弟の墓に詣でるくらい。後は何の役にもたたん。ようガンに効く草を日本に持って行って特効薬に出来たらいいのになあ。わしは日本に住むことは出来ません。このアユタヤを捨てることは出来ないんです。両親も亡くなったし、財産と言うて、無い。こんな歳になって、何が出来るんです!」
 戦争という大海に飲み込まれて、人生を大きく狂わせられながらも、異国の地で必死に生きて来た男が、限りある人生に向かって叫んだような気がした。
 透明の液体を入れた器が運ばれて来た。
「これは何ですか」
「雨水だそうです」
「これを頂くということですか」わたしは少し首を傾げていた。
「寺ではお茶は飲みません。雨水を頂いて、僧が修行するんですわ」
「へえ、それはまた何故でしょう」
「雨水は天から頂いたもので、これを飲むと体調がよくなる。自分の気持ちや精神が浄化されて、きれいになるそうです。寺では久しぶりに降る最初の雨は屋根などのホコリを含むので使わないが、その後何回か降った後の雨水を大きな甕(かめ)にいくつも貯めるとのことです。その量、何千リットルだそうですよ」
「それはスゴイですね」
 出された雨水を一口飲んでみた。
「ああ、おいしいですね。自然の恵みという感じがします」
 わたしは住職の前で、残りの雨水を飲み干した。
  
第三章

 銀さんが戻らないまま、戦後の月日が流れて行った。大阪には銀さんの弟である大作さん一家が暮らしていた。弟は役所に何度も足を運んで、消息が全くわからない兄を捜していた。ある日やっと兄がタイに居るらしいということがわかった。しかし、意外なことも耳に入った。兄は医師免許がない医者だったのだ。
(これ以上捜したら、兄さんの居所がタイの警察に知れてしまい、銀兄さんが法律違反で捕まったりするかも知れん)
 弟夫婦は偶々映画監督を通じて兄が無事家族と暮らしていることを知った。
(兄さんが無事ならそれでええ。生きてさえいてくれたら)
 弟は兄に会いたい気持ちを胸に収めてしまった。
 しかし、兄から便りが届いた時には、それを何度も読み返し、男泣きに泣いた。一九七一年(昭和四十六年)のことだった。

大阪市城東区茨田諸口(まったもろぐち)町 利田大作様
終戦より二十六年其の間、何の沙汰もせず、今日に至り、己の無責任さが本当に悔やまれます。時々私の居る田舎に来る売薬業者のニュース映画で見る内地の状況は、大阪、東京は爆撃で、焼け野原の醜い状態で、この分なら、多分母親も姉も、もう死んでしまったに違いないときめていました。
貴下も現役海軍で、艦に乗る以上、ニュース映画で見る如く度々の海空戦で艦もろとも戦死してしまったことと思ってをりました。
それが今、元気に居られる消息を受け取り、こんな嬉しいことはありません。
姉さんも病身ですが、ご無事で何よりです。
私方一家八人毎日楽しく幸福に其の日其の日を送ってをりますから御安心下さい。
今タイ国も冬の最中で、朝は寒いです。とんとを燃やして円陣を作り、家族皆で楽しく話し合っています。昔、子どもの頃、大作と姉さんと三人で、とんとしながら芋を焼いて食べましたね。
それから父親のことで思い起こしましたが、其の昔姉さんが久しく患った時、父親は自分の金歯まで取り外し、姉の治療代に充てた親心は今でも忘れません。こんな良い親は世界中捜しても居らないと私は常に感謝し、生前己の親不孝が心に痛み、しみ入ります。
現在父母の位牌は山田長政の位牌と共に二十六年間一日もかかさず、毎朝食事を捧げ冥福を祈って来ました。これがせめてもの私の供養でした。
まだまだ書きたいことはありますが、二十何年も文字を離れた私には思うやうに書きません。へたな走り書きながらこれにて失礼致します。
                            利田銀三郎

 兄から手紙を受け取った弟、大作さんは念願の兄との再会を果たせないまま、それから九年後、一九八○年(昭和五十五年)の師走に病死し、帰らぬ人となった。

    *

 銀さんは家族で集まる機会には、日本の歌を子どもと一緒に唄う。銀さんがハーモニカで伴奏し、子どもらは父親と一緒に、父親の祖国の歌を唄う。文部省唱歌の「靴が鳴る」や「君が代」を。
その部屋にはプミポン国王の肖像画が掲げられている。タイ国民から尊敬されているという国王のことを尋ねた。その国王を、銀さんはタイの天皇陛下と呼んだ。
「ここの天皇陛下はね、平民的ですわ。われわれにも言葉をかけます。直にね、生活はどうかって。お金はちゃんと貯まっているかどうか。畑の造作物がよう出来たかどうか。道は大丈夫か、灌漑はうまくいっているかどうか。何でも気軽に尋ねてくれます。この前、ここにも来ました。タイ人の苦しい生活を知っています。それでよく援助してくれますわ。ここの陛下は汗だくになってね、畑をどんどん歩いてね、自分のことを構わずにね、国のために何とかしてやらないといかんてね。ここの天皇陛下はなかなか出来てますわ。若いけどね。一方で日本の天皇陛下は昔から近寄ることも出来ませんですわ。どうしてですかな、あれは。平民がね、平易にね、立って話しすることが出来ない。あれは官憲が阻害しとったんですか。昔から奉り過ぎて、全然平民から苦情を聞いたりもしなかった。昔の大元帥陛下は絶対権力を持ってますから。だから、国民の中に直に入って日本の状態を本当に知っていただくことは出来なかった」
 銀さんがタイ国籍を取ったのは、国籍を変えないとせっかく住み慣れた家を追われるというやむを得ない事情があったからだ。そのことで、日本の軍人恩給は支給されなくなってしまった。
「おかしいですね。わしはタイ人になるまで、日本の兵隊さん。ところが、タイ人になった途端に恩給が消滅するなんてね。どう考えてもちょっとおかしいですよね。日本の国籍がなくなった途端に日本人やなくなるなんて、自分の気持ちがそんなこと許しませんわ。タイ人になったって、タイ人になりきれないもん。なったんは、名称だけでね。言葉はちょっとできますけど、タイ人並みの動作ができるわけやないしね。気持ちがタイ人と全然違いますから。でも、もう日本人扱いしてくれない、法律上では。もう世間がつらくなって来たわね。昔はそんなこと言わなかったはず。今は世の中が世知辛くなったんでしょう? 日本がね、要するに」
今度は戦争について銀さんにマイクを向けた。
「人間が殺し合いするよりも、こんな小さな地球に居るよりも、地球よりも何倍もある、空気も水もある、そんな星を見つけて、人間増えてきたら移住したらいい。そうしたら戦争する必要がない。戦争は要するに人間多すぎて、食うに困って自分の勢力伸ばして、自分だけいいことしょうと思うから、戦争が起こる。お互い競り合って。だから、もっと世界各国協力してからに、どこの国もひとつの共同部隊にしてね、新しい人間の住める星を探せばいい。そう思うんですけどね。新聞で見たって、広島の原子爆弾でも、あれ未だに火傷負って治らない。死んでいく人間が居るでしょ。もうわかっとることですわねえ。そうなるってこと。それはねえ、人間に融和がないから。友情がないから。お寺の坊さんが言うように、仏教の慈愛、愛情。人を恵む気持ちが薄らいで行って、自分さえよければ、強くなればいいってね。妥協が出来ないと、戦争が起こりますわな」
 日本企業がこれほど進出しているタイなら、水上生活者の群れの中で企業広告のヌード・カレンダーを眼にしてもおかしくはない。こういうものに対して、銀さんはどう思っているんだろう。尋ねてみた。
「真っ裸の男女が性交しているのを映像で見せたりね。こんなのが金になることは、昔なかった。全裸ばっかり見ていると、嫌気がさす。着物の裾がちょっと乱れてるくらいはいいが、今の日本人女性は乳を放り出してね、カレンダーに載っている。とんでもない話や。こんなのを見て、日本人に親しくしてくれるタイ人の日本に対する目が変わって来ました。カレンダーに火をつけて燃やしてしまう。こんな写真はとんでもないって。子どもが見たらどうするんやて。昔のカレンダーはね、四季の風景の中で、夏は浴衣で女性もつつましやかな格好をしてました」

銀さんは大阪から来た手紙に返事を書いた。

大阪市城東区茨田諸口(まったもろぐち)町 利田敬子様
御手紙有難う御座いました。
そちら様に大変ご苦労を掛け、当方長らくご無沙汰致し、真に申し訳御座いません。
さて大作が六年前に亡くなったとのこと、お手紙で知り、まだまだ元気で居ることと思っていましたのに遺憾にたえません。
とし子姉さんが入院中のこと、病状は如何か。心配になります。
今日、恩給の件で大使館領事部に行きましたが、タイ国籍を持つと、日本の国籍は消滅するとのことで、駄目でした。
近いうち、私は日本に帰りますが、まだはっきり予定の日が決まりませんので、決まりましたら御一報致します。
利田銀三郎

          *

わたしは銀さんよりも一足早く帰国した。銀さんとマリワンのパスポートの受け取りと、飛行機便の手配、大使館との折衝には同行したが、銀さんらを出発便に乗せ、日本に送り出す世話は、日本人会を通じて日本の新聞社のバンコク支局長夫人に買って出ていただくことになったので、安心してバンコクを発つことが出来たのである。二人の帰国までに、敬子さんと朋靖さんに会い、銀さんらの事情を説明がてら報告することで、受け入れ態勢を整える手助けにもなると思っていた。
素材編集や記者リポート作業の合間に、わたしはタイで撮ったスナップ写真を携えて、二人を訪ねた。
「ああ、こんなものを食べてはるのやなあ。玉ねぎと海老の炒め物、それとタイ米」
 敬子さんが写真に見入った。
「食卓というのはないんですか?」
「皆さん板の間の上にゴザ敷いて、その上に食べ物を盛った皿や食器を直に置いて食べてはりました」
「そうですか」
「兄さん中華料理みたいなものやったら、いけるのちゃう?」
「でも、おじさんはいけるにしても、娘さんがなあ」
 朋靖さんが疑問をはさんだ。
「ああ、これがお兄さんやな。身体はうちの主人のほうが大きいやろけど、立ち上がった姿勢は、よう似てる。兄弟やから骨格が似てるからやろね。指とかも」
 銀さんの写真の次に、家の中を写したものがあった。
「床の光り方。棚付けした壁。ホンマ、物を大切に小ぎれいにしてはるのがようわかりますわ」敬子さんが目を細めた。
「ねえ、空港にはどんなもの持って行く?」
二人ともおじさん親娘を迎える準備で楽しそうだ。
 しかし、家族と戦友会の間には、銀さん親娘の帰国をめぐって、いつの間にか軋轢(あつれき)が生じていた。朋靖さんは戦友会幹部の発言に対して憤る。
「自分らで予定を全部決めてしまって、こうしてください、ああしてくださいと言うて来るんですよ」
 具体的にはどういうことなのか。
「僕らはね、おじさんが生存していることがわかった段階から、あちこちに連絡していただいた、おじさんの親友波部さんとなかなか一緒に行動が出来ないのが残念なんです。住んでいるのが栃木県でしょ。遠いんです。やはり地元大阪ということで、どうしても戦友会の人が表に出て来るんです。それは仕方がないにしても、この前も戦友会の人が僕ら家族にこういう言い方をするんです。
(銀三郎さん親娘を空港に迎えに行くのは戦友会でやりますから。家族の方は行かれるなら、どうぞ個人的に行ってください)
何や、その言い方は! ということになるでしょ。それにこんなことまで言うんです。(帰国した日だけは疲れてはるやろし、利田君はお宅で一泊してもろて。あと泊るとこは、また会合で決めまひょ)ですわ。
ちゃんと言いましたやん。おじさんの帰国中は全部うちで泊ってもらいますって。空港の迎えにしても、戦友会として行くとだけ言うけど、お世話願っている小学生の同級生の方はどうするんですか、放っておくんですかと言いたくなる。そもそも、おじさんの生存確認から一時帰国のきっかけまで作って頂いた三留さんから波部さんに連絡があったのを受けて、波部さんが親切に僕ら家族と戦友会にきちんと連絡を頂いたから、今回の帰国が実現すると思うんです。当事者が一丸となっておじさん親娘を迎えないとあかんのに、戦友会ばかりが表に出て、勝手に振舞っているという印象がしてならない。僕はおじさんの帰国中は店を閉めるつもりです。何日も店を閉めるのは正直痛いけど、ちょっとでも長く一緒に居たいし、手足になってあげたいからです。戦友会は何でそういう気持ちを分かってくれへんのかなあ」
 朋靖さんは大きなため息をついた。

第四章

 銀さんが、一時帰国する日がやって来た。一九八六年(昭和六十一年)四月二十四日、夜八時前に娘のマリワンに付き添われ、タイ航空620便で大阪空港に到着。実に四十三年ぶりに祖国の地を踏んだことになる。
 空港で銀さんは弟の遺族、戦友会や同級生に暖かい出迎えを受けた。
「皆さんのお陰で祖国に帰ってくることができました。ありがとう」
「よう日本語忘れへんかったのう」
 級友の言葉に出迎えの輪は盛り上がり、銀さんは大笑いした。
「おじさん、お帰りなさい、大作の娘です」
「そうですか、あなたが。お父さんは残念でしたね」
「お兄さん、お帰り。敬子です。よう帰られました」
「大作は残念やった。また後でゆっくりな」
「班長の中尾や。よう帰って来たな」
「ああ、班長殿。ただ今、帰りました。本当に懐かしい」
「波部や。覚えてるでしょ。よう帰って来たな」
「ああ、懐かしい!」
「守道です。久しぶりやのう」
 銀さんは早速弟の遺族が住む大阪市内の家に向かった。そして両親と弟の仏前を拝み、帰国の報告をした。
「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・・・・・」
 しばらく、お題目が唱えられ、静かな瞑想の時が流れて行った。唱和が終わり、銀さんは弟の葬儀の写真に見入った。
「とっても盛大にやってもらって、ありがとうございました」
 銀さんは亡き弟の家族に頭を下げた。
「ああ、これが大作の海軍時代の写真・・・・・・」
「お兄さんとほんまによう似てはるわ」
「ほんとやなあ」
 敬子さんと、朋靖さんが顔をほころばせた。
「おじさん、これ日本の水」
 朋靖さんが銀さんに水を差し出した。
「ああ、これはいいですよ。タイの水はこんな澄み切った水やないですよ」
「マリワンに説明してあげてください」
 銀さんは日本の水についてタイ語で娘に語りかけた。マリワンは頷きながら水を透かして眺めていた。
「赤飯入れてあげて、皆に」
 敬子さんの声が聞こえた。
「ほう、こんなに大きな鯛があるんですね」
 銀さんがテーブルの真ん中に置かれた祝い鯛に目を落とした。
「おじさん、最初に箸(はし)をつけてください。そのために焼いてもらいましたから」
 朋靖さんが声を掛けた。
「日本の鯛なんて、もう四十年ほど食べてない。折角ですから、少しだけ頂きます」
 遠慮がちに、銀さんは鯛に箸をつけて、口に運んだ。
「ああ、やはりおいしいです」
 周りから拍手が起こった。
「赤飯もおいしい。絶対タイ国では食べられません」
 今度は笑い声。
栃木県から駆けつけた親友の波部卓美さんが口を開いた。 
「昔、焼き芋一緒に買いに行ったな。二銭持って」
「一銭で大きな焼き芋買えましたよねえ。覚えてる、覚えてる。今は一銭では買えないでしょ?」
「そら、買えないよ。何百円とする。貴重品だよ」
「タイでは安いですよ。さつま芋はね。それに水はタダ。タイは金があんまり儲からんでも、物価が安いから暮らしやすい。日本とタイの物価の差が激しい。日本は高いですね」
「日本は変わったでしょ?」
「自動車が多くなった。タイもね、今は自動車が多い。でも終戦の頃、バンコクでも車はほとんど走ってなかった。アユタヤなんか一日中自動車は見たことがなかった。ところが、今では日本から自動車がどんどん入ってきてね。すごく増えました」
「マリワンは日本語がわからないから、ちょっとかわいそうやなあ」
 朋靖さんが気遣った。
「この娘は日本の文字は多少書けるが、話すことは出来ないんです」
 銀さんが目を細めた。
小学校の卒業アルバムも懐かしい。大阪市北区にあった済美(せいび)第五高等小学校のものだ。座の話題はやはり戦争中の話になった。
「えっ、爆弾が落ちた? 大阪駅の近くに?」
 驚いた銀さんが、身を乗り出した。
「ものすごい爆弾でね。皆焼かれました」
「ボクの家さ、爆弾が落ちて、この家くらいの穴が開いたんだよ」と波部さん。
「そうですか。大阪駅の近辺に爆弾が落ちたんですか。大変でしたねえ。そら外地で戦争している人より、内地の人のほうが大変ですね」
 外地に居て銀さんが知らなかった大阪大空襲は、一九四五年(昭和二十年)三月十三日深夜から翌日未明にかけて、最初の空襲が行われ、B―29二百七十機余りが襲来した。米軍の照準点は大阪市北区扇町、西区阿波座、港区市岡元町、浪速区塩草で、都心部を囲む住宅密集地を標的にしており、先導機が港区市岡の照準点に大型焼夷弾を投下し、大火災となった。他の機はそれを目印に、相次いで焼夷弾を投下した。無差別爆撃はこの後、六月一日から八月十四日までの間に七回行われ、大阪市民一万人以上が死亡したと言われている。
 銀さんは昔何度も登ったという大阪城に足を運んだ。天守閣から大阪の町を眺める。
「変わりましたなあ。大きな建物が一杯建って。ビルディングの林ですわな。大阪があんまり変わり過ぎて、どっか外国に来たみたいな感じや。変わらんのは昔からの人情だけや」
「おじさん、ほらあそこに通天閣が見える」
 朋靖さんが声を掛けた。
「ああ、あれが。昔の通天閣はあんなに高くなかったような気がする」
 一九○三年(明治三十六年)に開催された第五回内国勧業博覧会の会場跡地に、パリのエッフェル塔と凱旋門を模した初代通天閣が、一九一二年(明治四十五年)七月、ルナパークとともに建設された。太平洋戦争中の一九四三年(昭和十八年)一月、直下にあった映画館の火災で脚部が強度不足となり、鉄材を軍需資材として大阪府に献納するという名目で解体された。現在の通天閣は二代目で、一九五六年(昭和三十一年)完成した。
「ここ、真っ直ぐ見るでしょ。そしたら四角の大きなビル。あれが大阪駅前ビルや」
「大阪駅の前にビルが建った? 何となあ!」
 銀さんは呆気にとられるばかり。
「変わった大阪をご覧になって、どうですか。良かったですか」
 わたしは銀さんに尋ねた。
「良かったですよ。日本が進んで行ってね。良くなった訳ですよ。昔のバラックみたいな建物はひとつもない」

      *

その日の午後、済美小学校の講堂で、銀さんの帰国歓迎会が開かれた。講堂には小学校当時の同級生と並んで戦友が各地から集まり、銀さんはその一人一人と昔話に花を咲かせた。
「俺はM少尉の当番しとったんや。そしたら、利田がこんな大きな亀を拾って来てな、ひっくり返して置いとったんや。真夜中に少尉の寝室から大声で「曲者!」って聞こえたから、何事やと思って急いで少尉の寝室に行ったら、どうも亀が夜中に起き上がって、部屋を出て、少尉の寝室に入ってゴソゴソしとったらしいわ。少尉も亀やとわかって、ほっとしたらしいが、当番やったから、えらいこと怒られた。俺は知らんがな。利田が連れて来た亀やから」
「ああ、あの亀のことやな。よう覚えとるわ。ハハハハ」
 戦争当時、銀さんの直属の上司だった班長の中尾さんは、銀さんら三人がタイ・ビルマ国境のノンホイ収容所から脱走する前に、銀さんが分隊から離れて行方不明になったことを明かした。
「ある朝、利田君がどこを捜しても居らん。敗戦で、兵器を返納した後のゴタゴタの頃やった」
 銀さんは強制収容所から脱走したと新聞などに書かれているが、これとても日本が敗戦してから年が替わった翌年になってからのことであり、脱走という表現が果たして正しいのかどうか、議論の余地が残るところだ。戦争はすでに終わっており、兵器返納後のことだから脱出という方が正しいという説もある。銀さんは強制収容所について、収容所というよりは、休憩所みたいな状態だったと証言しているところからすれば、終戦後は結構隙のある収容状態だったのかも知れない。
 要するに、銀さんは二度もキャンプから「脱出」したのである。当時のことを、当の銀さんが戦友を前に語った。
「兵器を返納した後、今更降参するなんてと思い、わし独りでも中隊から離れてずらかろうという気持ちが強くなった。それでビルマの方向に歩いたんです」
「最初の夜はどうしたんや」と中尾元班長。
「野宿しました。そしたらおかしな蛇が出て来てね」
「道中誰かと会ったのか? それに食べ物はどうした?」
「現地人に会いましたが、言葉がさっぱりわからない。寺の坊さんからバナナをもらって食べました。まずいバナナ! どうにかこうにか食べ終わって、また歩き出しました。タイとビルマの国境あたりでしょ、恐らくは」
 銀さんはどうもお坊さんと縁があるらしい。
「少数民族と物々交換しました。わしは持って出た薬品で、向こうからは原石です。夜中に懐中電灯照らしながら。原石やから、磨いて加工せんとあかんが、磨くと青く光る石。売れますからな。一週間ほど経って、この中尾班長が捕まえに、いや迎えに来てくれました。どうしてこんなところに居るんかって言われました。だから、班長とは縁が深いんじゃ。戻ったら大隊長に叱られると思ってたら、よう戻ったなあと言うてくれました」
関係者の話を総合すると、銀さんは先にキャンプを離れた部隊に偶々合流したため、助かったというのがどうも事実のようである。合流するまでは、単独行であったのは確かのようだ。
当該部隊はナコンサワン収容所から、当時タイ駐屯の日本兵が全員捕虜として連行されたナコンナヨーク集結地に向かっていた部隊と見られる。銀さんが所属していた部隊もその集結地に二カ月ほど経って集合した結果、銀さんが所属部隊を捜し当てて中尾班長を見つけ、会いに来たというのがどうも真相らしい。その時、銀さんは土産に魚を持って来たと中尾さんは証言している。
銀さんが二回目の「脱出」をしたノンホイ収容所は、ナコンサワン収容所とナコンナヨーク集結地のほぼ中間にあった。銀さんや当時収容されていた元日本兵の証言によると、ノンホイ収容所には鉄条網などの柵はあるにはあったが、近くに流れる川沿いには柵はなく、衛兵は居たものの、逃げようと思えば逃げられる状態だったという。
その日、銀さん歓迎のため、思い出の済美小学校に集った戦友らは、一九四六年(昭和二十一年)十月二十八日、バンコクを離れ、シンガポールを経由して十一月二十七日佐世保港で故国日本の地を踏んでいる。銀さんのノンホイ収容所からの二回目の「脱出」は、同じ一九四六年。本人の記憶によれば、マンゴーの季節と記憶しているので、五月頃だったという。
銀さんと戦友の運命の分かれ道となったのが、正にこの頃だった。
「君が居らなくなったのは、この辺やと思うんや」
中尾さんが古ぼけた国境地帯の地図を見せた。銀さんらがのぞき込んだ。
「もう昔のことやからなあ」
 銀さんは頭に手をやり、短い白髪を引っ張っていた。
「あれからね、通信隊から連絡があったって。戦争に負けたって。確かに負けたって。いや、日本が負けるなんて、そんなはずがない! 何かの間違いや! そう思いました」
 銀さんの声が震えた。

           *

大阪市内は北のターミナル、梅田を中心とした「キタ」と呼ばれる地域と、南のターミナル、難波(なんば)を中心とした「ミナミ」と呼ばれる地域に大きく分かれている。梅田と難波を結ぶ南北の幹線道路が、銀杏並木で有名な御堂筋である。
四十三年ぶりの日本は驚くことばかり。梅田では妙な若者たちを見かけた。当時流行の「竹の子族」の女の子だった。
「道路の真ん中で、七、八人でね、腕組んで、派手なズロース穿(は)いて」
 銀さんの現場報告も熱を帯びる。
「ズロースやない。スカート、スカート」と波部さん。
「おう、道路の真ん中でまあるくなっとるねん。口紅。それと、あれ何塗っとんですか」
「アイシャドーね」
「青いね。何か、眼のとこに塗っとるねん。化粧が必要以上にね。自然の顔やない。自然の姿やない」
「作っとるんやね」
「これから踊りますって。踊るちゅうねん! 大変だなあ、まあ道路の真ん中でね。踊った後で、昔の猿回しの猿みたいに、お椀持って回って「金くれ」言うんと違うんかと言ったら、「一銭も金とらない」って。あれ自分で志願してやっとるんやね。何とまあ、日本の娘も華やかになってねえ。内気なとこがちょっともないのね。家の中入ってやるんやったらいいけど、あんな大きな道路の、人が何千といるところで堂々とやるんやから。恥ということはないやね。もう面の皮が厚うなってるのやね。驚いてもうた。ハハハハハ!」
昔懐かしい小学校の校庭では、子どもたちに囲まれた。銀さんが尋ねる。
「あんたたち、どこに行って来たんですかな?」
「須磨離宮公園!」
「スマ? スマってどこにある?」
「神戸」
「ああ、神戸か」
「月見山で降りて、阪急電車乗って、アスレチック行って来たんや」
「大東亜戦争でね、アメリカと戦争したんや、わたしはね。フイリッピンで物凄う撃ち合いをやったんや。爆弾が一杯飛んで来てね、日本の兵隊さんが、どんどんどんどん死にました」
「俺もう帰ろっと!」
「大東亜戦争は、先生教えてないですか?」
「教えてもらってない」
「大東亜戦争って何ですかって。そしたら日露戦争は? 日清戦争は? わかりますか? えっ、全然わかりませんて」
「習ってないもん」
「欧州大戦は? それもわかりませんって? 戦争のことは全然わかりませんって?」
「だって、習ってない。第二次大戦は習った」
「あ、そう。第二次大戦は習ったんやね。日本は負けました。ここ大阪に爆弾落ちましたか?」
「・・・・・・」
「広島やったら知ってる」
「そや、広島に落ちたんや。原爆が」
 子どもたちは口々に銀さんの質問に答えていた。
「さいなら! さようなら!」
子どもたちが去ってから、銀さんにマイクを向けた。
「昔はね、子どもは(わたしは六年生です)と言ったもんです。ところが今は(六年だよ!)って。もう野暮で、あんちゃんみたいな言い方をする。大人とでも対等にね。上の者を奉(たてまつ)らない。礼儀がすたれちまってる。あれ、何でですかな。いい気持ちはしませんわ。質問でも、(おじさん、どっから来たの?)と言わない。(何しに来たんや?)と言う。何とまあえらいこと言うなあと思って、驚いちまった。昔と全然違う。昔は(おじさん、何の用事で来ましたか)って尋ねた。言葉が丁寧で礼儀正しかった。今の子どもと話してると、おかしいことがいっぱい出て来る。ところが、今でも女の子の中には言葉の柔らかい生徒がおりますね。(おじさん、どっから来ましたんですか?)と尋ねた子が居りました。わしが(タイ国から来ました)と言うたら、(えっ、タイ国? タイ?)そんなんあったんかいなって」
「全然知らないんですね」
「そう、どこの国やわからないんや」と銀さんが嘆く。
「それにね、気になることは昔と違って人がどんどん、ぱっぱっとせわしなく歩くこと。歩き方が何だか世知辛くてね。昔は緩やかにね、ゆっくり人は歩いてた。四十年ほど前はね。今はゆっくり歩いてる時間がないちゅう感じですね。時間がそれほど大切なんでしょうね」
百貨店では銀さんに驚かされた。エレベータに乗った途端、銀さんの目がエレベータ・ガールに注がれた。おじいさんにしげしげと見つめられているのに気がついた女性はうつむき加減になり、困惑していたが、銀さんは遠慮なく女性に近付いて話しかけた。
「あんたは化粧が厚いね。どうしてそんなに厚くするんですか」
 化粧の濃さを指摘する小柄な日本人のおじいさんが、いきなり目の前に現れて、さぞエレベータ・ガールは驚いたことであろう。わたしは事情を女性に説明し、納得してもらった。
 銀さんは銀さんで、昔とは女性の化粧が全然違うと嘆くことしきり。
「昔の日本女性は化粧と言っても、あくまで薄化粧。自然でした。それがつつましやかで良かったんです。今の女性は何であんなに塗りたくるんですかねえ」
 銀さんは何度も首をかしげていた。

        *

 一九八六年(昭和六十一年)四月二十九日。天皇誕生日。銀さんはテレビの画面で陛下のお姿を見る。陛下が御立ち台に立たれた。
「おおーっ、これ天皇陛下やね! なるほど! ううん、腰が弱いですね。立つのがえらいですわな。相当な年寄りですね」
「陛下も八十四歳だもんなあ」
一緒に皇居からの中継を見ていた親友の波部さんがつぶやいた。
 陛下がお言葉を発した。
「大勢の人が来てくれて、嬉しく思います。これからも皆が幸せであるように・・・・・・希望、します」
「ほう、なかなか天皇陛下もまだまだ語尾がはっきりしとる。大丈夫、大丈夫。これだけ頭がはっきりしとったら、日本も大丈夫や」
 身を乗り出して画面を眺め、満面に笑みを浮かべた銀さん。
「向こうに居るとね、日本のことが気にかかります。日本の状態がどう変わって来たかってね。タイは日本の援助がなかったら、うまく行かない。だからタイは日本の動向をうかがっているんですよ。日本が傾いたら、タイはえらいことになりますから」
 銀さんはタイのプミポン国王を、また天皇陛下と呼んだ。
「タイの天皇陛下は日本の天皇陛下と違って権力を持ってますから、政府や官僚が怖がってますわ。問題のある閣僚が居れば、こんな不埒(ふらち)な大臣がいるってね、天皇陛下自らラジオで国民向けに放送しますから。やましいところがある閣僚は、何とか悪事が天皇陛下の耳に入らないように動く。自分の心が真っ白やないから。この辺が日本の天皇陛下とは違うところです」
わたしは改めて銀さんの天皇観を尋ねてみた。
「主権は全然ありませんけどね。それでも日本の崇敬の的。日本人全部のね。今までずっと万世一系の天皇陛下でありますからね。日本の象徴ですから、これをずっと続けてもらいたいですわ。潰さずにね。それを潰してもろうて、新たなものをつくるなんてことを考えると、全体主義になってしまう。わたしはちょっとそういう国家はおことわりですわ。個人としての天皇陛下は、国全体の人民の希望によってね、政治をしてもらいたいと思います。昔のように大元帥陛下の命令ひとつで何でもなるということは、あんまり望みません。天皇陛下が一番偉い神さんというのは間違いですよ。あの人も人間ですからね。食ったり、糞(くそ)したり。陛下は奉るだけで、内閣の統治権のある人に政治を治めてもらうのがいいんですよね」

          *

姉と再会する日がやって来た。銀さんはマリワンと一緒に、愛知県まで足を運んだ。
実姉の伊神(いがみ)とし子さんは、愛知県大府(おうぶ)市にある病院に入院していた。寝たきりの状態で果たして姉は、銀さんが弟と認識できるのかどうか、気がかりだった。病院の玄関で、とし子さんの娘が待っていた。
「一時帰国されたんを知ってて、大阪空港までお迎え出来ませんでよう、ごめんね。常識のない、どういう人なんかと思っただろうね。さあさ、おじさん、お姉さんはこちらでごぜいますけど」
 銀さんはマリワンや敬子さん、朋靖さんと一緒に、案内されるまま、病室に足を踏み入れた。ベッドで布団をかぶったお年寄りが寝ていた。点滴の装置がベッドの横に立ててあり、管が布団の中に潜っていた。
「お母さん、ちょっと起きや。弟さん来たよ。銀ちゃんが来たよ。会いたい、会いたい言ってた銀ちゃんが・・・・・・」
「銀ちゃんです。わかりますか、姉さん。長いことすみませんでした。銀三郎。あんたの弟ですわ。まだ死なずに帰って来ました」
「お兄さん、手握ってあげて」
敬子さんの声がした。銀さんは言われるままに姉の手を握った。
「銀ちゃんです。わかりますかね。長いことご無沙汰して、本当に申し訳ありません。会えて嬉しいです」
 銀さんの目に涙があふれていた。とし子さんの声がかすかに聞こえているようだが、何と言っているのかは定かではない。
「姉さんには色々言いたいことはありますが、わからんようなので言いません。こら、困ったなあ!」
 銀さんが頭を抱えた。そしてマリワンを姉のそばに呼び寄せた。
「姉さん、娘のマリワンです。あなたの姪ですわ。一緒にやって来ました。タイからね。ああ、意識がもうろうとしとるわね。もっと早く来られたら良かったのになあ。姉さんの顔が全然変わってしもて、昔の状態が思い出せませんわ。すっかり変わってます」
 担当の看護師さんによると、とし子さんは独力で立つことは無理で、ずっと寝たきりのまま二十四時間点滴が離せない状態とのことだった。
「あっ、ぱっと目開けたね。おばさん、銀三郎さんのことわかったら、手を握ってあげてください」
 朋靖さんがとし子さんに耳元でささやいた。
「知ってますか? ああ! 知ってる! ほら、握り返してる! わかったんや! 会えて良かったねえ!」
 マリワンは、と見ると、病室の窓の外を眺めながら肩を震わせていた。マリワンからすると父親の姉で、伯母にあたるとし子さん。姉と弟が何十年の歳月を経て、やっと再会出来たことを、看護師の立場から、また人として素直に喜んでいると、わたしはマリワンの後ろ姿を見ながら感じていた。
「本当にこれで堪能しました。生きて会えてね。ありがとうざいました」
 銀さんが姉の娘と看護師さんに声をかけた。お金をやりくりして来たらしく、姉の娘に金一封を手渡そうとしていた。
「ほんのわずかですがね。四十年も放っておいたのは、わしがだめなんですよ。まあ、帰れなかった事情がいくつもありますけどね。でも運良く帰って来られましたから、受け取ってください」
「それじゃ、受け取らせてもらいます。ありがとうございました」
「伊神さんにはね、今日弟さんが見えるって、わたしどもから何度も確認しておきました。だから、きっとわかったと思います」
 看護師さんが話しかけた。
「まあ、生きて会えたことがねえ・・・・・・。それじゃこれで失礼します。何ぼ居ってもねえ、寝てしまってるから。これで納得しました」
 弟は再び姉の手を握り、語りかけた。
「じゃあ姉さん、これで失礼させていただきます。どうぞ身体を大事にしてください。またやって来ます。必ずね! 早く治ってください」
 マリワンも銀さんに促され、お別れをした。
「はるばるありがとうございました。お元気で!」
姉の娘らが玄関で一行を見送った。銀さんは感慨深げに病院を後にした。
 
        *

 銀さんのニッポン滞在は夢のように過ぎ去り、帰国の日が来た。
「ご案内いたします。タイ国際航空621便。マニラ並びにバンコク行きのお客さまは七番ゲートにお越しください」
「達者でね。気いつけて」
「どうもありがとうございました」
「また会おうね!」
 見送りの人々から拍手が起こった。それに答えるように、銀さんとマリワンは大きく手を振った。
「元気でね!」
二人の姿は搭乗口に消え、やがて機上の人となった。
一時帰国した銀さんが弟一家に残したものは何だろう。
「何となくこれでもっと充実したものの考え方が出来るようになったわ」と息子の朋靖さん。
朋靖さんの姉、文子さんはこう話した。
「わたし、銀三郎おじさんに会うて、もう一度お父ちゃんに教育されたような気がしたわ。そやから会えてすごく良かった。お父ちゃん、孫の顔も見んと死んだやんか。もう一回孫の育て方、マリワン見てたら、こういう風にせいよって言われているのがようわかったわ。おじさんも、マリワンも、貧しくても心はリッチよ。よかったわ。ほんまに会えてな」
 改めて、朋靖さんにマイクを向けた。
「家族って何やということがわかった気がする。その良さがしみじみわかった。うちらの親せき付き合いは、今からですよね。今までになかった分を取り戻し始めたんです。大事にしてあげたいですよ、すごく。日本は平和ですからね。未帰還兵は銀三郎おじさんだけやない。他の未帰還兵のためにもこれから運動して行かんとね。今回のおじさんのことを第一歩として、難関を突破して行きたい。それが今後の課題や思います」
 
第五章

あれから更に二十六年の歳月が過ぎ去り、わたしは二○一○年(平成二十二年)秋、定年退職の日を迎えた。
その後、引き続き社にシニア・スタッフとして勤務し、現在に至るが、銀さんのことは心から離れなかった。それは、銀さんをかくまった寺の住職から頂いた小さな仏像がいつもあの頃をわたしのそばで想い起こさせてくれていたからかも知れない。
わたしは、いつか銀さんのことを原稿にまとめたいと思っていた。何年か前に一度作業に入ろうとしたことはあるが、果たせないでいた。
今度こそと言う思いで、関係者を訪ねてみることにし、当時の取材手帳にある関係者の電話番号に連絡をしてみた。二○一二年(平成二十四年)十月十五日のことだった。
だが、そこには二十六年という歳月の壁が大きく立ちはだかっていたのである。
敬子さんが亡くなられたのは、風の噂に聞いていたので、、是非朋靖さんと連絡が取りたかったが、容易ではなかった。
銀さんの小学生時代の親友で、栃木県在住の波部卓美さんは三年前に亡くなられ、卓美さんの長男によると、その後大阪の朋靖さんらとの付き合いはなかったという。波部さんは、銀さんがタイに帰国した後は一切この件には触れられなかったという印象を長男から受けた。
バンコクの日本人会で銀さんに会い、一時帰国の支援金を届けた戦友会の幹部も、奥さんによると、十年前に亡くなっていた。
利田家の人々の中で、取材手帳にある文子さんの自宅電話も、戦友会代表の自宅も、銀さんの一時帰国を支援した地元の長寿会会長の事務所も、電話が現在使われていないとのことだった。
わたしは次にタイの日本人会に当たってみることにした。果たしてどんな情報が入手出来るのであろうか、一縷の望みを託しながら。

      *

二○一二年(平成二十四年)十一月二日。わたしはタイの日本人会から返信を受け取った。
「利田様は以前確かに当会の会員でしたが、退会され、既にご他界されたとのことで御座います」
 銀さんの当時の年齢から推定はしていたものの、やはり二十六年という歳月の壁は超えられなかった。
わたしはタイの寺でご住職から頂いた仏像に向かい、銀さんの霊安らかなることを祈った。
 自宅近くの図書館で、全国の電話帳が閲覧できることがわかり、大阪府・市を中心に電話帳を調べてみることにした。ひょっとしたら朋靖さんの電話が載っているかも知れない。大阪市から始めて、しだいに大阪府内各市の電話帳を片っ端から当っていった。偶々「利田」姓は、数が少ないのが、作業としては都合がよかったが、結局名前は見つからなかった。大阪府以外に転出している可能性もあるし、そうなれば雲をつかむような話になってしまう。
 もう一度当時の取材手帳の電話連絡先の項に目を通してみた。朋靖さんのひとつ上の姉、文子さんのご主人、辻野ヒデノブさんの名前では、電話帳はまだ調べていない。手帳の電話番号は以前掛けてみた時に、現在は使われていないとメッセージが回った。
「辻野ヒデノブ」で、電話帳に載っているかも知れないと思い、再び図書館に足を運んだ。大阪市の電話帳で「辻野」姓を調べていくと、鶴見区に「辻野秀信」とあった。しかも、町名は横堤(よこづつみ)で、敬子さんらの中華料理店があった場所だ。
 わたしは「辻野秀信」さんが、文子さんのご主人に違いないと思った。逸(はや)る心を抑えながら、早速電話を掛けてみた。
 女性が出た。会社名と名前を告げて「文子さんですか」と尋ねたら、「どういうご用件でしょうか」と返って来た。かいつまんで銀さんのことを告げると、待つように言われた。
 次に電話口に出たのが、銀さんの弟、大作さんの三女、文子さんだった。一時帰国した銀さんと娘のマリワンを空港で見送った後で、二人のことを「貧しくても心はリッチよ」と印象的な言葉を放った人である。
驚いたのは、所在を探していた朋靖さんが亡くなっていたことだった。
それも前年のことで、心筋梗塞で倒れ、五十三歳という若さで帰らぬ人となったという。後には奥さんと二人の息子が残された。
朋靖さんは利田家では最も銀さんとマリワンに関わっていた印象が強かった。文子さんによれば、二人の帰国後も二、三回ではあるが、手紙の交換をしていたという。残念ながら、その手紙も残っていないということだった。
「二十六年も経ってしまいました。一度お会いしてお話が伺いたいです」
 わたしのことを少しは覚えて頂いていたようなので、心強く思い、取材を申し込んだ。
 
          *

二○一二年(平成二十四年)十一月十二日午後二時。わたしは大阪・西区新町にある会社の社長室に案内された。文子さんのご主人、秀信さんはIT関連企業のトップで、文子さんも一緒に経営に当たっていた。文子さんは長女の伊都香(いつか)さんと次女の紗耶香(さやか)さんを伴って、社長室に来られた。わたしはご一家四人を前に、色々とお話を伺った。文子さんはマリワンといとこ同士で、伊都香さんと紗耶香さんからすれば、銀さんは大伯父(おおおじ)にあたり、マリワンは従叔母(いとこおば)にあたる。
 秀信さんが口火を切られた。
「わたしが当時のことで、よく覚えているのは、銀三郎さんの奥さんが、夫が日本に一時帰国すれば、ひょっとしたらもうタイに戻ってこない恐れがあると、帰国に猛反対したことです。しかし説得されて、帰国を許す代わりに娘のマリワンをお目付け役にし、一緒に日本の地を踏むことにさせたということですね。もうひとつは、銀三郎さんが未帰還日本兵を支援する名目で関係者が集めた浄財何百万円かを受け取る際、その浄財を額に擦り付けるようにして有難がったことと、浄財をタイに持ち帰り、新しく家を建てて、子どもを大学に通わせたいと言ったことです。二十六年前の日本円で三百万、四百万と言えば、タイでなら、それの十倍として、数千万円にもなったでしょう」
わたしは、タイ帰国後の銀さんを身近に知る人物として、何とかマリワンに連絡を取りたいと思い、ダメもとで当時彼女が勤務していた病院気付と水際生活の自宅宛に手紙を送っていた。しかし、返信はなかった。
文子さんの娘、紗耶香さんは次のように話した。
「当時のことは、小さかったから状況すら覚えていません。大伯父さんは戦争で人生を変えられてしまった。今までどういう気持ちで生きて来たのか。何故タイで暮らし、日本に帰って来なかったのか、知りたいと思いました。そして、一時帰国する前と後でどう変わったのか、マリワンさんに確かめてみたいと思います。人を無理やり戦争に駆り出しておいて、未帰還兵になっても放ったらかしにして来た日本政府なんて、一体何なんだと思います。戦争やから仕方が無かったっていうのは理由にならないと思いますよ」
 
       *

 銀さんがいつ、どのような形で亡くなったのか。何処に埋葬されたのか。わたしはタイの日本人会を通じて、帰国後の銀さんを知る人物を探した。
 ある日、関係者から来たメールに「バンコク在住のカメラマン、瀬戸正夫さんが利田さんのアユタヤの自宅を二度ほど訪問したことがあるので、直接お尋ねください」と、電話番号が添えてあった。
 銀さんを直接知る人物にやっとたどり着けたことに、心が騒いだ。
わたしは瀬戸さんに電話を入れてみた。彼は日本の大手新聞社の元カメラマンで、一九六○年代から残留元日本兵を追いかけていた。取材の過程で、アユタヤの銀さんに出会ったと言う。
 だが、二十六年前以後の銀さんのことはご存知なかった。
 わたしは電話で話しながら、メモを取った。
「未帰還兵は脱走兵でも、逃亡兵でもありませんよ。勝手にそんなレッテルを貼られている。そんな兵隊は、タイで千人以上いたはずです」
 瀬戸さんの声に怒気がこもっていた。
「未帰還兵の中にはマスコミに絶望して、取材拒否をする人もいました。彼らは祖国から遠く離れ、異国の地で望郷の念を抱きながらも、苦労に苦労を重ねて、淋しい思いで細々と生き長らえて来たんです。地元のタイ人に助けられながら。戦争中、赤紙で応召させておいて、戦場に駆り出し、終戦になって、帰還しなくても後は放ったらかし。日本政府の無責任さには呆れ果てます」
 銀さんの境遇を浮かべながら、メモを取り続けた。そして、いつかマリワンに会えることを期待しながら、受話器を置いた。

最終章

 新たな年、二○一三年(平成二十五年)を迎えたが、マリワンの消息は不明のままだった。わたしは、前年お会いした辻野秀信さんが翌月社用でバンコクに行かれ、その際マリワンを捜し出してみようとおっしゃっていたのに、淡い期待を寄せていた。
 二月十五日、辻野さんがマリワンと再会されたという一報がもたらされた。わたしの心もはずんだ。
 一体どのようにして彼女の居所がわかったのか。辻野さんの帰国を待って、話を伺った。
 探索範囲は銀さん一家が住みついたアユタヤ。そのアユタヤの村ごとにいる長老に、タイ人看護師で、父親が日本人で、マリワンという名の女性はいないかと尋ねて回り、わかったという。
 辻野さんにはマリワンが勤める病院の前で撮ったスナップ写真を見せていただいた。二十七年前よりも顔と身体は丸くなってはいるが、当時のままのほほ笑みを蓄えたマリワンが辻野さんら一行と写っていた。わたしはその時、彼女に会うためにタイに行く決意をした。早速、辻野さんから紹介を受けたバンコクにある日系ツーリストを通してマリワンと会うべく、段取りを進める。
 マリワンはわたしのことをよく覚えているとの連絡が入った。提示した日程の中で、三月二十三日の土曜日に再会することになった。
 三月二十日、わたしはタイ国際航空でバンコクに向け、関西空港を飛び立った。
そして夕刻、二十七年ぶりで二度目のタイに降り立った。今度は一回目のドン・ムアン空港ではなく、スワンナプームという新国際空港であった。
 タクシーでバンコク中心街にあるホテルに向かう。客を乗せた途端、噴出したエアコンの冷風が落ち着くまで、熱帯モンスーンの猛暑が肌を攻め立てていた。逃げ遅れた蚊が一匹、車内でわたしを狙っていた。
「蚊がいるぞ!」
 わたしは英語で叫んだ。今年初めて見かけた蚊を手で追いかけ、後部座席で奮闘した。
運転手は蚊一匹で大げさな客だとでも思っていたであろう。
長くて寒い冬をやっと抜け出し、春めいた日が顔をのぞかせ始めた国から一気に猛暑の国に来た実感は、一回目の訪問と同じである。季節もちょうど同じ三月下旬だ。
しかし、車窓に展開する風景は何処か初めての感じがした。その後高架の高速道路網が出来て、沿道の寺院などを見下ろす形になる一方で、高層ビル群が目立つようになったからだろう。ホテルでチェックインを済ませて、十一階の部屋に入り、窓から市内を一望した。近くを走る高速道路は大渋滞を引き起こしていた。
      
      *

 三月二十三日。いよいよマリワンと再会する日がやって来た。彼女は一時帰国した後の父親の暮らしぶりをわたしが尋ねたいことをツーリストとの連絡で知っていた。
しかし、彼女は一時帰国後五年くらいで結婚し、実家を離れたので、より長く父親と暮らしていた姉や妹を同席させるという配慮をしてくれていた。
 わたしは通訳を伴って、バンコク中心部から五十分ほどにある日本食レストランに向かった。銀さんの四人娘が、長姉の家に程近いレストランの個室を予約していたのだ。通訳と部屋で準備して待っていると、間もなく一行が到着した。
 ほほ笑むマリワンと目が合い、思わず握手した。やっと会えたのだ! 懐かしい顔、顔、顔。姉のソンクリーン、妹のアンチャリーとジラワン。皆と微笑を交わしながら、席についた。
 バッグから何枚か写真を取り出す。二十七年前のバンコクでの取材の際、訪れた銀さんの高床式民家で撮ったアンチャリーとジラワンの写真。マリワンの来日当時の写真。それに銀さんに撮ってもらった三十歳半ばの写真である。その写真を姉妹に手渡した。
「わたしもご覧の通り、髪の毛がとっても薄くなって禿げ上がりました。写真と比べてみてください」
 通訳がタイ語に訳すと、席が笑いに包まれた。
「皆さん、今日は小生の希望を実現させていただき、本当にありがとうございます。ご承知のとおり、亡くなられたお父様とマリワンさんは今から二十七年前に日本を訪問され、またこのタイに戻って来られました。その後、お父様がどういう生活をされ、暮らされて来たのかを中心に皆様に質問させていただきますので、どうかよろしくお願いします」
 早速インタビューに入った。
ソンクリーンは二十七年前と変らず、名門チュラーロンコーン大学の職員で、五十四歳になっていた。妹のアンチャリーは四十五歳。知的障害があり、ソンクリーンと妹のジラワンとともに暮らしている。末妹のジラワンは四十三歳である。
マリワンは四十九歳となり、アユタヤにある病院に看護師として勤務し、HIV患者の担当だという。米穀販売業者の夫との間に大学生の一人息子がいる。息子は「母の希望で、大学では薬学を専攻しています」と言って、ほほ笑むマリワンと目を合わせた。マリワンはアユタヤから家族三人、自家用車で駆けつけてくれたのだ。
わたしは事実の確認をしながら、四姉妹の話に耳を傾けた。
 銀さんは日本で頂戴した寄付金を資金にして、家を建てた。新築の家屋は以前から住んでいた川沿いの高床式民家とつないで、古い民家は倉庫になった。帰国後も相変わらず薬草の研究を続けた銀さんは植木を愛し、薬草のメモを書き溜めていたという。そのメモは銀さんの死後も倉庫に保存されていたが、二○一一年(平成二十三年)十月初旬、タイ中部を中心に発生した大洪水によって倉庫が水害に見舞われ、散逸してしまったという。銀さんと一緒に入ったあの泥の川も大増水したのだ。
マリワンは、日本の親戚の名前をよく覚えている。また日本訪問当時に親戚らと撮った写真を大切に保存していた。彼女が如何に父の親戚を大切に思っているのかがよくわかる。インタビュー中に見せる表情は、銀さんを彷彿とさせる。
銀さんはマリワンとタイに戻ってからも、特に目立った生き方の変化は感じられなかったが、祖国が経済的に発展を遂げた様子を目の当たりにして、非常に誇りを感じ、機会がある度にニッポン自慢をしていたという。
「お父さんからは、正直に、誠実に生きるように言われました」とソンクリーン。マリワンとジラワンは「お父さんは言葉にこそ出さなかったが、不言実行で如何に生きるべきかをわたしたちに説きました」と話した。
 娘たちによれば、銀さんは日本から帰って約十年、すなわち七十九歳頃までは医者を続けていた。
しかし、病が銀さんの身体を徐々に蝕んでいった。心臓のポンプに血栓が出来て、手術でとりあえずの回復を見たが、血栓が脳の血管にも広がり、脳梗塞を引き起こした。そのため右半身が不自由になった。それでも自力で歩いて、トイレにも行ったという。
 ジラワンが語る。
「病気になってからお父さんはそれまで太陽を拝むのが常だったけど、プミポン国王の長寿を祈るようになりました」
 銀さんがタイの天皇陛下と呼んだ国王も高齢となり、自分の病気と重ね合わせて、国王には長生きして欲しいという銀さんの願いだったのであろう。
 それまでずっと言葉を発しなかったアンチャリーが顔をしかめて何かを言った。
「部屋が寒いそうです」
 通訳がわたしに言った。姉妹がエアコンの冷気が直接当たらない席に移るようにアンチャリーを手伝った。
 マリワンが結婚して家を出て、ソンクリーンとジラワンがバンコクに住んでいた頃、アンチャリーは母親プラーパーとアユタヤに住んでいた。その頃退院した銀さんはソンクリーンのバンコクの家で療養していたが、奥さんのプラーパーが銀さんの世話をしたいということで、銀さんはアユタヤに移ることになった。
 その頃の銀さんは自分の父母や、一時帰国の際名古屋の病院で再会した姉のとし子さん、
行方不明の銀さんをずっと捜し続けた弟の大作さんのことなどを思い出しては話をしていたという。亡くなるまでその記憶はしっかりしていた。
 そして二○○四年(平成十六年)十二月二十六日、長年暮らして来たアユタヤの自宅で食べ物を喉に詰まらせて、呼吸困難に陥り、亡くなった。享年八十八であった。
 銀さんの四人娘のインタビューを終え、わたしはお願いしてソンクリーンの家に安置されている銀さん夫婦の遺骨を拝ませてもらった。
銀さん夫婦の遺骨は一階にある祭壇に置かれ、銀さんと二年前に亡くなった奥さんのカラー写真の遺影が立てかけられている。タイでは死者を葬るのは散骨が普通だが、亡くなった家族の遺骨の一部を散骨せずに持ち帰り、骨箱に安置して正月などに拝むこともあるという。
 わたしは用意したトワン・マーライ(花輪)を銀さん夫婦それぞれの霊前に供え、持参した数珠を指に掛けて、魂の安らかなることを祈った。
祈りながら、スラムの医療に取り組んで来た銀さんの言葉を思い出していた。
「患者には貧乏な人が多いんです。金のない人から取るのは日本人としての道義が許しません。日本人である以上は高利貸しのような気持ちにはなれませんわ。タイの病院は治療代が高い。ここでもらうのはわずか。そんな調子だから、患者はわしを拝んでくれます。そういう患者は信用できます。金持ちは拝もうとしません。ここにいる以上は貧しいタイ人の味方になってね。わしも後、命も何年もないから、日本人として、タイ人に良い感情を残しておく。あの日本人のお医者さんは良かった、と言われるようにしたい。後から来る日本人がタイ人から良く思われたらそれでいいんです」
ともに訪れたあの寺で、銀さんが語った言葉が心にしみる。
「この寺で先代にお世話になりました。居候になってね。脱走してから心の落ち着く暇がなかった。敵に捕まったら命はない。家もなし、金もなし、カカアもなし。そんな時にお坊さんが助けてくれた。本当に親切にしてくれました。地獄に仏ということですね。今でも感謝しています。寺には漢方に詳しいお坊さんがいて、何年も漢方のことを教わりました。それで何とか独り立ちする基礎が出来ました」
わたしはもう一度、遺影でほほ笑む銀さんを見つめた。
                                      終