第26回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」結果発表
2015年9月18日7:00AM|カテゴリー:お知らせ|admin
第26回「週刊金曜日ルポルタージュ大賞」は、6月末で締め切り、計57編のご応募をいただきました。
審査の結果、次の4作品が入選しました。編集委員、編集長の選評と合わせて発表します。
▼大賞(賞金100万円) …該当なし
▼優秀賞(賞金30万円)…該当なし
▼佳作(賞金10万円)
マリタナベ 暗夜の灯火 満州天理村と731部隊
▼選外期待賞
木村祐子 「科学的証拠」と和歌山カレー事件 科学者にできること
佐藤豊行 悲しすぎて潔く
書くために経験する労を
本誌編集長・平井康嗣
今回も多数の作品の応募、ありがとうございました。
毎年の傾向だが、ルポ(=記録文学)やノンフィクションの枠を無視した体験談や私小説風作品が多く、なかでも戦争体験記が多い。ただ今年は戦後70年と「安保法制」審議の最中ということもあり、歴史と戦争について日本社会の関心も高く、この点、審査においても例年より評価は甘くなったのではないか。
最後に一言だけ。経験したから書くのではなく、書くために経験をしてほしい。「私」の世界が広がれば、それを伝えられる側の世界も広がる。過去の話も追加取材をすれば現代に甦る。期待を込めて来年も待つ。
選 評
足りない「何か」とは
雨宮処凛
今回のルポ大賞、なかなか読ませる作品が揃っていた。
特に印象に残ったのは、21歳の元特攻隊員が、部下への責任を感じて戦後に自爆死した悲劇を描いた「悲しすぎて潔く」。戦時中の満州と天理教との驚くべき関係を描いた「暗夜の灯火 満州天理村と731部隊」。この2作品を私は優秀賞に推した。
また、佳作に推したのは「『科学的証拠』と和歌山カレー事件」だ。それぞれ重く、深いテーマである。が、3作品とも「大賞」への推薦にまで至らなかった。「何か」が足りなかったのだ。
その「何か」について大きなヒントをくれるのが、佳作の「在特会壊滅への道」。このルポは、「自分はなぜ書くのか」という動機に満ちている。アウトローで金持ちでモテモテになりたくて入った右翼の世界。しかし一銭にもならないので歌舞伎町のホストへと転身。同棲していた女性の自殺未遂でホストからヒモへ。「自分を晒す」ことによるエンターテイメントが成立しているのだ。その意味では、選外だが「『万事休す』は始まりの言葉」も面白かった。化学物質過敏症による全国逃避行が描かれているのだが、気がつけば北朝鮮の工作船を見て孤独な夜を癒していたり、やっと安住の場所に辿り着いたかと思ったら原発事故が起きたりと、あまりにも踏んだり蹴ったり。しかし、そんな悲劇がただの悲劇ではなく「化学物質過敏症と共に歩む珍道中」として成立している。
ルポは緻密な取材だけでは成立しない。「なぜ、
私はこれを書くのか」。それが重要なのだと、今回の選考で改めて気づかされた。
読み応えある「暗夜の灯火」
宇都宮健児
私は、「暗夜の灯火 満州天理村と731部隊」を最も高く評価した。読み応えもあり、著者の主張もしっかりしている。
1931年9月18日に発生した柳条湖事件(満州事変)を契機とする日本軍の侵略行為はよく知られているところであるが、このような日本軍の侵略行為に当時の新興宗教教団天理教が加担していたことはあまり知られていない。
著者は「『被害者』としての日本人を世の人々は知るが、『加害者』でもある日本人の姿は今なお日本国内において十分に伝えられないところである」と指摘しているが、その通りだと思う。
「在特会壊滅への道」は、在特会のヘイト・スピーチに対抗するカウンター活動で在特会の活動を下火にさせていった経緯をまとめた自伝的・自己体験的ルポルタージュであり、文章のテンポも良く、読みやすかった。著者には今後、取材に基づくルポを期待したい。
「『科学的証拠』と和歌山カレー事件 科学者にできること」は、和歌山カレー事件で被告人有罪の証拠とされた鑑定書と、これに異議をとなえる鑑定書を分析・解説したルポであるが、難解であった。もう少しわかりやすくまとめてもらいたかった。
「悲しすぎて潔く」は元特攻隊員が、終戦後にゼロ戦に乗り、故郷近くで覚悟の自爆死をした事件を取材したルポである。この事件を通して、日本軍が特攻作戦を採用した経緯、特攻作戦の非人道性、当時の軍指導部の無能力・無責任性、元特攻隊員による同種の悲劇事件の全容などについても、つっこんだ取材をしてもらいたかった。
感じられない生々しさ
佐高信
私は「在特会壊滅への道」に最も心を動かされたが、総じて、いまを生きる読者にどう訴えるのかという切迫感に欠ける作品が多かった。
たとえば、明治初年、私の郷里に起こった一揆では、農民たちが武士たちに、借りていった物を返せという運動が起こった。鍋1個、茶碗何個と詳しく書きとめていた物を返せと要求したのである。この数字の具体性が胸に迫る。
もちろん、どこそこに何千人が結集して、捕まった指導者を取り戻そうと監獄に押しかけたという話も読者を興奮させるが、日常的に使っている物を“徴発”していったサムライたちに、それを返せと迫る農民たちの“当たり前さ”が非日常の中でクローズアップされる。
そうした具体性や日常性へ着目した作品が、あまりにも少なかった。もう一つ付け加えれば、先に挙げた現代性である。
戦争中の出来事を描いた作品でも、具体性、日常性、そして現代性を感じさせるものであれば、大賞や優秀賞にノミネートされただろう。
さらに、毎回書いていることだが、正面から、企業、会社を扱った作品がほとんどない。
「会社国家」の日本に於いて、それに視点を定めた作品がないということは、この国に生きていないということではないか。
東芝の不正会計がいま問題になっているが、離党した自民党の武藤某の未公開株疑惑にしても、いずれも生々しいカイシャの問題である。
次回こそは、「生々しさ」の感じられる作品を期待したい。