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第25回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」佳作入選作

デカダンス 
―それでも私は行く―
(織田作之助の苦悩)

 吉川さちこ

  

戦後すぐ、『ヒロポン』という夢のような薬が薬局で売られていた。これを飲めば倦怠感がとれ、気分爽快、頭脳明晰。空腹感はなくなり自信増大、多幸感が得られ、闘志増加、さらには体力増強、二日酔いや乗り物酔いにも効果があるという。その名前の由来はギリシャ語のヒロポノス─労働を愛する─からきているという。
こんな「疲労をポンととる」がキャッチフレーズの『ヒロポン』は大日本製薬(現・大日本住友製薬)によるメタンフェタミンの商品名。つまりは今でいう立派な覚醒剤であった。
「覚醒剤取締法」で規制されている薬物は、基本的には
 ・フェニルアミノプロパン(アンフェタミン)
 ・フェニルメチルアミノプロパン(メタンフェタミン)
の二種類に分類されるが、メタンフェタミンのほうが、アンフェタミンより強い興奮作用があり、いわゆる現在、「シャブ」「エス」「スピード」「アイス」「メス」「クリスタルメス」と呼ばれるものに相当する。
さて、この『ヒロポン』は太平洋戦争以前より製造されていたが、覚醒剤としての副作用や中毒に関する認識はまだなく、主に軍部を中心とした軍用薬品として、特攻隊の青年達への抗不安剤、あるいは過酷な工場勤務の眠気覚ましとして用いられていた。終戦後、軍が解散されると同時に大量のストックが市場へと流れ出す。当時は新聞や雑誌で大きく宣伝されたうえ、敗戦後の混乱した退廃的な風潮とも相まって、単なる医薬品というよりは、むしろ嗜好品として大流行する。そのうち錠剤より効き目の強い注射薬が発売され、芸能人、作家たちのあいだで大量使用が始まった。ヒロポンを使用した有名人の中で今日とくによく知られているのが、『夫婦善哉』で知られる大阪の作家・織田作之助(大正二年(一九十三)─昭和二十二年(一九四七)である。

さて一昨年(二〇一三年)はそんな織田の生誕百周年だった。五月には大阪・松竹座で、六月には新橋演舞場でジャニーズ及び、元宝塚のメンバーら豪華キャスティングによる音楽劇『ザ・オダサク』が上演されたのをかわきりに、八月にはNHKで森山未來、尾野真千子主演のドラマ『夫婦善哉』が放映、九月には大阪歴史博物館で『織田作之助と大大阪』展が開催されている。さらに十月には生誕地近くの生玉神社境内に織田作之助の銅像が建立。その他数々のイベントと連動し、年間を通して七十三本もの関連記事が朝日、毎日、讀賣らの新聞各紙に掲載された。今なお織田は根強い人気をもつ作家だといえよう。

『織田作之助と大大阪』展の開催に先立ち、織田の遺族である織田禎子氏から約二千枚の草稿が貸し出された。その資料整理を手伝っていた筆者は、織田の書き損じの草稿の裏から、当時同棲中だった彼の恋人・輪島昭子(大正十一年(一九二二)─平成十六年(二〇〇四)、舞台女優、織田亡きあとは銀座の文士バー『アリババ』のマダムとして活躍)のメモとも日記ともいえるものを目にした。
 記載された日付から判断すると、これらが書かれたのは昭和二十年秋、昭子二十二才。日記の内容はいずれも、愛する事の悲しさ、さらには絶望感を訴える悲壮なものであった。終戦直後のこの時期、流行作家として駆け上がる織田に、それを支える昭子の身に一体何があったのか?
今回見つかった昭子のメモ、日記をふりだしに、筆者は彼女が書いたエッセイ、雑誌でのインタビュー記事、また当時のカストリ雑誌、新聞、さらに生前の織田、昭子を直接識る人々への聞き込み、関連場所への取材を続けた。その結果、見えてきたのはヒロポンに心身を侵され、その中毒症状の苦しみの最中にいる織田の壮絶な姿だった。この観点から、改めて織田作之助の生涯、特にその後半(昭和二十年から二十二年)の部分を紹介したい。

第一章 敗戦直後の身勝手男
1.1 道なき道

さびしい
つらい
くるしい
そんな様にしたら
あの人は
仕事ができぬと
叱ります
誰にも言えない苦しい事だけ
おまえに話します
そして私は
どんな時でも
楽しそうにしてないと
あの人は嫌がるのです

 これは現在、大阪府立中之島図書館・織田文庫に保存されている織田作之助の草稿の裏面に記されたメモである。(分類は作者不明草稿No.142‐2)。少し横流れな字体から昭子の書いたものであることに間違いはない。日付は不明。

昭和二十年八月十五日(水)大阪郊外・野田村(現在の堺市北野田)
前夜から徹夜し、映画監督マキノ正博に依頼されていたシナリオ『五人の雑兵』を仕上げた作之助は、これを京都に持参しようと出かける準備をしていた。ゲートルを巻き、弁当を昭子に作らせていると隣組から、昼のニュースをきくようにとの連絡が入った。
作之助は急遽、京都行きをとりやめ、同居していた昭子、姉・竹中タツ、義兄・国冶郎(竹中夫妻は三月の大阪大空襲で焼け出され、野田村の織田家に同居していた)とラジオを聞く。
それは玉音放送だった。
作之助はキョトンとした目で、ひどく苦い顔をしてタバコばかり吸っていた。が、知らぬ間に二階へ上がって、座卓の原稿用紙の前に座っていたという。
第三高等学校の学生であった頃から肺結核を患い、徴兵検査では丙種とされ、召集を逃れた作之助は戦争には驚くほど無関心ではあった。が、九月九日(日)発行の「週刊朝日」に、『永遠の新人―大阪人は灰の中より─』を寄せており、「すでに大阪には新しい灯が煌々と輝き始めた」と敗戦後の復興について雄弁に語っている。また、八月三十一日(金)に映画監督・川島雄三宛に以下の手紙を送っている。

平和来る。万物逝いて復えらずといへども、新しく生まれる希望もあり。まづ生きのびたことをお互い祝ひ合ひましょう。
文芸復興近し。その暁には、日本軽佻派の名乗りあげるべく、ひそかに期しております。
近頃、昼は猛然と「戦争と平和」を読み、夜は近所の連中を相手にマージャンに打ち興じつつあり、その間タバコは吸ってをりますから、御安心ください。
(中略)
……内緒で申し上げますが、小生さいきん恋をしてをります。「この恋もどかし」とは、西鶴五人女「八百屋お七」の名文句ですが、まさしく小生もその通り……

昭和二十年九月
昭子は滅入っていた。
ふらりと出かけたまま、作之助が二十日間も帰ってこないのだ。二、三日の無断外泊なら、今までにも何度かあった。が、今度ばかりは事情が違っていた。
……どうやら彼に新しい恋人ができたらしい。
お相手はラジオドラマの仕事で通っていた大阪・NHKで知り合ったオペラ歌手の笹田和子。東京音楽学校出身の第一流の歌い手で、ラジオでもさかんに歌っていた。戦後の音楽界に現れた新星、ヒロインともいえる存在だった。

しかし、昭子には作之助のこの新しい恋が意外だった。
何故なら、彼には忘れられない妻・一枝がいる。カフェの女給だった彼女は、高等学校の時に知り合い、七年待って、八年目に結婚した恋女房。しかし、昭和十九年八月、子宮癌のために三十二才の若さで死去。作之助は彼女を喪い、慟哭。家を出ようとする棺にとりすがり、「三年したら、俺もいくよってになあ」と人目を憚らず泣き叫んだという。
そんな一枝の骨壺は、昭子がいるというのに、まだこの野田村の家の仏壇におかれている。深夜に作之助が骨壺の蓋を開け、中の骨を眺めているのを昭子は何度も目撃していた。死してなお彼の心を独占し、妻の座を譲り渡さない女性・一枝。そのため昭子は作之助から妻とは認められないまま、この家で愛人とも、家政婦とも、あるいは女弟子ともつかない宙ぶらりんの状態で過ごしてきたのだ。
無断外泊の後、帰ってきた作之助は、ひどく機嫌がよかった。執筆も捗っているらしい。それに、どこか精力的でエネルギッシュなのだ。彼の気持ちが浮き立たっているのは新しい恋のせいなのか? 遠回しに上機嫌な理由を聞くと、ヒロポンを飲み始めたからだという。
「これがな、よう効くんや。ほら、ご近所の麻雀仲間で刑事やってる植田さん、あの人が薦めてくれたんや。眠気がサアッととれまっせ、っていってな。そりゃあ、もう、ようきくで」
作之助は、「夜明けを見なかった日はない」というほど、昼夜が逆さまの執筆生活を送っていた。目が覚めるのは早くて午後二時。それから紅茶を飲み、新聞を読み、郵便物を開けるなどして、床でグズグズする。午後は野田村から、ふらりと電車に乗って大阪辺りへ繰り出す。当時は南海電車ではなく近畿日本鉄道線、一時間に一本電車があり、野田村から難波までは三十七分、切符は片道六十銭。大阪では仕事の打ち合わせ、或は麻雀や囲碁、お茶を飲んで過ごした。作之助は空の高い日に陽の当たる縁側で日向ぼっこするような男ではなく、喧騒の中に自分を置いてみて初めて心が安らぐといったタイプの人間だった。帰宅は大抵終電。それから夜明けまで執筆する。また肺結核を患いながらも一日にタバコ百本、コーヒー三十杯、医者嫌いの無類の薬好き、そんな作之助にとって眠気覚ましのヒロポンはうってつけの妙薬だったのだろう。

……今、新聞三回分を書いてほっとしたところですが、ヒロポンをのみすぎたのと、タバコを吸ひすぎたので、フラフラの状態で、味噌をなめたいくらゐですから、今日は要件のみの殺風景な手紙にとどめて置きます。末節ながら皆様によろしくお伝えください。
○倦怠といふことは応々にして叡智の表れであるが、叡智といふものは常に倦怠といふ表れを取るとは限らない。
○幸福とは来るものではなく、これを掴むものである。もっと正確に言へば掴もうとする努力のなかに幸福がある。
九月六日(木)午前四時 不一、作
(織田から従妹の浅井民に宛てた手紙より引用)

作之助は以前とは人が変わったように精力的で強気になった。むんむんと逞しい。金遣いも気前がよくなっていた。そして、先生、先生と呼ばれるのを周囲の人々に見せたがった。
「おれは物すごうえろなったんやぜ、おばはん。世の中がひっくり返り、おもしろうて仕様がないんや」
作之助の変わりように目を見張ったのは身内だけではなかった。大阪にある喫茶店『コンドル』のマダムの井上節もその一人。彼がヒロポンの錠剤を多く飲んでいる事を聞き、
「こんなことしてたら、あかんわ。それより……」
彼女は慌てて、嫁さんの世話をしようとした。
「昭子さんとは一体どないなってるの?」
「あれは単に手伝いの女や」
「何を言うてるの、一年も同棲しておいて。あんたはええとことの息子でもないのやさかい、ぜいたくいいな!」
「何を言うてるんや、オバハン」作之助は真顔になった。
「おれはええとこの生まれやねんぜ。織田信長の子孫なんやよって、ちゃんとせないかんのや!」

作之助は大阪の下町の生まれ。貧しい魚屋の倅として育った彼は人一倍、負けん気がつよく、猛勉強の末、当時名門であった京都の第三高等学校に入学している。そんな織田が本当に信長の子孫であったかどうかは不明であるが、おそらくこの時期、精神的な躁状態のためにそのような言葉が飛び出したものだと思われる。

さて昭子には、あからさまに笹田和子のことは言わなかった。が、ある日、
「なあ、アコ(昭子のこと)、お互いもう雨ジミみたいな間柄になってしもたと思わんか?……」
作之助は壁のシミを見つめ、突然、わけのわからないことを言いだした。
「雨じみ?」
言われてみれば確かにシミがある。昭子は、とりたてて気にとめたこともなかったが、作之助はまじめな顔で言うのだった。あのシミが異常に気になって仕方がないのだと。形を変え、大きさを変え、目に映る。人の顔、動物、化け物のようにも映る、と。
このところ、彼の感覚は変なのだ。風が白いと言い出したり、『花紅柳緑ピアノの上に赤と黒』という奇妙な俳句を読んだり。色彩、音に異常なまでに敏感になっている。
それにしても、一体、壁のシミみたいな間柄とは?
首を傾げる昭子に、
「だから、別れよや。お互い嫌いにならん前に」
「……別れる?」
突然の言葉に、昭子は衝撃を受けた。
雨漏りの残る天井を見上げ、「この家のことやがな……」作之助はタバコをふかせた。
「戦争でも焼けもせず、ずうっと六年間も世話になった。この家で前の嫁はんも亡くなった。思い出のある、愛着のある家やけど、アコと俺と二人で住むには、広すぎると思わんか?」
「じゃあ……」
「戦争も終わったんや。アンタも自立してみんか?」
「……」
「俺も出来るだけのことはしてやるさかいに」

僅か一年足らずの同棲。戦時中でもあり、食べ物や必需品に事欠く苦しい生活だったが、それ以上に昭子を悩ませたのは、仏壇に置かれたままの遺骨、そして作之助の女性関係だった。が、昭子は耐えた。それは作家として、真摯に原稿用紙に向かう作之助の姿に尊敬の気持ちをもっていたからだった。

昭和二十年一〇月一日 七時起床。道無き道、週間毎日 帰途佐々木氏宅との由
今日から日記をつけます。
人間も世の中もまるで思って居つた事とは違ひます
一体どうしたら良いのでせう。
愛すると云う事はこの様に無惨なものなのです
一番良い事は 何気なく私が消滅する事、私のできる一番良い事はこんなに愛して居る人の傍から去る事なのです、
此の世で別れ 別れに生活する事は私にはとてもできないのです
だから私は是からでも 死 ばかし希つて居るのです
若しも私でなかつたら 愛する人は もっと変わって居るのでせうか?
そう考えると身も世もなくなります、
あの事があって この人の中にみて居たものが一瞬に去ってから私は益々 死ばかり思つて居ます
あの人にはなんでもない事が(と云って居るのですが)私にはこんなに絶望的、たつた是丈と云はれるそうな事で極まで来てしまつたのです

十月十九日(土)曇 トキニ雨 一〇時三十分
一時五分で京都へ行かれる
姉上かほる荘に女中言づけて炭をとどけて下さる
内田さんより通信あり
ラジオに新聞にみるにつけ 聴くにつれ
騒然たる無秩序の世界
個人主義 自由主義 そして此処に民主主義
何時の場合も旦に日本的と云う島国根性を冠せるといやらしくなる
人を愛する事以外 何もかも嫌
今日は京都泊り 
ペペも淋しがって居る
家のペペ位可愛らしい犬が世界中にもう一匹居る譯はない
(織田作之助の草稿裏、昭子の日記より)

昭和二十年十二月
婦人参政権が認められ、労働組合法が公布、また第一次農地改革が始まり、一気に民主化が進んだこの月、昭子は手切れ金ともいえる二千円を作之助から渡される。向かった先は京都。知り合いを頼り、撮影所での仕事を求めたが、まだ終戦直後で映画業界は本格的に動き出してはいなかった。
別れのその日、昭子は荷物と荷物の間でネッカチーフを被って泣いた。このネッカチーフは東京で女優として活躍していた頃、作之助からプレゼントされたもの。空襲警報が鳴り、二人で上野公園の防空壕に逃げ込んだ時も昭子は、しっかりこれを握っていたものだった。

どうしてあげる事も できない みっともない事
酔い事無しに私が消滅する事だけが
あの人にとつて 良い事なのだから
望みも 夢もすべて無くなつた
残るのは
私の惨めさだけ
“死” 是丈がどうやら私を この苦痛から救ってくれるらしい
愛する事のこの無惨さ 人生も人間も
すべて まるで違ふ 
私には何にも解らない
ただ悲しくて 気が狂い相なだけ
今日四人の人と話したけれど 誰も彼も
女は可哀想 愛情にも生活にも愚かさにもすべてに敗けてしまふ
嗚呼 一層 私を殺して呉れたら
不幸夫人は 私の手をしつかり掴んでしまった。
(昭子の日記より、日付は不明)

一方、作之助は羽織袴姿で、意気揚々と兵庫県宝塚市にある笹田家の豪邸へと向かい、そこで入り婿のような形で暮らしはじめる。

「……寔に文化のみが暗き世の一筋の光明とも愚考されます今日明日、私達はそれぞれ文学、音楽の道に昨日の覚悟を新たにするつもりでございます」

昭和二十一年二月十八日付で挨拶状が出され、新聞でも二人の結婚が報じられた。が、この結婚生活は、あっという間に破綻する。歯科医を営む笹田家は上流家庭のクリスチャン、一方の作之助は下町の長屋育ち。生活習慣も本人同士の性格もまるで違い、どう考えても最初から無謀な結婚だったのだ。
昭和二十一年三月七日(木)、作之助は別府に滞在中の昭子に宛てて以下の手紙を書いている。

忙しいのと、西沢さんのところがわからなかったので、つひ手紙だしそびれていました。今日は大阪は雪で、とても寒く、ヒーターに当っていると、まづ想ひだすのは野田村のことで、仕事もあまり捗らないといへば、もう万事察しがつくと思ふが、結局は僕の感受性といふものはどんなに他人と合ひにくいものであるかが、やっとわかった次第、二十三日以后心から笑ったのは、大阪の町を一人で歩いてゐて、友人に会った時だけ、あとは暗い気持ちだ。悪い人たちではないが、僕の神経は絶えず傷つけられてゐるので、仕事のコンディションは、はっきり言えば今が最悪だ。(中略)あんたにはいろいろ苦労させて、申し訳なかったが、今はじめてわかったことは、あんたが僕の感受性をどれだけ尊重してくれたかといふことだ。野田村もペペもなつかしい。(中略)別府でも辛いだろうが、そのうち笑って会へる日もあるだろう。毎日想い出さない日はないが、今はこんな状態に追ひこまれてしまってどうにもならない。君も不幸だが、僕も幸福ではない。

また、この新婚ともいえる時期に、作之助は前妻・一枝を追慕し、一枝にちなんで、一番の馬券ばかりを買う高校教師を主人公にした小説『競馬』を、また『注射』、『蚊帳』、『世相』を書いている。昭子との出会いを題材にした長編小説『夜の構図』を構想したのもこの時期らしい。筆が進まないといいながらも、書くこと以外、楽しみを見いだせなかった。それを裏付けるように昭子へ宛てた別便で心境を打ち明けている。

 永遠に昔の夢をえがきながら、永久に現状に不満を抱いている。(中略)おれも存外いい才能を持ちながら、つねに不幸な人間なんだろう。もう、やはり文学に生きるだけの人間になってしまった。この世で何のたのしみもないことがわかった。
一生いい仕事をして、一生貧乏して、一生わびしい想いで終わる。これも俺らしいだろう。仕事だけはまア一生けんめいやってゐるから安心してくれ。これは誰にもいってくれては困るが、おれもいつかは(近い将来)に君のところへ何らかの形で帰って行くのではないかと思っている。君はしひて待つ必要はないが、しかし、待つつもりなら、ただ一つ、健康に気をつけて、自重して暮らしてくれ。
石はもう女房の死んだ時から転がりだしてゐるのだ。転がりつづけて、世間に非難されながら、陋巷の一作家として終わればいい。

 結局、作之助は万年筆と原稿用紙、身の回りの物を風呂敷に包み、宝塚の婚家から飛び出す。向かった先は京都だった。

第2章 デカダンス
2・1 それでも私は行く

ケースの中からヒロポンのアンプルを取り出し、アンプル・カッターを当てて廻すと、まるで千切り取るように二つに割った。ポンと小気味のよいその音は、逃げて行った細君へ投げつける虚ろな挑戦の響きの高さに冴えていた。興奮剤のヒロポンは、劇薬であり、心臓や神経に悪影響があるので、注射するたびに寿命を縮めているようなものであった。しかし、不健全なものへ、悪いと知りつつ、かえって惹きつけられて行くのがマニアの自虐性であり、当然アンプルを割る音は退廃の響きに濁る筈だのに、ふと真空の虚ろさ澄んでいるのは、退廃の倫理のようだった。
(『土曜夫人』・身の上相談 4 より)

「おれの青春は終わった、後は余生や……」
四月─。別府から戻り、作之助に再会した昭子は驚いた。彼の人格がすっかり変わってしまっていたのだ。まずヒロポンの使用量が多くなっている。以前は錠剤がほとんどだったのに注射器を用いるようになっていた。さらには服装も変わった。おそらく米軍払下げの品を闇市ででも手に入れ、間に合わせで着ていたのだろうが、以前の彼ならば絶対に手を通さないはずの好みの派手なチェック柄のシャツだった。六十男のような渋い身なりこそダンディズムにふさわしいのだと主張してやまなかった作之助が、西部劇に出てくる田舎紳士そこのけの派手な柄の上着を身につけている。しかもそれが、長身で猫背の彼には、なかなか良く似合うのだから妙だった。そして現在、写真にも残っているとおりの無精な長髪、革ジャン、足は雪駄ばき。近家を風呂敷ひとつで逃げ出し、京都に来た作之助は、三高時代からの友人で『世界文学社』社長の柴野氏宅に滞在、その後は旅館を転々としていた。
作之助の変化は外見だけではなかった。無邪気さ、明るさがなくなり、けたたましくなった。どこか投げやりで意地悪く、ぞっとするほど虚無的になっていた。ジェントルマンであった筈なのに、残酷なことをして喜ぶ男に変わっていた。女性への警戒、そして嘲りが見え隠れし、三条木屋町で芸者と泊まり、すぐ前の部屋にわざと昭子を寝かせ、それを楽しんだりもした。ノスタルジアを喪い、本物のデカダンスに陥ってしまった作之助の変わりようが昭子は哀しかった。せっかく再会できたというのに、何故こんな目に遭わなくてはならないのだろう。昭子は再びメソメソと泣き暮らす。
あの女性のせいだ─。作之助本人を恨むより、笹田和子に対し怒りがこみ上げた。が、しかし昭子は彼には何も言いだせなかった。

「また同棲するのはあんまりええ加減や」と、義兄の竹中国冶郎は昭子を富田林の竹中家に置いた。京都にいる作之助から電話がかかってくる。そのたびに昭子は、下着や原稿用紙やインキを届けに行った。京都で仕事をするのは大抵は旅館で、千切屋、欧涯荘、秋田屋など、新聞社に紹介された宿が多かった。転々とするたびに所持品が散り散りになる。着るものがちぐはぐで、「家無き大人」というかんじだった。
住所不定のため、作之助宛ての郵便物は全て富田林に届く。生活必需品の他にも、彼宛ての手紙、そして姉・タツのつくってくれた弁当も昭子はせっせと届けた。少しでも以前の作之助に戻ってほしい一心だった。

京都日日新聞で『それでも私は行く』の連載が始まり、五月二十四日(金)からは大阪日日新聞にも『夜光虫』を書くことになった。
出版社や編集者から頼まれれば、「よう断らん」作之助の生活は恐ろしいほど忙しくなる。終戦から半年。新円交換が始まり、三月三日(日)には旧円の流通が禁止されている。闇市場が活気づく一方、戦争に疲弊していた人々は知的なものを求めはじめていた。そんなニーズにこたえるべく、全国規模で出版社の創業が相次いでいた。街にはカストリ雑誌が氾濫し、作之助が笹田家にいた時期に書いた『競馬』、『世相』は皮肉なことに文句なしの傑作で若い世代の間で人気が沸騰した。取り巻きさえできており、作之助はもはや有名人になっていた。
特に『世相』は焼け跡を舞台に流転し、めぐり合う人間模様を巧みに描いた秀作。阿部定の話を入れ、新しいスタイルで挑んだこの小説で執筆依頼が増えた。それと同時にヒロポンの使用量が増え、新聞小説一回分(四百字詰め原稿用紙四枚)を書くのに、2ccずつヒロポンを打つようになった。

「俺はOP製薬の回し者や」
ある日、京都から富田林に帰ってきた作之助はヘラヘラと笑いながら細い腕に注射を打ちまくった。
「もう、注射があらへんで!」その声と同時に昭子は慌てて薬局へと走っていく。が、その日、富田林にある三軒の薬局には不思議なことにヒロポンは一本もなかった。がっかりして帰ると、作之助はムカッ腹をたてた。
「なら、ワイが行ってくる!」と、出ていったものの、忽ち悄然として戻ってきた。それは当時売り出し中の漫才師ミス・ワカナの富田林公演のせいだった。ワカナはひどいピロポン中毒だったので、駅に着くなりマネージャーが薬局に走り、アンプルを買い占めたというわけだった。
「オダサクより、ミス・ワカナの方が実力があるわい」作之助はそう言って感心していたものの、注射がきれれば、たちまち仕事ができなくなった。昭子はわざわざ大阪まで薬を買いに出かけた。

 ついでに一本、と打たれた注射のおかげで、昭子も完全な中毒患者になってしまっていた。フラフラになっているのだが、「一本ポンと注射をうつと、いままでピノキオのようにギクシャクしていた肉体に、血が通い、神経が通う」、しゃんとする。毎日「雲の上でも歩いているよう」な状態で掃除をして、注射を集めて、下着類や原稿用紙、タバコ、仕事のための必要品いっさいをボストンバックにつめ……京都にいる作之助からの連絡を待つ、そんな生活だった。

原稿が売れ、儲かるぶん、作之助は金遣いが荒くなり祇園で遊ぶことも多くなった。おそらくはヒロポンの副作用もあっただろう。作之助は女性にも見境がつかなくなっていた。祇園の舞子を口説き、先斗町の芸者、撮影所の女優、木屋町のバーや喫茶店の女性と次々関係をもった。京都では、『電信棒』というあだ名の背の高いダンサーと半同棲していた。もちろん、富田林にいる昭子はそんなことは知らない。

五月十日(金)昭子と電信棒は、蛸薬師富小路西の『千切家別館』で、ばったり出くわす。が、事件はこれにとどまらなかった。
その日の正午頃、NHK大阪放送局の佐々木芸能部長のところへ、宝塚の貴婦人達(笹田の母親・ヒデヨと和子)が訪ねてきた。和子が妊娠しているので処置したい。ついては作之助の承認が要るのだが、居所をおしえてもらないかというのだった。(当時、堕胎には配偶者の承認が必要だった)
笹田母娘を応接室に待たせておいて、佐々木はデスクに戻り、京都の『千切家別館』の作之助に電話をいれた。
「おばはんがいっしょやったら、あかんでえ」
電話口の作之助はまるで状況が見えているかのように、そう言った。
「和子だけなら、会いはるか?」佐々木が聞くと、
「……うん」織田は、ふくみ笑いして答えた。「そらあ、会うてもええで、本人だけなら……」
さてヒデヨが京都まで和子につきそって行ったのは、娘ひとりをおっぱなして、作之助と縒りがもどってはこまるという危惧からだった。家風に合わぬ、神をおそれぬ婿は、もうごめんだった。
が、佐々木からきいてきた『千切家別館』の玄関の前まで来ると、ヒデヨは脇の簾子格子のところで足を停め、竹を植えこんだ向こうに、ほの暗い式台が覗いている内玄関の方へと和子を押しやった。女中におしえられて二階へあがった和子は、作之助のいる奥まった部屋まで行ったのはいいが、用件を切り出すどころではなかった。何故なら、電信棒と輪島昭子が、掴みあいにおよばんばかりの見幕で大声をあげて、派手にもめている最中だったからだ。
 下着類をとどけに、富田林の家からふらっとやってきた昭子が、先客の電信棒とぶつかって、大もめにもめたのは、べつにヤキモチが原因ではなかった。売りごとばに買いごとばの応酬が急速に増幅して、口論となった。そこへ和子が突然現れたものだから、その場の空気は新入りの和子も、わけのわからないケンカの渦にまきこまれざるをえない状況となった。
昭子は突然現れた初対面の和子に動転したが、彼女がここにきた理由が堕胎の為だと聞き、目の前が真っ白になった。
作之助が、「わかった、ハンコをつく……」と頷くのを待たず、「どういうことなのよ!」昭子が飛び出し、和子にむしゃぶりついた。
「好きなひとの子供なら、堕そうなんて思わない筈でしょう?」
作之助への恨みより和子への憎しみが湯沸し、つかみ合いになった。
この騒ぎでついに作之助は千切家の番頭に追い出されてしまう。

2・2 夜光虫
笹田和子の件は医者に渡す書類に作之助が捺印して、ひとまずけりがついた。
有頂天になって結婚を天下に公表し、婚家へと向かったあの日の羽織袴姿と、目の前に突き付けられた中絶許可証。聞くところによると、作之助は和子に対し、「君は天才、僕は奇才、二人の間にどんな子供が生まれるだろう」と言っていたという。
だとしたら彼はどんな気持ちで、その書類に印を押したことだろう。自分という存在を否定され、子孫を絶たれ、どれほどプライドを傷つけられただろうか。
この騒動以降、昭子は作之助のそばから離れなくなる。いつもヒロポンのアンプルとタバコを入れたカバンを提げて、ついて歩くようになった。作之助の生傷を目の前に見、彼以上に自分も深く傷ついたのだろう。彼が可愛そうでならなかった。作之助を傷つけた笹田母子に対し抱いた憎しみは、彼との強い仲間意識に変わり、自分こそが織田作之助の本当の女房という自覚が生まれた。
ヒロポンを打ちながら、徹夜仕事する作之助の傍に座り、昭子は辞書をひき、助手がわりをつとめた。もともと嫌いな仕事ではなかった。小説の構想について作之助から意見を求められると、「こうしたら、ああしたら……」、と自分の考えも喋った。が、作之助は、なかなかウンとは言わない。つい、昭子もイライラしてきて、沸かして入れてきたコーヒーを、わざと書きかけの原稿紙の上にこぼしてやったこともあった。
朝、出来上がった原稿を手に昭子は郵便局へと走った。住む家もなく、旅館暮らしの行き当たりばったりの生活だったが、かまわなかった。一緒に地獄に落ちてゆく決意でついていった。
ナマな感情をあらわにし、血の上った素顔を向け始めた昭子に作之助の態度も少しずつ変わり始めた。二人の間に、わだかまりや遠慮がなくなった。コミュニケーションが深まり、本音を理解しあえるようになった。この頃より、作之助は昭子のことを、『オバハン』と呼ぶようになる。人前でもかまわずそう呼ぶ彼に、
「アタシはまだ二十三よ!」昭子は言い返す。それでも、やめようとしない作之助。昭子は彼を、『作やん』と呼び返すようになる。

当時の二人と親交のあった伊吹武彦(フランス文学者・作之助の高等学校時代の恩師)は以下のような文章を「織田作之助全集1」の解説に寄せている。少し長いが、貴重な証言だと思うので、そのまま引き写したい。

……織田作は昭子夫人のことを「オバハン」と呼んでいた。彼はとりわけ、彼の「オバハン」から「気イ」つかってもらいたかったにちがいない。というのは、ある日、これもまた世界文学社で、こんな光景をわたしは目撃したからである。
織田作は『土曜夫人』の原稿を書いていた。新聞社の使いが夕方五時には取りにやってくる。いま午後三時半。織田作はイライラしながら、ペンを動かしているが、筆はいっこうに進まない。
「オバハンどこへ行きよったんやろな」とじりじりしている。昼過ぎから買い物に出かけた昭子夫人が予定の三時になっても世界文学社へもどってこないのである。三時四十分―やっとオバハンは買い物包みをさげて帰ってきた。
織田作は、怒る─というよりは、むしろ訴えるような声で、
「オバハン、どこ行ってたんや。帰るいうた時間にそばにいてくれな(いてくれなければ)原稿書けへんやないか」
「すんまへん」
二人のやりとりはそれですんだ。だがわたしの気持ちのなかには、それだけでは終わらないものがあった。わたしはふと『夫婦善哉』を思い出していたのである。
むろん織田作は『夫婦善哉』の柳吉のような「ぐうたら」ではなく、昭子夫人は、蝶子とはおよそかけ離れた人柄だろうと思う。しかしわたしは、蝶子を「頼りにして」いる柳吉の物語をそのときふと思い浮かべたのである。

東京娘だった昭子が大阪のオバハンになった。彼女はもう、めったなことでは泣かなくなった。あつかましく開き直った。『作やん』は命を削って書いている。だからアタシも命をかけて尽くすのだ─。
「アコ、お前やないと、アカンねん」
そんな作之助の言葉に、昭子はきっぱりと自分自身に言い聞かせるのだった。
「この人、アタシじゃないとダメなのよ!」

しかし、やはり「女、女、女」に変わりはなかった。もちろん、嫉妬したが昭子は感情を隠さなくなった。その一方で、前妻・一枝のことを持ち出されても、自分への侮辱やからかいとは取らず、むしろ自分への甘えと受け止めるようになった。何か言われてもハイハイと受け流せるようになった。或はもっと踏み込んで、この人はアタシが守らなければならないという意気込みさえもつようになっていた。そんな気構えのオバハンに、作之助もこれまでにない信頼を寄せ、二人の絆はどんどん深まってゆく。

二日続きの雨が御體にさはらなければ良いがと心配して居ります。確か、シャツがちぎりやさんに置いてある筈です。面倒でもワイシャツの下にシャツを重ねて御召になって下さい。風邪をひくとなかなか抜けませんから。
十六日、伯父さんは無事に別府に行かれました。京都からのおみやげは、とても喜ばれました。歯磨きは旅行用に欲しい由、差し上げました。ピーナツ、石鹸、歯磨き、タバコ、この頃よく気をつけてくれると喜んでいかれました。
今日は姉上が大阪へ行かれたので、留守居をして居ります。ペペは泥んこになって雨の中で吠え立てています。今日から駅前の新聞やに頼んで(おいた)大阪日日が毎日はいるので、『夜光虫』が読め、とても楽しみです。今日のコントには、吉田さんのがのって居ました。なんだかとても貴方(の文章)を真似してるように思えました。京都では久しぶりに贅沢させてくださって嬉しかったな。忘れません。外で食事するなんて三年ぶりでした。 *()は筆者による

これは昭子から作之助に宛てたメモの下書き(中之島図書館・所蔵)である。日付は不明だが新聞連載『夜光虫』の記載があることより、昭和二十一年六月から七月頃に書かれたものだと思われる。実はこれと同内容のものが三枚あり、作之助宛ての伝言を書くのに、昭子は三回も下書きをしていたことがわかる。やはり作之助は昭子にとって特別な人だったのだろう。

笹田の堕胎事件から二か月後の七月、作之助は出版社の世話で、京都市左京区下鴨下河原町に二階建ての家を買った。下が八畳、六畳と台所、上が六畳二間。「京都に、ちゃんとした家をこさえた」、と作之助は姉・タツに報告し、彼女を喜ばせている。十一月にはこの家へ引っ越すと、知人にも手紙で知らせているが、結局ここに二人で住むことはなかった。この半年後、作之助は帰らぬ人となる。

昭子と連れだって四条河原町を歩いていたとき、作之助は手相を見てもらった。五十二才位から、めきめき書けるようになる、と言われ、「まだまだ苦労せなあかん」、と喜んだ。「十年後の日本を書く」と張り切った。
八月八日(木)、作之助の小説が原作の映画『新婚第一夜・鸚鵡は何を覗いたか』が松竹で封切られた。監督は大曾根辰夫、主演は佐分利信。記録には残っていないが、作之助も昭子も見たことだろう。

2.3 死神

午前四時
忘れていた、忘れていた、
やがて死ぬ身であることを、
飯をくらいお茶をのみ馬鹿話しして、
けちくさい恋も照れてやり、
小説本を読みながら、
死ぬことを忘れていた、
やがて死ぬことを
(織田作之助の日記より)

 京都日日新聞『それでも私は行く』の連載は七月二十五日(木)に終わった。
依然、執筆に追われ忙しいが、その頃より作之助は富田林の竹中家に落ち着き始める。文名が上がり、俄かに来客の多くなった作之助は竹中家一階の二間続きの広い客間を占領し、義兄夫婦の方が裏座敷を使う事態となった。

大阪日日新聞の『夜光虫』の連載は八月九日(金)まで。この八月九日は一枝の三回忌にあたる。ずっと身辺から離さなかった亡妻の骨を彼は遂に楞厳寺にある織田家先祖代々の墓に入れている。それは昭子への思いやりか? あるいは半年後となる自分の死への、何らかの予感があったのかもしれない。

この夏頃から作之助は、けだるそうで、しきりに咳をした。顔は青く、目の下には隈があった。痩せて、皮膚がカサカサして、起き上がるには、「よっこらせ……」と、両手を踏ん張らなければならない。暑い日はサルマタひとつで仕事し、昭子やタツに、「こんなになっても書かなあかんねや」と算盤のように痩せた胸を叩いてみせた。油照りの中、疲労は重なり、身体は衰弱する一方だった。そのためにもヒロポンは必要だった。一本打つと、体がしゃんとして仕事ができた。

八月三十一日(土)より、東京讀賣新聞の連載小説『土曜夫人』の執筆を開始。しかし、これと同時にヒロポンの使用量がさらに増え、一日二箱(十アンプル)使用するようになる。
作之助の健康が気になっていたが、昭子は彼のヒロポン乱用を止めさせることはできなかった。自分自身、ヒロポン中毒になってしまっていたからだ。
「依頼された小説が納品できれば、あとはもうどうでもいい……」それが注射で二十四時間もたせている作之助と昭子の共通のテーマとなった。寝る時間も惜しんで、書きつぎ、書きつぎしても仕事は相変わらず山積みのままで、晴れ晴れとした顔というのは、注射のアンプルをカットする時だけ。流行作家の現実の生活はわびしいものだった。

九月、作之助は小説『死神』の執筆を開始する。これは二年前の九月三、四日に連続して起きた南海高野線での脱線転覆事故から発想を得たもの。作之助は、線路に死神が憑りついたと、イメージを膨らませ、不気味で前衛的な小説に仕立てている。続きを予定していたが、(彼自身の死で)未完に終わる。

又この頃、作之助は敬愛していた志賀直哉に『世相』を汚らしいと酷評され、ショックをうけている。(志賀は著名な財界人、政治家を身内にもつ名門出身。当時は小説の神様と言われていた)以後、彼は志賀への反感を強め、この気持ちは一流への、そして東京文壇への挑戦へと形を変えていく。

……世には俗物が多い。佃煮にするぐらい多い。多すぎる。
外界の変化に応じてますます増えてくる。
すべて皆精神を忘れてしまった連中で、自分を精神で見張ることを怠ると必ず俗物になります。
(浅井民への手紙より)

九月中旬、作之助は評論『二流文楽論』を脱稿。これは文楽の第一人者であるのに、一介の市井人として倹しく暮らした津太夫以下、文楽の人々をモチーフに、一流を名乗る文学者を批評する内容。『世相』をけなした志賀直哉への挑戦状だった。
この異常なまでの闘志も、あるいはヒロポンの作用によるものであったかもしれない。この時期、作之助本人も注射するたび寿命を縮めていることに十分気付いており、秘かに「六神丸」だの「救心」だのを併用して心臓をいたわっている。
しかし、その強力な依存性には勝てなかった。ヒロポンの効果が薄れる前に、次のアンプルを切ってしまう。覚醒状態は薄れることなく、「再び色鮮やかな世界へと踏み込んでゆく」。ヒロポンが無ければ一字も書けない状態だった。

ヤミの米と栄養価の高い食べ物を口にしていても病気(肺結核)は明らかに進行していた。作之助は日ごとに痩せてゆく。そんな彼をみかねて、
「注射ばかしして、ダメじゃないのっ!」
注射と注射の間の昏睡から覚めた昭子が声を荒げる。しかし、
「ええんや! ヒロポンやめたら仕事がでけへんのや」
作之助は注射針にアンプル液を吸い上げるのをやめようとはしない。昭子がむしゃぶりつき、注射を止めさせようとする。が、それより早く作之助は服の袖をまくり上げ、きらきら光る眼でまだ皮膚の柔らかい部分を探し始める。その顔に、そして差し迫った気迫のようなものに、昭子は飲まれてしまい、声もでなくなる。
注射液が皮膚の下に流れ込み、作之助は身震いしながら快感の表情を見せる。そんな彼の姿に、彼女はただオロオロと手をこまねくばかり。うっかりしていたら、昭子自身も腕をつかまれブラウスの袖をたくしあげられ、打たれてしまう。
「君も、一本、どうや」作之助は誰彼構わずに注射したがるので困った。気の弱い編集者等は皆、彼にヒロポンを打たれた。まさしくヒロポン地獄だった。そんな作之助に、ある出版社は執筆依頼にヒロポンを添えた。陣中見舞というわけだった。

十月十四日(月)ミス・ワカナが心臓発作で死亡。その間接的な死因はヒロポン注射五本を立て続けに打ったためだとされている。

2.4 可能性の文学

今は小説を書くために、自分の人生を浪費しているのではないかとさえ思うぐらいだ。すくなくとも、私は小説を書くために、自分をメチャクチャにしてしまった。これは私の本意ではなかった。しかし、かへりみれば私という人間の感受性は、小説を書くためにのみ存在しているのだと、今はむしろ宿命的なものさえ感じている。
(夕刊新大阪『私の文学』(昭和二十一年九月二十四日)より抜粋)

 十月頃より作之助は上京する事を考えていたらしい。
 『土曜夫人』の刊行について、実業之日本社や日本社、世界文学社から申し込みがあったが、以前から知り合いであった鎌倉文庫の出版部長・厳谷大四が直接京都へ出向き、作之助に頼むとその場で承諾した。その時も、「どうも、これせんとあかんねン」、といきなりヒロポンを打ち、厳谷を驚かしている。この種のエピソードは多い。作之助流のデモンストレーションであったのだろうか。それともヒロポンがなければ人と会えない状態になっていたのか。
二年ぶりで作之助に会った厳谷は、彼の面貌が一変しているのに驚いた。痩せ衰えて顔色が悪い。「近いうちに東京へ行くさかい、そのとき金くれや」というのが条件だった。金額は三万円。「金は湯水のように使うので何ぼでもいるんや」。出版の前祝をしようと伊吹武彦らを加え、その夜は木屋町に繰り込んでいる。

私は目下孤独であり、放浪的でもある。しかし、これも私の本意ではなかった。私は孤独と放浪を描き続けているうちに、ついに私自身、孤独と放浪の中に追い込まれてしまったものだった。だから私は今、私を孤独と放浪へ追いやった私の感受性を見極めてこれを表現しようと思っている。……(中略)書きつくしたいのだ。反吐を出しきりたいのだ。その後には何も残らないかもしれない。おそるべき虚無を私はふと予想する。

(夕刊新大阪『私の文学』(昭和二十一年九月二十四日)より抜粋)

 十月二十一日(月)、二日(火)の二夜。京都新聞会館で世界文学社主催の火の会芸術祭が開かれ、作之助は講演する。講演タイトルは不明だが内容は、「日本の文学はすべて二流である。一流文学の真似事で自分をカムフラージュせず、二流文学者として、それに徹することで、新しいスタイルが生まれる。志賀直哉の小説の形式を盲信している限り、日本の新しい文学はでてこない……」。これは九月に書いた評論『二流文楽論』と、当時構想中だった『可能性の文学』の内容をミックスさせたものだった。
作之助はやせた肩をいからせ、長髪をたえずかき上げ、ポーズを作り、舞台を歩きまわった。なかなかの演技者だった。
「あなたたちは借り着の悲しみをご存じないだろう。この上着もズボンも、みんな人に借りて、私はいまここに立っている。だけど、私の思想は借り着ではありません」
ブルーのライトが強すぎて、顔が真っ青に見えた。さらに彼は続けた。
「私はもう長くは生きません!」ドストエフスキーやシェイクスピアを一流だと称えたあとで、「直哉は二流だ!」、そう叫んだ途端に、客席から「お前は三流や」とヤジが飛んだ。作之助は一瞬ひるんだが、すぐに二言三言、くってかかった。
初めて彼の講演を聞く昭子は胸をドキドキさせ、呼吸をつめ、祈るような気持ちで聞いていた。演台に立つ直前に、ヒロポンを二本注射したせいだろう。もののけに憑かれたように、のりに乗って喋っている。ただブルーのライトのせいで、顔が青鬼の青さになり、革ジャンパーにフラノのズボンの借り着の晴れ姿は、まるで巨大な影が立っているかのように見えた。目がつり上がって、常人の目ではない。つり上がったまま、鋭角的に目玉がチャッと動く。人間の目の動き方じゃない……。
死神? ふっと彼の最近の小説のタイトルが脳裏に浮かび、昭子は慌ててその不吉な四文字を心から振るい落そうとした。

第3章 上京、そして死
3・1 土曜夫人
これは俺の実験小説だ、あらんかぎりの人間の可能性を書くのだ、と勢い込んでいたものの、『土曜夫人』は失敗作だった。連載が始まり二か月たっても、京都のキャバレーの一昼夜の出来事から抜け出せない。連載が七十回をこえても、小説の構想は広がる一方で登場人物ばかりが数を増してゆく。作之助も行きづまりを感じたらしい。小説の舞台を東京に変えたい、その取材を兼ねて上京したいと、讀賣新聞本社に申し出た。
許可がおり、出発前日の十一月九日(土)、讀賣から手伝いの人が来て、富田林の家がごった返した。姉・タツはとうとう過労で倒れてしまう。
翌十日(日)、大阪支社の記者・赤井弥一郎が迎えにきた。上京の支度を終えた作之助は革のジャンパーに手を通しながら、「姉(ねえ)、どないや、どこ悪いねン、悪かったら注射したろか、お医者呼んだろか?」と、姉の様子をのぞき込んだ。タツは、その弟の顔に優しい悲しみを見た。何か虫のしらせがする。意気軒昂としているが、その胸は洗濯板のように痩せている。
「大丈夫や、行っといで。体には着イつけや」タツが言うと、「ふん、僕、死ぬのン平気や、生きてンのもみじめやでエ、僕が死んでも何やかや姉の食べるくらい残すさかいな」作之助はバサバサと長髪をかき上げた。肺結核はすすんでいるのを彼は自分で知っていた。
「ほな、行ってくるで」といったん外に出ては、また引き返す。
「ええから! わてにかまわんと行っておいで!」とタツは声を励ました。
見送った後ろ姿は、生きてみる最後になった。
と、門の辺りで作之助が昭子に大声を出すのが聞こえた。
「病人があるのに、お前は家に居らんかア、姉さん看たらんかア!」

作之助は昭子を富田林に置いて行く。彼は大阪駅へと向かう途中、難波で途中下車し、道頓堀の『コンドル』に寄り、マダムの井上節に会っている。節は作之助の影が何やら薄いような気がし、「この人死ぬんと違うやろか」と嫌な予感がしたという。また作之助はお気に入りだった女性を店に呼んでもらい、東京に一緒に行かへんか、と誘った。しかし、「女はそんならとすぐ行けるもんやないわ」と断わられた。「そんなら、あとから来いや」。作之助は読売新聞に東京行の切符二枚の手配を頼んでいたという。身のまわりのことをしてくれる女性が必要な作之助は昭子の代わりに、その女性を連れて行こうとしていたのか。結局、赤井と彼女が大阪駅まで見送り、作之助は一人、夜行列車に乗り込んだ。

翌朝、上京した作之助は讀賣新聞社へと向かった。文化部のデスクに腰を下ろし、挨拶が終わるなり、いきなりポケットから注射器を取り出し、ヒロポンを打ってみせ、初対面の文化部次長の藤沢逸哉を驚かせている。
その夜は新聞社が用意した築地の闇旅館へと案内された。
「明日、もう一人来ますので……」作之助の言葉に、もっと落ち着ける宿を探すことになった。が、当時はまだ食糧難の時代で米を持っていかなければ旅館へ泊めてもらえない。暖房のため木炭も必要だった。

その後、作之助は東京新聞の頼尊清隆と落ち合い、愚痴っている。
「……うちの女房は、僕が一日か二日家をあけると、もう女に手を出すん違うかとおもて、すぐ追っかけて来よんねん。もうそろそろやって来よる時分や」
タツの具合が悪いからと昭子を置いていった作之助だったが、実際体調不良だったのは彼本人だった。ひと時は減っていたヒロポンだったが、上京の慌ただしさに乗じ本数が一日二十本を越していた。元気そうに見えても、空咳が続き常に熱があった。
四日後、昭子が上京する。その一週間後に、二人は讀賣新聞社の近くにある銀座松屋裏の佐々木旅館へと移動する。旅館と言ってもバラック建て。看板などは掲がってはいない。訪問客があまりにも多いので二階全部を借り切った。

 築地育ちの昭子の家族は東北に疎開していたが、終戦後、東京に戻り、浜離宮の近くに住んでいた。昭子は作之助を自分の主人だと家族に引き合わせたらしい。以下は、昭子が東京から、富田林の竹中夫妻に宛てた手紙である。

如何お過ごしかと気になりながら、思ひがけぬ忙しさに毎日追われて、つい延び延びになりお許しください。朝九時頃から日に十人以上の来客がつめかけ、原稿と座談会、対談会で、まだ一日も外出して、のんびりする日はありません。小説は大変な評判で、讀賣では夏からまた連載して織田作之助だけでゆきたいと言って居ります。雑誌でもひっぱりだこで、映画スターみたいに毎日写真を撮りに来て、東京での人気はびっくりしてしまいました。張り合いがあるのか、大変元気で風邪一つひかず、毎日忙しがって活動致して居りますから、御安心くださいませ。(中略)
一昨日、一寸暇ができたので板橋の家へよって貰いました。大変に喜ばれて、是非家へきてほしいと言ふのですが、暇が無いから駄目だと行かないで居りましたら、今日まいりました。忙しく盛な有様を見て、驚いて居りました。若くて優しい良い人だと皆、喜んで居ります。東京はとてもさびれて、大阪、京都には何かかなわない感じで物も関西より乏しいようです。久しぶりに関東に来てみると、関西の食物は美味しいことがしみじみわかります。
テリ、ペペは元気で居る事と思います。犬を見かける度に思ひ出してしかたがありません。随分気にかかるものです。
くれぐれも身体に気を付けて、元気で居られますように、祈っています。お目にかかる日を楽しみに。
          十一月二十九日 昭子

手紙にもあるように上京した作之助を待ち受けていたのは、讀賣新聞だけではなかった。婦人画報社の熊井戸立雄、文芸春秋の徳田雅彦、中央公論者の海老原光義、東京新聞の頼尊清隆、そして改造社の西田義郎。出版社や新聞社から次々に作之助のもとに仕事が持ち込まれる。当時の東京のマスコミが作之助に求めたのは、混乱する風俗の描写、反抗精神、そしてエロだった。東に舟橋、西に織田。これが当時の編集者らの合い言葉であったという。愛欲の小説を次々と発表する舟橋聖一に対抗させるべく、作之助にも「軽薄」で「刺激的」なものを書かせようというのだ。

 讀賣新聞の藤沢は、ストックのない『土曜夫人』の原稿(三枚半)を取りに、毎朝出社前に佐々木旅館に顔をみせた。
追い立てられる作之助の生活は注射の切れ目に、つんのめるように眠りに着く毎日となった。毎日が締切の連続で、恐ろしいことに二つの作品が同時に締切だったり、締切日を過ぎてしまうものもあった。作之助とマネージャー役の昭子の生活は昼夜の区別がなくなり、敷いたままの蒲団は体力が弱り、寝そべって書くための、やはり仕事場だった。
 寝汗がひどかった。冬だというのに、いくらか時間が経つと、まるで泳いだ後のようにぐっしょりと濡れた。昭子がバスタオルでその汗を拭いてやると、その体は体中の骨格がむきだしになり、標本室に飾られた人体模型そっくりだった。うつむいて原稿を書けば、その肩甲骨や背骨がグリグリと波打つようにもみえる。酷い痩せ方だった。
「……文学は恐ろしいもんや」
注射と注射の切れ目の時間にみせる、百歳の老人のような作之助の老け込み方に昭子は言葉をなくす。

殺到する編集者や新聞記者に囲まれ、作之助は毎日注射器を持って外出する。
十一月十七日(日)より東京新聞に、『サルトルと秋声』を三回連続で、二十日にはNHKから講演を依頼され、二十二日(金)にはマルクス主義者・岩上順一と『文学とエロチシズムをめぐって』対談した。十一月二十五日(月)夜、作之助は太宰治、坂口安吾との座談会に出席する。『現代小説を語る』というタイトルだったが、太宰と坂口は既に酒が入っており、放言を乱発。その夜半より再び、同メンバーで改造社主催の座談会が開かれたが、太宰と坂口の酒は進む一方で、とりとめのない内容となった。日付は不明だが林芙美子との対談も実現した。こちらは『夜の構図』を連載中の婦人画報が主催した。タイトルは『処女という観念』。対談は新宿・下落合の林邸で行われ、作之助は昭子を同伴した。この対談会で、座に着くなり作之助が注射器を取り出し、腕に刺したところを、同行のカメラマンがすかさずシャッターをきった。また菊池寛から使いが来て、雑司ヶ谷の菊池邸にも出かけ、将棋を指した。
作之助は得意満面だった。沢山の編集者に追いかけられ、おだて上げられ有頂天だった。傍若無人にふるまい、金遣いは荒くなる一方。札束をわしづかみにし、天井に吹き付けるように使い、当時は貴重品だったラッキーストライクを周りにいる人々に投げ与えた。
銀座裏のバーを夜な夜な梯子する。そんな作之助の後ろには必ず改造社の西田の姿があった。
西田の胸には、「織田に爆弾的評論を書かせよう」という企みがあった。京都での火の会の講演を聞いた西田は、作之助のいう『可能性の文学』をもっと強烈な内容なものにし志賀直哉らの私小説を叩かせようと、文壇を攻撃させ、マスコミの注目を集めようという戦略があった。

……志賀直哉とその亜流そのほかの身辺小説作家は一時は「離れて強く人間に即く」やうな作品を作ったかもしれないが、その後の彼らの作品がますます人間から離れていったのは、もはや否定しがたい事実ではあるまいか。彼らは人間を描いているというかもしれないが、結局自分を描いているだけで、しかも、自分を描いていても自分の可能性は描かず、身辺だけを描いているのだ。他人を描いても、ありのまま自分が眺めた他人だけで、他人の可能性は描かない。彼らは自分の身辺以外の人間には興味がなく、そして自分の身辺以外の人間は描かない。これは彼らのいわゆる芸術的誠実のせいだろうか。それとも人間を愛して居ないからだろうか。或は、「彼らの才能の不足だろうか?
(『可能性の文学』より抜粋)

小説とはそもそも何であるか? それはフィクションであり、ロマンであり、人間の可能性について描くものである。自分の身辺に起こったことをつらつらと書き綴る私小説ではいけない。これが『可能性の文学』の主張であり、作之助の叫びだった。
「朝までに書かせる」、という西田に缶詰にされ、作之助はヒロポンを打ち徹夜で原稿を書く。

十二月四日(水)、正午。讀賣新聞社の藤沢が佐々木旅館にやってきた。
別室へ作之助を誘う。それは『土曜夫人』を年内に打ち切りたいとの通告だった。嫌な役目の藤沢はできるだけ感情をおしかくし、その報せをつたえるとそそくさと立ち去った。藪から棒の話に表情を失くしたまま、作之助の右手はすぐ注射器にのびた。が、針は固くなった皮膚にイライラととおらない。見かねた友人の青山光二が、看護兵だという実績を見せて、手ぎわよく注射した。昭子には後ろ姿をみせていたが、その肩の怒らしかたは、不本意な納得しかねる気分を充分に背負い、行きくれたように心もとなかった。
「実のところ、新聞小説はおれも少々疲れたよ……」
作之助は弱音を吐かなかったが、打撃は大きかった。その夜、彼は大喀血し、一月後、ついに帰らぬ人となる。昭和二十二年一月十日、享年三十四才。

エピローグ
婦人画報社の熊井戸は、西田がこう宣言するの聞いている。
「日本の文壇に爆弾をかかえて織田を突入させる」
作之助の人生最後の叫びとなった『可能性の文学』を掲載した『改造』十二月号が書店に並んだ頃、作之助は既に死の床にいた。西田の思惑どおり、まさに爆死させられたというわけだった。
その頃、西田ら編集者は話し合っていたという。
「この流れが済んだら、私小説に帰ろう……」と。

昭和二十二年一月十三日、作之助は桐ケ谷火葬場で荼毘に付され、白い骨に変わった。
その夕方、料亭での仕上げの席に二重回しを羽織った太宰が、ひょっこりあらわれ、黙って仏前に追悼文を置いた。
その一部を紹介する。

……世の大人たちは織田君の死に就いて、自重が足りなかったとか何とか、したり顔の批判を与えるかもしれない。が、そんな恥知らずの事はもう言うな!……織田君を殺したのは、お前じゃないか!

*織田を苦しめたヒロポンは昭和二十四年、劇薬指定を受け、翌々年の二十六年、覚醒剤取締法施行により一般人の使用、所持が禁じられた。しかし時すでに遅く、以後、覚醒剤は密輸や密造により、社会に蔓延してゆくこととなる。

あとがき
「喀血の血は赤じゃない。橙色をした、生きた血でね、ぶくぶくと泡立っているんですよ……」
自ら肺結核を患い、喀血した経験のある稲垣真美氏は筆者にそう語ってくれた。現在八十八才になられた稲垣氏は昭和四十八年、輪島昭子に直接会われ、織田の評伝『可能性の騎手』を執筆されている。
平成二十六年六月、筆者は京都で氏にお会いし、この原稿(原題は『この恋もどかし』を査読していただき、お話を伺った。ヒロポンが当時、東京大学の生協でも売られていたこと、新薬ストレプトマイシンが手に入らなかった戦後の状況等々……。
また稲垣氏によると、結核には喀血性と、非喀血性の二種類あるとのことだった。
「実は喀血性のほうが、ずっとたちがよくって、これは栄養をとって、安静にしていれば治るんですよ。……それにしても、昭子さんは何故もっと織田の暴走をとめてくれなかったのかなあ」
死の床で織田は最後に「おおきに」と昭子に言ったのかどうか、記録にも残ってはいない。喀血後、佐々木旅館から東京病院(現・東京慈恵医科大学付属病院)に運ばれた彼が果たして、生きようという気持ちをみせたのかどうか、筆者は気にかかってならない。そうであってほしいと願う。さらには、自分を思ってくれる女性がいることに、昭子の愛に、織田が気づき、生きようと思ってくれていたならば、どれほど彼女は救われただろうかと思う。

昭子にとって織田は命かけて愛したただ一人の男性だった。
報われない恋だと思う反面、愛する男性と一緒に生き、そのひとを看取ることができ、彼女は幸せだったのではないかとも筆者は思う。織田があの名作『世相』、『競馬』、それに『可能性の文学』他を世に送り出すことができたのも、昭子の支えがあってのことだった。織田没後、昭子は道頓堀で『コンドル』を手伝い、その後は林芙美子に私淑。若手作家と結婚し離婚。東京に戻ってからは、新宿で雇われママになり、銀座に自分の店『アリババ』を持ち、平成十六年十二月十三日、八十二才で亡くなっている。

さて昭子は昭和二十年、織田が笹田和子のもとへ去って後、山市千代(『夫婦善哉』の蝶子のモデル、織田の姉)を頼り、別府に行き、そこで生活している。彼女の滞在から、六十八年後の平成二十六年二月、筆者はその地を訪ねた。驚いたのは、湯煙のむこうに雪をいだく山(鶴見岳と扇山)が望めたことだった。南国の保養地らしからぬそのシュールな風景に、思わず目をみはった。戦争で焼けていない街には、竹瓦温泉、駅前高等温泉をはじめ、戦前からの建物が数多く残っていた。また駅から海にかけてのエリアには細い路地裏が張り巡らされている。織田が二階の窓から顔を出し、煙草を吸っていたという建物も、最近まで現存していたというが、昭和二十一年二月から三月にかけて昭子が滞在していた西沢家の場所は不明だった。「竹瓦かいわい路地裏文学散歩」を主宰されている平野芳弘氏、別府市の日刊新聞『今日新聞』の記者・小野弘氏にもご協力をいただいたが、西沢家があった栄町六班は特定できなかった。小野氏によると町名では栄町ではなく栄区であり、昭和四十年頃に新町名に変更。栄区、錦区、此花区が一緒になって、現在は光町になっている。西沢家はずっと西法寺裏(南側)にいたとの情報があるとのことで、栄町ではなかった。
路地に一歩踏み込めば、そこには置屋や検番、貸席といった色街の名残も数多く残っていた。しかし、千代とその夫の乕次が経営していた流川通りの割烹『文楽』は、今はカラオケ店のビルに、また別府駅裏の旅館『文楽荘』(戦後に山市夫婦が開いたもの)は駐車場に、また乕次亡きあと、千代が経営していた甘辛の店『夫婦善哉』は中華料理店に建て替えられていた。甘辛の店『夫婦善哉』には、映画で柳吉を演じた森繁久弥氏も来店した様子。千代と森繁氏がカウンターに並ぶ写真が現存するのみである。

織田と昭子が暮らした野田村(南河内郡野田村丈六)も現在、北野田と地名を変えている(現:堺市丈六174)。難波から南海電車(南海高野線急行)で二十分、北野田駅は現在、駅ビルに改築されている。改札を出、連結した駅ビルの二階に上がる。そのまま通路を歩き、エスカレーターで一階に降り三分も歩けば、織田の住んでいた家に到着する。六軒長屋のひとつだった織田の家は今は惣菜屋さんに変わっているが、隣家はブロック塀以外、当時のままの姿で残っている。筆者が最初にこの場所を訪ねた時、フランチャイズ店の入った駅ビルから、わずか数分の場所に、まだこうした昭和二十年代の家屋がポツンと残っていることに驚かされた。
思えば、織田ゆかりの建物はここしか現存していない。大阪市天王寺区の生家も焼けてしまったし、高等学校時代の下宿も今は単身者用マンションに、竹中夫婦が住んでいた富田林の家も駐車場に変わっている。織田が買い、昭子と住むのを楽しみにしていた京都下川原町の家も今はわずかに隣家との壁に沿うかたちで庭の植栽、飛び石が残っているのみである。
あの難波の法善寺でさえ、水かけ不動尊以外は戦後のものだというのだ。
午後の遅い時間でもあり、また大きなビルの陰になっていて薄暗かったせいでもあるのか、織田の住んだ長屋建物の前にたたずんでいると時間の谷間にスリップしたような不思議な感覚に襲われた。織田を識る浅井民氏が語ってくれた通りに、二階の雨戸が、今にもガラリと開き、「来たん?」と織田がタバコ片手に顔を出し、ニッと笑いかけてくるような気さえした。立ち去りがたく、案内してくれたオダサク倶楽部の井村躬恒氏と一緒に用水路跡と思われる溝に沿って裏手に回ってみた。織田が引っ越した後、二度改装されたというお惣菜屋の裏には、タイルの破片が落ちていた。おそらく便所の床のタイルだったのだろう。家の前に尻田池という大きな溜池があったと織田は自作にも書いているが、これもスーパーとその駐車場に変わってしまっている。彼のいた頃の野田村の地図(作成・喜多槇之氏)を手に歩いてみる。現在でこそ、駅前、表通りは賑わっているが当時はまだ金剛、葛城、笠置、その他の山々が見渡せたという。もちろん、織田のいた当時も商店街や小学校、病院もある新興住宅地ではあっただろうが、周囲には田んぼや畑もあり、ネオンもなく、「まだまだ草深い村」であったらしい。思えば、生まれも育ちも東京娘の昭子である。大阪郊外のこの村に連れてこられ、なんと寂しい場所に来たことかと不安に感じたのではないだろうか。

織田の晩年について書き終えた今、筆者の胸に迫ってくるのは、ヒロポンの恐ろしさ、戦後すぐの出版業界の非情さ。そして人間の尊厳の悲しさだ。
このルポタージュの冒頭にも書いたが、第二次大戦下、戦況が激化するにつれ、こうした覚醒剤(メタンフェタミン)製剤は、「突撃錠」、「猫目錠」などと呼ばれ、前線の兵士や軍需工場で働く人たちに支給された。が、なにもこれは日本軍に限ったことではなかった。同時期、ナチスに支配されていたドイツ軍でも、一九四〇年の四月─七月の間に、PervitinとIsophanという二種のメタンフェタミン製剤三五〇〇万錠が、「興奮剤」のラベルを貼られ、OBMのコードネームでドイツ陸軍並びに空軍向けに出荷されている。三ミリグラムの塩酸メタンフェタミンが含有された錠剤が、「戦車用チョコレート」、あるいは「パイロットの塩」などと呼ばれ、ポーランド侵攻作戦に従軍する前線の兵士に支給されていたという。
ここで述べるまでもないが、薬物と軍部との関係は根深い。日中戦争においても、アヘンが関東軍の財源とされていた事実がNHKスペシャル「調査報告 日本軍と阿片」(二〇〇八年八月十七日)でも放映され、物議をかもしたことはまだ記憶に新しい。

戦争によって吹き寄せられ、身を寄せ合って芽生えた織田と昭子の恋は、焼け跡を流転しロマンの花を咲かせた。今、アスファルトが敷かれ、コンクリートで固められた街に二人の足跡はどこにも残っていない。風化され、塵と消え、織田が『世相』に書いた通り「白い風が白く走っている」だけだ。
あの時代にこんな男と女がいた……もしかして私が書きたかったのは、ただこれだけの事実だったのかもしれない。

これを書くために色々な方々にお会いする機会をもつ事ができた。織田作之助を、輪島昭子を直接に知る方々は年と共に少なくなっている。今回の取材を通し、貴重なお話を伺う事が出来、感謝するとともに風化されてしまう戦中、そして終戦直後の事柄を記録しておく必要性を強く感じた。

―主な参考文献―
織田昭子『マダム』(三笠書房)
織田昭子『わたしの織田作之助』(サンケイ新聞出版局)
大谷晃一『生き愛し書いた 織田作之助』(沖積舎)
大谷晃一『表彰の果て』(編集工房ノア)
稲垣真美『可能性の騎手 織田作之助』(社会思想社)
青山光二『純血無頼派の生きた時代』(双葉社)
弁護士小森榮の薬物問題ノート(http://33765910.at.webry.info/)